Die Familie -14-

 土砂降りの雨の中、レオポルドは周囲に迷惑になりそうな速さで車を走らせていた。
 彼の耳の奥底で響いているのは、二年近く前に家出をした長男、ギュンター・ノルベルトが女と乳児を伴って帰ってきていると言う、慌てふためいたヘクターからの電話の声だった。
 その報せを受けたときレオポルドは大切な会議の最中で、抜け出すことなどは出来ないと突っぱねたものの、ヘクターとハンナ夫妻に代わる代わる電話口で説得され、仕方なく信頼している重役に任せて会社を飛び出したのだ。
 二年近く前に家出をした息子を必死になって捜していたが、見つからない苛立ちと過去の己に対する後悔から目を背けるように警察に任せ、後は今まで通りに仕事にかまけていた。
 その態度がすべての元凶なのだが、それに気付きつつも認めたくない一心で今まで以上に仕事へと全力を傾けていた彼は、自宅の大きな門を潜って屋敷へと続く一本道を猛スピードで進むと、屋敷の正面にある噴水前でヘクターとハンナが帰りを待ちわびている様子で立っているのを発見する。
 『ギュンターはどこだ!』
 『旦那様、落ち着いてください、お願いします』
 レオポルドの剣幕を恐れつつも落ち着いて欲しいと繰り返すヘクターに足を止め、苛立たしさを隠さないで頭を掻きむしるが、ハンナに前掛けを握りしめながら涙を浮かべた目で見つめられて溜息をつく。
 『・・・興奮して悪かった』
 『ありがとうございます、旦那様。ギュンター様は今奥様と一緒にお部屋におられます』
 『リッドと一緒にいるのか?』
 ヘクターの言葉に軽く驚いたレオポルドは、今日は観劇に行く予定ではなかったかと、今朝出勤する前にハンナから教えられた予定を問いただせば、家出をしていた長男が帰ってきたことを知って予定をキャンセルしたことを教えられて再度溜息をつく。
 ギュンター・ノルベルトが生まれた頃は仕事にも家庭にも力を注いでいたが、次子のアリーセ・エリザベスが生まれたときには仕事に全力を注いでいたため、生まれた娘の名前すらロクに考えることをしなかった。
 そんな夫の家庭を顧みない態度に妻も愛想を尽かすのも当然と言えば当然で、生後間もない娘と5歳離れた長男の世話をヘクターやハンナらといった家人に任せたかと思うと、日夜観劇や旅行などで家を空けることが多くなっていた。
 そんな妻が家で息子が戻ってきたという報せに予定をキャンセルしたことに驚きつつ、己も会議を放り出して戻ってきたと自らを笑うが、ヘクターとハンナの視線から非難されていることに気づき、厳めしい顔に険しさを浮かべて二人を見る。
 『旦那様、差し出がましいとは思いますが・・・』
 そう前置きをしてヘクターが語ったのは、本当ならば戻って来たくはなかったが、生後間もない息子と妻を守るために今頼れるのが実家しかないと悔しそうに語ったギュンター・ノルベルトの言葉で、自分にもっと力があれば父や母の力を借りずともすんだのにと、拳を握る息子の様を伝えられたレオポルドは、怒りは分かるがどうか今は戻ってきたことを受け入れて欲しいと懇願され、ハンナも涙を拭いながら己の夫の言葉に何度も頷く。
 『・・・・・・受け入れるかどうかはあいつと話をしてからだな』
 『旦那様・・・』
 『お前たちの言葉だから聞くが、どうなるか分からんぞ』
 二年近くも音信不通の息子だが、それ以前から顔を合わせてもロクに口をきくこともなく、また話をしたとしてもすぐに口論になっていたのだ。穏やかに話し合いが出来るとも思えないと溜息混じりに呟くレオポルドに、話し合いをすることがまず大事だとヘクターが頷きながら歩き出した彼の後に付いていく。
 長い廊下を進んで南に面したリビングのドアを勢いよく開けたレオポルドは、ドアが開いたことでソファから立ち上がった息子と、その横で緊張気味に乳児を抱く少女を発見し、大股に近づいていく。
 『・・・・・・・・・・・・』
 今までどこにいた、二年近くも何をしていた、どれほど迷惑を掛けたと思うんだと息子を詰るような言葉が喉元まで出かかるが、ソファからじっと見つめてくるイングリッドの視線に籠もる思いと先ほどのハンナの顔が言葉を押しとどめたため、一つ溜息を吐いて息子を見る。
 家を出る前は思春期特有の親に対する反抗を顕著に表していた顔は、少しでも世間の荒波に揉まれたからか、少年の殻を脱ぎ捨てて男への階段をしっかりと上っていることを表すように精悍なものになっていて、それだけでも軽く驚きを覚えてしまうが、瞳に浮かぶものが男として、夫として、そして父親として己と対等だと物語る強い光だったため、開き掛けた口を閉じて再度溜息を吐く。
 『・・・・・・そんなところに立っていないで座ればどう?』
 父と息子の対面に冷たい声が投げかけられ、二人の男がそちらに顔を向けると、ハンナにお茶の用意をするように命じていたイングリッドが二人にもう一度座ればどうだと促したため、向かい合うようにソファに腰を落とす。
 たった二年という短い時間でここまで顔付きが変わるのかという驚きと、父親になったらしい自覚がまだ十六歳の子どもに芽生えたためだろうかとの疑問を抱きつつ、睨み合うような強い眼光で息子を見た父の口から発せられたのは久しぶりだなと言う、周囲の者からすれば驚きの穏やかな言葉だった。
 『・・・・・・久しぶり、です』
 家を出る前までならば父が語りかけても息子が返事をすることはなく、ただ反抗期特有の目で睨み返すだけだったが、途切れてはいても返事をした息子に父が頷き、そんな息子の腕に縋るように身を寄せる少女へと視線を向けると、イングリッドが溜息を零しつつギュンター・ノルベルトの妻と息子だと答える。
 『妻と息子?』
 十六歳ではまだ結婚は出来ない筈だと妻を見れば、結婚という正式な形を取ることは出来なくても家族にはなれると息子が返し、レオポルドが二人の子どもの顔を見る。
 少女はこの後何が起こるか分からない不安から蒼白になり、その不安が隣にいるギュンター・ノルベルトにも伝わっていて表情は硬かったが、その時、少女が抱いていた乳児が泣き声を上げる。
 親の不安を感じ取ったようなそれに少女よりもギュンター・ノルベルトの方が素早く反応し、少女の手から己の息子を抱き上げると不慣れながらも何とか泣き止まそうとする。
 『その赤ん坊は・・・・・・』
 『12月に生まれた息子のフェリクスだ』
 何も心配することはないと、ようやく首が座ってきた息子に笑いかけ、表情を変えて己の父に返事をしたギュンター・ノルベルトだったが、フェリクスと名付けた息子が泣き止みつつあるのを察し、不安そうにじっと見つめて来る彼女の肩を抱き寄せる。
 『・・・・・・迷惑をかけていることは分かっている』
 本当ならば頼りたくはない、でも悔しいが大人の力を借りなければ自分たちは生きていけないのだと心底の悔しさを顔に滲ませながらギュンター・ノルベルトが父を見つめれば、レオポルドが短く整えた髪を掻きむしる。
 『・・・で、お前は何を望んでいるんだ?』
 二年もの間音信不通になった挙げ句、どこの誰とも分からない女に手を出して子供まで産ませたお前はいったい何を望んでいるんだと当然の問いをレオポルドが発すれば、ギュンター・ノルベルトが泣き止んだ息子から力をもらうように額にキスをする。
 『力を貸してほしい』
 『力?』
 『ああ。今の俺では二人を養うのは無理だ。それにやりたいことも見つかった。それをする為に力を貸してほしい』
 『随分と都合の良いことばかりを言っているな』
 勝手に家を出て子どもを作ってきた尻ぬぐいをしてくれという、どこまで甘えているんだと父が笑えば今まで黙ってみていた母が窘めるように名を呼ぶ。
 『・・・・・・レオ』
 『悔しいけどその通りだと思う。家を出て初めて自分がまだまだ何も世間を知らないガキだと気づいた』
 ただ、そんな愚かな自分にも守るべき存在が出来たのだと、父となった息子が今まで正対することを避けていたような己の父と正面から向き合い、同じ男で父ならば理解できるだろうと静かに問いかけてレオポルドの目を見開かせる。
 『二人を守るためにあんたに・・・父さんに頭を下げなければならないのならいくらでも下げる。どんなつらいことでも耐える』
 甘えていることも都合のいいことを言っていることも承知しているが、その上で父さんと母さんの力を借りたい、どうか自分の家族を助けてくれと、息子を膝に抱いたままレオポルドに向けて静かに頭を下げたギュンター・ノルベルトの姿に隣で少女が息をのみ、頭を下げられた父と母も息子の変化をただ驚きを持って見守ってしまう。
 息子の変化は喜ばしいものだったが、ただそれを手放しで喜べるかと言えばそうでもなかった。
 ギュンター・ノルベルトが家に帰ってくることは良いが、彼が妻と称している少女-どう見ても彼と同年代に見えた-や、十二月に生まれたという乳児のことなど、考えなければならない問題はいくつもあった。
 子供を育てるというのは犬や猫を飼うのとは違うというのを理解しているのかと静かに問いかけたレオポルドは、分かっている、自分の力だけではそれが出来ないことも分かっているから、せめてこの子が基礎学校に入学するまで力を貸してほしいともう一度頭を下げられて腕を組んで嘆息する。
 『・・・・・・あなたのその言葉が本気かどうか、わたくし達に見せなさい』
 『リッド?』
 『その子のために本当に何でもするのか、どんな嫌なことでも耐えるのか。それをわたくし達に示してからどうするか決めれば良いのでは?』
 今まで黙って夫と息子の話を聞いていたイングリッドの提案に二人がそれぞれ彼女の顔を見ると、彼女はハンナが用意してくれていたお茶を一口飲んで小さなため息をつく。
 『ギュンターだけではありません。そちらの彼女にも同じく本気を見せていただきたいですわ』
 『え、それは・・・・・・』
 『ギュンターは貴女を妻と思っている。貴女もギュンターを愛しているのでしょう?ならば夫婦一緒に同じ苦しみを乗り越えていけるのではなくて?』
 愛する人の母からの言葉に少女が不安げにギュンター・ノルベルトを見つめると、そんな妻を安心させたいからか、太い笑みを浮かべて少女の肩を抱く。
 『もちろん、二人で頑張る。な、ジーナ』
 その言葉にジーナと呼ばれた少女の顔に不安と不満が一瞬で浮上し不信感となって視線に宿るが、それに気付かなかったのかどうなのか、ギュンター・ノルベルトが少女の肩を抱く手に力を込める。
 その様子を見守っていたイングリッドがまるで先を見越したかのように小さく溜息を零すが、レオポルドとこれからのことについて話をするから部屋に行けと促され、胸に芽生えた靄を抱えたままギュンター・ノルベルトは少女と息子を抱いて部屋を出る。
 『・・・・・・レオ』
 出て行く息子の背中を腕組みのまま見送る夫に呼びかけたイングリッドは、自分の思いは伝えたがあなたはどうだと問いかけると、レオポルドが溜息をついて髪を掻きむしる。
 『あいつらの本気など、ひと月持つかどうかだろうな。愛しているだの妻だのと言っても夢を見ているだけだ』
 それでも見守っているのかと問われた彼女は、お茶を飲みながら静かに首を上下に振る。
 確かに夫が言うように、まだまだ子どもの域を出ない二人が乳児を育てる苦労に直面した時、協力し合ってそれを乗り越えられるとは思えなかった。
 子どもが子どもを育てることなど出来るはずがないと穏やかに断言すれば、本気を見せろと提案をしたのは何故だとレオポルドが問うと、イングリッドが目を伏せる。
 『あなたもわたくしも、ギュンターにとってはいい親ではないわ』
 『・・・・・・そうだな』
 レオポルドは軌道に乗り始めた会社経営が面白く、寝食も惜しんでただ会社を大きくすることに意識を向けた結果、家庭を顧みなくなり、そんな夫に妻は愛想を尽かしたように観劇だパーティだと出歩くようになったために二人の子どもの世話は全幅の信頼を置いているヘクターとハンナに任せきりになり、子ども達が何を考え親に何を求めているのかを察しようともしなくなった。
 その結果がギュンター・ノルベルトの家出であり、同級生の女子を妊娠させて出産させたと言う事実だと、声に小さな反省を込めて彼女が呟くとレオポルドも何も言い返さずに目を伏せる。
 家族の関係としては破綻しかけているのだと苦く笑う彼女にレオポルドも口を閉ざすが、妻の顔に何かしらの決意の色が浮かんだように感じて眉を開くと、たおやかな白い手が同じく白い頬に宛がわれる。
 『でも、わたくし達はわたくし達なりにいろいろな出来事を乗り越えて来た』
 例え、出逢った頃のあの思いを忘れてしまったような関係になっていたとしても、それでもわたくしはあなたを愛しているし、子ども達を大切だと思っているが、この思いを口にしたところで信じてもらえないだろうから、自ら子育てをする最中に気付いて欲しいと告げたイングリッドは、目を見張る夫に若い頃と全く変わらない笑みを浮かべて夫をさらに驚かせる。
 『わたくし、こう見えてもまだまだあなたを愛しているのよ、レオ』
 妻の告白に照れたようにそっぽを向いた辣腕実業家は、咳払いを一つすると同時に立ち上がり、随分久しぶりだと思いつつも妻の横に腰を下ろすと、いつまでも変わらない細い身体がそっと寄り添うように寄せられる。
 『・・・・・・あー、なんだ。・・・あいつらの頑張りを少し見守るとするか』
 『ええ、そうですわね』
 息子一家がどのような道を歩むのかを間近で見守ろうと二人が頷き合い、ギュンター・ノルベルトが妻と息子を抱いて出て行ったドアを静かに見つめるのだった。

 

 リビングを出て己の部屋に向かおうとしたギュンター・ノルベルトは、両親に己の妻と紹介した少女、レジーナが袖を引っ張って引き留めたことに気付き、息子を抱いたまま彼女の顔をのぞき込む。
 『どうした?』
 『ね、フェリクスを育てるのに助けが要るのならマリアを頼ろうよ』
 どうしても大人の力を借りなければならないのなら、私の姉に頼ろうと詰め寄られ、ここであなたと二人で子どもを育てる自信がないとも告白されたギュンター・ノルベルトは、彼女の口から出たマリアという姉のことを思い浮かべる。
 彼女の年の離れた姉はどんな仕事をしているのかまでは不明だったが、定期的に家に戻ってきてはレジーナにとっては大金を持ち帰り、またしばらくすると家を出て行って何日間も帰ってこないような暮らしをしているそうだが、ギュンター・ノルベルトの本能が危険だと警告を発していた。
 育児を使用人に任せて遊び歩いているような最低な-子どもの立場からすれば-両親だが、その二人と家にやってくる二人の友人知人などから感じ取るものと、レジーナの話から感じ取ったものとは開きがあり、そこからギュンター・ノルベルトはできる限り近づかない方が良いのではとの危機感を得ており、彼女がなおも姉に頼ろうと詰め寄るのに口を閉ざす。
 『ねえ、ギュンター、そうしましょう』
 マリアならばきっとこの子を育てる力を貸してくれるだろうし金銭的な事も問題ないと必死になる妻に何故か素直に頷けず、どうだろうと呟きながら腕の中で不安そうに-彼には見えた-見つめて来る息子に何とか笑いかけ、心配しなくて良いと額にキスをする。
 『ジーナ、その話は部屋でしよう』
 『でも、ギュンター・・・・・・』
 どうしても今すぐここから一緒に姉の元に行くと言って欲しいと今にも泣きそうな顔で詰め寄られて困惑したギュンター・ノルベルトは、何とか彼女を説得しようと試みるものの、レジーナの中ではここを出たいという意思は強いようで、彼の説得を端から聞き入れようとはしなかった。
 出て行かずにここで育てる、嫌だ、出て行って姉に頼もうと押し問答のようなやりとりを廊下で繰り広げている時、子どものものだが子どもらしさのかけらも無い冷たさすら感じる声がギュンター・ノルベルトの背中に投げかけられる。
 『・・・・・・何を騒いでいるの?』
 その声にその場にいた全員が振り返り、一人は懐かしさと後ろめたさを浮かべ、一人はただ目を丸くして声の主を見るが、そこにいたのは、声同様年相応に見られることの少ない少女だった。
 『アリーセ様、お帰りだったんですね』
 『今帰ってきたの。ハンナ、何か食べたいわ』
 『今日はケーゼクーヘンをご用意いたしましたよ』
 ハンナが少女に笑顔でおやつの用意を伝えると、彼女の顔に一瞬だけ年相応の子供らしい笑みが浮かび上がるが、じっと見つめてくるギュンター・ノルベルトと見たこともない年上の少女を見たときにはその笑みも消え去っていた。
 『久しぶりだな、アリーセ』
 『帰ってきたの?』
 こんな家に一時でもいたくないと言って家を飛び出したくせにもう帰ってきたのかと、二年近く前に家を飛び出した兄を冷たく糾弾した妹は、以前のように誰に対しても冷たく笑う兄の顔を想像していたが、その兄が乳児を抱いていることに気付き、少女の頃からすでに整っている顔立ちを歪める。
 『それは?』
 兄の腕の中にいる乳児に対し、それと呼びかけたことに鋭い反応をしたのはレジーナで、私の子供をそれなんて言わないでと言い放つと、ギュンター・ノルベルトの腕から抱き上げ、今度はここで頼れるものが息子しかないと言うように抱きしめる。
 周囲の急激な変化に驚いた乳児が盛大な泣き声を上げると、アリーセ・エリザベスがうるさい、迷惑だから黙らせてと吐き捨てる。
 『アリーセ様・・・』
 『その人は誰?どうして私の家にいるのよ』
 彼女の疑問は当然のもので、それに対してハンナが説明をしようとアリーセ・エリザベスと視線の高さを合わせるように腰をかがめるが、そんな彼女の背中にそっと手を置いたギュンター・ノルベルトが妹の前に膝をついたため、皆が驚きに目を見張る。
 『アリーセ、話を聞いてくれ』
 『・・・何の話?』
 妹とこうして面と向かい合ったことはあったが、彼女の心を読むために、また己の本心を伝えるために向き合ったことが今まであっただろうかと彼の脳味噌の片隅が思案するが、それに羞恥を覚えてしまい口を閉ざしてしまえばきっと妹は己の息子をそれとしか呼ばないだろうことを感じ取っていたギュンター・ノルベルトは、ちゃんと説明をするから聞いてくれと本心からの言葉を伝えると、兄のそんな様子に何かを察した妹がきゅっと口を結んで小さく頷く。
 『二年前、お前の言うとおり自由になりたくて家を飛び出した』
 ここを飛び出せば自分は自由で好きなことが出来ると思っていたし、またその通りだったが、それに気付くと同時に今まで好きにさせてもらっていたことにも気付いたと自嘲したギュンター・ノルベルトの横顔は十六歳の少年には見えないほど落ち着いていたが、それとは違った意味で十歳には見えないアリーセ・エリザベスが兄の変化を敏感に感じ取り、次の言葉が出てくるのを待ち構える。
 『・・・今俺が抱いていたのは俺達の息子だ。名前はフェリクス。イブに生まれた』
 『あなたとその女の子供?』
 『ちょっと、その女なんて言い方しないでよ!』
 『・・・うるさいわね。名前を知らないのだから仕方ないでしょ』
 『アリーセ、彼女はレジーナだ』
 『ふぅん。でもどうでも良いわ、そんなの』
 そこにいる女の名前などどうでも良い、私が気になるのはそこで今うるさく泣いている子供がこれからここに住むのか、ギュンターは帰ってくるのかということだけだと言い放ったアリーセ・エリザベスは、これからしばらくは親子三人で一緒にここに住むと教えられると青っぽい緑の瞳を限界まで見開くが、次いで体が震えてしまいそうな冷たい目でレジーナと泣き止まない乳児を睨み付ける。
 『どうして泣くだけしか能がない子供とその女も一緒に住むのよ。ギュンターだけ帰ってくればいいでしょう?』
 アリーセ・エリザベスの言葉にレジーナが顔色をなくして涙を浮かべるが、そんな彼女の腕から息子をそっと抱き上げ、確かに今は泣くだけしか能はないが、それが子供の仕事であり本能なのだと、妹の痛烈な罵倒にも以前と違う己を見せるように息子の頬にキスをしたギュンター・ノルベルトは、自分が愛する女性とその彼女の間に出来た息子を認めてくれなくても良いが、ここにいることだけは許してくれと、己のためには決して使うことのなかった言葉を穏やかに妹に告げると彼女の目がもう一度見開かれるが、唇をかみしめた後、ただおろおろしながら様子を見守っているハンナの前掛けを無意識に握りしめる。
 その行為は彼女が思い通りにならなかったり悔しい思いをしたときに無意識にする行動だったが、妹がそう感じているのを察した兄は、己の言葉ではうまく説明も説得も出来ないことを痛感し、今ここにいる大人に任せた方が良いとも気付いて立ち上がる。
 『ヘクター、ハンナ、アリーセのことを頼んでも良いか?』
 『え?ええ、ええ、もちろんです、ギュンター様』
 妹への説得を親代わりの二人に託し、怒りと不満を顔中に広げるレジーナの肩を抱いて自室に向かう事を告げてその場を立ち去るのだった。

 

 部屋の中の空気が重苦しいものに変化した事に気付いたリオンは、居心地が悪そうに尻をもぞもぞさせてしまい、恋人の父と兄に落ち着きが無いと睨まれてしまう。
 「・・・・・・いや、だってさ、・・・」
 リオンの言い訳じみた言葉に、普通はこの手の話を聞かされたときは深刻な顔をするものだとギュンター・ノルベルトがため息をつくが、深刻にしたいが自分にとってこの手の話は路傍の石のように周囲にあって当然のものだったから、当時の親父とムッティの苦労が今なら理解できるし、兄貴がとった行動もレジーナが不安や不満を訴える気持ちも理解できると頭に手をやると、お前に分かるのかと二人から睨まれてしまう。
 「や、俺自身は運が良かったけど、マザーやゾフィーがそのことで駆け回ってるのも見てきたしなぁ」
 レオポルドやイングリッドが息子夫婦を見守る決意をしたことも分かるし、反発していた親の力を借りることなど本当はしたくないが自身の非力さを痛感しつつも戻ってきた兄貴の気持ちもなんとなく分かるが、一番理解できるのはこの家で頼るものがギュンター・ノルベルトしかいない中での子育てに対する不安を抱いていたレジーナだと告げながら組んだ親指をくるくると回転させたリオンは、目を見張る二人を交互に見つめながら無意識に指を回す。
 「姉がいるんだからそっちに頼りたいって思うのは当たり前だよな」
 しかも姉妹の仲は良かったようで、ならばなおさらだと肩を竦めるリオンにギュンター・ノルベルトが今度は目を細めるが、思いを口にすることはなかった。
 「レジーナ達の出身地区には何度も遊びに行ったことがあるけどさ、あそこも俺が育った地区と大差ないヒドさだったしなぁ。あんなところで子どもを育てりゃどうなるか、そりゃあ兄貴も不安になってここで育てたいって押し切るよな」
 当時のギュンター・ノルベルトの不安を見事に推し当てたリオンに彼の目が限界まで見開かれるが、次いで呟かれた言葉に一度口を開くが何も言えずに閉ざしてしまう。
 「でも、レジーナにとっては自慢で頼れる姉だったし、そこが生まれ育った世界だったんだ」
 自分が生まれ育った世界が一般的にスラムと称される環境の良くない地区であったとしてもそこで暮らしていく以外になく、またその中で金を稼いで衣食住を与えてくれる姉が自慢に思えても仕方がないと、己の環境と比べているかのような声でひっそりと呟いたリオンは、ウーヴェには滅多に見せることのない暗い自嘲の混ざった笑みで、己がいた世界の遙か彼方雲の上にいる二人に笑いかける。
 「住む世界が違うってのを当時のレジーナは痛いほど感じてたと思うぜ」
 ウーヴェと出会った頃の自分のように、己の出自と比べれば眩しすぎて直視できないほどの世界で生きてきたギュンター・ノルベルトの世界に足を踏み入れた彼女は、きっとものすごく不安だったしコンプレックスを刺激されて辛かっただろうと肩を竦める。
 リオンとしては別に当時のギュンター・ノルベルトの行動を責めるつもりもなかった。ただあの当時感じていたものをまざまざと思い出したギュンター・ノルベルトの顔が一瞬だけ赤みを増すが、次いで冷静さを取り戻そうとするように長く息を吐く。
 「お前に何が分かる?」
 「んー、正直な話、俺に分かるのは当時のレジーナの不安だけだな」
 だから兄貴が本当はどんな思いでここに帰ってきたのかまでは分からないと肩を竦めるリオンを睨んだギュンター・ノルベルトだったが、そのリオンが一転して表情を真剣なものに切り替えたことに気付いて瞬きをする。
 「・・・レジーナがここにいたのはひと月ほどじゃねぇの?」
 二人そろって本気を見せろと言われたが、彼女の我慢の限界はひと月程度じゃなかったかと問うとレオポルドが舌打ちをしつつ頷くが、その横顔は思い出したくないと言いたげな苦々しさを伴っていて、この時の出来事がウーヴェの人生や家族との関係をがらりと変化させたあの事件に繋がるのだと気づき、手を組み替えて軽く握る。
 「その時に親父が生まれて間もないオーヴェを金で奪い取ったってことか」
 「・・・その言い方は腹が立つが、結果的にそうなったのだからそう言われても仕方がないな」
 レオポルドの眉がきつく寄せられ不満を顔中に浮かべるが、そう非難されても仕方のないことを己はしたのだと自嘲すると、彼女にしてみればそうかもしれないとリオンが頷く。
 「子どもは母親と三歳ぐらいまでは一緒にいるべきだって考えが今でも通ってるからなぁ。それにレジーナにしてみればここにいる人間で血の繋がりがあるのはオーヴェだけだったし」
 心理的に頼れるもの-どちらかと言えば縋れるもの-は息子だけで、最も頼らなければならないしまた頼れるはずなのはギュンター・ノルベルトだったが、この時彼女の胸にあった劣等感や苦痛などが彼には理解できないことを痛感していたはずで、それ故にひと月も保たずに家を出たのだろうと肩を竦めるリオンの言葉にギュンター・ノルベルトもレオポルドも先ほどから反論や同意の言葉を口にすることが出来ないでいた。
 今まで自分たちが見聞きしてきたリオンの言動からすれば、あの当時の自分たちには正確に察することの出来なかった彼女の心をまさか読み取れるとは思わず、その驚きにリオンを凝視してしまうが、見られている本人は二人が意外に感じていることに気付いていないのか、首や肩の凝りをほぐすように肩を上下させたあと、小首をかしげて天井を見上げる。
 この家を出て行くことになった直接の理由は分からないが、ウーヴェを置いていく条件が付けられ、そこに口止めか慰謝料かはたまた手切れ金かは分からないが、なにがしかの金銭の授与があったのだろうとくすんだ金髪を掻きむしると、レオポルドとギュンター・ノルベルトが顔を見合わせる。
 「・・・彼女は、お前が言うようにここでの暮らしには耐えられないと毎日言っていた」
 ギュンター・ノルベルトの目が遠い昔を思い出すように細められ、悲しいことに一緒に頑張ろうと決めた約束はひと月もたたずに破られてしまい、出て行く時にこれもまたお前が言うとおり、彼女に纏まった金を手渡す代わりに子どもには二度と会わないと約束をさせたことを苦々しく呟く。
 「・・・それで金で奪った、かぁ」
 「ああ」
 ギュンター・ノルベルトとレオポルドが同じような表情で頷き、リオンの中の一つの疑問が解消されたことを知るが、次の疑問を解消してくれと肩を竦められてもう一度顔を見合わせる。
 「オーヴェがさ、なんで二通りの呼ばれ方をしてるのかってこと」
 「ああ、それか」
 「二通りと言うが、お前もフェリクスをオーヴェと勝手に呼んでいるだろうが」
 リオンの言葉にレオポルドが苦笑しギュンター・ノルベルトが不愉快そうに顔を顰めるが、両親-この場合はレオポルドとイングリッド-がウーヴェと呼ぶのに、何故子ども達の間ではフェリクスなのかと首を傾げるリオンにギュンター・ノルベルトが吐息を零し、今までその質問を投げかけられたことは無いと呟けば、ベルトランは疑問に感じなかったのかとリオンが盛大に驚く。
 「ああ、あの子はずっとウーとしか呼ばなかったからな」
 「そー言えば今でも時々そう呼んでるな、ベルトラン」
 ベルトランの店に顔を出すと、時々だがウーヴェをそう呼んでいる場面を見かけたことがあるリオンが小さく笑うと、ウーヴェもバートと呼んでいる事も二人に伝える。
 ウーヴェと幼なじみが文字通り幼い頃から互いを呼ぶそれを変えていない事にレオポルドとギュンター・ノルベルトが安堵したように目を細めるが、咳払いを一つしたギュンター・ノルベルトが先程とは少し違う心持ちでリオンの二つ目の疑問に答え始めるのだった。

 

 何度も屋敷を振り返りながら遠ざかる小さな背中を見送ったギュンター・ノルベルトは、己の腕の中でなんの事情も知らずにすやすやと眠る息子を見下ろし、ついさっき決意した事を実行するためにどうしても協力を仰がなければならない妹の部屋へと足を向ける。
 小一時間程前、ギュンター・ノルベルトはただ一人の妻と決めていたレジーナと両親と話し合いを持ったのだが、この間ずっと二人で話し合ってきたことは実現しない未来と互いに気づき、別々の道を歩むことに決めたのだ。
 その時、幼い息子をどちらが育てるのかで激しい口論となり、黙って様子を見守っていた父や母が思わず制止しなければならないような激しさになってしまい、結果落ち着きを取り戻した彼女がここを出て行くことで折り合いが付いたのだ。
 ただ出て行くだけでは禍根を残すことに気付いたレオポルドが、蒼白な顔で涙を必死に堪えるレジーナに対し、年齢的には相応しくない大金を現金で渡す代わりに二度とここには近寄らないこと、息子のことを誰にも話さないことを約束させただけではなく、子どもに対してそこまでしなくてもと、ヘクターとハンナに後ほど恨みがましい目で睨まれることになるが、レオポルドが告げたことを自ら承諾した証に一筆書かせたのだ。
 その書類を握りつぶしたくなったギュンター・ノルベルトだったが、己の感情よりもこれから先、ここで両親の力を借りつつ息子を育てていかなければならないのだと決意を新たにすると、妹がいる部屋のドアをノックする。
 『アリーセ、良いか?』
 出て行ってしまったレジーナを目の敵にするかと思ったアリーセ・エリザベスだったが、彼女の思いは兄の想像を遙かに凌駕していたようで、目の前にレジーナがいても甥がいてもその存在を一切無視していたのだ。
 己の妹ながら恐ろしいと思いつつも強く出る事の出来なかったギュンター・ノルベルトは、レジーナを何とか宥め、妹の前で息子の世話をしたりしていたのだ。
 彼女と妹の間に立って疲労していたギュンター・ノルベルトが妹の部屋をノックし、ドアを開けてもらえて胸をなで下ろすが、アリーセ・エリザベスが腕の中で眠っている息子に視線を向けないことに微苦笑する。
 『なに?』
 『・・・・・・レジーナが出て行った』
 『そうなの。でもそれはいるじゃない』
 存在を無視していた女が出て行ったことについては何らの感想も抱かないと、子どもとは思えない冷たい声で言い放った彼女だったが、まだ子どもがいると不満に目を細めれば、ギュンター・ノルベルトがこのとき初めて妹を上回る冷たい目で彼女を見下ろす。
 『それじゃ無いと何度言えば分かる?』
 『・・・・・・っ・・・・・・何の用なの?』
 さすがに兄の冷酷な顔を目の当たりにした妹の声が怯んでしまうが、精一杯の強がりで腕を組むと、ギュンター・ノルベルトが吐息を零した後、話があるから中に入れてくれと妹の背後を顎で示す。
 『良いわ』
 兄と甥を招き入れた彼女がドアを閉めて己のベッドに腰を下ろすと、ギュンター・ノルベルトが彼女の前の絨毯に直接座り込む。
 『なに?』
 『さっきも言ったが、レジーナが出て行った。フェリクスはあの人たちが育てることになった』
 兄の告白にアリーセ・エリザベスの目が大きく見開かれるが、次にさっきと変わらない冷たい色を浮かべて甥にあたる乳児を見つめる。
 『・・・・・・レジーナだっけ、あの人が出て行ったのならその時に一緒に連れて行って貰えば良かったのに』
 アリーセ・エリザベスにしてみれば己の家になんの関係も無いレジーナと、その彼女が生んだ息子がいること自体不愉快だった。
 だから母が出て行ったのならその母に子どもも預けてしまえば良かったのにと、ベッドの上で膝を抱えて冷たく笑う妹に兄が一つ肩を竦める。
 『彼女もそうしたかったけど、俺が断った』
 『どうして?』
 『俺がフェリクスを育てたかったからだ』
 『・・・・・・』
 自分たちは血の繋がった親が目の前にいながらもその二人から優しくハグされたことも無ければ本気で叱られたことも無いと、妹同様の冷たい笑みを浮かべたギュンター・ノルベルトにアリーセ・エリザベスが驚きに目を見張るが、何を言おうとするのかを聡明な脳味噌で察していたため、じっと口を閉ざして兄を見つめる。
 『その代わり、ヘクターとハンナが本当の親のようにしてくれた』
 良いことをしたときは心から褒めてくれ、悪いことをしたときは自分たちの事を思って本気で叱ってくれたと伏し目がちに告げた兄に妹も頷き、確かにそうだとも呟くと、ヘクターたちのような親になってフェリクスを育てたいと顔を上げ、妹の目をまっすぐに見つめたギュンター・ノルベルトは、次いで悔しそうに唇を噛み締める。
 『でも、俺には力が無い。世間ではまだまだ何も知らないガキだ。こんな俺を一人前に扱ってくれる人なんていない』
 悔しいがそれが現実なんだと歯軋りをしつつ己の無力さを罵る兄に呆然と目を見張った妹は、だから力を蓄える間、最高の保護者である両親の力を借りるのだと静かに宣言されて納得したように頷くが、ちくりと皮肉を言うことは忘れなかった。
 『・・・・・・あの二人がその子を育てられるはずが無い。結局育てるのはヘクターとハンナだわ』
 『ああ、お前の言うとおりだ。・・・・・・だから、二人に育てて貰おうと思ってる』
 二人、つまりはヘクターとハンナならばフェリクスが己の足で大地に立てるようになるまで人として真っ直ぐに育ててくれるだろうと頷き、アリーセ・エリザベスもその通りだとこちらは一も二もなく大きく頷く。
 『大きくなったフェリクスが自分で何でも判断出来るようになったとき、本当に育ててくれたのがヘクターとハンナだと分かるだろう。それがあの二人に対する最高の復讐になると思わないか?』
 一人の人間が成長し社会に出て自立するまでに本当に必要なものは何なのかを考えられるようになった頃、地位があり名声も得ているが子育てには失敗している二人と、そんなものは持っていないが親として人として必要不可欠な愛情をいつも注いでくれる二人とではどちらがより親と呼べるのかをこの子に判断させることで両親への復讐にしたいと、ギュンター・ノルベルトが暗く笑うと妹もそれに同意するように伏し目がちに小さく笑う。
 『・・・確かに、ギュンターの言うとおりね』
 自分たちを顧みることなく金だけを与えて放置していた人たちを見返すことが出来るのなら、それならばその子がここにいても反対しないと頷く。
 『ああ、ありがとう、エリー』
 『エリー?何を言ってるの?』
 ギュンター・ノルベルトの口からこの時初めて妹のミドルネームの愛称が流れだし、一体何事だとアリーセ・エリザベスが小さく笑うが、兄は穏やかな決意を秘めた顔で妹に笑いかけ、これから先お前のことをアリーセでは無くエリーと呼ぶと告げる。
 『どうして?』
 『この子はバルツァーの三人目の子どもとして役所に届け出ることになった』
 『そうなの?』
 『ああ。それがこの子にとって最も良い道になる、そう思ったからな』
 まだまだガキで世間知らずの自分の子どもにするよりも、バルツァーの三番目の子ども、つまりは自分たちの弟として生きていく方がより良い人生を歩めるはずだと、我が子のためだけを思って決断したギュンター・ノルベルトは、交換条件を両親から提案されたことをアリーセ・エリザベスに伝える。
 『自分たちの子どもとして育てるのなら、名前を決めさせろと言われた』
 『名前・・・・・・』
 『ああ。俺はこの子の幸せを願ってフェリクスと付けたが、あの人達もそう同じように思っているらしい』
 我が子の幸福を願って幾度も彼女と話し合って付けた名前があるように、戸籍上の母になってくれようとしている母にも同じ思いがあるようで、その名前を付けさせてくれることが条件だと言われたことを伝えると、ペットに名前を付ければ可愛く思えるのと同じかしらと呟かれてただ無言で苦笑する。
 『・・・俺はフェリクスと呼ぶことを譲るつもりは無い。あの人達も自分たちが決めた名前でこの子を呼ぶそうだ』
 『この子、自分がなんて呼ばれるかちゃんと理解出来るの?』
 家族内で二通りの呼び方をされたとき、幼いフェリクスは自分のことだと理解出来るのかと心配する妹に何度も頷いたギュンター・ノルベルトは、だからお前のことをアリーセでは無くエリー、もしくはエリザベスと呼ぶと伝えて目を細めれば、頭の良い妹が何事かを閃いたように口元に子どもらしい笑みを浮かべるが、素直にそれを伝えるのが悔しいと言いたげに顔を背ける。
 『エリー、協力してくれないか』
 『・・・・・・・・・・・・』
 『フェリクスが独り立ちするまで・・・高校を卒業するまででもいい。名実ともにこの子の姉になってくれ』
 この通りだ頼むと座ったまま頭を下げる兄を横目に見た妹は、分かったから頭を上げてと小さく叫び、両親との関係は良くないが兄妹間は違うというように兄の前に座り込み、分かったからともう一度己の思いを伝えると、ようやくこの時になって乳児の顔を覗き込む。
 『・・・・・・寝ている時は静かなのね』
 『まあ、そうだな』
 妹が初めて興味を示してくれたことが嬉しくて、気持ちよさそうに眠る息子を思わず起こしてしまったギュンター・ノルベルトは、突然眠りを妨げられた驚きを精一杯の泣き声で表す息子をあやしながら謝り、妹からもうるさいから泣かせるなと叱られるが、その後、何を思ったのか彼女が小さな両手を差し出してきたことに気付き、妹の思いをくみ取ってまだ泣いている息子を彼女の手にそっと抱かせる。
 『・・・・・・温かい、のね』
 『生きているからな』
 気持ちよい眠りから覚まされ、不満では無く何事が起こったのかという不安から泣くことが出来るのも生きているからだと呟く兄の言葉など耳に入っていない様子でアリーセ・エリザベスが泣き続ける甥を見つめるが、涙に濡れるターコイズ色の双眸と視線が重なった途端、泣き声が小さくなっていくことに気付いて自然と笑顔になってしまう。
 不思議なことに彼女の腕の中で泣いていた乳児はぴたりと泣き止んだだけではなく、己を抱いている人物が浮かべる表情をしっかりと読み取っているかのように笑みを浮かべ出す。
 『・・・・・・何が楽しいの?』
 初めて接する赤ちゃんが自分を見て笑ってくれたのが嬉しかったのか、アリーセ・エリザベスが不思議な表情で語りかけると、小さな小さな手が彼女の顔に向けて伸ばされ、指先が白い頬に触れる。
 まだ自分たちと同じ世界を見ているとは思えない乳児だったが、叔母でありたった今姉となったアリーセ・エリザベスの頬を小さな指で撫でた後、アーと意味の無い声を上げ、己のそれに驚いた様に目を丸くするが、アリーセ・エリザベスが笑った為、アウーと声を上げる。
 『なによ。何がそんなに楽しいの、フェリクス』
 それは偶然だったが、今まで乳児や赤ちゃんと接したことの無い彼女にとってはとても新鮮な体験だったようで、ギュンター・ノルベルトの前で久しぶりに子どもらしい笑顔になり、弟に笑いかけては喃語を真似て乳児の相手をする。
 己の息子であり弟にもなる子どもをあやす妹を兄は心なしか呆然と見つめつつも、先程の願いを叶えてくれるのだと態度で教えられ、これからは三人兄弟だと笑って弟となった我が子が心身共に健康に成長してくれることを願い、姉になってくれたアリーセ・エリザベスへの感謝を胸に安堵から天井を見上げるのだった。

 

 アリーセ・エリザベスが弟に迎え入れる心積もりを決めた頃、リビングでは祖父母から父母になろうとしている二人が真剣な顔で天井を見上げていた。
 『・・・アリーセに姉になって貰う、か』
 そう上手くいくだろうかと言う疑問を口にしたレオポルドは、隣で妻が不安を感じつつも大丈夫だろうと頷く顔に微苦笑し、あの子の名前を自分たちが決めるのかと問いかけながらソファに深く座り直す。
 『ええ。自分で決めた名前を付けないと自分の子どもという自覚が生まれないでしょう?』
 実際は自分が産んだ訳では無いが、自分たちが暮らしていた世界ではこうした関係の親子は良くあることだったし、せっかく育てることになったのだから名前はやはり自分が付けたいと笑う妻に夫が今度は溜息をつく。
 『確かにな』
 『ええ。・・・わたくしが妊娠していないのに三人目の子どもが出来たと知れば、世間は勝手に理由付けをしてくれるでしょう。そうなれば、ギュンターの子どもという事実は少しは隠し通せるのではないかしら?』
 自分たちが今最も気にかけなければならないのは己の体面を守ることではなく、息子とともに帰って来た幼い命が無事に成長し自らの力で歩いて行けるようになるまで庇護することだとも告げたイングリッドは、レオポルドの気持ちが同じ場所にあることに気付き、小さく胸を弾ませる。
 『リッドの言うとおりだな』
 こうなった原因は自分たちにある、その結果がこうして結実してしまったのならばその果実をもがなければならないと決意をするように頷いたレオポルドは、ソファから乗り出すように上体を屈めると、イングリッドが自然と顔を寄せて夫の顔を横合いから覗き込む。
 『名前はもう決まっているのか?』
 『いいえ、まだ候補をいくつか考えただけよ』
 『そうか・・・』
 ソファの間にあるコーヒーテーブルで指先をタップさせつつ視線を左右に泳がせるレオポルドを急かすでも無くじっと次の言葉を待っている彼女だったが、聞こえにくい小さな声が告げた名前に小首を傾げ、その意味を理解した瞬間に大きく目を見張る。
 『・・・初めて出会ったあの避暑地を覚えているか?』
 『忘れるはずがないでしょう?』
 夫の威厳が出てきた顔に出逢った頃のような表情が浮かんだのを見た妻は、一体何を言い出すのかと訝りつつも一つの期待を胸に秘めて次の言葉を待つ。
 『俺が働いていた別荘の管理を任されていた叔父を覚えているか?』
 遠い遙かな昔のように思えるあの時、自分たち二人を引き合わせてくれた人物がいたが、その人を覚えているかと問われ、もちろん覚えていると強く頷いたイングリッドは、あの時一目見て好きになってしまった少年のような笑みを浮かべたレオポルドの横顔に息をのみ、無意識に口元に白くたおやかな手を宛がう。
 『あの叔父がいたから俺たちは出会えた』
 『そうね』
 避暑地として名の通った小さな村にレオポルドの叔父が管理を任されていた別荘があり、そこにイングリッドが母とともにやってきたことで、その夏別荘で管理の手伝いをしていたレオポルドと出会ったのだが、二人同時に当時のことを思い出して小さく笑い合う。
 『・・・ギュンターが子どもを連れて帰ってきたことは、もしかすると良いことだったのかもしれないな』
 『え?』
 レオポルドがコーヒーテーブルに語りかけるようにぽつりぽつりと呟く言葉にイングリッドが顔を上げて瞬きをし、どういう意味だと口に出して真意を問いただすと、テーブルをタップしていた指先が動きを止め、そのまま彼女の膝に手が宛がわれる。
 二人の子どもの世話を全くせず、幼稚園の入学や卒園、小学校への入学などの手続きも何もかもをヘクターとハンナに任せっきりにし、レオポルドは軌道に乗って大きくなり始めた会社経営に、イングリッドはそんな夫に愛想を尽かして観劇だパーティーだと出歩くようになった結果、家族が崩壊する一歩手前にまで来てしまっていたが、長男が子どもを連れて戻ってきたことは、崩壊しかけている家庭を再構築する機会を与えられたのではないかと呟くレオポルドにイングリッドが無言で先を促す。
 『・・・ギュンターが生まれた頃、あの子のために頑張ろうと思った』
 『ええ、そうね。いつもそう言っていたわね』
 『帰ってきたギュンターを見て、その時のことを思い出した』
 自分にもあのような顔をして同じことを思っていた時期があった、それを思い出すと無碍にも出来ず、またさっきも言ったが当時の気持ちを思い出させてくれたことを告げて顔を上げたレオポルドは、イングリッドの目が優しくこちらを見つめていることに気付いて咄嗟に顔を背けるが、大切な話をしていることを思い出して自嘲する。
 『いつしか目的よりも手段が大切になってしまっていた。ギュンターやアリーセに対してはもう遅いかもしれないが、フェリクスにはこれからいくらでも向き合える』
 妻や子どもを守るために必死に働いてきた自分だが、いつの間にか働くことに重点を置いてしまい、結果守るべき存在に見放されかけていたが、自分たちの三番目の子どもとして乳児を育てることになったのは過去の己と向き合い、今度こそ親としての務めを果たせと言われているのではないかと、滅多にないが自信がなさそうな顔で髪に手をやる夫に妻が何度も何度も頷き、その手を両手で握って胸元に引き寄せる。
 『・・・レオ』
 『だから、俺たちが結婚した時に決めたことを今度こそ果たしたい』
 二人が身分差という格差を乗り越え結婚式を挙げた時に決めた、家族を守ると言う約束を果たさせてくれないかと、妻の手を逆に握りしめながら問いかけた夫は、妻の白く綺麗な頬に涙が一筋流れていくことに気付き、そっと肩を抱きよせる。
 『・・・あなたの口からまたその言葉を聞けるようになるなんて、思ってもみなかったわ』
 それに、今までならば相談も無く自ら思案し決断した結果だけを伝えてきていたのにと、涙に震える声が小さく笑いながらレオポルドを非難したため、それはなんだ、言い出す機会がだのと言い訳じみた事を呟きながらも、レオポルドはイングリッドの肩をしっかりと抱き寄せて見事なブロンドに口付ける。
 『だからフェリクスに、叔父の名前を付けたい』
 あの日、自分たちを導いてくれた叔父がいたからこそ結婚をし、今の自分たちになったのだから、結婚当初の気持ちを思いだして新たに家族になる子どもを育てていく中でこの気持ちを忘れないようにするため、同じ轍を踏まないようにするために自分たちの三番目の子どもの名前を叔父から貰いたいと告げて涙の流れる頬に口付けたレオポルドは、もちろんそれで問題は無いと何度も頷くイングリッドに素直に感謝の気持ちを伝える。
 『ありがとう、リッド。・・・これからはウーヴェの母になってやってくれ』
 叔父の名を貰いウーヴェと名付ける子どもの母になってやってくれと笑うと、あなたも父になって陰日向に守ってあげてと胸に手を宛がわれ、二人だから大丈夫だろうと笑って妻の目を見開かせる。
 『それに、子育ての大先輩が二人いてくれる。何かあれば二人に相談しよう』
 レオポルドが言う大先輩が誰だかすぐに気付いたイングリッドが綺麗な笑みを浮かべ、ええ、その通りだと頷いた為、引き取ることに決定した乳児の名前が、ウーヴェ・フェリクスと決まり、後日、正式な出生届がバルツァー家の顧問弁護士でありレオポルドの幼なじみであるウルリッヒを通じて役所に提出され、ウーヴェ・フェリクス・バルツァーとしての人生を歩み始め、二人はその父と母として新たな家族の形を作り始めたのだった。

 

 何となく予想していたが己のものとはかけ離れた事実を教えられ、さすがに今度は呆然としたリオンは、無言で見つめて来る二人を交互に見つめるが、今までずっと喉の奥に刺さった小骨のように違和感と疼痛を与えてきていた言葉の真意も知ることになり、思わず目を見張ってその言葉を呟いてしまう。
 「特別な、子ども・・・・・・」
 「ああ。ウーヴェをそう呼んだ意味が分かったか」
 お前が考えている様な、バルツァーの全財産を生まれたときから受け継ぐ資格を持つ子どもだから特別と呼んだ訳では無いと、レオポルドが微苦笑を浮かべつつ腕を組み、椅子の背もたれを軋ませながら寄りかかる。
 「破綻していた家族の関係を取り戻させてくれた子ども、それがウーヴェだ」
 その言葉の本当の意味を教えられて目を見張ったリオンだったが、アリーセ・エリザベスがウーヴェやギュンター・ノルベルトのことをミドルネームで呼び合うのは、ある程度大きくなったウーヴェに違和感を抱かせないようにするためというよりは、対外的な配慮もあったのでは無いかと問いかけ、ギュンター・ノルベルトに何度目かの衝撃を与えてしまう。
 自分たち兄妹間でミドルネームで呼び合っていると、ウーヴェのことを自らが名付けたフェリクスと呼んでも誰も違和感を抱くことは無いし、両親にしてみれば自分たちが名付けた名を呼べるのだからなんの問題も無かった。
 唯一の問題は家から出た時の周囲の声だった。
 レオポルドやギュンター・ノルベルトらの考えでは、基礎学校を卒業し、この先進む道を自ら選択するようになった時、己の出生にまつわる話も聞かせようと思っていたのだが、この手の話は得てして周囲から流れ込んでくることが多く、それに対しては可能な限り予防線を張るようにしていた。
 その一つが名前を親子と兄弟の間で呼び分けることだったが、もう一つ最大の予防線があったのだが、それがベルトランだと教えられてさすがに今回は素直に驚きを表現してしまう。
 「ベルトラン!?」
 「ああ。あの子はウーヴェが風邪を引いた時に病院で知り合ったと聞かされているが、本当はそうでは無い」
 ウーヴェがほ乳瓶を片手に、この広い屋敷の中を必死に歩き回っていた頃からの付き合いであるベルトランだが、二人の出会いは偶然などでは無く、自分たちの知人でドイツに引っ越してきたばかりの夫婦に同じ年頃の乳児がいる事をヘクター夫妻に教えられ、その子どもと友達になっていれば、ウーヴェが己に関することをレオポルド達が望まないタイミングで耳にする可能性が低くなるとの思いから引き合わされたのだ。
 ただ、出会いがどうであれ、同い年の二人の乳児はそれぞれほ乳瓶を手にしながら、子どもだけがわかり合える言葉で親交を深めていったのだ。
 恋人とその幼なじみの関係の由来を図らずも知ってしまい、そうだったのかと口に手を宛がったリオンは、ウーヴェを引き取って育てることにしたレオポルドが、物事の善悪を己で判断出来る年頃になるまでウーヴェの耳に真実を伝えないように、また流れ込まないように周到に準備をしていたことも教えられるが、それら総てをぶち壊したのがあの事件だったと気づき、やるせない溜息を零して天井を見上げる。
 ウーヴェとその家族の関係が大きく変化をしたのがあの事件だとは聞かされていたが、レオポルドの周到な準備もそれを遙かに上回る悪意によって壊されてしまったと呟くと、重苦しい溜息がほぼ同時に二人の口から流れ出す。
 「お前の言うとおりだ」
 「・・・そっか」
 総てはあの事件をきっかけに変化をしてしまったのだと、どれほど悔い改めても戻す事の出来ない過去に対する後悔の念を顔中に浮かべるギュンター・ノルベルトとレオポルドにそっと頷いたリオンだったが、どんな理由かは不明だが不意に己の両頬を掌で叩いたかと思うと、その行動に二人が目を見張る。
 「・・・腹が減ってるときに事件の話とか聞けば怒りっぽくなるから、ちょっと休憩しても良いか、親父?」
 「あ、ああ、構わないが、朝食はさっき食べたんじゃないのか?」
 「んー、食ったけど、兄貴がすぐそばでホットサンド食ってるから俺も食いたくなってきた」
 だからハンナに頼んで作って貰おうと伸びをするリオンに呆れた顔で二人が溜息をつくが、ここにウーヴェがいればその言動が本心を押し隠すための擬態だと指摘できるが、残念ながらレオポルドもギュンター・ノルベルトもリオンのことをまだまだ把握していないため、今まで見てきた真剣な顔や鋭さの片鱗は一体何だったんだと声を荒げてしまう。
 「んふー。あ、オーヴェの様子も見てこようっと」
 ギュンター・ノルベルトの非難をさらりと-彼らからすればふざけた態度で-交わしたリオンは、立ち上がると同時にもう一度伸びをし、腹拵えをしてから戻って来ると残して恋人の父と兄がいる部屋を後にする。
 出ていったリオンの背中を呆然と見送った二人だったが、どちらからともなく肩を揺らしてしまい、気付いた時には二人揃って小さな笑い声を上げるほどだった。
 自分たちが今まで必死になって隠し通そうとしてきた事実、それをリオンに伝えたと言う事実が持つ大きさをリオンは理解していないと笑うが、それよりも何よりも、この世で最も重く大きな秘密だと思っていたものが、リオンにとってはそうでも無いと言う現実を見せつけられた瞬間でもあったことに気づき、二人揃って微苦笑を浮かべる。
 「・・・・・・本当に仕方の無いヤツだな」
 「全く。どうしてフェリクスはあんな男が良いんだ」
 どうしても納得出来ないと腕を組む息子に無言で肩を竦めた父は、性格的に難があったとしても、心の奥底ではしっかりと事実を受け止めるだけの力を持っているだろうからウーヴェも付き合えるのだろうとリオンを庇うと、父さんはフェリクスに甘いと言い放たれてしまう。
 「どっちが甘いんだ」
 お前にだけは言われたくないと、不毛な親子間の口論が始まってしまうが、どちらもそれに気付いて口を閉ざす。
 「・・・・・・ウーヴェの目が心配だな」
 「そう、だな。知り合いの医者に相談してみるかな」
 見えないわけでは無いが、世界が灰色というのは限りなく不便だろうから、何とかならないか相談してみることを告げたギュンター・ノルベルトは、父が頷くのに合わせて立ち上がり、リオンに事件の話をするのならば呼んでくれと言い残して部屋を出て行き、その長男の背中を見送った父は、家族間の秘密を昔風の言葉で言えば、どこの馬の骨とも分からないリオンに話した結果、不安よりも心の支えが取れかかっているように感じていたのだった。

 

 恋人の父と兄から聞かされた出生の秘密。それについては多少珍しいものの、どこにでもある話だとリオンは感じていたが、そんなリオンを特に驚かせていたのは、ウーヴェを中心とした世界を築き上げるまでの家族間の関係だった。
 先日ウーヴェ自らが見せてくれた家族写真から想像も付かないほどその関係は冷え切っていて壊れかけていたのだ。
 その崩壊しかけていた関係を修復し、新たなものへと作り替える原動力になったのがウーヴェの存在だと教えられてしまえば、今でもやはり小さな疼痛を伴って存在していた特別な子どもという意味が全く違ったものに感じられ、己がいかに小さな男なのかを痛感してしまう。
 広い屋敷の廊下を歩き階段を上った先にあるドアの前に立って足を止めたリオンは、このドアの向こうで、灰色の世界でもあきらめずに一緒に生きていこうと誓ってくれた恋人が本を読んでいるはずだと思い出す。
 こんな小さな己でも信頼し総てを預けてくれる恋人に己は応えることが出来ているのかと自問するが答えは無く、自分自身を公平に評価出来るはずも無いと気付いて苦笑し、頭を一つ振って気分を切り替えると、ウーヴェが常に望んでいる笑みを浮かべつつドアを開ける。
 「オーヴェ、腹減ったんだけどさー・・・」
 ドアを開けつつ腹が減ったから戻ってきた事を強調したリオンだったが、その配慮は無駄なことだったと、目の前に広がる光景から教えられる。
珍しいことにウーヴェがベッドで異様な大きさを誇るテディベアの腿に腕を回した姿で寝ていたのだ。
 緩く規則的に上下する背中から穏やかな眠りが訪れていることを知るが、ベッドにそっと近づいて顔を覗き込んだリオンは、その眠りが確かに穏やかなものであることを、ウーヴェの口元に浮かんだ笑みから確信する。
 この家に戻ってくることで自然と引き起こされる感情の起伏。それがどのような幅を持つのかが分からずに不安に感じていた数日前からは想像も出来ない穏やかな顔で、リオンが頬にかかる髪を掻き上げてやると、小さな声が流れ出す。
 ウーヴェの寝顔をじっと見つめる経験など滅多に出来るものでは無いため、ベッドサイドの床に腰を下ろして顔だけをベッドに乗せたリオンは、穏やかに眠るウーヴェを見ていると、言葉では言い表せない気持ちと、家族の重大な秘密-出来るならば誰にも知られたくなかったであろうそれ-を教えてくれたレオポルドと、リオンのことを気にくわないから口を開けば別れろと言い張るギュンター・ノルベルトが全力で守ろうとし、またその通りにしてきた為、今こうしてウーヴェがここで穏やかに眠れているのだとも気付くと、二人の偉大な男の力に自然と頭が下がってしまう。
 守ると言う言葉はいくらでも口にすることが出来るが、あの二人はその対象から二十年以上も憎まれても疎遠になっていても今でも陰日向になってウーヴェを守っているのだ。
 いくら家族といっても何故それが出来るのだと理解出来ないと問いかけたリオンだったが、その根源が家族の崩壊を防ぎ新たな関係へと導いてくれたウーヴェへの感謝にあるのだと教えられ、胸の奥にあった支えが一気に消え去ったことを知る。
 いつも家族の中心にいたウーヴェがこの家族を支えていたのだが、事件によってそれが喪われたときの衝撃は想像を絶するものだっただろう。
 だが、その中でもレオポルドとギュンター・ノルベルトは、憎まれることでウーヴェを生かす道を選択し、今もそれを続けているのだ。
 ああ、どう太刀打ちしても勝つことが出来ないと溜息をついた時、小さなかすれた声が聞こえ、のろのろと顔を上げるとターコイズ色の双眸を眠気に染めたままのウーヴェがじっとリオンを見つめて来る。
 「ハロ、オーヴェ」
 「・・・どうした?」
 「へ?」
 眠気を感じてることを表すように何度も瞬きを繰り返しながらリオンを気遣う言葉を口にし、そっと頬を撫でてくれるウーヴェにリオンも目をぱちぱちさせる。
 「あの人達に・・・何か言われた、のか?」
 「へ?ああ、いや、そうじゃねぇけど、どうしてそう思ったんだ?」
 ウーヴェの問いが意外に感じられ、どうしてだと目を見張ったリオンの頬にウーヴェが身体を伸ばしてそっとキスをする。
 「泣いてるのかと思った」
 「・・・・・・・・・・・・」
 ウーヴェの優しい言葉にリオンが膝立ちになってウーヴェに覆い被さるように身を屈めると、自然と上がった腕がリオンの背中に回される。
 こうしてこちらの思いを口にせずとも察して気遣ってくれる優しさは、持って生まれたものもあるだろうが、あの事件が切っ掛けに生まれたものだと知ってから、優しく笑える人は辛い事を今まで経験してきているからだと、マザー・カタリーナにいつも聞かされていた言葉が身に染み、思わず鼻を啜ってしまいそうになる。
 「泣いてねぇよ、オーヴェ」
 お前やお前の家族が経験してきた苦労に比べれば、自分が経験してきたことなどなんとちっぽけなものなのだろう、そう思えば涙なんて出てこないと自嘲すると、ウーヴェの手がリオンの背中を優しく撫で、苦労を比べることなど出来ない、その人はその人なりに辛い思いをしているのだと優しく諭されてうんと頷く。
 「ひどいことを言われたんじゃ無いんだな?」
 「ああ、それだけは断言出来る。────あの人達は本当にすごい。前にも言ったけどさ、マジで尊敬する」
 出来る事ならあんな腹の据わった男になりたいと告げ、ウーヴェの手を取ってシーツに押しつけたリオンは、至近距離で目を覗き込み、早く灰色の世界から帰って来いと囁きながら額に口付ける。
 「・・・・・・うん」
 「腹減ったって言って抜け出してきたけど、多分後で事件の話を親父が教えてくれると思う。────聞いて来ても良いか、オーヴェ?」
 事件についてはお前から教えて貰うと約束したが、親父から聞かされても良いかと問いかけつつ返事を待つと、長い間考え込むようにターコイズ色の双眸が左右に泳ぐが、何も隠し事をしないと約束したことを思い出したウーヴェが小さく頷く。
 「ああ」
 「ダンケ、オーヴェ」
 もう一度ウーヴェの額にキスをしたリオンは、ウーヴェに覆い被さるようにベッドに身を沈めると、その重みを受け止めたウーヴェが満足そうな吐息を零す。
 「いつかさ、親父みたいな男になるから・・・・・・」
 どうか待っていてくれ、必ずお前を苦しみから解放する、そして守ってやるとウーヴェの耳に直接囁きかけたリオンは、背中に回ったままの手が緩く上下に動き、うんという小さな声が返ってきたことに自然と安堵の吐息を零すのだった。

 

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2015.08.02


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