意識がゆっくりと浮上し、自然と目が開いて朝の気配が部屋中に満ちていることに気付いたリオンは、ベッドの中で伸びをし、その反動を利用して脱力した後、寝返りを打って腕を投げ出す。
その動作一つで己が何処にいるのかを思い出し、恋人と今までのようにまたこうして同じベッドで眠れるようになったことを思い出すと、自然と昨夜の醜態も思い出してしまう。
恋人が目を見ながら伝えてくれたお帰りの言葉が思いも掛けないほどリオンの心に響いたようで、それに共鳴した身体が涙を流させたのだが、振り返ってみればかなり気恥ずかしいような、だが何故か誇りにも似た感情も覚えていて、何だろうと呟きつつもう一度手足をしっかりと伸ばした時、ドアが開いた音が聞こえ、近付いてくる足音に頭を擡げて限界まで振り向ける。
「……おはよう、リーオ」
「……ぅ、ん、おはよ、う、オーヴェ…」
ベランダに出る窓から入る朝の光は眩しくて、ベッド横を通ってブラインドを開け放ったウーヴェの背中に眩しそうに挨拶をしたリオンは、のそのそと起き上がってベッドの上で座り込むと、その前に膝を着いたウーヴェがリオンの鼻先三寸まで顔を近付けたかと思うと、ぐっすりと眠れたようで良かったと朝一番の笑顔を見せる。
「……うん」
ここ何日かで本当にぐっすりと眠ったし、何だか懐かしい夢を見ていたようだったと笑ったリオンにウーヴェも頷き、朝ご飯の用意が出来ていることを伝えるとリオンが立ち上がってベッドから飛び降り、苦笑しつつ身体を起こしたウーヴェの腰に手を回して肩に懐くように首を傾げると、ウーヴェの手が頭にぽんと載せられる。
「朝ご飯を食べるだろう?」
「うん、食う。今日は何を作ってくれたんだ?」
一言一言は他愛もない、振り返ったところで決して思い出せないほどのささやかなものだったが、この他愛もない時間が喪われていたことに気付いた二人は自然と互いの身体に回した手に力を込めてしまう。
「ゼンメルかライ麦、ああ、白パンもある」
「白パンもあるって?」
ウーヴェがいつもパンを購入する店は大手チェーン店ではなく、今でも昔ながらの製法を守ってパン作りに励む頑固なマイスターがいる店で、その店の白パンは絶品だとリオンが頬を落としかねない勢いで誉めていたことがあり、それ以来白パンはその店以外では買わなくなったのだが、それがあると伝えるとリオンの目がきらりと光る。
「ああ。エメンタールとゴーダだとどちらが良い?」
ウーヴェの疑問にリオンの顔が更に輝くが、久しぶりにキッチンに足を踏み入れたリオンが目にしたのは、壁際のいつもと変わらない場所に置かれた、部屋の規模を思えば悲しくなるほど小さなテーブルが見えなくなるほどの料理の数々だった。
「オーヴェ、これ……!」
「……ちょっと、気合いを入れすぎてしまった、かな」
リオンの顔が歓喜に染まりウーヴェの顔が羞恥に染まるが、腰に回されていた腕を撫でて席に着けと促しながら自らはコンロに掛けたままのミルクパンを慎重に運び、テーブルの中央に置いてリオンを更に喜ばせる。
「これ、まさか……?」
「ああ。どちらにしようか悩んだけど、両方溶かしてみた」
さっき聞いたがエメンタールとゴーダチーズの両方を溶かしておいたから、好きな方を食べようと笑い、自らもリオンの隣に腰を下ろしたウーヴェは、じっと見つめてくる青い瞳に片目を閉じ、どうぞ召し上がれといつものように掌を向ける。
「……ぅ、ん……ダンケ、オーヴェ」
「ああ。多いと思うから残せばいい」
残ったものは今日の夜にでも一緒に食べようと笑い、朝と夜のメニューが同じでも良いのならばと笑うと、文句などないと断言したリオンが嬉しそうに白パンに切り目を入れてその切れ目にハムを入れると、更にその上にチーズを掛けて大口を開ける。
「…………オーヴェ、うまい」
「そうか」
それならば良いと素っ気ない態度ながらもちゃんとリオンの言葉を受け取ったウーヴェが己も同じように食べようとパンにナイフを入れ、リオンと同じ方法を取るが、リオンの手が止まった事に気付いて顔を振り向けると、一つ苦笑を零して再度くすんだ金髪に手を宛がう。
「リーオ。気にせずに食べろ」
「…………ぅ、……ん……」
「それに、お前に食べて貰えなければここにある料理はいつまで経っても減らないんだ」
俺はこんなにも食べる事が出来ないと笑いながら髪を撫でて口付けたウーヴェは、俯いていた顔が上がって口角も釣られたように上がったのを見ると胸を撫で下ろす。
「今日はどうするんだ?すぐにホームに帰るのか?」
「ん、いや、朝からちょっと職場に顔を出してくる」
仲間が姉を殺したと知った夜から姿を消したリオンは、ウーヴェにも連絡を取っていなかった為、職場の愉快な仲間と呼んでいたコニー達の着信も当然無視していて、一日に一度は必ず入っていたヒンケルからの連絡すら無視していたのだ。
そんな態度は一端の社会人が取って良い行動ではないことも気付いていて、ようやく己の職場に足を向けられるような気持ちになった事を素直に伝えると、ウーヴェの白っぽい髪が上下し、その決断を誉めるような優しい声で背中を押してくれる。
「そうだな、警部に謝ってくるか?」
「んー、ボスに謝りたくはねぇけど、悪い事をしてしまったもんなぁ」
このまま謝罪もせずにまた何食わぬ顔で働くことなんて出来ないと、肩を竦めたリオンが二つ目の白パンに手を出して動きを止めるが、ウーヴェが肘で合図を送ってくれた為、二つ目を手にとって今度は別のハムを載せようとする。
「じゃあ俺が出勤する時に一緒に出るか?」
「うん。そうする」
朝の内に済ませた方が良いこと、多分その時にメディアを通じて知った事件の結末についても話をして貰えると思うこと、職場で復職の手続きをするのならば済ませた後でクリニックに顔を出すと伝え、ウーヴェもそれに同意を示すように頷く。
「分かった」
「うん」
昨夜はまだ実感が湧かないと思っていたリオンだったが、夢の中でも現実でもずっと自分を抱きしめて独りではないことを言葉や態度で教えてくれていたウーヴェの傍で一晩眠っただけで驚くほど脳味噌がクリアになり、先日まで浴びるように飲んでいたアルコールは何処に消えたと己に問いかけたくなるほどだった。
すっきりした心でもう一度ゾフィーが死んだ現実を受け入れようと決めたリオンは、職場に行けばホームでマザー・カタリーナ達と接する時とは全く違う面から姉の死について話をしてくれるとも気付くが、さすがにそれについて少しだけ不安を感じてしまう。
「オーヴェ」
「どうした?」
「あのさ……」
ゾフィーの死を受け入れる作業が辛い時は一緒にいて欲しいと顔を見ずに聞き取りにくい声で囁いたリオンにウーヴェが驚いて目を瞠るが、小さな小さな溜息を零した後、リオンの赤く染まる頬にキスをする。
「もちろん、一緒にいる」
独りにはしないと約束をしただろうと目を細めればリオンの頭が上下し、今度こそ本当に朝食を食べなければウーヴェが遅刻をしてしまうと呟いてリオンの顔を振り向けさせることに成功し笑みを浮かべるのだった。
その後、ウーヴェがてきぱきと朝食の後片付けをし、出勤する準備を終えた頃にはリオンも一応警察署に出向いても不審者扱いされない程に身嗜みは整えていたが、痣が浮いている顔と顎を覆う無精髭だけはそのままで、ウーヴェが控えめに無精髭を剃れと言っても聞こえているはずなのにそしらぬ顔を決め込んでいた。
無精髭を剃るつもりが無い事を察し、仕方がないと肩を竦めたウーヴェは、出勤する時には必需品となっている鞄を片手に、片手はリオンの手を取って家を出ようとするが、ポーチでスパイダーのキーを取った後、何事かを思い出したように足を止めて振り返り、小首を傾げるリオンの両手を己の両手で包んで額にまで持ち上げると口の中で何事かを呟きながら拳を額に軽く宛がう。
「オーヴェ?」
「おまじないだ」
気にするなと笑って手を離したウーヴェがそろそろ出ようとも伝えてドアを開けるが、強い力で引き寄せられて背後に倒れかけるものの、多少痩せてしまっているが鍛えている身体に受け止められて振り返ると、同じような表情で同じようにウーヴェの手を握りしめて額に押し戴く動作をするリオンがいたため、大人しく見守っていると己が呟いたおまじないと意味を同じくする別の言葉が流れだし、くすぐったさに目を細める。
「────オーヴェ、今日もみんなの心を守ってやれよ」
今日一日、心身の不調から立ち直る為、または最後の一歩を踏み出さない為に力を必要としている人達の為に真摯に向き合い、思い出した笑顔でクリニックを出て行けるように皆を守って欲しいと伝え、冗談めかして片目を閉じつつも切実な願いを声に込めたリオンが握りしめたウーヴェの手の甲で己の頬をつるりと撫でる。
「────帰って来たら……」
「ああ。分かっている、リーオ」
俺は約束を破るのは好きではないから前言は守ると断言し、心配に俯くくすんだ金髪を抱き寄せたウーヴェは、青い石のピアスが填る耳朶に口を寄せてお前の心は俺が護ると伝えれば安堵の気配が伝わってくる。
「さ、行こう、リーオ」
「うん」
今までならば他愛もないことで甘えてくることはあっても、こうして心が傷を負った時に言葉に出して甘えてくることが無かったリオンの心境の変化にウーヴェが胸を撫で下ろす。
態度だけではなく言葉に出して甘えることは、幼い頃から甘える事をしてこなかったリオンにとってはかなり勇気の要ることだっただろうが、昨夜涙を見せたことでリオンの中に有ったウーヴェに対する意地のようなものまで流れ去ったようだった。
リオンがドアを閉めてウーヴェがしまっていることを確かめた後、エレベーターに乗り込むが、地下駐車場に着いてスパイダーに乗り込むまで二人が繋いだ手はそのままだった。
前日の天候を今日も受け継いでいるのか、朝からぐんぐんと気温が上がり、もう初夏と言うよりは夏そのものと言った空模様の下、駅のスタンドやカフェなどに置かれている新聞の一面を飾っているのは、この街がある州の政治家の不祥事だった。
人身売買組織内での内輪揉め-公式の警察発表は紆余曲折を経てそうなった-の事件はまだ一週間ほどしか時間を経ていないのにすでにマスメディアの中では過去の物になっているらしく、毎日警察の公式非公式を含めた発表を心待ちにしていた記者の数も一人減り二人減りとした結果、今ではゴシップ誌の三流記者が警察署を出てくる顔馴染みの制服警官を捕まえては、事件の首謀者が現役の刑事であり、また州を跨いだ事件に発展していることではなく、悪の道に走った刑事の私生活を根掘り葉掘り聞き出すようなものばかりが署の周囲をうろつくようになっていた。
そんな中、いつものように街の彼方此方で起こる事件に対処していたコニーは、今回の事件でヒンケルの指示を直接受けて仲間達に下ろす役割をいつの間にか与えられてしまっていて、事件が自分たちの手を離れた次の日は休暇を取ったのだが、翌日出勤してきた時にはヒンケルがまずコニーに相談をし、それを受けたコニーが仲間達を集めて相談するようになっていた。
コニーが指示を出すことに対しては誰も不満を覚えることはなく、マクシミリアンが生真面目な顔で頷き、ヴェルナーやダニエラも彼の指示には余程のことが無い限り反論したりしなかった。
BKAから派遣されていたブライデマンがベルリンに戻る時、ロスラーとジルベルトの居場所が分かればすぐに連絡をすると約束をし、最初はいけ好かないと思っていた彼も一つの事件が終わればさほど嫌な人間ではないことを改めて知り、ヒンケルを筆頭に皆それぞれが己の言葉で今回の彼の働きを労い、BKAの刑事というよりはブライデマンという刑事と知己になれたことを感謝しつつ握手をしてその背中を見送った。
その時、ブライデマンが何かを問いた気にヒンケルを見ては口を閉ざしたが、コニーやヒンケルは何を言わんとするのかを察していて、無言で首を左右に振った後、もうすぐ戻って来る気もするからとだけ伝えたのだ。
その言葉にブライデマンが素っ気なくはあっても無言で話題の主にしていた彼を認めたこと、己の態度が彼にとっては不愉快になった事を上手く説明しておいてくれと残し、ICEに乗る為に駅に向かったのだった。
ブライデマンが去った後、刑事部屋に入ったヒンケルとコニーは、部屋の中央にある二つのデスクを背中合わせに使っていた男達の人生が、孤児として生まれた出発点と刑事として働く到達点が同じではあっても、その先にまだまだ続く人生は全く違う方へと足を踏み出した現実に重苦しい溜息を吐き、一人はまた刑事として復帰する可能性が当然あるが、もう一人と再会する時は国際的な事件に巻き込まれた時だとも気付いて互いの顔を見合わせる。
「……いればいたでうるさいとしか思わなかったんですけどね」
いなくなってしまえば静かすぎて何やら気持ち悪いとコニーが独り言のように呟くと、ヒンケルも隠し持っているチョコレートを奪われることがない為、今回の事件を追うようになってから全くチョコを食べていないと告げると、チョコレートが減りませんねとコニーに笑われてしまう。
「本当にな」
どうこう言ってもあいつがチョコを奪い取っていくため、新しいフレーバーのチョコを理由を付けて買い求めることが出来ていたのにと呟いて室内を見回した時、じゃあ今からチョコを全部お持ち帰りしても怒らないんだーと暢気な声に呼びかけられて目を瞬かせる。
「!?」
「俺がチョコを奪い取っていたから新しいの買えたんですよね、ボス?だったら今あるのを全部持って帰ったら新しいのを買うってことですよねー」
それはつまり、俺に総てのチョコを持って帰れと言っているんだろうと、ここにもし恋人がいれば、お前は悪魔か何かかと叫びそうなことを言い放ち、驚愕の顔で振り向く二人と、その二人の向こうで同じような顔で立ち尽くしたり手を止める同僚達に子どものような笑みを浮かべたのは、無精髭と顔の彼方此方に残っている痣のみで今回の事件を顕しているようなリオンだった。
「リオン……!」
「おはようございます、ボス」
驚愕に振り返る上司と同僚におはようと挨拶をしたリオンは、やや伏し目がちになると表情を改め、心配と迷惑を掛けて悪かったと謝罪をする。
「……もう良いのか?」
殊勝な態度で頭を下げるリオンなど誰も見た事がなく、ただ驚きと戻って来た喜びに言葉に詰まったヒンケルだったが、顔を上げたリオンが無言で頷いた為に己の部屋で話をしようと首を傾けて伝えると殊勝な態度で後に続くものの、部屋に入る前にぴたりと足を止めたリオンが顔だけを振り向け、呆然と見送るコニーに片目を閉じる。
その顔が今まで見てきたものと変わっていない事に無意識に安堵したコニーは、駆け寄ってくる同僚に肩を竦めていつものリオンが帰ってきたと呟くと、ダニエラやヴェルナー、マクシミリアンの顔にも明るさが増す。
「……もう少しすれば警部の部屋から怒鳴り声が聞こえるはずだ」
「え?」
その怒鳴り声は何を由来とするのかをダニエラが疑問の形で問い掛けるが、その疑問を解消したのはドアがいきなり開く音と、そこから飛び出してきたリオンが小脇に大きめの箱を抱える姿と、そのリオンを追いかけるように飛んでいったブロックメモだった。
「……ほら、な」
「……………」
俺のチョコを返せばか者と叫びながら部屋から出てくるヒンケルに舌を出したリオンは、デスクを飛び越えて仲間達の元に集まると、胃薬と書かれた箱を開けて中からチョコを一枚ずつ取りだして同僚達に配り出す。
「はい」
「おい、リオン、良いのか?」
「ん?良いんだって。俺が持っていかないから新しいのが買えないってさっきぶつぶつ言ってただろ?」
マクシミリアンの躊躇いがちな声にリオンが片目を閉じて己の分とオーヴェの分と呟きながら二つチョコを手にしたとき、くすんだ金髪に見事に鉄拳制裁が下る。
「─────ぃてえ!!」
「ばか者!」
蹲るリオンと顔を赤くして頭から湯気を立てそうなヒンケルという構図は今まで飽きるほど見てきた面々だったため、またいつもの怒鳴りあいかと呆れるものの、その顔はいつものと呼べる光景が戻ってきた安堵と、決してそこに戻ってくることのない男前の横顔を思い出して苦い思いも込み上がってきているようだった。
そんな同僚の顔をぐるりと見上げたリオンは、その場で立ち上がって胃薬箱を小脇に抱えると、皆に向かってもう一度迷惑を掛けたと謝罪をし、復職出来るのであれば週明けにでも仕事に復帰するつもりだと伝え、ヒンケルも呼吸を鎮めて大きく頷く。
「お前は何も悪いことをした訳じゃない。だから部長にも署長にも週明けに復帰することを伝えておく」
「ありがとうございます、ボス」
上司の許可に胸を撫で下ろし、仕事に戻ってくるときは無精髭を何とかしなさいとダニエラに肘で突かれるが、剃るつもりはないと言い放って同僚を呆れさせるが、その彼女がリオンの首に腕を回してハグしつつお帰りなさいと伝えると、ヴェルナーがリオンに体当たりをするように身を寄せ、そんな三人に呆れた顔を見せたマクシミリアンが今までのお礼-仕返し-だと言うようにリオンをぎゅっとハグする。
「……うん、ダンケ、みんな」
数日前まで己が歩いていたのは暗闇の靄の中だったため、見えない場所で支えてくれている人たちのことまで考えられなかったが、こうして温かく迎え入れてくれる気持ちが嬉しくて素直に頷いて礼を述べると、今度はコニーが咳払いをした後にくすんだ金髪に掌を叩き付けるように載せてぐしゃぐしゃに掻き乱す。
「ちょ、コニーっ!」
「うるさいぞー、リオン」
お前がいない間本当に仕事が大変だったのだ、だから仕事に復帰したらまずみんなにコーヒーか紅茶でもおごれと片目を閉じたコニーがそれで許すと言外に告げ、もう一度頷いたリオンがヒンケルに向き直り、コニーと同じように咳払いをしたヒンケルが口を開く前に、ボスは俺が仕事に復帰したらその祝いでビールを皆に奢ってくれるんですよねと宣言して上司を絶句させてしまう。
「な…!?」
「そりゃあ、可愛い部下が戻ってきたら祝いをしてくれるのは当然ですよねぇ?」
「自分で言うな!」
「自分で言わなきゃ誰も言ってくれないでしょうがー」
ねーと、同意を求めるように周囲を見ても誰も同意を示してくれず、いいよオーヴェは可愛いって言ってくれると眉尻を下げると、ドクは目が悪いからなぁ、眼科に行って来いと伝言をしてくれと言われて肩を落とす。
「ちくしょー!」
「うるさいぞ、リオン!」
リオンの叫びにヒンケルが声を被せるように怒鳴る声が室内一杯に響き渡り、偶然通りかかった職員や部屋に入ろうとしていた人たちの動きを止めさせ、ああ、いつもの光景が刑事部屋にまた戻ってきたことを察すると、今回の事件の間中静かだった部屋の光景も思い出してあの頃は良かったと呟きながら席に戻ったり、またうるさいのが戻ってきたと明らかにリオンに聞こえるように告げてリオンの帰還を彼らなりに歓迎するのだった。
職場で手荒な帰還祝いを受けたリオンは、ヒンケルの部屋に入るなり表情を改め、本当に自分はペナルティを受けることなく復職できるのだろうかと問いを発し、己のデスクに座ったヒンケルの目を見開かせる。
「お前は何もしていないし今回の事件について本当に何も知らなかった、そうだろう?」
「Ja」
それに皮肉なことだが、二人の内部調査官がお前が担当した過去の事件を浚ってまでもお前の不正を発見しようとしたが出来なかった事がそれを証明している、これ以上その事について疑いを持つ必要も不安を感じることもないと断言されて胸を撫で下ろしたリオンは、明日の朝一番にホームの教会でゾフィーの葬儀を行うことを伝え、姉が迷惑を掛けたこと、そして姉と彼女の仲間だった二人の男の殺害事件を解決してくれてありがとうございますと礼を述べると、犯人は現在逃亡中でまだ事件は解決していない、だからその言葉は聞かなかったことにすると言い返されて肩を竦めるが、気になって仕方がなかった疑問を解消するために口を開き、己の目で確かめろと言う代わりに今回の事件を綴ったファイルを差し出される。
最も信頼していた仲間であり今では最も許せない男になったジルベルトだが、ゾフィーがレイプされているとき動画を撮影していたことは分かっていた。だが、ジルベルトが自らゾフィーをレイプしたのかを知りたかったリオンは、差し出されたファイルを読み進め、彼女の身体から発見されたDNAが殺された二人の男とロスラーのものだったことを知り、もう一人許せない男が増えたことに気付くが、たとえ直接性行為を行っていなかったとはいえ、ゾフィーの命を奪った暴行を繰り返していたことは確かめられ、ファイルを閉じつつ溜息をつく。
「…ロスラー、何処に逃げたんでしょうね」
「何処だろうな」
BKAと協力して探すことになると溜息を吐くヒンケルにファイルを返し、明日の葬儀ではゾフィーの顔を参列者に見せても恥ずかしくないようにカールがウィッグを買ってくれたこと、マザー達が化粧をしてくれること、そしてウーヴェがゾフィーの顔や身体に残る暴行の痕が目立たないように大量の向日葵を棺に入れてくれることを伝えると、ヒンケルが短くそうかと返す。
「明日の葬儀が終わればもうちょっと実感が湧くと思うんですけどね」
ゾフィーが死んだことは理解しているが、もう二度と声を聞けないこと、何かをしても褒めてくれることも叱ってくれることもない、ただ己の中にいるゾフィーならばこう思うだろうという予測を彼女からの言葉として受け止めなければならない現実がまだ何となく理解できないと肩を竦めれば、当然だと強い口調で断言されて軽く目を瞠る。
「ボス?」
「身内が殺されたんだ、実感が湧かなくても仕方がない」
だが、生者と死者との厳粛で一緒に過ごせる最後の時間でもある葬儀を終えれば、笑うことは無理であっても涙はいつか止まることに気付いてくれとも告げられ、まさかヒンケルの口からウーヴェと同じような言葉が出てくるとは思えずに呆気に取られてまじまじと厳つい顔を見つめると、リオンの視線に気付いたヒンケルが顔を赤らめる。
「うわっ、クランプスが赤くなった!」
気持ち悪ぃと叫んで立ち上がったリオンにつられてヒンケルも立ち上がり、デスクに両手をついて部下を睨み付けると、クランプスが怒ったと頭を抱えてその場にリオンが座り込む。
「ばか者!」
「……ありがとうございます、ボス。…まだジルのことで笑えるようにはなれないと思うけど…」
ボスとオーヴェが言ってくれるように、いつかは涙は止まるのだと己に言い聞かせるように告げて立ち上がったリオンは、ヒンケルに向けて手を差し出し、意味を酌んでしっかりと握手をしてくる上司に頷いて週明けから復帰しますと宣言する。
「ああ。待っている」
「Ja」
二人が抜けていた刑事部屋はいつもの活気が喪われていたが、これでまたその活気が戻ってくると目を細めたヒンケルは、ジルベルトの代わりになる刑事の補充について部長に相談してあること、近々顔を見せるはずだからとも伝えて理解した合図に頷かれるが、躊躇うように視線を左右に泳がせた後、明日の葬儀に間に合うようにカードと花を贈るから受け取ってくれと告げるが、これに関してリオンの首は縦には動かなかった。
「ボス、犯罪者にカードと花束は贈らない方が良いですよ」
「彼女はお前の姉でもあるんだぞ?」
「ありがとうございます。……その気持ちだけ、頂きます」
ゾフィーもマザーもその辺りのことを理解してくれるだろうと告げ、こればかりは譲るつもりが無いと穏やかに伝えると、釈然としない顔で腕を組む上司に苦笑をして踵を返すのだった。
昨日も訪れたウーヴェのクリニックが入居するアパートを見上げ、少しだけ軽くなった心でまたここを訪れることが出来るようになった事実がじわりと胸を温めるが、リオンの脳裏では独りにしないこと、事件が落ち着けば引っ越しをして一緒に暮らそうとの言葉が甦り、更に胸を熱くしてしまう。
己の体温が一気に上昇したような錯覚に囚われつつ階段をゆっくりと踏みしめるように上り、昨日久しぶりに抱き合った廊下を進んで両開きの扉に手を掛けたリオンは、深呼吸を繰り返した後、そっと扉を開けてクリニックの中の様子を窺う。
細い世界に広がる光景はリアが書類をデスクに置いてラップトップに向き合っているもので、左右の見える範囲には患者の姿も見えず、また彼女がラップトップの画面に目を向けながらマグカップを手に取ったことから診察の合間であることに気付き、ゆっくり息を吸って吐いた後、口元に微かに笑みを浮かべて扉を勢いよく開け放つ。
「!?」
その物音にマグカップを持つ手が揺れてコーヒーが少し零れてしまい、慌てたリアが顔を上げるが、扉を閉めてはにかんだように笑みを浮かべて立っているのがリオンであることに気付くと彼女の手からマグカップが滑っていき、絨毯の上に落下した後にコーヒーが倒れたカップの縁から流れ出す。
「リ…オ、ン…?」
「ハロ、リア………久しぶり」
手から滑り落ちたマグカップと挨拶をするリオンを交互に見つめたリアだったが、心配を掛けてごめんとリオンが謝罪をした瞬間、リアの手が震えながら上がったかと思うとそのまま顔を覆って肩を震わせてしまう。
「わ…っ!!」
まさか謝ると同時に泣かれてしまうとは思っていなかったリオンが慌てながら近寄り、リアの細い肩を撫でてごめんと謝ると、涙を溜めた目でキッと睨まれてしまう。
「本当に…心配を掛けて…っ!」
「うん、ごめん、リア」
ウーヴェの傍にいて事態を見守ってくれていただろうリアには自分たちには分からない心配をかけたと謝るが、リアがまるで小さな子どものように身体全体を振って許さないと叫んだ為、リオンの眉尻がこれ以上は無理と言うほど下がってしまう。
「リアぁ」
「何よっ!」
あなたは何も悪くないのに、マスコミは好き放題に書き立ててそれを目の当たりにする日々が辛かった、なのにウーヴェにも黙っていなくなるなんてと叫ばれてごめんと謝ることしか出来なかったリオンは、診察室のプレートが掲げられているドアが開いて目を丸くしたウーヴェが顔を出したことに気付いて救世主が現れたかのように顔を輝かせる。
「オーヴェ!」
ごめんと謝りつつリアの肩や背中を撫でていたリオンは、ウーヴェが何をしているんだと問い掛けると同時に助けてくれと叫び、ことの仔細を察してくれとも伝えると、リオンの頭に手を載せて頬にキスをしたウーヴェが苦笑しつつリアを呼んで返事を待つ。
「リア」
「…ウーヴェ…っ!」
「頼むから泣かないでくれ。頼む、リア」
きみの腹立ちもリオンが戻ってきた安堵もちゃんと受け止める、だから今は泣かないでくれとリアに伝わるようにゆっくりと穏やかな声で告げたウーヴェは、リオンが唇を噛んでいることにも気付いてリアの肩を撫でる手とは別の手でリオンの頭を抱き寄せると、くすんだ金髪にキスをし、名を呼んでキスを繰り返す。
「リーオ。リアも一緒になってずっとお前のことを心配してくれていた。それは分かるな?」
リアが許さないと怒っているのはお前がいなくなった間ずっと俺と一緒になって心配してくれていた裏返しだと告げ、俯く頬にキスをしたウーヴェにリアが顔を上げればリオンも意を決したように顔を上げる。
「そう、よ……っ!どれだけ心配したと思ってるの……!」
自分が涙を浮かべて怒る理由はただひとつ、いつもいつも真っ先にあなたの事を心配しているウーヴェにすら行き先を告げないで姿を消したことだと、赤く潤んだ瞳でリオンを睨んだ彼女は、二人の男に失礼と言い放ってトイレに駆け込んで行く。
その背中を見送ったウーヴェだが、小さな掠れた声がごめんと謝ったことに気付き、さっきは片手だったが決して片手間ではないことを伝える為に今度は両手でしっかりとリオンを抱き寄せ、くすんだ金髪に口を埋めるように顔を寄せつつリーオと、出せる限りの優しい声で名を呼ぶと上がった手が背中へと回された事に気付く。
「リアが怒ることを許してやってくれないか」
彼女もずっと俺と一緒になって心配し、彼女の思い当たる人達にお前を見かけた時は声を掛けないで良いがすぐに連絡をくれと伝言していたことを伝え、お前が戻ってきた安堵もあってつい感情が昂ぶってしまって怒っているだけだから許してやってくれともう一度ウーヴェが頼むと、腕の中で頭が上下に揺れる。
「ああ、お前は本当に強いな」
自分が責められていても許せる度量を持っている、本当に強い男だと手放しで誉められてしまい、本当にそうなのは俺ではなくお前だとくぐもった声が言い放つ。
「そうか?」
じゃあそういうことにしておくが、リアがトイレから出てきたらお前ももう顔を上げてくれとこめかみにキスをしたウーヴェは、彼女が出てきたことに気付いて慌てることもなくリオンから離れると、二人の気まずい視線を受けつつキッチンスペースに向かい、二人に水を運んでくる。
「リア、落ち着いたか?」
「…………ええ」
興奮してごめんなさいと、カウチソファに腰を下ろして肩を落とす彼女の前に膝をついて水を差しだしたのはウーヴェではなく真剣な顔をしたリオンで、それに気付いた彼女もきゅっと唇を噛んで顎を引く。
「心配を掛けて悪かった。ごめん、リア」
「……いなくなっていた間、何処にいたの?」
「うん。カインの家にいた」
リオンの呟きにリアがオウム返しにカインと呟き、確かリオンの幼馴染みだったことを思い出すと同時に溜息を吐き、路上で寝ていた訳ではないのねと問われて頷いたリオンは、水のグラスを受け取ってくれた彼女に礼を言ってその隣に腰を下ろす。
「そう……リオン」
「ん?」
小さな呼びかけに小首を傾げたリオンに彼女が深呼吸をした後、向き直るように姿勢を変えてリオンの横顔を見つめながら諦めにも似た吐息を零してそっと顔を伏せる。
「お姉様のこと……ウーヴェから本当のことを聞いたわ」
血の繋がりはないがそれ以上に濃い心の繋がりを持った人が無残で無念な最期を迎えてしまったことに対し、心からお悔やみするわと告げて顔を上げると、驚きながら見つめてくるリオンにそっと頷き、くすんだ金髪をさらりと撫でる。
「彼女とは直接の面識は無かったけれど、ずっとマスコミが書き立てていたことが彼女の総てではないことは分かっているわ」
だからあなたもそんな彼女や彼女の罪を見抜けなかった己を必要以上に恥じず、これからも刑事として精一杯働きなさいと伝えると、急に気恥ずかしくなったらしいリアが立ち上がって今度は診察室に駆け込んで行く。
忙しない彼女の様子に呆気に取られていたリオンの肩が次第に小刻みに揺れ、ウーヴェが見守る前で嬉しそうな顔で笑みを浮かべだしたことに気付くと、もう大丈夫だという確信を抱く。
「……オーヴェぇ」
「うん?」
己の前髪を掻き上げながらカウチソファの背もたれに上体を載せて限界まで体を反らせたリオンが呼び、リオンの前に立ってジャケットのポケットに手を入れて身体を屈めたウーヴェがどうしたと問えば、湿り気を帯びた声がゾフィーが最後に色々なものに気付かせてくれた、あいつを亡くしたのは本当に悲しいし悔しいことだが、自分はゾフィーに本当に大切にされてきたし、今もまたオーヴェやリアに大切にされていることが分かったと呟いたため、ウーヴェが微苦笑を浮かべつつリオンの横に腰を下ろし、顔を見られないように背けている恋人の頭を肩に抱き寄せる。
「そうだな…本当にお前は皆から愛されているな」
「………うん」
幸せだな、と、ウーヴェの肩に顔を押しつけつつ頷いたリオンの髪を撫で、職場のみんなはどうだったとも問うと、週明けに復帰できること、部長や署長にはボスがちゃんと話をしておいてくれること、ジルの交代要員として誰かが近いうちに来ることを告げ、ウーヴェの首筋に柔らかな髪を押し当てて目を閉じる。
「リア、どうすれば許してくれるかな?」
「そうだな…本人に直接聞くのが一番早いな」
診察室のドアが細く開いて彼女が照れたような笑みを浮かべていることに気付き、一つ頷いて彼女に出てこいと伝えたウーヴェは、己の肩に顔を埋めているリオンの髪を撫でて女神が出てきたことを伝えると、リオンが顔を上げてこちらもまた照れたような笑みを浮かべて鼻の頭を少し掻く。
「…リア、許して欲しいんだけど、どうすればいい?」
どうか教えて女神様と懇願するように手を組んで彼女を見上げたリオンは、最初は呆気に取られていた顔に次第に笑みが浮かび上がり、腰に片手を宛ててリアが身体を屈めたため、その仕草が遠い昔に当たり前のように目の前に存在していた光景だったことを疼痛とともに胸にしまって目を閉じたリオンがどうか教えてともう一度告げると、五つ星ホテルで今度有名パティシエの新作お披露目会があるからそれに参加したいと言われて瞬きを繰り返す。
「へ?お披露目会?」
「そう。色々な種類のお菓子が出されるらしいの。でも、それって招待状がないと入れないらしくて…」
当然一般人の私は入手できないがと、リオンの次にウーヴェの顔もじっと見つめたリアは、目の前で二人が慌てふためく様に目を細め、その招待状が欲しいのともう一度念を押すように伝えると、一つ咳払いをして表情を切り替える。
「……リオン、本当に、今回は辛くて悲しかったわね」
でももう乗り越える術を手に入れたでしょうと笑われて素直に頷いたリオンは、カウチから立ち上がってリアの細い身体を抱き締めると、優しい甘い匂いに包まれて鼻の奥に疼痛を感じてしまう。
いつもどれだけ困らせようが何をしようが、最後には笑って許してくれたゾフィーを喪ってしまったことは悲しいことだが、その彼女が最期に教えてくれたことを忘れないように胸に刻みつつリアに礼を言い、うっすらと色づく頬にキスをしたリオンは、ウーヴェとはまた違う優しい手が背中を撫でてくれたことが嬉しくて満足の吐息を零す。
「………失礼」
三人がそれぞれ安堵の溜息をついた時、クリニックの扉が静かに開いてぶっきらぼうな太い声が聞こえてきたため、三者三様の顔で入口へと顔を向け、そこに大きな箱を抱えた大きな男を発見してウーヴェが笑みを浮かべる。
「ハーロルト、持ってきてくれたのか?」
「ああ」
半年に一度、花だったり果実だったりするがまるで捧げものをするようにウーヴェに届け物をしてくれる農家の朴訥な青年が箱を下ろし、頼まれていたものだと告げて肩を一つ回す。
「オーヴェ、これ…?」
「ああ。彼女の棺に入れてやってくれないか、リーオ」
お前の姉の好きな花だろうと笑い、箱を開けて三人が覗き込むが、リアの口からは羨望の溜息が流れだし、ウーヴェもさすがに呆気に取られてハーロルトの顔をまじまじと見つめてしまう。
「こんなにも沢山良いのか?」
「ああ。好きな花なんだろう?入れてやればいい」
棺にこんなにも沢山の花を入れてはいけないという決まりはないはずだとハーロルトの言葉にリオンが拳を握った後、ダンケと頭を下げると無口でぶっきらぼうな男が素っ気なく頷く。
「…ハーロルト、いくら払えば良い?」
残念ながら向日葵の相場が分からない上にこれだけ沢山の花には一体どれ程掛かるのかと問えば、代金など要らないとハーロルトがいつものように素っ気なく返すが、さすがにそれにはウーヴェが首を縦に振らずに、ハーロルトの前に立って一つ分高い 位置にある顔を見上げつつ腕を組む。
「ハーロルト、きみは花を育てることで生計を立てている。そうだろう?」
「ああ」
「ならば花に関するプロだろう。そのプロがその商品で代価を受け取らないと言うのは己の仕事に対するプライドがないことと同じになる」
商品を購入する際、その商品に見合った料金を支払うのが当然だが、商品には反映されにくいものも当然加味する、だからいくら支払えばいいのか教えてくれと告げてハーロルトの分厚い胸板を人差し指でトンと突くと、大きな身体がぐらりと揺れたあと、大きな手がぐしゃぐしゃになっている請求書を差し出してくる。
請求書に記されている金額は市場で購入した場合に比べれば遙かに安いが、大量の花に相応しい金額だったため、ウーヴェが躊躇せずに財布から現金を取り出し、リアが用意してくれた封筒に納めるとハーロルトの手に握らせる。
「領収書などは良い。ありがとう、ハーロルト」
これだけ向日葵があれば彼女もきっと喜んでくれると笑い、ハーロルトの腕をぽんと叩いたウーヴェは、急に頼んだのに願いを聞いてくれて本当にありがとうと礼を言い、ちらりとリオンを見ればやや複雑な表情を浮かべながらもありがとうと礼を言う。
「…いい。また何かあれば連絡をくれ」
「ああ。是非そうさせて貰う」
本当にありがとう、その言葉に有りっ丈の思いを込めたウーヴェにハーロルトが素っ気なく頷き、じゃあこれで帰ると手を挙げてクリニックの扉を開けてでていく。
その大きな背中を見送った三人だったが、本当にこれだけの向日葵をどうすると顔を見合わせるが、これをどのようにしてホームに運ぶかとウーヴェが顎に手を宛った途端、魔法が解けたように二人が同時に顔を見合わせて困惑した表情のままウーヴェを見る。
「俺、さすがにこれだけの花を持って電車に乗るのは恥ずかしいし無理だぜ、オーヴェぇ」
「…向日葵が向日葵を持って歩いているようなものだからな」
「は?」
「…いや、何でもない」
リオンの素っ頓狂な声に咳払いをし、午後の診察があるからクリニックを空ける訳にはいかないウーヴェが少し考え込むが、何かに気付いて目を光らせると診察室に駆け込んでいく。
「オーヴェ?」
「クリニックを閉めればホームに行く。だからそれまでホームで待っていてくれないか、リーオ」
「へ?」
ウーヴェが持ってきたのは、リザードが己の尻尾にスパイダーのキーを巻き付けて誇らしげに目を光らせているキーホルダーで、驚くリオンの掌にそれを落とすと、仕事が終わるまでの間待っていられるだろうと問い掛けつつ片目を閉じる。
「それぐらい…待ってられる!」
「はいはい。じゃあスパイダーで向日葵を運んで彼女の棺に入れてやってくれないか?」
「あ、うん…車、良いのか?」
二人が付き合うようになって結構な月日が経過していたが、リオンがスパイダーを運転するときには必ず助手席にウーヴェが乗っているときだったため、こうして愛車を使えと差し出してくれたことが信じられず、またそれがウーヴェからの信頼の証だとも気付いてじわりと胸を温めると、構わないと苦笑されて小さく頷く。
「ホームに行って。それから一緒に帰ろう」
明日の葬儀に参列する準備等もあるし、ひとまずマザーたちに段取りを確かめてからになるが、一緒に帰ろうと笑うウーヴェにリオンも頷き、手の中でスパイダーの鍵を転がす。
「じゃあ先に帰ってるな」
「ああ。頼む」
リアが壁の時計へと視線を向け、そろそろ午後の診察の準備をしなければと告げると、ウーヴェに手を挙げたリオンが向日葵が納められている箱を肩に担ぎ、チャオと告げて出て行こうとするが、そんな恋人を呼び止めて目を丸くするリオンに小さな音を立ててキスをしたウーヴェは、また後でと告げてその背中をぽんと押す。
「うん、また後で」
じゃあ、と手を挙げて今度こそ出て行くリオンの背中を見送った二人だったが、気分を切り替えるためにどちらからともなく小さく 笑って溜息を零すが、デスクの横でマグカップがいつまでも傾いたままであることに気付いて慌ててリアがカップを拾い上げるのだった。
2013/07/26


