鈍色の雲が重く垂れ込める空の下、足早に行き交う人々が踏み越えていく横断歩道を見下ろしながら電話の向こうの取り乱したような声に落ち着いて下さいと、至極冷静に言葉を返す。
先程診察を終えて帰ったばかりの患者からだった。
不安に駆られる人にしてみれば少しでも安心できる環境にいたいのだろう、次の予約を入れて帰ったが、都合が悪いのでもっと早く診察をして欲しいと不安が滲む声に捲し立てられた。
そんなに頻繁にやって来たとしても現状は変わらないと言いかけたとき、突然、怒声に近い声が響いたかと思うと、磨りガラスが填められた厳めしいドアの蝶番が外れる様な勢いで内側に開いた。
「聞いてくれよ、オーヴェ!」
「・・・それでは来週の月曜、今日と同じ時間にお越し下さい」
呆然と電話相手に伝えると、本来は待合室で待っている患者が座る椅子に憤懣やるかたないと言った金色の嵐が腰を据える。
溜息を吐きつつ受話器を戻し、開け放たれたままのドアを閉める為にデスクの前から移動すれば、くすんだ長めの金髪がふわりと揺れる。
今朝は昨日と同じで、寝起きの悪い恋人を宥め賺すように起こし、飽きることなく誉めてくれる料理の腕前を見せ、一足先に出勤する彼をキスで見送ったのだ。
それは何も昨日今日の事ではなく、知り合って幾つか季節を越えてから関係を持ち、それが深く揺るぎのないものへと変化した日からは当たり前の事で、こんなにも不機嫌-と言うか子供が拗ねたような態度で飛び込んでくる理由が思い当たらなかった。
「一体どうした?受付のフラウ・オルガが驚いていただろう?」
「・・・・・・見てないから知らねぇ」
この部屋に辿り着くまでにはエレベーターを降りてから幾つかドアを潜らなければならないが、そのすべてを今のように開け放ってきたのだろうかと一抹の不安を抱くが、受付やら事務やらを任せているオルガの顔を見る余裕もない程の勢いで飛び込んできた事を思えば、その不安は的中したようなものだった。
ドアを閉めながら問いかけ、足を組んで椅子にふんぞり返る金髪碧眼の恋人の背後に立てば、子どもじみた顔が振り仰いでくる。
「患者がいればどうするんだ?」
ここの診察内容を思えばひやりとしてしまいそうな、突然の来訪。
いくら恋人とはいえ、仕事に関わることではさすがにけじめをきちんと付けたい為、少しだけ咎めるような口調で問えば、振り仰いだ顔が目を瞠り、次いで自慢気に細められる。
「それは大丈夫だって」
「どうしてそう言える?」
「さっき患者さんが帰っただろ?」
ガードマンとちょっと話をした時にすれ違った人がいたが、ここの匂いがした。
笑顔で告げられたその一言に一瞬息を飲み、さすがに刑事を仕事にしているだけはあると、贔屓目を差し引いても感嘆の声を上げそうになる。
「オーヴェは一人を診た後必ず休憩を取るだろ?だから大丈夫だって踏んだんだけどな」
「・・・そうか」
見た目は到底そうは見えないが、こう見えても優秀な刑事だった。
休日など一緒に街を歩いていると良く学生に間違えられたり、体格の良さから何かスポーツでもしているのかと思われたりする為、冗談でハンティングをやっていると答えているが、リオン・フーベルト・ケーニヒが獲物にするのは罪を犯した人間だった。
「どうしたんだ、リオン?」
そんなリオンに何を拗ねているんだと更に問いかけながら頬を撫で、顎のラインに指を這わせれば、くすぐったいという言葉が流れ出す。
「くすぐってぇって」
「リオン」
ついにくすくすと笑い出した恋人の名を耳元で囁いて頭に頬を軽く押し当てれば、機嫌が直ったことを示すように手が上がり、後頭部に添えられて引き寄せられる。
「みんながシンバって呼んで俺をからかうんだよ」
「シンバ?」
「シンバなんて知らないってのに、皆がそう呼ぶから気持ち悪い」
思い出したらまた腹が立ったらしいリオンの頬に一度キスをして考え込むが、すぐに答えが見つかりつい小さく笑ってしまう。
「・・・笑うなよ」
「リオン、拗ねるな」
「拗ねてねぇ」
ぶぅと片頬を膨らませながらそっぽを向いた恋人の顎の下に手を掛けて軽く持ち上げれば、不満タラタラの青い双眸が見上げてくる。
冬になればカサカサになる唇に潤いを分け与えるようなキスをすれば、気持ち的には満足したが別の気分が不満を訴えている事を示すよう、離れようとした唇を追いかけられて捉えられる。
「・・・オーヴェ」
「─────ん」
軽く下唇を唇で挟まれてしまい、低く名を呼ばれて小さく肩を揺らす。
「何に気付いた?」
言ってくれよ、ドクトル・ウーヴェ。
にやりと目を細めながら先を促され、つい乱れてしまいそうになる呼吸を辛うじて抑え込んだ後、期待に目を光らせるリオンの首にそっと両腕を回して抱き締める。
「シンバとは確かスワヒリ語でライオンという意味だ」
「ふぅん─────あ」
「気付いたか?」
目を瞠ったリオンに逆に目を細め、頭の良い恋人を持つことは非常に喜ばしいことだと告げればじろりと睨まれる。
「嫌味か、それ?」
「本当のことだ」
だから拗ねるなと何度目になるのか分からないその言葉を伝え、上機嫌と不機嫌のどちらに向かってやろうか思案している恋人に肩を竦め、前に回り込んで足の間に片膝を付けば、にこりと笑みを浮かべて腰に手を回してくる。
「お前の名前は何だ、リオン?」
「そう言うことかぁ・・・」
「ああ」
シンバはスワヒリ語でライオンという意味だが、リオンもフランス語では同じ意味を持っている。
バツの悪そうな表情を浮かべた後、視線を逸らしながらも胸に顔を押しつけてくるリオンの柔らかな髪を撫でながら目を細め、どうして同僚達が他国の言葉でリオンを呼んだのかを考える。
リオンを中心に出来る人の輪。それを構成する人達はリオンが好きだという事を思い出す。
目鼻立ちのはっきりとした、どちらかと言えば派手な顔立ち。両耳に開いたピアス穴や長めの髪からは真面目とはなかなか思って貰えず、本当に仕事が出来るのかと疑われることがままあった。
だがそんな外見を良い意味で裏切る働きをしてきたからこそ、リオンは若くして刑事となった。
当初は彼の人となりを知らない者から批判されたり好奇の目で見られるが、行動を共にした後は誰もが好意的な目で見るようになる。
一番良い例はリオンがボスと呼んでいる警部だった。
警察に入った当初はかなり手厳しくやられたそうだが、今では他の誰よりも自分を理解し、また庇護した上で好きに動けと言ってくれる為に思う存分実力を発揮することが出来、皆から一目置かれるようになった頃には局内の人気者になっていた。
異性に限らず同性からも好かれるのは対人関係で悩んでいる者からすれば羨ましい限りだが、何故自分が好かれるのかを本人が理解しているかと言えば、そんなことはなかった。
刑事として信頼されるのは夢を叶えるために必死に働いた結果だろうが、仕事を離れたプライベートで好かれる理由が思い当たらないと、心底不思議そうな顔で首を傾げたのはいつだったか。
どれ程忙しい時であろうとも笑顔を絶やさず、周囲を明るくする。
凄惨な事件を担当する時でさえもリオンがいることで何故か救われると言ったのは、リオンと一時期コンビを組んでいた中堅の刑事だった。
ただそこにいるだけで周囲に多大な影響を与える事が出来るのだ。
まるで、草原をゆったりと闊歩するライオンのように。
リオンが聞いたことのない異国の言葉で呼んだのも、それ故ではないのか。
柔らかな髪の感触に目を細めながら考えていると、腕の中の頭が軽く左右に振られる。
「リオン────リーオ」
「・・・・・・うん」
「皆がどうして突然そう呼んだのかは分からないが、あの人達はお前をからかった訳じゃないだろう」
「・・・・・・うん」
「お前は他の誰よりも信頼を得ている。だからもう気にするな」
頭の天辺にキスを一つ落とし、沈んだ心が浮上することを願って囁けば、リオンの青い双眸が真っ直ぐに見上げてくる。その瞬間、思わず息を飲んでしまう。
まるで、たった今話題にしている百獣の王に真正面から見据えられたような錯覚に陥ってしまい、蹌踉めきそうになった身体を辛うじて支えて小さく息を吐く。
「ウーヴェ」
「・・・っ・・・なんだ?」
「オーヴェもそう思うか?」
低く問いかけられてつい条件反射的に身体が逃げようとするが、しっかりと腰に回された手に阻まれてしまい、もう一度溜息を零して身を預ける。
「そうだな・・・・・・ただ一つ言える事がある」
「何だ?」
「お前は出逢ったときから、王だった」
王だけが持つ裡に秘めたその強さ、見た目だけではない美しさに目を奪われた。
目を細めて見上げてくるリオンに告げ、だから機嫌を直せとも告げれば、程なくしてご機嫌な証でもある口笛が小さく聞こえてくる。
「リオン、リーオ。───私だけの王」
だからお前はそんな些細なことで悩まず、いつもお前らしくあれ。
柔らかなくすんだ金髪に頬を軽く押し当てて目を閉じれば、嬉しそうな吐息が小さく落ちる。
家にいるときのようにいつまでもこうしていたかったが、哀しいことにまだ今はお互いが仕事の途中だった。
離れたくないと思う心を押し殺し、次の患者がそろそろ来る頃だと告げるが、腰に回された腕の力は緩むことはなかった。
「リオン」
先程から磨りガラスを人影が過ぎるようになり、受付のフラウ・オルガが患者に応対している気配がしていたのだ。
この様な姿をオルガや患者に見せたり悟られたりするのは以ての外だった為、早く仕事に戻れと少しだけ厳しい声を出せば、渋々と言った気配を隠しもしないでリオンが手を離す。
「良い子だ」
「・・・・・・ちぇ」
あからさまに拗ねる恋人が可愛くてつい目元を緩ませてしまい、慌てて顔の筋肉を引き締める。
「あーあ、戻るかぁ」
「早く戻った方が賢明だな」
掛け声を放って椅子から飛び上がるように立ったリオンの肩に手を載せ、金髪に指を絡めて軽く引き寄せる。
「リオン」
「うん?」
「今日は早く戻れそうか?」
一抹の不安を込めながら問いかければ、少し潤いが戻った唇の両端が左右に引かれて持ち上がる。
「ゲートルートに行きたい」
「分かった。なるべく早く戻ってこい」
「うん。じゃあな、オーヴェ。愛してる」
4つ年下の恋人は、いつまでたっても子供のような、空に燦然と輝く太陽のような笑顔と啄むようなキスを残して元気よく診察室を出て行く。
突然の来訪と同じくらいの勢いで出て行った背中を半ば呆然と見送り、深く溜息を吐いてゆったりと椅子に座れば、自然と笑みが浮かんできてしまう。
二人で食事をする店への予約をしなければとぼんやりと考え、それよりも待たせている患者がいることを思い出し、一つ顔を叩いて気分を切り替える。
「どうぞ」
店への予約はこの患者の診察が終わってからで良いだろうと考えつつ、先程とは違ってドアがゆっくりと開くのをただ静かに待つのだった。
2009/12/10
リオンについて、ウーヴェ視点で書いてみました(苦笑)
にしても、大甘ですねー(爆)


