冬の太陽は早々と姿を消してしまい、代わって空を支配したのはどんよりとした重苦しい灰色の雲だった。
また雪でも降るのだろうと、仕事が終わり明日の支度も完全に終えたウーヴェが窓の外を見遣ったとき、背筋を悪寒が駆け抜けた。
メンタルクリニックを開業しているウーヴェは、目には見えない存在や人智の力の及ばない物事に対して、酷く冷淡になる事があった。
時々テレビでやっている超常現象だのの番組だが、恋人のリオンはその手のものに興味があるのか、放送していればそれを見ている事が多かったが、ウーヴェは先にも言ったとおりその手の類には酷く冷淡で、今感じた悪寒も誰かに言わせれば虫の知らせであったり第六感であったりするのだろうが、単なる寒さからくるものだとしか思わなかった。
それ故、資料室にあるロッカーに仕舞ったコートを取りに行く為に窓を離れたが、先ほど感じた悪寒は強さを増し、止めだと言うようにクシャミまで誘発してくれるようになった。
資料室のドアを開け、ロッカーからコートと手袋とマフラーを取り出して帰り支度を始めたとき、デスクに置きっぱなしにしてあった携帯が着信を伝えてくる。
慌てることなくデスクに向かい、ディスプレイに浮かんだ文字につい目元を弛めながら出れば、仕事が終わったから今そっちに向かっているという言葉が聞こえてくる。
「そうなのか?」
『ああ。今日も寒いしさぁ、どこかで食って帰らないか?』
自宅で食べる二人でのカルテスエッセンも捨てがたいが、どこかで少し暖まってから家に帰ろうと誘われ、確かにそうだと思う反面、何か出掛けることが億劫になっている己もいて、ただ苦笑するにとどめてしまう。
『な、どうだ、オーヴェ?』
「そうだな…それも良いか…」
溜息混じりの言葉に沈黙が返ってくるが、程なくして何かを感じたのか、疑問を投げ掛けてくる声も聞こえてくる。
「どうした?」
こっちに向かっているのならば来るのを待っているとも告げた時に、電話の向こうの声が更に訝しむような声を上げた為にどうしたと首を傾げるが、何でもないと返されて沈黙してしまう。
『オーヴェ』
「何だ?」
『やっぱり家で食おう』
「良いのか?」
提案される言葉に無意識に安堵の溜息を零してしまい、小さく首を傾げたときに先程感じた悪寒がより一層きつくなって背筋を駆け上り、直後全身が小刻みに震えてしまう。
さすがにこれを見ても超常現象がどうのと騒ぐものはいないだろうと皮肉な思考回路のまま呟き、家に風邪薬があっただろうかと思い浮かべるが、脳裏は白い靄がかかったようで明確に思い出すことが出来なかった。
『後ちょっとでそっちに着くから、駐車場で待っていてくれるか?』
「ああ、分かった」
待ち合わせ場所は地下の駐車場と決め、震える身体を何とか抑え込んで一歩を踏み出す。
覚えているのは、やけにぐにゃりとした床の感触と、何故か近付いてくる毛足の長いお気に入りの絨毯に描かれた市松模様だけだった。
ああ、今、夢を見ている。
夢の中で夢を見ているのではなく、夢を見ている己を俯瞰している、そんな説明が最も相応しい光景を眼下に認め、どうしたのだろうと首を傾げる。
まるで水中から空を見上げたときのように総ての物の輪郭が滲み、聞こえる物音も不明瞭だった。
ああ、今見ている夢は最も見たくないと心の奥底に封じているものだ。
そう気付いた瞬間、俯瞰している己が消え去り、水の膜の外から不意に二本の腕が伸びてきたかと思うと、抗う事の出来ない強さで喉を押さえつけられた。
「─────っ!!」
息を吸うことも吐くことも出来ず、ただ目を瞠って首を押さえる手を掴もうとするが、全く力が入らずに喉がか細い音を立てる。
水の膜の外から聞こえるのは、狂ったような笑い声に込められた悲哀だった。
喉を圧迫される痛みと呼吸できない恐怖、それらをより一層深めるように鼻腔内に血が溢れた様な感覚を覚え、息もろくに出来ない口を大きく開けて声を上げる。
助けてくれ、と。
その声を上げた途端、いつもならば更に嘲笑が聞こえてくるが、今回は喉を締め付けていた圧迫感が一気に消滅したかと思うと、氷漬けにされたような冷たい身体を何かが温めてくれたのだ。
全身を包む温もりに縋るように身を寄せ、やっと呼吸できるようになった喉を鳴らしながら浅い呼吸を繰り返せば、どこか遠くで、だがやけにはっきりとした声がゆっくりと呼吸をしろと教えてくれる。
自分の呼吸に合わせてゆっくりと息を吸えとも言われ、小さくてもしっかりと聞こえる呼気に合わせて胸を上下させれば、徐々に息苦しさが薄れていく。
やがて喉から発せられていたか細い音が消えた頃、全身を包んでいた温もりが消え去ってしまい、再び水の中に放り出されたような感覚に包まれる。
「────っ!!」
一度温もりを覚えた身体は水の冷たさに一瞬にして力を奪われてしまい、脳味噌が悲鳴を上げる。
嫌だ。一人にはなりたくない。誰か傍にいてくれ。寒い。助けて。
お願いだ。
最後の言葉が脳裏に木霊した瞬間、どこか遠くで悲鳴が聞こえた気がした。
「────っぁあ…ああぁああっ!!」
「オーヴェ!!」
起き上がったかと思うと、額に載せていたタオルを振り落とし、寒さに震えていた身体に掛けていたタオルケットもはね除けて頭を抱え込んだ恋人を目の前に、リオンは一瞬だけ呆然とする。
何が起こったのか分からなかった。
ただ分かったのは、熱に魘されていたウーヴェが突如起き上がり、耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げたと言う事実だけだった。
絶叫と呼んでも良い声に我に返り、上体を折って小さく小さくなろうとする肩や背中を覆うように抱き寄せれば、縋る物はそれしかないと言うようにシャツを掴まれて引き寄せられる。
「オーヴェ、オーヴェ。大丈夫だ」
ただ熱に魘されるだけでここまで脅えたようになるだろうかと思いつつも大丈夫だと何度も伝えてみるが、腕の中の身体は小刻みに震えたままで、流れる悲鳴は止むことはなかった。
この時、リオンがもっと注意深くウーヴェの身体-特に喉から胸元にかけての素肌を見ていたとすれば、恋人が胸の奥に抱え込んだ秘密の一端を知ることになるのだが、今の彼にはそんな余裕は無く、ただ少しでも早くその悲鳴を止めさせる事だけで手一杯だった。
「…寒…い…!…一人は…ぃ…っ!」
「オーヴェ!!」
悲鳴の中に混じる一人は嫌だという言葉を聞きつけ、身を丸める肩に手を当てて少し乱暴に顔を上げさせたリオンだが、ターコイズの双眸はまるでガラス玉か何かのようで、目の前の物をただ写すだけだった。
「ウーヴェ!!」
「!」
肩を揺さぶりながら茫洋とした湖のような双眸を覗き込んではっきりと名を呼べば、ぴくりと肩が揺れてゆっくりと顔が上げられる。
「オーヴェ、オーヴェ。俺が分かるか?」
「……リ…オン…?」
「ああ。良かった…!!」
俄に双眸に光が戻り、信じられないといった顔でリオンを呼んだウーヴェは、心底安堵した声で抱き締めてくる恋人の背中に無意識に腕を回して目を閉じる。
頭の中心や身体の芯に残る忌まわしい感覚と、全身を包んでくれるような温もりが鬩ぎ合い、知らず知らずのうちにウーヴェの口から葛藤の声が流れ出す。
「オーヴェ?」
「リ…オ…っ!リーオ…っ!!」
「どうした?」
命の危機に直面した人が出すような声で呼ばれ、宥めるように背中を何度も撫で、汗で濡れて重くなった銀とも白ともつかない髪を撫でながら大丈夫と、いつもと変わることのない落ち着いた声で何度も何度も告げれば、永遠の様な僅かな時間が経過した頃、腕の中でウーヴェが深く深く呼吸を繰り返す。
「オーヴェ、もう大丈夫か?」
「………すまなかった…」
「良いよ。気にするな」
ぐったりとした身体をリオンに預け、汗が浮いた腕で顔を覆ったウーヴェをそっとベッドに下ろした後、汗を拭くタオルを取りに行こうと立ち上がる。
「オーヴェ、着替えとタオル取ってくる」
「……頼む」
漸く己が汗だらけで、下着もパジャマも絞れるほど汗を吸い込んでいる事に気付き、ベッドヘッドに枕を立てかけてもたれ掛かると自然と瞼が閉じてくる。
ぱたんと静かに閉まるドアの音に顔を向け、クローゼットから着替えを持ってきてくれたリオンに礼を言って不愉快に肌に張り付くパジャマを脱ぐと、タオルを持ったリオンが背中から汗を拭き取ってくれる。
「かなり熱があったからなぁ」
「…そうなのか?」
「あ、覚えてないのか?」
待ち合わせをしていた駐車場にいつまで経っても下りてこない為、気になってクリニックに上がったら、診察室のドア付近でぶっ倒れていた。発見したときは本当に心臓が止まるかと思った。
リオンの呟きに、熱を出して人事不省に陥るなど初めてだと苦笑し、そんなに高かったのかと問えば、リオンが真剣な顔で頭を上下させる。
「いや、このままもし熱が続いてオーヴェに機能障害が出ればどうしようって思うほど、高熱だった」
「バカ」
「ははは─────でも…良かった」
高熱が元でEDになどなって堪るかと、じろりと恋人を睨めば、蚊に刺されたほどの痛みも感じていない態度で口笛を吹いていたが、しばらくするとウーヴェの肌にパジャマを引っかけてやりながら良かったと、本当に良かったと呟きながら肩に額をこつんと触れさせる。
いつも元気で陽気な恋人をここまで不安に陥れるほどの熱だった事を改めて気付き、心配を掛けて悪かったと詫びながらくすんだ金髪を撫でれば、酷く魘されていたとぽつりと呟かれて沈黙する。
熱を出したときだけではなく、ある人物から連絡が入り、顔を合わせなければならないと分かったときの夜などに必ずと言って良いほど見る悪夢があったが、どうやら今日もそれを見てしまったようで、心配を掛けたともう一度謝罪をして首を左右に振られる。
「かなり怖い夢でも見たのか?」
「…………そう、だろうな、多分」
「覚えてない?」
「…ああ」
顔を覗き込んで問いかけてくるリオンに苦笑し、こめかみの辺りを指の腹で無意識に撫でたウーヴェは、じっと見つめてくるリオンに瞬きをし、どうしたと問いかけて何でもないと返される。
刑事で人の嘘を見抜く術に長けている恋人に嘘を吐くのはやはり緊張するが、覚えていないと言わなければ芋蔓式に忌まわしい事件まで話してしまいそうになる。
今まで誰にも話したことのない過去を、今まででの人生で最も愛している人に伝える事の恐怖に自然と身体が震え、知ることによってもたらされる諸々のものがあることを思い出し、再度己の胸の奥に閉じこめる。
この秘密は己一人が抱えて墓の中まで持っていくのだと、見つめてくるロイヤルブルーの双眸に目を細めて誓い、心配するなと頬を撫でれば、掌の温もりを移そうとするように首が傾げられる。
不意に感じた重みと温みに喉の奥から何かが迫り上がってくるが、鉄の意思でもってそれを飲み下し、喉が渇いたから水が欲しいと告げれば無言で頷かれる。
再度離れていったリオンの背中に思わず無意識に手が伸びた事に気付き、片手で伸ばした腕を抱え込んで上体を折る。
一度悪夢を見れば長ければ数日間は続く事が多く、この後眠りに落ちたとしてもきっとまた同じ夢を見て飛び起きることになるだろう。
一人でこの家に暮らすようになるよりも以前から続くそれだが、長らく付き合っているために心構えが出来ている筈だったが、不意にそれが脆くも崩れ去った気持ちになる。
この後、眠りに落ちて同じ夢を見、またあの苦しみを味わうのかと思うだけでぞっとする。
長らく続く夢に対する耐性は自然と身体が覚え、脳味噌が防御反応を出すようになっていたが、それらを遙かに上回る勢いで恐怖が全身へと伝播する。
震えるなと身体に命じ、己の腕で抱き締めるがなかなか震えが止まらなかった。
こんな時にこそ、リオンに傍にいて欲しい。
青天の霹靂の様に閃いた言葉にウーヴェは目を瞠ってしまう。
今までその様なことを誰に対しても思ったことはなかった。
一人でいるのが当たり前だったのだ。だから誰かにいて欲しいと思うこともなく、今までやり過ごしてきていたのに、何故突然そんなことを思うのか。
身体の震えを忘れてしまうほど呆然と目を瞠ったウーヴェの脳裏、水中の世界が一気に広がり、水の冷たさと対照的な温もりを思い出して額に手を宛う。
その存在を知ってしまえば、その温もりを感じてしまえば、耐えられなくなる。
知る前ならば何とか抑えられたものも、知ってしまった今、抑えきれるだろうかとの不安が胸中で渦を巻く。
あの温もりに縋り付き、洗いざらい総てを話してしまうのではないかという恐怖はウーヴェの日頃の冷静さを 失わせるには十分で、暖かなベッドの中から抜け出し、クローゼットのドアを開け放って広いその中の片隅で膝を抱えて小刻みに震えながら身を丸める。
早く水の冷たさを思い出して馴染まなければ、次に来る悪夢の波に呑み込まれてしまう。
何年もかかってやっと人並みに生活が出来るようになり、周囲からは立派な開業医と賞賛されるまで回復したのだ。
波に呑まれてしまう訳にはいかなかった。
リオンが与えてくれた温もりを忘れなければ、乗り越えられる自信はなかった。
歯の根の合わないカチカチという不愉快な音を聞きながら、早く忘れるんだと、一人は嫌だと思ったのは一時の気の迷いだと思いこませようと必死に呟いた時、人の気配を感じて伏せていた腕から顔を上げれば、ロイヤルブルーの双眸に心配だけを浮かべたリオンが目線を合わせるように座り込んでいた。
「リオン…っ!!」
早く忘れろと命じる頭と離れたくないと願う心がぶつかり合い、歯の根の合わない口からか細い声が流れ出す。
「オーヴェ」
今までで最も優しい呼びかけに眉根を寄せ、何でもないと頭を振ってみたところで信じて貰えるとは思わなかった。
「…うん。そうだろうな」
「……え?」
「オーヴェがさ、何でもないって言うのなら、そうなんだろうな」
呆然と目を瞠るウーヴェの前、リオンが真冬の重苦しい雲の隙間から差し込む光のような笑みを浮かべ、震える肩や腕を撫でてウーヴェのさらさらの髪に手を宛う。
「俺はオーヴェを信じてるから」
お前がそう言うのならばそうなんだろう。例えそれが強がりから出ていたとしても、その強がりすら俺は信じている。
ウーヴェに聞かせると言うよりは己に言い聞かせている、そんな色を隠さないで呟くリオンに、ウーヴェの顔が歪んでしまう。
「俺に話をしても良い事ならオーヴェは教えてくれるよな」
だからもし、こんな表情をさせる悪夢を話しても良いと思えるのなら、またその時期が来たら教えてくれ。
僅かの寂寥感を滲ませながらもそれでも信じていると笑顔で頷いたリオンにただ無言で腕を伸ばしてしがみついたウーヴェは、背中にまわった腕が微かに震えている事に気付き、唇を噛み締める。
どれ程愛しているとしても、また愛しているからこそ教えたくない過去に苦しめられるのはもう嫌だったが、だからといって今リオンにそれを伝える勇気も持てなかった。
リオンの様に愚直なまでに相手を信じる事の出来る強さが欲しかった。
だが今はただ申し訳ない思いから何度も恋人の名を呼び、その度に背中を撫でられる。
「なぁ、こんな所にいたら寒いだろ?ベッドに戻ろうぜ、オーヴェ」
ぽんぽんと背中を叩かれて頷き、立ち上がろうとして震える足に力を込めれば、リオンがひょいとその身体を抱き上げる。
さすがにその様に抱き上げられるのは気恥ずかしく、歩くから肩を貸してくれと言ってみるが、じろりと睨まれてしまって沈黙する。
「水が欲しいから取りに行って戻ってみたらさぁ、誰かさんはいないし?」
ぶつぶつと文句を垂れる恋人に悪かったと謝れば、クローゼットクイーンかと意地の悪い笑みを浮かべられて目を細める。
「うるさいっ」
「ぃてっ」
思わず鼻を摘んで引っ張れば、ごめんごめん、オーヴェ、ごめんと、いつものように謝られ、戻ってきた日常感に自然と安堵の溜息がこぼれ落ちる。
「ああ、そうだ」
ベッドに運ばれ、ベッドヘッドに立てかけてあった枕に背中を預けて座れば、ナイトテーブルに置いてあったトレイから水が入ったボトルを差し出してくる。
「これ、先に飲んで」
大人しく従うようにボトルに口を付けていると、リオンが安心したように目を細め、今度はマグカップを差し出してくる。
「これは?」
マグカップの中に入っているのはスライスされたジンジャーと同じくスライスされたレモンで、顎を湯気が温めてくれていた。
「これさ、俺が風邪を引いたりして寝込んだときにマザーが良く作ってくれたんだよな」
思い出の温もりと実際の温もりを感じている顔で教えてくれたリオンに小さく頷き、そっと口を付ければ、ジンジャーの味と香りにレモンの僅かな酸味とほのかな甘さが口内でふわりと広がる。
「温まるな」
「だろ?マザーが命の水って良く言ってたけど…今なら本当にそうだなって思える」
「…そうか」
本当はジンジャージャムを作ってお湯で溶かすがジャムにする暇がなかったから、今回はスライスしたものとすり下ろしたものにハチミツとレモンスライスを入れたと教えられ、もう一口それを飲んで体内に染み渡る温もりに目を閉じる。
身体の内から温めてくれるそれをもう一口飲んだ時、早く忘れなければならないと念じていた温もりがあった事を思い出し、マグカップを持つ手が震えてしまい、リオンの視線から顔を隠すように背ければ、カップを握る手に手が重ねられる。
「オーヴェ…焦る必要はないし無理をする必要もない」
さっきの自分の言葉に縛られる必要はないと優しく告げられ、手の甲を何度も撫でられる内に震えが治まってくる。
「意外とオーヴェって物忘れが激しいみたいだから、これだけは言っておくな」
聞こえてきたどこか戯けた風な声に顔を振り向ければ、声とは裏腹な表情でただ真っ直ぐに見つめるリオンがいた。
「もうお前を一人にしない」
何に脅えているのかは分からないが、もう一人じゃない。
繰り返される優しく力を分け与えてくれる言葉にきつく目を閉じ、震える呼気を吐き出せば、肩に回された腕がそっと撫でてくれる。
「朝起きたらきっといつものオーヴェになってるぜ」
だから今は何も考えずにゆっくりと寝ればいい。自分はここにいる。
全部飲んでしまえと促され、何とか震えの治まった手でカップを傾けてゆっくりゆっくりと体内を温めてくれるそれを飲んでいく。
リオンの優しい言葉と肩を抱く温もり、そして内から温めてくれるものに感謝をした時、先程まで感じていた不安や焦燥が消え去っている事に気付く。
「もしオーヴェが夢で魘されてたら起こしてやる」
「……一度寝てしまえば地震が起きても気付かない癖に?」
「あ、ひでぇな、それ」
自信満々に胸さえ張って答えられ、思わず小さく吹き出したウーヴェは、ついついちくりと皮肉を言ってしまい、口を尖らせたリオンに睨まれて肩を竦める。
「なぁ、オーヴェ」
「何だ?」
「いつか平気になったら話してくれよな」
その時が来るのを待っているとも告げられ、しばらくの間手の中のマグカップを見下ろしていたウーヴェだったが、小さく首肯してリオンに身を預けて目を閉じる。
「……聞いてくれるか?」
「ああ。どんな話でも聞いてやる」
例えそれがどれ程重く苦しい事であったとしても、聞いて総てを受け止めてやる。
目を閉じているために見えないが、きっと真っ直ぐに前を見据え、どんな現実からも目を逸らさないで笑っていられる強い男の顔になっているのだろうと想像し、そんな男の言葉の重みに先程とは違う種類の震えが背筋を駆け上る。
墓まで持っていこうと決めた過去を、もしかするとこの恋人にならば話せる日が来るのかも知れない。
そんな希望にも似た予測に溜息を吐き、手の中のカップをリオンに預けると、横になれと肩を撫でられる。
眠りに落ちて再び夢を見る恐怖は身体の奥底に巣くっていたが、内外から温めてくれたもののお陰で今ならば夢を見たとしても波に呑まれる事はないと思えてくる。
忘れる事で耐えるのではなく、傍にいてくれる温もりを信じることで乗り切ってみよう。
そんな前向きな思いが小さいながらも芽生え、そう思えた事に感謝をしながら、もぞもぞとベッドに潜り込んできたリオンの身体に腕を回す。
「お休み、オーヴェ」
「……ああ」
恋人が作ってくれた命の水を飲み、温まった心のまま眠りに落ちれば、きっと悪夢を見たとしても大丈夫だろう。
同じように肩から背中に回された腕の温もりに、万が一魘されることがあれば起こしてくれと願い、波が引いていくように眠りへと落ちていくのだった。
眠りに落ちる前に飲んだ命の水のお陰か、いつもならば繰り返し見る悪夢をウーヴェがこの夜はもう見ることはなかった。
2010/01/18
確かドイツ語でAquavitというのはジャガイモから作られた蒸留酒だったと思います(^_^;
今回はウーヴェさんに風邪っぴきになってもらいました(おい)


