春と夏の空気が混ざり合う朝、若い頃に比べれば遙かに楽に目が覚めるようになった彼は、隣で眠る妻を極力起こさないように気遣いながらベッドから抜けだし、習慣になっている朝一番の身嗜みを整える作業をバスルームで静かに行う。
さほど時間も掛けずに髭の手入れをし薄くなってきたがそれでも頑張ってくれている髪を整え洗った顔を鏡でチェックしていると、背後から眠そうな声が聞こえてくる。
「・・・おはよう、エヴァ」
「おはよう、マーティ。帰りは遅くなるんだったわよね?」
鏡の中でおはようの挨拶をし、振り返って眠そうな顔の妻の頬にキスをした彼、マルティン・ヒンケルは、今日の予定を妻が覚えていてくれたことに感謝しつつビアンカがお前にも会いたがっていると告げるが、昨日急に二人の孫を連れて娘がやってきた為に予定していた食事に一緒に行けなくなった事を残念だと思っている、それを彼女に伝えてくれと、お返しのキスとともに告げられて頷くと、今日も一日働いてくるが、エディとヒューゴの世話をしてやってくれと再度妻の頬にキスをする。
「エディもヒューゴも三歳になれば大騒ぎね」
「そうだな。男の子は元気だからな」
自分たち夫婦の間の一人娘であるガブリエーレとその夫の間に生まれた双子の孫は日に日にやんちゃに元気に育っているが、三歳児と大して変わらない言動をしていた元部下のことを不意に思い出し、家の孫の方が随分と大人びていたと苦笑すると、ビアンカに花を買って渡して頂戴と妻に頼まれて鏡の中の妻に向かって頷く。
「分かった」
朝食の用意をすぐにするから待っていてと妻に肩越しに頼まれて頷き、支度が調うまで日課になっている新聞のチェックをするため、ポストに投げ入れられている数種類の新聞を一纏めに抱えてダイニングテーブルに無造作に置くと、地方紙から目を通していくのだった。
いつものように出勤し、つい先日被疑者を逮捕し、取り調べている事件についての報告を、誰よりも早く出勤していた生真面目が服を着て歩いているようなマックスの上を行く生真面目さを発揮する新人刑事から受けていたヒンケルは、今朝に限らずいつでもつい思い浮かべて比べてしまう元部下の言動をまた思い出し、本当にあの男はどうしようもない男だったと苦笑する。
「警部?」
「ん?ああ、どうした」
「いえ・・・何か考え事ですか?」
その気遣いのような言葉もこの部下ならではのものだと気付き、一年前ならば、朝っぱらか寝惚けているのか、寝惚けているのならそこに隠しているチョコを総て寄越せと悪態を吐いただろう事を思い出すと、無意識にチョコをしまっている引き出しを押さえてしまう。
「・・・優秀なお前が来てくれて本当に嬉しいよ」
「どう、したんですか?」
優秀だと褒めてくれるのは嬉しいが、一体何を考えたんだと苦笑交じりに問われて咳払いをしたヒンケルは、生真面目なまるでシェパードやドーベルマンを連想させる体格の良い部下に、以前にいた部下が余りにも不真面目だったから当時の苦労を思い出していたと肩を竦めると、ケーニヒ刑事ですかと返ってきて目を瞠る。
「まあな」
「本当のところ、ケーニヒ刑事はどんな方だったのですか?誰に聞いても不真面目で刑事らしくなかったとしか教えてくれません」
「そう、だな。不真面目ではなかったが、まあふざけた男だったな」
ただ、刑事らしくはなくとも事件に対する姿勢はそれなりに真面目だったし、被疑者に対する怒りも被害者に対する思いもちゃんと持っていたと、不思議な感情から元部下を庇うように再度肩を竦めると、報告書などの書類には間違いが散見されるし、文法的にもおかしなものが沢山あるが、本当に刑事として優秀だったのかとの疑問が流れだした瞬間、更に理解出来ない感情から軽く握った拳でデスクを一つ叩く。
「ガビー、書類上の不備の一つや二つで直接面識のない先輩刑事が無能だったと決めつけられるほどお前は優秀なのか?」
さっきは優秀だと認めたが、それは俺の錯覚かと、厳つい顔に微かな怒りを浮かべたヒンケルの声に部下、ガビーの背筋がピンと伸び、失言でしたと己の非を認めたため、俺も興奮したと溜息を吐く。
「・・・警部、今日は午後からホテルで会議でしたよね」
「お、おお、そうだった。会議後は直帰する、後の事はコニーに頼んである」
「分かりました」
先程の叱責の跡を一切感じさせない声に頷き、午後からのことはコニーに頼んであるが、事件等が入ればすぐに連絡をするようにと念押しすると、了解しましたと生真面目に返事をする。
この生真面目な部下と元部下を会わせればどうなるだろうかと一瞬考えるが、馬鹿らしいと頭を一つ振ったヒンケルは、お前は本当に優秀だ、報告書に訂正箇所が全く無いし、調書も完璧だと、部下が提出した書類を撫でて大きく頷くと、ガビーの顔に微かな誇りのような色が浮かび上がる。
「だからガビー、もうここにいないリオンと自分を比べるようなことはするな」
「・・・・・・はい」
リオンへの対抗意識など持つだけ無駄であり、お前にはお前の良さがあるのだからと、リオンにしかなかった良さを思い出しながらも、今目の前で密かに葛藤していたであろう部下の心情を思い、お前はお前だと再度伝えると無言で軽く頭が下げられ、仕事に戻りますと部屋を出て行く。
「まったく」
ここで働いているときは騒々しく、休暇などで不在の時は静かだがそれ以上に寂寥感をまき散らしていた不思議な存在であったリオンの笑顔を思い出したヒンケルは、いてもいなくても騒々しい奴だと毒突くと、脳内で本当は寂しいくせにーという暢気な声が響いてくる。
「誰が寂しいなどと思うか、バカ者」
独り言にしては大きすぎる声に気付き咄嗟に手元にあったブロックメモをドア目がけて投げつけたヒンケルは、今日の午後の予定について聞きに来たコニーの顔の傍を掠めてブロックメモが飛んでいったことに気付き、二人顔を見合わせて沈黙してしまう。
「・・・・・・」
「あー、なんだ、コニー、すまん」
バツの悪そうな顔で咳払いをし、沈黙したままメモを拾うコニーに謝罪をすると、無言のままメモをデスクにコニーが載せるが、ふぅと溜息を一つ吐いてメモを懐かしむように見下ろす。
「・・・一年、経ちましたね、警部」
コニーの言葉にヒンケルが無言で頷き、本当にあいつはいてもいなくても騒々しいと先程の言葉を繰り返すと、あれだけ存在が騒々しい男も珍しかったとコニーが笑うが、それに引き替えガビーは本当に物静かだとも笑い、ヒンケルも腕を組んで大きく頷く。
「今日の会議はクリンスマン警部も来るんですよね」
「ああ。もうすぐこちらに来ると連絡が入った。来たら案内してくれ」
「分かりました。それにしても本当にガビーは優秀ですね」
「そうだな。手が掛からない事では本当に優秀だ」
ただ、四角四面に物事を捉えがちなのは若さ故かと危惧するヒンケルにコニーが肩を竦め、あいつらがそもそも型に填まっていなかったのでと答えるが、己のその言葉に珍しく舌打ちをする。
その気持ちもしっかりと読み取ったヒンケルが無言で肩を竦め、とにかく午後からは頼む、事件があればすぐに連絡をしてこいとコニーにも告げると、総てを了解している顔で頷かれ、書類に目を通しておいて下さい、仕事に戻りますと踵を返す部下を見送るのだった。
ホテルでの会議を終え、今日の会議に出席するために街へと出向いて来る旧友のクリンスマンと食事をする為にロビーのソファで待ち合わせていたヒンケルは、午前中の出来事を脳内で反芻し、日増しにその不在が大きくなってきたリオンについて本当にどうしてここまで気になるのだろうかと自問しては苦笑してしまう。
今まで何人もの部下とともに仕事をし、出世していった者、家庭の都合で退職した者、そしてほんの一握りではあるが殉職した者もいたが、リオンもそのうちの一人の筈だった。
なのに、その誰よりも強烈な印象として残っている不思議に何故だと首を傾げるが、今のヒンケルに言えることは、存在が騒々しいとは言っても不愉快では無かったという事実だった。
不真面目で不謹慎な言動を取ることのあったリオンだったが、どれほど腹が立ったとしても本心から腹が立つことはなく、またその怒りがいつまでも後を引くこともなかった。
刑事として働いている時、家族同然のゾフィーを殺され、一年前の事件では最愛の恋人が己のせいで事件に巻き込まれるという不幸に見舞われたが、常人であれば憔悴しきって正常な判断が出来なくなるような時でさえも己の両足でしっかりと踏ん張り、事件の解決だけを望んで出来る事を精一杯に取り組んでいたのを思い出す。
あの冷静さは一体どこから来るのかと、日頃の言動からは到底信じられない思いを当時も抱いていたことも思い出すが、二つの事件の際、聞こえてきても当然の犯人に対する憎しみの言葉がリオンから発せられたことがなかった事に今更ながらに気付くと、ヒンケルの目が自然と見開かれる。
家族やそれに近しい存在が殺されたり恋人が誘拐されレイプされたとき、犯人に対する憎悪を抱く事は理解出来る事だったしヒンケルがもしその立場になったとしたら当然のように憎悪を抱いただろう。だが、その事件の最中、犯人をぶっ殺すと刑事にあるまじき発言をした事はあっても憎しみからの言葉を発していなかった気がし、憎悪に囚われないでいられるのはどういった心理なのだろうかと思案した時、目の前が陰った事に気付いて顔を上げる。
「・・・そんな険しい顔をしていると誰も近寄れなくなるな」
「・・・モーリッツ?」
「やあ警部。久しぶりだな」
ヒンケルの顔の前に影を作ったのが旧知のBKAの刑事で久しぶりに顔を見たモーリッツ・ブライデマンだったため、素直に驚きながら立ち上がって手を差し出す。
「元気そうだな」
「ああ。警部も相変わらずクランプスのようだな」
互いの背中を一つ叩いて久闊を叙した両警部だったが、ブライデマンの言葉に眉を寄せ、お前もリオンの口癖がうつったのかと瞼を平らにすると、にやりとブライデマンの口の端が持ち上がる。
「リオンがクランプスと言っていた理由が良く分かったよ」
「おい」
まったくと笑いながらブライデマンを見れば片目を閉じられ、何だか懐かしい名前を口にしたと笑われて苦笑を深める。
「この後の予定は?」
「ああ、会議に出席している友人と食事に行くが、良かったら一緒に行くか?」
「良いのか?」
その友人とは初対面だが良いのかとの不安をブライデマンが口にするが、気にしないから一緒にどうだと背後から女性の声が聞こえてきて飛び上がりそうになる。
「ビアンカ、もう出かけられるのか?」
「ああ。ビアンカ・クリンスマンだ。よろしく」
「あ、ああ、モーリッツ・ブライデマンだ。モーリッツで良い」
ヒンケルの学生時代からの友人であるクリンスマンが予約した部屋に荷物を置いて来たために少し遅れてやって来たが、どうせならば三人で食事に行こうと誘っている様子だったため、自分は気にしないから一緒に行こうと声を掛けたのだ。
「それならご一緒させて貰おうか」
ホテルのロビーで食事について話をしているが、店はどこだとクリンスマンがヒンケルを見、ブライデマンもどこだと問いかけた為、ゲートルートだと答え、一度行ってみたかった店だと二人が頷いた事に何故か自慢げにヒンケルが頷き、店の予約はしてあるから早く行こうと出口に顔を向ける。
ホテルのエントランスには会議室で何が行われているのかがリストアップされていて、そこにこの街で開業している医師が集まる会合が案内されていたが、それに気付かずに三人がエントランスから外に出る。
「そう言えばビアンカはここのホテルだが、モーリッツはどこのホテルだ?」
「ここのホテルを予約した」
会議が終わった後に食事なり飲み会なりに出かける事になっても署にも近いし駅にも近い、何より明日の会議も京都同じ場所であるのだからと笑う二人に確かにそうだと頷いたヒンケルは、店はここから歩いても問題のない距離だから歩こうと誘い、同意を得て三人肩を並べて店に向けて歩いて行くのだった。
クリンスマンとブライデマンの二人にとっては初めての、ヒンケルにとっては久しぶりのゲートルートでの食事は三人を十二分に満足させるものだった。
星を取るだけの店はあるとブライデマンが素直に感心し、スタッフの対応も気持ちが良いとクリンスマンも顔を笑み崩れさせるが、何よりも嬉しかったのはオーナーシェフのベルトランが特別にと用意をしてくれたヒンケルの好物のマッシュルーム入りのクヌーデルだった。
いつだったかマッシュルームが好きと話した事を覚えていてくれたらしく、クヌーデルを割ったときに中から出てきたそれに自然と顔に笑みが浮かんだヒンケルは、ビールもワインも美味いといつも以上に酒が進んでしまい、クリンスマンに控え目にした方が良いと窘められてしまうほどだった。
酒量が増えたからといって悪酔いをする訳ではないヒンケルだったが、ほろ酔いになっているのか、クランプスと称される顔を仄かに赤くして上機嫌にビールジョッキを握る。
「いや、今日は二人と一緒で楽しかった」
「本当に嬉しそうだな、マルティン」
クリンスマンの言葉にヒンケルの頭が上下し、こんなに楽しいのは久しぶりじゃないかと笑った為、ブライデマンも部下達にこの姿を見せてやりたいと肩を揺らす。
「・・・マジで見せてやりてぇなぁ」
三人がアルコールの入った者特有の陽気さで笑い合っている時、カウンターの傍にあるパーティションの奥から笑いながら出てきた男が三人のテーブルに近付き、ヒンケルの前で残っていたチーズを無造作に摘まんだため、三人が驚きながらその顔を見上げ、更に驚きに目を瞠る。
「リオン!?」
「久しぶりです、警部。・・・それにしても今日は何だかすげー組み合わせだな」
クランプスとそれに似付かわしくない見目麗しさだが、内面はクランプスと遜色ないほど厳しい美女と嫌いではない冗談の通じない堅物の警部が一緒だなんてと、にやりと笑みを浮かべながらテーブルに顎を乗せるようにしゃがみ込んだのは、今日一日ずっとヒンケルの胸の中や脳裏で騒ぎ立てていたリオンで、久しぶりの再会に三者三様の反応を示してしまう。
「冗談の通じない堅物とは誰の事だ」
「・・・美女と認めてくれることは嬉しいが、中身はクランプスに遜色ないとは聞き捨てならないな」
「こら、リオン!チョコが無いからと言ってチーズを取るな!」
三人の言葉に不敵な笑みでもって一括返答をしたリオンは、断りを入れて許可を貰った為にヒンケルの横に座り、今日はどうしたのかと問いかける。
「ああ、この先のホテルで今日と明日会議がある。それに出席したんだ」
「へー。そーいや良く会議は踊る、されど進まずってぼやいてたよなぁ」
会議で何を話し合うかは不明だが、そんな事をしているヒマがあるのなら犯人を一刻も早く発見して背負っているかごに放り込んで地獄に行けばいいのにと思っていたと笑うリオンに、ブライデマンやクリンスマンは慣れていないために呆気に取られるが、ヒンケルが溜息を吐いたと同時にこれがリオンだと気付いて頭を左右に振ってしまう。
「まったくお前は」
「へへ。それよりも、警部達がここでメシを食っているって事は大きな事件は起きていないって事ですよね」
それはこの街で暮らす人々にとって良いことだと笑い、チーフが持って来てくれたゼンメルのサンドとカフェオレを受け取って盛大な笑顔で礼を言う。
「ダンケ、チーフ」
ゼンメルのサンドとカフェオレという、ランチメニューのような食事を始めるリオンにヒンケルが溜息を吐くが、今日は一人かと当然の問いを発する。
「へ?ああ、オーヴェは今日ホテルで会合があってそれに出席してるんですよ。終わったら迎えに行くからここで待っててくれって」
いついかなる時でも一緒にいるイメージがあり実際そうである二人が別行動をしていることが珍しい思いから問いかけたヒンケルにリオンが何でも無いように返すが、ブライデマンとクリンスマンの顔に浮かんだ疑問に気付いたのか、ゼンメルのサンドを皿に戻したリオンが背筋を伸ばして最初にクリンスマン、次いでブライデマンに軽く頭を下げる。
「リオン?」
「・・・二人はオーヴェにとっても俺にとっても恩人です。ありがとうございました」
「突然どうしたんだ?それに、オーヴェとは誰だ・・・?」
クリンスマンが驚きに目を瞠りながらリオンに問いかけ、ブライデマンが記憶間違いでなければきみの恋人の名前だったと思うと呟くと、リオンのくすんだ金髪が上下する。
「Ja.今は家族です。俺のダーリンが巻き込まれた事件で二人は精一杯働いてくれました。本当に感謝しています」
クリンスマン警部はオーヴェが10歳の時、ブライデマン警部には昨年の事件で世話になったともう一度真摯な顔で礼を言うと、クリンスマンの目が見開かれ、ブライデマンは結婚したんだったなと、風の便りに聞いた二人のその後を思い出して目を細める。
「・・・では、オーヴェとは、バルツァーの末子の事だったのか?」
「Ja.あの誘拐事件では親父や兄貴がオーヴェを護りたい一心で捜査の邪魔になる様な言動をしたと思いますが、行き過ぎた行為で迷惑を掛けたと思います」
捜査をしていた人間としてその苛立ちは十分に理解出来るが、親心を察してやって欲しいと目を伏せるリオンの様子にクリンスマンも事件のことでは特に何も言うつもりはないが、一つだけ聞かせて欲しいと、当時からずっと心の片隅にあった疑問を口にする。
「その、彼は今は・・・・・・?」
「あの事件の後色々家族間でもありましたが、今はこの街で精神科医として働いてます」
二十数年前と昨年の事件の傷を抱えながらも毎日必死に患者の為に働いていると、己の伴侶の心の強さとしなやかさが眩しいと言いたげな顔でリオンがうっとりと呟くと、ブライデマンが口元を掌で覆う。
あの凄惨な事件の際、ブライデマンは国を超えた人身売買組織の事件を重点的に調べなければならないことから早々に本部に帰ってしまい、二人の事件後の顛末を見届けることが出来なかった。
だが、今リオンが誇らしげに近況を告げた事、右手薬指にマリッジリングらしきものが光っている事から、事件を二人で乗り越えて幸せに過ごしているのだと気付く。
ここにいる三人はそれぞれ所属する部署は違ったとしても刑事として幾多の凄惨な事件を手がけ、被害者の行く末に胸を痛めたことが一度や二度ではなかったため、直近で経験した事件の被害者が以前の生活に戻れている事実は数少ない明るい気持ちになれるものだった。
「そうなれるようにしてくれた皆には本当に感謝です。────と言う訳で、警部、そこに残ったチーズを下さい」
殊勝な態度で二人に頭を下げたリオンだったが、隣に座るヒンケルに向けて悪魔と良く称された笑みでチーズを寄越せと強請ると、まだ食うつもりかとヒンケルが怒鳴って皿を取り上げようとするが、それよりも先にリオンの手がチーズだけを奪い取る。
「やーっぱこうじゃないと楽しくねぇ」
「バカ者っ!・・・お前、まさかとは思うが、会長に対しても同じ事をしてるんじゃないだろうな?」
笑いながらチーズを頬張る横顔にバカ者と叱責を落とすヒンケルだったが、不意に眉を寄せて不安そうに問いかけると、蒼い双眸が悪戯を思い浮かべた時と同じ色に染まり、にたりと笑みを浮かべられたことから頭痛を堪える顔で額を押さえる。
「親父の鉄拳制裁の方が優しいですけどね」
何しろ会長の息子は暴力反対という鉄の意志を持つ男で、鉄拳制裁を知れば逆に会長が息子から叱責されるのだからと笑う悪魔にヒンケルが天井を仰ぎ、事情が飲み込めない二人が顔を見合わせるが、会長とはレオポルド・バルツァーで今リオンは彼の秘書をしている事、その息子とは先程話題に上ったウーヴェだと告げると、納得した顔で頷く。
「そうか」
「・・・本当にきみは懲りない男だな」
「へへ。まあでも俺みたいな男を秘書として雇ってくれた親父には感謝しています」
ウーヴェを支える為に刑事を辞めたが、その後紆余曲折があり今はバルツァーの会長付ボディガード兼秘書をしていると笑うと、刑事の頃を彷彿とさせる顔で三人を見る。
「まあなんだ、元気そうで良かった」
「俺の後に来た刑事は随分と真面目だってマックスから聞きましたよ」
お前以上に真面目な奴なんて見た事がないと笑った事を伝えたリオンは、ジーンズの尻ポケットからピアノの有名な曲が流れ出したことに気付き、慌ててスマホを取りだして耳に宛がう。
「ハロ、オーヴェ。もう終わったのか?」
三人の視線を受けつついつものように問いかけ、もう終わりそうだから迎えに来てくれと言われて頷いた後、これもまたいつものようにスマホに小さな音を立ててキスをする。
「オーヴェを迎えに行くのでそろそろ行きます」
「お、そうか。今日は会えて嬉しかったぞ、リオン」
「俺も嬉しかったです。ブライデマン警部、クリンスマン警部も会えて嬉しかったです」
今日の偶然の再会は本当に嬉しかったと笑って三人と握手をしたリオンは、カウンターの奥から見守っていたベルトランに手を上げて合図を送り、用意して貰っていたリンゴのタルトを受け取ると、支払いを済ませて店を出る。
その姿が車に乗り込んで走り去るのを見送った三人は、自分たちもそろそろホテルに戻ろうと頷き合い、会計を済ませて店を出る。
「・・・まさかリオンがあのバルツァーの会長秘書になっているとはなぁ」
「確かに意外だったな」
何があっても刑事を辞めない雰囲気があったのにと、事件の詳細を知らないクリンスマンが呟くが、ブライデマンが感慨深そうにそれだけ彼の伴侶を愛しているのだろうと呟くと、ヒンケルとクリンスマンが驚きその横顔を見つめてしまう。
「な、何だ?」
「いや・・・その通りだな、と思って」
「そうなんだろうなぁ」
ただそれがモーリッツの口から出たことに驚いただけだと笑う二人に一瞬むっとしたブライデマンだったが、咳払いを一つしてまあ彼の気持ちは分からなくもないと肩を竦める。
その言葉からブライデマンにも愛する人がいて当然だとの思いに至り、二人が意味ありげに顔を見合わせるが、あえて何も口に出さずに三人肩を並べてホテルへの道を歩いて行くのだった。
ホテルのエントランスから人々が出て行く姿が遠目にも確認出来る距離にまで戻って来た三人は、ホテルから少し離れた場所に停まるBMWに気付いて周囲を見回すが、最大まで開いた助手席のドアの傍に先程別れたリオンの背中を発見し、ヒンケルが声を掛けようとするが、リオンの身体の陰に白とも銀ともつかない色合いの髪が見え隠れしたため、喉元までで掛かっていた声を飲み込む。
背後から見ているために二人の表情は良く見えなかったが、窓も全開にされている助手席のドアが閉まり、シートベルトを引っ張るウーヴェの様子を見ていたヒンケルは、ビアンカに顔を振り向け、あの助手席にいるのがリオンのパートナーだと囁くと、彼女の目が限界まで見開かれる。
車の助手席でシートベルトをして少し倒したシートにもたれ掛かっている横顔からは事件当時の面影を見出すことは不可能だったが、彼女が驚きに見守る前、リオンが運転席からウーヴェに覆い被さるようにシートに腕をつき、程なくして離れていく。
リオンが離れた直後のウーヴェの表情に、クリンスマンの脳裏、誘拐事件の一報を受けて提供された子どもの顔写真の笑顔が二十数年の時間を越えて蘇り、無意識に安堵の溜息を零して走り去る車が完全に見えなくなるまで見送ってしまう。
「・・・幸せそうだったな」
「・・・リオンがいたから、そうドクは言っていたな」
リオンが傍にいて心身共に支えてくれたおかげで、事件の傷を抱えながらも前を向いて歩いて行けるようになったと、クリニックを再開した祝いの席でウーヴェから教えられたヒンケルは、文字通り己の元部下が愛する人を支えている光景を目の当たりにし、柄にもなく視界がぼやけ出す。
「・・・マルティン、モーリッツ、今日は楽しかった。ありがとう」
「あ、ああ、こちらこそ楽しかった。明日の会議も何とか乗り切ろう」
ヒンケルが感涙に噎びそうな事に気付いたクリンスマンが微苦笑しつつ二人に礼を言うと、それで涙が引っ込んだのかヒンケルが咳払いをした後、明日の会議も何とか乗り切り、またいつものように事件に追われる日々に戻ろうと苦笑する。
「また今度」
次に顔を合わせることがあるとすれば互いの管轄に絡んだ事件だろうが、出来る事ならばこうした平和な会議で再会したいと三人が笑い、それぞれの道に戻るために手を上げ二人は同じホテルに、一人は帰路につくために駅に向かうのだった。
いつもと同じようにすっかり寝静まった家に静かに帰宅したヒンケルは、ベッドルームのドアを開けて静かな寝息が聞こえることに気付き、いつもと変わらないことがどれほど幸福なことなのかとふいに気付き、足音を忍ばせてベッドで眠る妻の傍に向かう。
その気配に気付いたのかエヴァが薄く目を開け、ヒンケルが覗き込んでいる事に驚くが、人生の大半をともに過ごしてきた夫の様子から良いことがあったと気付いて苦笑する。
「・・・何か良いことでもあったの?」
「ああ。・・・己の意志を貫き通して幸せになっている姿を見ることが出来た」
具体的な名前は出さなくてもエヴァにはそれが誰の事なのかがすぐに理解出来た為、起き上がって己の隣をぽんと叩く。
「早く寝る支度をしなさいよ、マーティ」
今日は家で娘や孫の遊び相手で疲れたのだから、早くここに来て私に腕枕をしなさいと、結婚当初からの取り決めを今夜もしろと命じた妻にヒンケルは無言で肩を竦めるが、手早くパジャマに着替えてベッドに潜り込むと妻の頬にキスをし、望むとおりに腕枕をするために横になる。
「・・・幸せそうで良かったわね」
「ああ、本当にな」
天職の刑事を辞めた先、抜け殻になるのではないかと密かに危惧していたリオンが充実した日々を過ごしていることを教えられ、その姿を垣間見られたことが嬉しくて、結婚当初に比べればふくよかになった妻の身体に腕を回す。
「明日も早いんでしょう、おやすみ、マーティ」
「ああ、おやすみ、エヴァ」
明日も会議がありその後は事件に追われる日々になるだろうが、それすらも掛け替えのない大切な日々だと小さく呟き、眠そうな欠伸をする妻の髪に顔を寄せて目を閉じるのだった。
2018.05.23
突発で行ったリクエスト『スピンオフで読みたいお話』で受け付けたリク「ヒンケルでスピンオフ!」でした。
かなりお待たせした上にヒンケル「で」というよりは「三警部」のお話になってしまったような(、、;)
お読みいただけると嬉しいですっ(脱兎)


