Das Heim -16-

Über das glückliche Leben(UGL) -Lion & Uwe -

 古いアパートの一室で銃声のような音が聞こえた。
 そんな通報が警察に入り、制服警官が通報を受けた以上は放置できない為に出動したのは、リオンが前日ウーヴェに巻いて貰った包帯をいつ取り替えるべきか悩みながら出勤して暫くしてからだった。
 昨日、ヒンケルやウーヴェに見せた態度はどう考えても子どもっぽい行為で、会議室の壁にヒビを入れてしまったことは贔屓目に見ても大人の行為としては許されるものではなかった。
 なので出勤一番にヒンケルを捕まえ昨日の感情の爆発について謝罪をしたリオンは、無言で睨まれた後、今お前が持っている煙草を差し出せば許してやると笑われ、このクランプスは貧乏人から煙草を巻き上げる悪いクランプスだとリオンが嘆きつつ煙草を差し出す。
 「良し」
 何が良しなんだ、クランプスのくそったれと胸の裡で盛大に毒突いたリオンにヒンケルがじろりと睨みをきかせて顔を見上げた後、咳払いを一つして表情を切り替える。
 「リオン、昨日の動画だがな、二人の男の顔写真は取り出せるようだ」
 「そうですか。……あれで早く見つかれば良いですね」
 「ああ、そうだな」
 そんな言葉を二人で交わすがリオンは今朝からはヴェルナーとジルベルトが掛かっていた事件の後始末的な仕事をすることにしていて、ヒンケルにゾフィーの捜索とダーシャ殺害犯人の捜索は任せると告げて部屋を出て行く。
 何気なく己のデスクに腰を下ろしたリオンは、椅子の背もたれを軋ませながら上体を反り返らせるが、いつものように言葉も掌も投げ掛けられないことを思い出して苦笑する。
 「どうした、リオン?」
 「んー?いや、ジルがいないだけで静かだなーって」
 静かというか何か変な感じがすると素直な感想を口にしたリオンは、軽く反動をつけて身体を起こして椅子ごと振り返る。
 いつも背中合わせに仕事をしていたジルベルトだが、昨日から休暇を取って不在だった。
 何気ない言葉のキャッチボールや仕事の真剣なディスカッションの最中でもふざけるようなリオンだったが、ジルベルトがそんなリオンが一人浮き足立たないように付き合って言葉を投げ掛けたりしてくれていたのを今更ながらに気付き、ジルベルトの存在が思っていた以上に大きなことにも気付く。
 早く戻ってこないかな、そう呟いて己のデスクに向き直り、束になっている書類を手に資料の通りにそれを並べ替えていく。
 そんな単純作業をしていると、脳裏に浮かぶのはぼろぼろのベッドに生きていることが辛うじて分かる姿で横たわっているゾフィーで、その顔を思い出すだけで包帯の下の傷が疼いてしまう。
 どれだけ悔しくて腹立たしくて犯人が憎いと思ったところで、自分は捜査に参加する事は出来ないのだ。
 危機に瀕している姉を救いに行けない刑事など、弟としても刑事としても情けないと自嘲したくなるが、その代わり己がもっとも信頼する同僚達に任せるしかないと溜息を吐き、ボールペンをくるりと回転させた時、リオンのデスクの電話が鳴って受話器を取り上げてぞんざいに応対する。
 「刑事課です」
 『お、リオンか?お前に頼まれた男の写真が用意出来たぞ』
 それは鑑識からの内線電話で、告げられた言葉に苦笑したリオンがヒンケルに交代するからちょっと待てと告げて受話器を戻すと、ジルベルトのデスクを踏み越えてヒンケルの部屋の前に向かう。
 その姿をダニエラが目撃して目と口を丸くして怒鳴るのを背中で聞き流し、ドアをノックして鑑識から電話だから出てくれと告げて己のデスクに戻って来る。
 「リオン、人のデスクを踏むなんて…!」
 「あー、ここを越えた方が近かったんだよ」
 全く反省していない顔で肩を竦めたリオンは、腰に手を宛がって溜息を吐くダニエラについゾフィーの姿を重ねてしまい、無意識に拳を握る。
 こんな風に良くゾフィーに叱られていた事を思いだし、幼い頃は本当に怖かったことも思い出すと同時に、拳に生まれた痛みに顔を顰めると、ボールペンと書類が床に散らばり、慌てて書類を拾おうとしたリオンの肘が今度は胃薬と描かれたチョコレートボックスに触れてデスクから落としてしまう。
 「何をやっているの」
 「いや…」
 呆れて名前を呼ぶダニエラに肩を竦めたリオンは、床に膝をついてデスクの下に潜り込んでしまったボールペンとチョコレートを拾い集めるが、何気なくその場でぐるりと身体を回転させると、先程踏みつけていったジルベルトのデスクがある列の下を眺めていく。
 「どうしたの?」
 「…なあダニエラ、ジルだけどさ、靴を置いて帰ったのか?」
 「え?」
 リオンが胡座を掻いてまるでヨガか何かのように上体を折り曲げつつデスクの下を指さすと、ダニエラも身体を屈めて指し示されたデスクの下を覗き込む。
 「ああ、あの靴。高いから出勤と帰りの時だけに履いてるって言ってたわね。忘れてしまったのかしら」
 「ふぅん」
 そんなに高級な靴とはどんな靴だと、己が冬の間愛用しているマウンテンブーツを遙か彼方の棚に放り投げて笑みを浮かべたリオンは、デスクの下に手を突っ込んで靴を引っ張り出して来る。
 それはコードバンと呼ばれる革靴で、靴に多少なりとも詳しいものならばどれ程の高級品であるかが一目で理解できるものの、普段格安の量産品のデッキかウーヴェがプレゼントしてくれたマウンテンブーツしか履かないリオンにしてみれば、己の手の中に有るこの革靴の価値などこれっぽっちも理解できなかった。
 だからそんな思いを素直に口にすると、ダニエラが腕を組んで今度ドクに聞いてみろと溜息を吐くが、そんな彼女にそんなものかと口を尖らせるリオンだったが、確かにこれはジルベルトのものなのかと問いを発して手にした革靴を手首を翻して全体を見つめる。
 ウーヴェがいつも履いている革靴を思い出したリオンだが、それが高価なのかどうなのかも分からないと肩を竦めて元あった場所に戻そうとした時、背中を向けていた入口から陽気な声が響いて振り返る。
 「お、普段はふざけているお前だけど、仕事になればやっぱり真面目になるんだな」
 もう重要な手がかりとなる革靴を発見してきたのかと笑われ、一体何のことだと呟きながら立ち上がったリオンは、フランツがディスクとそこから取りだしたのだろう写真を持って来たことに気付いてヒンケルを呼びに行くが、その背中にこの革靴は証拠品だろうと問いかける。
 「へ?証拠品?それはジルが忘れて帰った革靴だぜ」
 「そうなのか?このディスクに映っていた革靴と同じ特徴があるぞ」
 「!?」
 ヒンケルを呼んで顔だけを振り向けていたリオンにフランツが苦笑し、手にしていた数枚の写真をジルベルトのデスクに置いてその横に革靴を置いて腕を組むと、何事だとコニーやブライデマンが集まってくる。
 「どうした、フランツ?」
 「いや、このディスクに映っていた革靴にジルベルトが置いて帰った革靴と同じ特徴がある」
 「何だって?」
 長年鑑識の世界の第一線で働く男の言葉を疑いたくはなかったが、皆の視線の先でフランツが赤ペンを手に取ると、革靴のデザイン的な特徴がある箇所に印をつけていく。
 「フランツ、どういうことだ?」
 「ああ、警部。今リオンから聞いたんですが、このコードバンの革靴、ジルベルトのものなんですか?」
 「そうらしいな」
 リオンに遅れてヒンケルが皆が作る輪の中に割り込んでデスクを見下ろし、たった今付けられた印と革靴を見比べ、確かに似ていると顎に手を宛がう。
 「この革靴、何処の店で買ったか分かるか?」
 「ジルに聞いてみれば良いんじゃないんですか、ボス」
 ブライデマンの言葉にリオンが暢気に声を挙げ、きみに意見は聞いていないと笑うと、俺もあんたに意見を言っていないとリオンが返して頭の後ろで手を組んで口笛を吹く。
 その態度が気にくわないと口早に叫んだ彼にリオンは無言だったが、己の携帯を取りだして登録してあるジルベルトの番号を呼び出すが、聞こえてきたのは呼び出しを繰り返す機械音だけで、10回以上数えても出ない為に舌打ちをして携帯を睨み付ける。
 「リオン?」
 「出ねぇ」
 「病院にいれば出られないんじゃないのか?」
 何しろ危篤の祖父の元に顔を出すと言っていたのだ、病院にいれば携帯に出る事も出来ないだろうとコニーが一般常識的なことを呟くが、俺が掛けているのだから出てくれても良いのにとリオンが口を尖らせる。
 「……ボス、フィレンツェでのジルの滞在先聞いてますか?」
 「ああ、一応メモをくれたぞ」
 そのメモをコニーに伝えて取りに行かせたヒンケルは、この革靴が動画に映り込んでいたものと同じ特徴を有する理由について誰か答えられるものはいないのかと鋭い問いを発するが、今のところ誰も何も答えられないとマクシミリアンが沈痛な面持ちで答える。
 「コニー、そのメモにある連絡先に電話してみろ」
 書かれている住所はフィレンツェのものだったと戻って来たコニーがヒンケルにメモを渡すが、電話を掛けてみろと促されたコニーが受話器を肩と顔で挟みつつ一言発した瞬間、驚愕の表情を浮かべながら動きを止める。
 「……え?」
 ああ、少し声が遠い気がしたんだが、申し訳ない、もう一度言ってくれとイタリア語で告げて返された言葉に絶句するが、慌ててこちらはドイツの地方警察でそちらのメモを預かっていたので連絡をしたが、どうやら悪戯だったようだ、申し訳ないと謝罪をして受話器を置く。
 「どうした、コニー」
 「……警部、この連絡先……フィレンツェの警察署でした」
 「!?」
 ジルベルトの身内は刑事だったのかと皆が口々に話し始め、リオンは何かを聞いていないかと詰め寄られるが、そもそもフィレンツェに祖父がいたことを聞いたのが初めてだと返すと、何か途轍もなく恐怖を覚えるものに気付いてしまった顔でリオンが拳を握る。
 「ボス……、ジルにじいちゃんがいたって話、聞いた事ありますか?」
 「何を言ってるんだ?危篤になったから帰ったんだろう?」
 「でも、確かにあいつはじいちゃんがフィレンツェ出身だとは言ってましたけど、今もフィレンツェに住んでると聞いた事はありませんし、そもそも親の話すら聞いたことありませんよ」
 結構長い時間一緒に働き、仕事を離れれば酒を飲みに行ったりする仲だったが、家族の話を皆目聞いた事が無いと呟き、皆もそうだと頷かれてガリガリと髪を掻きむしる。
 「いくら祖父の危篤と言っても、今休暇を取るだろうか…?」
 今までのジルベルトの勤務実績を思えばあり得ないことだとマクシミリアンが重苦しい口調で告げ、仲間の胸のざわつきを言葉にするとヒンケルが拳を握って舌打ちをする。
 「どういうことだ!?」
 ヒンケルの苛立ち混じりの声に再び誰も返せるものがおらず、休暇を取得したジルベルトが、今までいくつもの事件を共に追いかけて犯人を逮捕して事件を終わらせてきた仲間が別の顔を持っているのではないかと言う疑問が皆の胸の中で泡のように生まれた時、電話が着信を告げて皆が飛び上がりそうなほど驚いてしまう。
 「刑事課です」
 もっとも電話に近かったヴェルナーが受話器を取り、早鐘のように鳴り響く鼓動にうるさいと文句を言いつつ誰からの通報かを記す為にメモ帳を手元に引き寄せた時、受話器の向こうから興奮して何を言っているのか要領を得ない声が叫んでくる。
 「ちょっと待ってくれ、落ち着いて話せ」
 自分は先程通報を受けて出動したメントライン巡査だが、通報を受けたアパートに行ったら死体があったと感情と興奮に震える声が叫び、ヴェルナーも咄嗟に言葉を失うが、スピーカーボタンを押して状況をもう一度説明をしろと半ば叫ぶ。
 『通報を受けて相方のヘンデル巡査と一緒にアパートに向かったところ、男二人女一人の死体を発見しました!』
 「!」
 スピーカーを通してもたらされた情報に部屋にいた皆の顔が強張り、ヴェルナーが死体の特徴はと問いかけると、二人の男は格闘技かスポーツをしていたようで身体が鍛えられていて、どちらも頭部に銃弾を受けたような痕があり、女は離れた場所でうつ伏せになっているが、左手に拳銃を握っていること、顔の判別は難しいほど腫れ上がっていること、部屋のベッド周辺に血が付着して乾いたような紙幣が散らばっているがその紙幣が女の身体にも何枚も付着していることを伝えると、そこは何処だとヒンケルが怒鳴る。
 『…警部?』
 「ああ、そうだ。今現場にいるんだな?」
 『はい。……ベッドの傍に女物の下着やパンプス、スカートがありますが、どれも刃物で切られています』
 ベッド周りには刃物で刻まれたらしいグレーの服と同じ色のスカートや黒っぽいパンプスがあるが、何処かで見た事があるとメントラインが報告をすると、背後から聞き取りにくい声がシスターが着ている服に似ていると告げた瞬間、リオンが舌打ちをして包帯が巻かれた手でデスクを殴りつける。
 「早く場所を言え!」
 「落ち着け、リオン!」
 同僚を脅迫するつもりかとヒンケルが怒鳴ってマクシミリアンにリオンがこれ以上爆発しないようにしろと命じ、その言葉にマクシミリアンが汗を浮かべつつリオンの傍に移動すると、もう一度舌打ちをしたリオンがヴェルナーに任せるように身を引く。
 「イェンス、ご苦労様。コニーだ」
 『お疲れ様、コニー』
 「悪いが現場と三人の顔写真を俺の携帯に送ってくれないか?」
 『今の事件と関係があるのか?』
 「いや、断定は出来ないが、その可能性が高い」
 だからすぐに写真を送ってくれと少し焦った口調で告げたコニーは、一度電話を切ることを伝えて受話器を戻し、ヒンケルとブライデマンを見た後、心なしか呆然としているようなリオンの前に歩いて行き、ぼんやりとする蒼い瞳を見上げる。
 「リオン……」
 「……うん」
 コニーが明確に口にしない真意に気付いたリオンが上の空で返し、多分分かっていると呟いた時、コニーの携帯が着信を告げる音を奏でる。
 皆の視線が集まる中で携帯を取りだし、メールに添付されている写真を見たコニーは、二枚目の写真を見ると同時にきつく目を閉じるが、意を決したように顔を上げてヒンケルに添付写真を見せ、次いでリオンの前に携帯を差し出す。
 「………リオン、確かめろ」
 コニーの言葉にリオンが携帯を見ると、画面一杯にコンクリートの床に突っ伏す彼方此方が腫れ上がっている顔が写し出されていて、青や赤や紫の痣に彩られた顔に一つ溜息を吐く。
 「…………ゾフィーです」
 「!」
 リオンの感情がこもらない声にヒンケルが拳を握って天井を仰ぎ、他の面々もそれぞれ悲痛な面持ちで俯いたりリオンから顔を背けたりしているが、ブライデマンだけはそんな感傷に付き合っていられないと言いたげに鼻で笑う。
 「ゾフィー・ハイドフェルトが見つかったのだろう?ならば現場に行くぞ」
 犯人が死亡しているのは残念だが、これから組織摘発に向けて色々動き出さなければならないんだと呟くと、ヒンケルが皆の思いを代弁するように口を開く。
 「すまないが少しの間黙っていてくれんかね、ブライデマン警部」
 「ヒンケル警部?」
 「あんたにとってはただの犯人かも知れないが、残念ながらここには彼女のことをよく知る人間が少なからずいるんでね」
 あんたの言葉を聞いているとそのうち誰かがあんたを殴り飛ばす可能性があると告げて踵を返したヒンケルは、出動の準備を整えて部屋から出てくると、蒼白な顔になっているブライデマンに一緒に来いと声を掛け、次いで躊躇ったように視線を彷徨わせるが、コニーとフランツを呼び、リオンにはここに残っていろと命じる。
 「マックス、部長と署長に報告をしてくれ。ヴェルナーは監察医のカールに連絡を入れて現場に来いと伝えろ。ダニエラ、フランツが用意した写真とジルベルトの靴を持って購入した店を探せ………リオン、お前は…」
 「……今やってる仕事、それをしてます」
 本当ならば真っ先に駆けつけて彼女と対面したいと思うだろうが待っていろと命じる前にリオンが察し、肩を竦めてここで今自分がやっている仕事を仕上げることを告げると、皆の顔が見渡せるように距離をとり、自分を見つめる顔を一人ずつ見た後、ゾフィーを、俺の姉をお願いしますと顔を伏せる。
 「ああ」
 「彼女を迎えに行くとするか」
 「……コニー、あいつ裸だからさ、これ、渡してやってくれねぇか?」
 極力平静を保とうとするコニーにリオンが感謝の思いを抱きながらシャツを脱いでコニーに手渡すと、すべての思いを察した彼が黙って受け取ってリオンの肩をぽんと叩く。
 「警部がいないからといって仕事をさぼるんじゃないぞー」
 「ちぇ。ばれなきゃ良いなと思ったのになー」
 コニーの言葉にリオンが返して肩を竦め、さすがにタンクトップ一枚では寒いから服を取ってくると宣言して部屋を飛び出す。
リオンが出て行くと同時に皆の顔が険しいものになり、それぞれが悔しさや哀しさを胸に抱えつつ、命じられた仕事に力を注ぐ為、今まで以上に気合いを入れるのだった。

     

 ヒンケル達が出動した後、自らの宣言通りに事務仕事に勤しんでいたリオンだったが、その脳裏では昨日の動画の見るも無惨なゾフィーがか細い声で助けを求めていて、その声に身体が無意識に反応を示すが、仕事をしていなければならないという思いがその助けを掻き消す。
 生まれた直後にゾフィーに拾われてから、いつもリオンの傍には彼女の存在が当然のようにあり、その存在が無くなるという現実が実感出来ずにいたリオンは、刑事になる夢を叶える為に警察に入った直後にホームを出て一人暮らしを始めたが、その時でさえもホームに帰ればゾフィーとマザー・カタリーナがにこりと出迎えてくれていて、いつでも帰って来ても良いと言葉と態度で教えてくれていた。
 その彼女が、そこにいることが当然だったゾフィーがいなくなってしまう、その現実が不意に、文字通り唐突にリオンに降りかかり、包帯が巻かれた手を握りしめて拳をデスクに叩き付ける。
 確かにゾフィーは人身売買という罪を犯した。だが、その罪を償うために命を落とさなければならないのか。罪の償いは命を賭けてするものではなく、己の過ちを認めて更生することではないのか。
 その更生の機会を与えられずに死んでしまったのだと気付き、堪えきれない思いが胸に溢れて呼吸を止めてしまう。
 ゾフィーは死んだのではなく、少し出掛けているだけではないのか。自分を一人にしてゾフィーが死ぬはずはない。
 その思いに囚われたリオンの呼吸が早くなり、正常な呼吸がどんなものであったかを思い出せなくなった息苦しさに拳を胸元に宛がってシャツを握り、目眩や手足の痺れすら感じるようになって小さな呻き声を上げると、ダニエラがそれに気付いて蒼白な顔で駆け寄りリオンの背中を撫でてマクシミリアンを呼ぶ。
 「……っ…ァ…」
 「リオン!?」
 署長と部長に報告に行ったマクシミリアンが戻って来た途端に蒼白な顔でダニエラに呼ばれて駆け寄ると、リオンがデスクに手を着いて上体を折り曲げながら苦しそうに目を見開いていたが、胸に手を宛がった直後、そのまま床に崩れ落ちる。
 「リオン!」
 健康優良児で病気らしい病気などしたことがない、頑丈さだけが取り柄だとヒンケルにもからかわれる程丈夫なリオンだった為、こんな風に倒れることなど今まで経験が無く、ダニエラとマクシミリアンが大声で名を呼んだ為、周りにいた刑事達も何事だと顔を見せ始める。
 「誰か、仮眠室に運んで!」
 刑事達の中でも大柄の部類に入るリオンをダニエラとマクシミリアンの二人で運ぶのは実質不可能で、騒ぎを聞きつけて部屋に入ってきた制服警官達にリオンを階下の仮眠室に連れて行ってくれと頼み、マクシミリアンがリオンの状態について部長に報告する為に部屋を飛び出し、ダニエラが運ばれるリオンを目で追いかけながらヒンケルに報告をする。
 ダニエラの報告を受けたヒンケルはかなり驚いていたが、彼女があることを提案してヒンケルの了承を得た為、ダニエラは今度はリオンの携帯を使ってウーヴェに連絡を入れる。
 警察でも当然ながら負傷者が出たりした際には医者の手を借りるが、警察と契約している医者では恐らくリオンの心の深い場所の傷まで見抜けないことを察し、それならば公私に渡ってリオンの傍にいるようなウーヴェを呼んだ方が良いと判断した彼女は、通話に出たウーヴェの声がいつも自分たちが耳にしているものとは若干違うことにも気付かず、口早に名乗ってリオンが大変だと小さく叫ぶ。
 『…ダニエラ?落ち着いて話してくれないか?』
 リオンが大変だと今聞こえたが一体何があったんだと、聞いているダニエラの気持ちを落ち着かせるような穏やかな声で問われて深呼吸をした彼女は、たった今己が目の当たりにしたリオンの様子を告げながら仮眠室に向かい、とにかく今すぐ来て欲しいと悲痛な声で頼むと、暫く沈黙が流れたあとにもう一度リオンの現状を伝えてくれと言われ、ベッドに寝かされたリオンを見下ろしながらなるべく正確に状態を伝える。
 過呼吸の症状に似ているから紙袋があればそれで口を覆えば良い、無ければハンカチかタオルなどでも良いから、自分がそちらに向かうまで対処していてくれと冷静に命じられた彼女がハンカチを取りだしてリオンの顔に被せ、荒い呼吸を繰り返すリオンにすぐにウーヴェが来る事を伝える。
 『すぐにそちらに向かう』
 「お願い、ドク!」
 いつも元気で闊達なリオンがこんなにも苦しんでいる姿など誰も見たことがないし、また見たいとも思わないと叫んだダニエラは、蒼白な顔に汗をびっしりと浮かべながら苦しそうに息を吐くリオンの名を呼び、駆けつけた部長とマクシミリアンに手短に事情を説明する。
 いくら非公式に協力関係にあるとはいえ民間人であるウーヴェを呼ぶことはさすがに部長もいい顔をしなかったが、ヒンケルが目に掛けている部下が苦しむ姿を目の当たりにすると無碍にも出来ず、ダニエラに後を任せると言い残して仮眠室を出て行く。
 くどくどと何も言わない部長に今は感謝をし、とにかく早くウーヴェが来てくれることを願い、苦しそうに肩を上下させるリオンを心配そうに見守るのだった。

     

 ゾフィーと二人の男の遺体を運び出させたヒンケルは、沈痛な面持ちで近寄ってくる監察医に溜息ひとつで返事をし、問題児に何かあったのかと問われて煙草に火をつける。
 「……リオンが倒れたそうだ」
 「倒れた?あの超がつくほど健康優良児のリオンが?」
 リオンが倒れた、その言葉がコンクリートの壁に反響し、コニーとブライデマンが顔を見合わせた後、ヒンケルの前に駆け寄ってくる。
 「リオンが倒れたってどういうことですか?」
 「詳しくは分からないが、ダニエラが気付いた時には呼吸が異常に多くてかなり苦しそうだったようだ」
 「過換気症候群の可能性が高いな」
 今まで過呼吸を疑わせる症状も出ていなかっただろうし、今回の事件で過大なストレスが掛かっていたはずだとカールもヒンケルから貰った煙草に火をつけて息を吐くと、コニーが心配そうに眉を寄せる。
 「ダニエラがドクを呼んだそうだ」
 「ドクを?……じゃあ大丈夫ですね」
 「ドク?親しい医者でもいるのか?」
 ウーヴェとリオンの付き合いを知らないカールが当然の疑問を投げ掛けると、ヒンケルが素っ気なく頷いたためにコニーが肩を竦めて親しい友人だと説明をする。
 「リオンの親しい友人で医者?名前は?」
 もしも何処かで出会えばそれをネタに親しくなれるだろうし、親しくなればリオンをからかうネタを仕入れられると笑うカールにコニーが溜息をひとつ吐いてバルツァーだと告げると、カールの目が軽い驚きに彩られる。
 「ウーヴェ・バルツァーがリオンの友人?それはそれは考えられない取り合わせだな」
 「何だ、カールはドクを知ってるのか?」
 「ん?ああ、アイヒェンドルフ先生の秘蔵っ子で有名だったからな」
 同じ病院で働いた事はないし、医師会の会合にも滅多に顔を出さない為に直接話をする機会はほとんど無かったが、彼の恩師が自分にとっても影響のあった医師であるし、それにバルツァーの社長とは親しいと肩を竦めると、一介の監察医が世界規模の企業の社長をしているウーヴェの兄と面識があるのかと今度はヒンケルらが驚く。
 「…ビリヤード仲間だ」
 「意外なところで繋がってるもんだな、カール」
 「ああ」
 とにかく直接の知り合いではないが、周囲の評判からしても腕は悪くないと判を押したカールは、運ばれていったゾフィーらの解剖を行うが、針の穴ほどの傷まで見逃さずに調べてやると告げて手を挙げると、ヒンケルが重苦しく頷く。
 「頼む」
 「ああ」
 長年の信頼関係で素っ気なくても通じる思いを感じ取ったヒンケルは、コニーとブライデマンに溜息を吐くが、ふと今朝から顔を見ていない男の顔を思い出す。
 「ブライデマン警部、ロスラーは何処に行った?」
 「警部がフランクフルトの事件を洗い直せと命じたのではないのか?」
 「何だと?」
 ヒンケルの疑問の意味が分からないとブライデマンが目を瞠って言葉を返すと、ヒンケルの眉がくっきりと寄せられて誰がそんな命令を出したと顎に手を宛う。
 「昨日遅くにロスラーから連絡があったが、フランクフルトに戻ってヴェラの件をもう一度洗い直せとヒンケル警部に命じられたと言っていたぞ」
 「誰もそんな命令はしていないぞ」
 そもそもフランクフルトで殺害された少女の事件は、姉妹で関連があると言ってもこちらから人を派遣したりしていないことを吐き捨て、ロスラーは何をしているんだと苛立ちを全開にして怒鳴ったヒンケルは、フランクフルトの担当者に連絡を取ってロスラーの居場所を確かめろとコニーに命じ、姿を消したロスラーに苛立ちをぶつけるように舌打ちをするのだった。 

 

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2013/05/20


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