恋人の兄の登場はリオンの中では織り込み済みで、またそんな兄と顔を合わせたウーヴェの様子が一気に不安定になることも当然ながら予測できていることだった。
だからウーヴェにしがみつくようにしながら、ちゃんとここにいること、何があってもこうして護っていることを伝え、それが伝わったのかウーヴェの身体から少しだけ緊張が解れたことに気付いたリオンは、ウーヴェにそっくりな怜悧な瞳を恐れることなく正面から見つめ、親父の家にお邪魔していると笑みを浮かべる。
それが、人の家に来て騒ぐなと睨まれたことへの皮肉だと気付いたギュンター・ノルベルトは冷たく光る瞳でリオンを一瞥したあと、一瞬で表情を切り替えて柔和な目でウーヴェを見つめる。
「・・・昨日は話をする暇もなかったが、良く帰ってきてくれた」
「・・・何、も・・・ノルの為に帰ってきた訳じゃ・・・」
「ああ、もちろん。・・・お前が今ここにいてくれることが嬉しいんだよ」
自分の親代わり、お前にとっての祖父母のような人たちが滞在している今ここにいてくれることが嬉しいのだと、会社の部下達が見れば卒倒してしまいそうな優しい笑みを浮かべて頷いたギュンター・ノルベルトは、ウーヴェと面と向かって話が出来た喜びを密かに噛み締めるが、それが出来るようになった理由がウーヴェにしがみついている-ようにしか見えない-リオンだと父や妹から聞かされたことを思い出して不愉快そうに眉を顰める。
長い間自分たち兄弟-実際には父と子-の間にある壁を壊せる可能性が高いことを先日も妹から聞かされたが、一見すればただ騒々しいだけのこの男の何処にそんな力があるのか。
以前二人が付き合っていることを知った時に調べさせたことを思い出し、その調査で出てきた男女間における素行の悪さの一端に触れた時には心底嫌悪し、ウーヴェにはもっと相応しい、相手に対して誠実で誰よりも大切にしてくれる人がいるだろうとの思いを抱いたのだが、その思いは今でも消し去ることがどうしても出来ず、何故リオンなんだと思わず口にしてしまうが、その言葉をしっかりと聞いたリオンの口元に不敵な笑みが浮かび上がる。
「何でお前なんだって前にも言われたことありますけどねー、何でも何も、オーヴェが俺を選んでくれたからですよ」
生まれ育ちなど何もかも引っくるめた上で認め愛してくれたのは他でもないウーヴェだと囁き、血色が悪くなっている頬に背後からキスをしたリオンは、あまり自慢できることがない己の過去だが、それでもウーヴェが俺を認め選んでくれたことだけですべての罪が許され認められ、俺の人生は立派な意義のあるものになったとウーヴェに愛されている自負で彩った顔を室内にいる皆に見せ、目に力を込めてギュンター・ノルベルトを見つめる。
「・・・あんたになら、この気持ち分かると思うんだけどな」
「・・・・・・・・・」
ギュンター・ノルベルトの目が軽く見開かれ、何を言わんとするのかを察すると同時に更に見開かれるのをじっと見つめていたリオンは、あの写真でウーヴェを抱いていたあんたはきっと今の俺と同じ思いだっただろうとも告げる。
「自分を受け入れて認めてくれたら守りたいと思う。だけどそれ以上に守ってくれている。そんな存在に出会ったら・・・もう手放せなくなる」
そんな人がいることがどれ程幸せであるか、力を分け与えてくれるのか、それをあんたは知っているはずだと穏やかに告げると、ウーヴェの髪にキスをした後背筋を伸ばす。
「親父や・・・母親が自分と向き合ってくれない寂しさを知ってるあんたなら・・・真剣に向き合ってくれたレジーナ・ディストナーと出会ったあんたなら分かるだろ」
「!!」
「金銭的には恵まれていても気持ち的に満たされていない時にそんな人と出会ったら・・・そりゃあ一緒にいるために家を出てその人のためにがんばろうって思うよなぁ」
たとえそれが14,5歳のガキであったとしても、いや、子どもだからこそ後先を考えずに家を飛び出したのだろうとつぶやくと、室内の空気が一瞬にして凍り付いてしまう。
「・・・リオン、誰からその話を聞いた!?」
その声はリオンが向き合っている相手ではなく背後から聞こえてきたため、ウーヴェをしっかりと抱きしめながら顔を振り向けると、蒼白な顔で震えながらレオポルドに寄り添うイングリッドがいて、その細い肩に腕を回したレオポルドが険しい顔でリオンを睨んでいた。
「誰って・・・もちろん、オーヴェだ」
オーヴェが感情に邪魔されながらも勇気を出して見せてくれたアルバム、そのアルバムにまつわる話を聞かせてくれたことを伝え、かすかな声で名を呼ぶウーヴェの頬にキスをする。
「兄貴が家出をして・・・・・・ようやく探し出した時にはオーヴェがもう産まれてた。兄貴が帰ってきた経緯は詳しく知らないけど、オーヴェから教えてもらったのは、これから親子三人で苦労しながらも仲良く暮らしていこうとしていたのを、親父が少しの金を与えてウーヴェを連れ去ってその夢を壊したってこと」
だからウーヴェはその代償に生みの母に誘拐され、その原因を作ったのはおまえの父-これはおそらく親父と兄貴のこと-だといって虐待されたのだと告げると、まずアリーセ・エリザベスが耐えきれなくなって両手で顔を覆い、そんな妻を夫が痛ましそうな顔で抱き寄せる。
娘夫婦を視界の隅に納めたイングリッドだが、自身ももう限界なのか、レオポルドにさらに身を寄せるが、蒼白な顔に毅然とした表情を浮かべてリオンを睨み付ける。
「いつだったかオーヴェが、自分が誘拐されてハシムが殺されたのは親父のせいだって言ってたけど、そんな事情があったのならそれも納得できる」
だけど、実際にハシムが殺されたのは親父のせいではないことも分かっていると告げると、腕の中でウーヴェが身じろぎをしてリオンを振り返るが、その顔色の悪さと瞳に浮かぶ色が悲しくて、血の気を失った唇にそっとキスをする。
「ハシムが殺されたのは、多分・・・親父や兄貴のせいじゃない」
「どう、いう・・・ことだ?」
「うん。・・・・・・ハシムの両親が不法滞在者だった」
「!?」
リオンの言葉に最大限の疑問を浮かべたウーヴェが眉を寄せるが、ついで聞かされた言葉に目を見張って不法滞在者と呟くが、それが何の関係があると問い返すと、リオンがウーヴェの目を見つめながら利用されたと答える。
「利用された・・・?」
「ああ。主犯格の男女、ヴォルフとマリアに利用されたんだと思う」
あの事件の中で最重要人物であるハシムだが、ハシムが何故あの場にいて無惨な最期を遂げなければならなかったのか、おそらくだが誘拐を企てた犯人に利用されたからだろうと告げてやるせないため息をつくと、表情を一変させて情けない顔でウーヴェを見つめる。
「・・・・・・オーヴェ、話は後でちゃんとするからさ、メシ食わせて欲しい」
本当に本当に腹が減って仕方がないと、今までの真摯な声や顔が同一の人物とは思えない情けない声にウーヴェが目を見張り、同じく驚愕の顔で見守っていたギュンター・ノルベルトも呆気に取られるが、一番早く立ち直ったのは険しい顔をしていたレオポルドで、腹が減っているのなら早くこちらにきて食べて話の続きを聞かせろと怒鳴り、その声にギュンター・ノルベルトが苛立たしそうに舌打ちをし、じろりとリオンを睨み付ける。
「まさか今日泊まるつもりか?」
「明日は休みなので泊まるつもりです」
ウーヴェと一緒の部屋で寝るつもりだから気にしないでくれと笑うと、冗談ではない、タクシー代を出すのも腹が立つがタクシーを呼ぶからそれに乗って帰れと言い放ち、リオンが目と口を丸くしてしまう。
「へ!?」
「一緒に寝るなど許さないからな!」
まるでティーンエイジャーの子供を持つ親のように怒鳴ったギュンター・ノルベルトは、呆気にとられているリオンに向けて鼻息荒く許さないし認めないと指を突きつけると足音高くリビングを出て行ってしまう。
荒々しくドアが閉められるのを呆然と見送ったリオンだが、家ではずっと一緒に寝てるんだけどと呟いてウーヴェに同意を求めるが、接触をさけていた兄と避けていた実家で対面した緊張感からか、今度は顔中に疲労の色が浮かび上がる。
「頭痛いか?」
「・・・・・・少し・・・痛い」
「ん、分かった。─────親父、オーヴェが頭痛いって言ってるからオーヴェの部屋で飯を食うことにする」
ウーヴェの身体を支えつつ恋人の両親と姉夫婦に向けて肩を竦めたリオンは、ここで食べたいのは山々だけど部屋に行くと告げると、軽く驚いた顔ながらもレオポルドが頷いたため、ウーヴェを支えながらリビングを出る。
ギュンター・ノルベルトが出て行くのを見送ったときとはまた違う顔でリオンとウーヴェを見送ったレオポルドたちだったが、リオンの口から流れ出た真実に打ちのめされたようで、アリーセ・エリザベスも辛そうに顔を振ると、夫のミカの肩に寄りかかる。
「・・・あの子、どこまで知っているの?」
アリーセ・エリザベスの呟きに誰も答えるものはいなかったが、ヘクターとハンナが顔を見合わせたあと、ギュンター・ノルベルトの食事の用意をしてくることを伝え、イングリッドに頷かれて立ち上がる。
「ハンナ、お願いね」
「はい。分かっております、奥様」
イングリッドが口に出さない思いを感じ取ったハンナが穏やかに頷き、夫とともにリビングを出て行くと、壁掛け時計が時を刻む音だけがやけに大きく部屋に響くのだった。
母や長年勤めてくれているコックの料理よりも、疲れた時に食べたくなるのは暖かくて優しいハンナの素朴な手料理であるギュンター・ノルベルトは、念願叶ったハンナの料理を食べながらも不機嫌さが収まらなかった。
「ギュンター様、そのように苛々しながらお食事をされると身体に悪いですよ」
「・・・・・・ハンナは腹が立たないのか?」
「何がですか?」
一体あなたは何に対してそんなに腹を立てているのかと、向かいに腰を下ろしたハンナは、どれだけの年を経たとしても世話をしてきた幼い頃の面影を残すギュンター・ノルベルトの前髪を撫でて乱して下ろさせると、世界規模の会社で陣頭指揮を執る辣腕社長から学生の頃に喜怒哀楽の感情を両親以上に見せてきた顔になる。
「さぁ、ギュンター様、ハンナにはお話し下さる約束でしたね」
それは彼が幼い頃-アリーセ・エリザベスが生まれて間もない頃-に交わした約束だったが、彼と妹が大きくなった今でも効力を発揮していて、その一言には逆らえないと溜息を吐いたギュンター・ノルベルトは、フェリクスがリオンと付き合っているのが気にくわないと拳を握ると、ハンナが目と口を丸くする。
「まぁ・・・・・・」
「そうは思わないか?どうしてリオンなんだ・・・・・・!」
仕事は多少は出来る様だが不真面目にしか思えない言動が気にくわない、フェリクスにはもっと相応しい人がいるはずだと力説するギュンター・ノルベルトを微笑ましい顔で見つめたハンナは、リオンだから気にくわないのですかと問いかけ、そうだと力強く返答されてついにくすくす笑い出してしまう。
「ハンナ、笑い事じゃないんだ」
「ええ、分かっております。・・・・・・リオンの出自が気に入らない訳ではないのですね」
ハンナが答えを想像しながら問いかけると、ギュンター・ノルベルトの眉がくっきりと寄せられ、リオンの両親が殺人犯であろうと大統領であろうとあいつはあいつで関係ない、人の出自で判断するような男じゃないと自らを擁護した彼に頷いて先程己が乱した髪を撫で付ける。
「もちろん、ハンナは良く知っていますよ」
ギュンター様がそのような肝の小さな男ではないことを良く知っていますよと頷くと、ギュンター・ノルベルトが顔を背けて鼻息荒く言い放つ。
「しかも、今まで付き合っていた彼女とは別に遊び友達が山ほどいるんだぞ?」
そんな浮気性の男だとフェリクスを悲しませることは簡単に想像出来ると更に力説する彼にハンナが頬に手を宛て、ウーヴェ様がきちんとリオンをコントロールしていると思いますよと告げると、ギュンター・ノルベルトの顔が更に面白くなさそうに歪む。
「・・・・・・とにかく、気にくわないんだ」
「さぁさぁ、今はハンナの料理を食べて機嫌を直して下さい」
あなたのためにハンナが腕によりを掛けましたと笑う彼女にギュンター・ノルベルトも溜息ひとつで気分を切り替え、空腹を満たしてくれる今も昔も変わらない料理を美味しそうに食べるが、この優しい空気も料理もいつか喪われてしまうことを思い出した彼は、目の前で母よりも母親らしく暖かく優しい顔で笑うハンナとそんな妻をずっと見守り続けてきたヘクターの顔を交互に見つめると、首を傾げられて無言で肩を竦める。
「ギュンター様?」
「何でもない。ヘクター、まだ大丈夫なら後で少し飲まないか?」
その誘いはヘクターにとっては随分と遠い昔から響くもののように思えるが、リオンと比べればまだましだが同年代の子どもに比べれば随分と手のかかる子どもだったギュンター・ノルベルトもしっかりとした大人の男になっている証でもあることに気付き、うれしさを隠さない顔で頷くと、ハンナが頬に手を宛いながら溜息をつく。
「ギュンター様、あまり飲ませないでくださいよ」
「一杯ぐらいはいいだろう?」
「そうだ、せっかくギュンター様のお誘いなんだぞ」
ギュンター・ノルベルトの誘いは本当に貴重なものだと笑うヘクターにハンナも呆れそうになるが、ここにいる間は以前のように世話も出来るが家に帰れば顔を見ることもなかなか出来ないと気づき、男同士の時間に水を差すようなことは控えようと笑って二人に許可を与えるのだった。
疲労の色を隠さないでもたれ掛かってくるウーヴェをしっかりと支えていたリオンだが、ウーヴェの部屋に入ってソファに座ると、ウーヴェが頭痛を堪えながらリオンを見つめる。
「リーオ・・・・・・さっきの言葉は本当なのか?」
「・・・・・・利用されたってことか?」
ウーヴェの問いには真摯に向き合いたかったが、それ以上に今は空腹感を覚えていて、その苛立ちを言葉に載せてしまったリオンは、躊躇うように目をそらせるウーヴェに己の態度を教えられ、小さく悪いと詫びたあとにちゃんと話をしたいから今は本当に飯を食わせてくれと頼み、ウーヴェにもリオンを急かしていたことに気づかせる。
「・・・・・・食べてくれ」
「ダンケ、オーヴェ」
自らの態度を互いの言葉で察して反省をした二人だったが、リオンが訴えていた空腹を解消するために恐るべき早さでプレッツェルサンドを食べ終え、ウーヴェが持ってきたビールも水か何かのように飲み干してひとまずの満足を吐息で示すと、死刑執行前に己の疑問を解消したいと思っている顔で見つめてくるウーヴェに肩を竦め、ソファで向かい合うように姿勢を正したリオンは、同じように向き合ってくれるウーヴェの頬を撫でてさっきのことだと切り出す。
「さっきの利用されたって言葉だけど、多分間違ってないと思う」
「どうして、そう思う・・・?」
ハシムの両親が不法滞在だったとしてそれをどのように利用したんだとウーヴェが問い返すが、さすがにまだそこまでは分からないとリオンが肩を竦めつつも、疑うことを許さない強い光を宿した目でウーヴェを見つめる。
「これは俺のカンだからはっきり言えねぇけど、でも、多分利用されたってことに関しては間違ってないと思う」
今日職場で事件の調書を読み返したときに感じた疑問とその後得られた確信は疑いようがないものだと直感が告げている。人のカンなど大してアテにならないと思うだろうが、でもそれを信じてほしいとも告げると、ウーヴェが考え込むように目を逸らすものの、だからどうして利用されたと思うんだ、カンの拠り所を教えてくれと問いかけると、今度はリオンが考え込むように天井を見上げる。
「親父が金で子どもを奪い取ったって前に言ってたよな。その憎しみや恨みからお前が誘拐されたってことなんだろうけど、それだけ憎んでたなら利用できるものは何でも利用するよな」
もしも自分が誘拐犯だとすれば、復讐したい相手をいかに苦しめるかを考えるだろうし、利用できるものがあるのならば躊躇うことなく利用することを告げると、リオンの言葉よりも表情に何かを感じ取ったウーヴェが目を伏せ、額をリオンの肩に触れさせてくる。
「オーヴェ?」
「・・・刑事の目を甘く見るなと言っていたな」
「ボスやコニーらに比べたら薄っぺらい経験しかしてねぇけど、でも刑事として頑張ってるつもりだ」
だからその目を信じてくれれば嬉しいが、疑われても仕方がないと肩を竦めるリオンの胸元でウーヴェの髪が小さく左右に揺れ、またいつものように甘く見ていたことを反省する言葉も胸元にこぼれ落ちると、リオンの手がウーヴェの背中に宛われてぽんと叩くことでそれを許す。
「・・・やはり、ハシムは・・・利用されて、・・・たのか?」
途切れる言葉が悲しくてウーヴェの頭に頬を宛うように首を傾げたリオンは、これもまだ確証はないが、可能性として最も高いのはハシムが両親の不法滞在をネタに主犯格の二人から脅迫されていたこと、あと、事件で命を落とした大人たちは誰かしら繋がりがあり、主犯格の二人だけじゃなく全員が顔見知りの可能性も高いと告げればウーヴェの肩がびくりと揺れる。
「あの事件で本当の意味での純粋な被害者は・・・・・・多分お前だけだ」
「ハシムが殺された、のはどうなんだ・・・!?」
あの事件の最中、人としての尊厳や当然の権利をすべて奪い取られたウーヴェに唯一残されたか細い救いはハシムという異国の少年だったが、その少年は無惨に命を奪われてしまった、それは被害者とは言わないのかと、顔を上げることなく詰られたリオンだったが、自身でも軽く驚きを覚えるほどの冷たい声で、残念ながら被害者であり加害者だと告げてウーヴェの顔を勢いよく上げさせてしまう。
「どう、いうことだ・・・!?」
「・・・ハシムは利用されていた。お前の側にいて信頼させろと命じられていてもおかしくない。もしそうなら・・・いくら脅されていたからと言っても、ある種の加害者だ」
「だ、けど、被害者でもある・・・!あ、んな・・・最期・・・っ!」
加害者である前に被害者だと言い張るウーヴェの顔色は本当に悪くて痛ましかったが、その頬を両手で挟んでじっと目を見つめたリオンは、10歳にもなれば色々な知恵をつけるし、また周囲にいる人間によって色々教えられることを己の経験から呟いて苦く笑えば、ウーヴェの目が見開かれていく。
「ハシム、も、・・・そう、だと言う、のか・・・?」
「不法滞在するような親に育てられた子どもだから何をしでかすか分からないとは思わねぇけど、周囲がそう思っても、それを犯人が利用してもおかしくはない」
自分の場合にはマザー・カタリーナという絶対に揺るがない保護者がいたにも関わらずに様々な悪事に手を染めてしまった。
そんな存在がハシムにはいただろうか、また彼の両親にもそんな人たちがいなかったとすれば、当然彼の周囲にいる大人はどんな類の人たちかは見なくても分かることだ。
己の過去を振り返っているようで断言するのは心苦しいが、悲しいかな現実はそうなんだと呟くリオンにウーヴェが口を開いては閉ざすが、ハシムはそうじゃないと俯いてしまう。
「俺もそう思いたい。だからもしかすると、この日記から何かが分かるかも知れない」
そう思って日記を持って帰ってきたから、一緒にそれを読もうと告げてウーヴェの顔を覗き込んだリオンは、長い長い沈黙の後に短く分かったと返されて安堵に胸を撫で下ろす。
「・・・さっきのようにお前の刑事としての目を甘く見ることになるかも知れないが・・・」
あの時、ずっと側にいてくれたハシムの優しさは嘘や仕組まれたものではないと思いたいと、過去の己の経験からくる感情に従ってしまう気持ちを抑えきれずに声に滲ませたウーヴェにリオンが無言で頷いて髪にキスをする。
「・・・分かってる。そのことでお前を責めたりしないから安心しろ」
事件の最中、きっかけはどうであれハシムの存在がお前の望みだったことは分かっているつもりだとも伝えると、リオンの胸に小さな子どものような吐息がこぼれ落ちる。
「ダンケ、リオン」
ウーヴェの身体にしっかりと腕を回して抱きしめたリオンは、そのままソファに倒れ込むと、見下ろす形になったターコイズ色に浮かぶ悲哀にきつく目を閉じる。
何不自由なく家族の愛情に囲まれて育っていたウーヴェがある日突然巻き込まれた事件、その中で知り得た同い年の少年の悲しい最期を思えば彼が事件の中で背負っていた役目が気になるが、それよりも何よりも年端もいかない少年に一方的にすべてを押しつけた周囲の大人たちへの怒りが静かにわき起こってくる。
今日の午後に得た確信だったが、純粋な被害者がウーヴェ一人であることは疑いようがなく、それだからこそ事件を企んだ犯人たちの意図に怒りと底知れない恐怖を感じてしまう。
それをまだウーヴェに伝えるわけにはいかないために何とか押し殺したリオンは、疑いを抱きつつも全幅の信頼を寄せる目で見上げられて自分が不安を感じる以上にそれを感じているのが誰であるかを思い出せとのマザー・カタリーナの言葉も思い出すと、自然と口元に笑みが浮かび上がる。
「・・・大丈夫だ、オーヴェ」
「リオン?」
「たとえ事件でハシムがどんな役目を背負わされていたとしても、どんな事情が死んだ人たちにあったとしても、お前にとってのハシムはあのとき感じていたものから何も変わらない」
だからそんな不安な顔をするなと、ただ一人ウーヴェだけを安心させる顔で頷くと、その思いが伝わったのか一瞬笑顔が浮かびそうになるものの、まるで何かに引きずられたかのように表情が曇り、戻りかけていた血の気が失せていってしまう。
「オーヴェ?」
「・・・な、んでも・・・な、い」
「またそんなことを言うだろ?」
その顔を見てなんでもないと言われて納得できる奴がいるのかと声を潜めるリオンに、ウーヴェがきつく目を閉ざして顔を背け掠れた小さな声で悪いと謝罪をする。
「・・・ま、いいか」
今だけは仕方がないと己を納得させるリオンにウーヴェが安堵の溜息をつくが、リオンに引き起こされてソファに座り込むと、それだけで限界なのかそのままリオンの身体に寄りかかってしまう。
「親父たちに話をしてこなければならないけど、オーヴェはどうする?」
レオポルドたちとの約束を果たすために階下に行って話をしなければならないがどうすると問えばウーヴェの髪が小さく左右に揺れたため、小さく頷いてその髪にキスをする。
「じゃあレオと一緒に寝てろよ」
「・・・・・・そう、する」
「ああ」
どのくらい親父達と話をするのかは不明だが、なるべく早く戻って来ることを告げ、その間レオと一緒にベッドにいろとも告げると、己の身体とソファの間でウーヴェが小さく頷き震える吐息を零す。
「・・・リーオ・・・」
出来るだけ早く戻って来てくれと密かに懇願されてしまったリオンは、確約は出来ないがとにかく親父達と話をしてくることを再度告げてウーヴェを立ち上がらせると、力が入らないようなウーヴェを支えてベッドに連れて行き、先日のようにテディベアを枕元に置いて掛け布団を引っ張り上げる。
「レオがいるから大丈夫だろ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「眠れねぇかもだけど、ちょっとだけでも寝てろよ」
眠る事で考えすぎる脳を休める事になると苦笑するリオンをウーヴェが全幅の信頼を置く目で見つめ、その言葉に従う様に目を閉じる。
自ら閉ざした世界の中で瞼と喉に濡れた感触を覚えたウーヴェだったが、程なくして聞こえてきたドアが開閉された音からリオンが出て行ったことを知り、目を閉ざしたまま手をテディベアの足の上に載せて何度か深呼吸を繰り返すのだった。
ウーヴェを部屋に残すことに後ろ髪を引かれる思いを感じていたが、階下で己が降りてくるのを待っているレオポルドのことも無碍には出来ず、何度目かの溜息を吐きながら階段をゆっくりと降りていくと、リビングからレオポルドが出てくる所だった。
「親父」
「ウーヴェは落ち着いたか?」
リオンの声に顔を上げて苦笑するレオポルドにリオンが階上を振り仰ぐことで回答すると、レオポルドの剛毅な顔に苦痛の色が浮かび上がる。
「親父、二人で話をしたい」
「俺と?」
「・・・アリーセや・・・オーヴェのお母さんがいれば感情的になってしまう」
そうなってしまえば己の思っていることを上手く伝えられないと苦笑するリオンに頷いたレオポルドは、先日ギュンター・ノルベルトとアリーセ・エリザベスが飲んでいた部屋ではなく、彼自身の書斎へとリオンを案内する。
「ここなら呼ばない限り誰も来ない」
己の妻や娘には悪いと呟くレオポルドに無言で頷いたリオンだったが、少し待っていろと言い残して恋人の父が出て行く背中を見送ると、この屋敷の規模からすれば小部屋と呼べるがリオンの感覚からすれば十二分に広い部屋を見回し、壁一面の本棚や重厚なデスク-ウーヴェのクリニックにあるものよりも大きくてどっしりとしていた-へと目を向けると、デスクの上に置かれた写真立てに気付く。
写真立てはいくつかあり、妻のイングリッドが一人で笑顔を浮かべているものや旅行先の記念写真らしきもの、娘夫婦と一緒に写ったものもあったが、もっともリオンの目を惹きつけたのは、年月が経過していてセピア色になっている家族写真だった。
この写真をリオンはウーヴェから見せられていたことを思い出し、写真立てを手に取ると、感情に途切れながらも教えてくれた当時のことがありありと浮かんでくる。
家族仲の良いことで評判だったバルツァー家だが、当主のレオポルドの言葉を借りれば、天から授かったウーヴェが来るまでは家庭は崩壊状態だったそうだ。
その最悪の状態からここまで仲良くなる、その原動力が写真の中央でレオポルドの膝に座って嬉しそうに笑っているウーヴェであることは疑いようがなく、また己の恋人がそれだけの力を家族に与えられたのだと気付くと、レオポルドがウーヴェを特別な子どもと呼ぶ真意の一端だけでも理解できそうだった。
ウーヴェに対する嫉妬は最早感じ無いが、仲の良かった頃の話を聞くと今の関係との差を感じて疼痛を覚える。
この写真のように家族の中心にいたのがウーヴェであることは疑う余地はなく、その中心が無くなってしまった家族には埋めようのない穴が開いたことは簡単に想像出来るが、抜けた中心であるウーヴェも埋めようのない何かを喪ったのではないのか。
写真立てを手にじっと考え込んだリオンは、その喪ったものが家族であることに気付くと、本当に唐突に、まるで天啓を得た人間のように呆然と目を瞠ってしまう。
全てを持つ世界の中心にいる特別な子どもだと思っていた恋人だが、その人となりや過去を知れば知るほど、彼の抱えている孤独が浮き彫りになってくる。
その孤独が己が抱えるそれと似通っていることに気付き、無意識に片手で口元を覆ったリオンは、ドアが開く音にも反応できず、改めて気付いたウーヴェの孤独とそれを顕著に表すあの広い家で、自分と付き合うまでは誰も家に来たことが無いと教えられた事も思いだし、口を覆った手で思わず己の頬に指を立ててしまう。
「────っ!」
己は孤独に耐えられずにいつも傍にいてくれる、無限に湧いてくる寂寥感を埋めてくれるその場限りの関係の誰かを捜していたが、同じ孤独を抱えた恋人は誰にもそれを求めず、あんなに広い家に一人きりだったのだ。
そしてそれら全ては、ウーヴェが幼い頃に巻き込まれた事件が切っ掛けだったのだ。
誘拐事件が無ければきっとウーヴェは孤独とは無縁だっただろうし、家族の誰とも関係を断たなくても良かった筈だった。
それを思うと事件とそれを企てた主犯格の二人に強い憎しみを抱いてしまうが、それ以上にウーヴェの孤独やウーヴェと距離を取らざるを得なかったレオポルド達のことを思ってやるせなくなってしまう。
「・・・・・・なんて顔をしているんだ、お前は」
不意に響いた声に思わず飛び上がったリオンは、写真立てを手にしたまま声の方へと振り返り、レオポルドが酒の用意を持って来た事に気付くと、切なげな顔で溜息を吐いて頭を左右に振る。
「ひでぇ顔してる?」
「ああ。面白いから写真を撮らせろ。後でウーヴェに見せてやる」
「うわ、最悪!」
お願いだから止めてくれと小さく叫んだリオンは、本棚の前に置かれたコーヒーテーブルに座れと言われて頷き、腰を下ろすと本棚に写真立てをそっと置く。
その写真立てに目を細めただけで何も言わなかったレオポルドは、己とリオンの為に持って来たバーボンをテーブルに置くと、リオンと向かい合う席に腰を下ろす。
「その写真を見ていたのか?」
「この間オーヴェに見せて貰ったなぁって」
同じ写真がウーヴェのアルバムにもあったことを伝えたリオンが見たのは、レオポルドの目に淡く浮かんだ優しい色だった。
「・・・そうか」
だが聞こえてきたのはその短い一言だけだったため、逆にレオポルドの思いの深さを感じ取って口を閉ざしてしまう。
「明日は休みだな?」
「ああ、うん」
「俺と二人で話すのは明日ではだめか?」
二人で話したいと言われたが、明日でも良いかと問われて一瞬考え込んだリオンだが、親父が望むのならと頷くと、レオポルドが二つのグラスに氷とバーボンを入れてリオンに一つを差し出す。
「・・・飲め」
「何だ、奥さんがいると飲めないからここで俺と飲みたいだけかよ」
「うるさいぞ」
本当はそうではないがつい茶化すように目を細めるリオンを一睨みしたレオポルドだったが、それ以上は何も言わずにグラスを差し出すと、リオンもその意を酌んで受け取る。
「・・・乾杯」
「乾杯」
グラスの尻を軽く触れあわせた後、ほぼ同時に喉を灼くバーボンの味と香りを楽しむと、レオポルドが満足げに溜息を吐く。
「ウーヴェは・・・・・・その写真をまだ持っていたんだな」
「結構大きな箱に入れてた」
その箱を俺は見た事がなかったが、その中に写真が沢山入っていたこと、アルバムも何冊か入っていたことから、ウーヴェが見たくないと思いつつも捨てることが出来なかったものであると分かったとも告げたリオンは、グラスを傾けるレオポルドに目を細め、ウーヴェの心が長い間揺れ動いていた証だとも気付くと、いつかに切っ掛けを得てそれ以降いくつもの出来事を乗り越えながら確信へと変化を果たした思いを口にする。
「オーヴェ・・・親父や兄貴を憎んでるって許せないって言ってたけど・・・」
本当は心の何処かで許したかったのではないのか。
リオンの呟きにレオポルドが溜息をついて視線を窓に向けると、静かに立ち上がってカーテンを開ける。
背の高い大きな窓から見える夜空に浮かぶのは秋の月で、月明かりが庭を照らしだしているのを見つめながらもう一度溜息を吐く。
脳裏に浮かんでいるのは、人として持っている当然の感情や表情すら喪失して、ただ車椅子に座っているだけの幼いウーヴェの姿で、ウーヴェが以前のように笑ってくれなくなったとしても、人としての感情を少しでも取り戻してくれるのならば何でもしようとギュンター・ノルベルトと二人で決めたことも思い出されてしまう。
「俺たちを憎んででもあの子には生きていて欲しかったからな」
だから憎んでいるのは当然だと苦く笑うレオポルドにリオンが目を細め、その思いが通じてずっと確かに憎みながら生きてきたウーヴェだが、本当はそうではないのではないのか。付き合いだしてから幾度も互いの心の裡をさらけ出さなければ乗り越えられないような出来事を乗り越えて来た今なら理解出来るがと断りを入れたリオンは、苦い顔のまま振り向くレオポルドではなくグラスの中で琥珀の海に浮かぶ氷を見つめてぽつりと呟く。
「・・・ゾフィーが殺された時、俺の姉を殺したヤツを同じ目に遭わせたいって思った。だからオーヴェの前から消えた」
その間、幼馴染みの家にいたが毎日考えていたのはどうやってジルを見つけ出して殺すか、この身体の中に芽生えている憎しみをどうやってあいつにぶつけるべきかということだけだったとグラスをくるりと手の中で回転させるとレオポルドが無言で先を促す。
「だけどそんな俺をオーヴェは迎えに来てくれた。・・・ゾフィーの事件が終わってからオーヴェが教えてくれたのは・・・いつまでも人を憎み続けることは出来ないってことだった」
「・・・・・・・・・」
姉を亡くして自暴自棄になったリオンを迎えに来たウーヴェだが、その後時間を掛けて日頃の言動でリオンに教えたのは、いつまでも人は憎しみを抱えて生きることは出来ないと言うことだった。
「憎しみは全ての原動力にもなる。だけど前を向いて歩きだす力も奪ってしまうことにもなる。いつまでも憎しみに囚われていると前に進めないって教えてくれた」
己の患者に対して日頃から伝えていることなのかも知れないが、その時の俺にとってその言葉は憎しみに囚われた心を救い出してくれるものだったと透明な笑みを浮かべたリオンは、レオポルドが驚きの顔で見つめてくる事に気付いて肩を竦める。
「人にそう言っておいて自分は違うなんてオーヴェは無いと思う」
だから実はもう親父や兄貴のことは憎んでいないのではないかとグラスを傾ければ、ならば何故俺たちを避けるとレオポルドが返すと、リオンの顔が親しい人間でも滅多に見ない真剣なものになる。
「憎んでないけれど許せない、そうなのかなと思ってたけど、もしかすると別の思いがあるのかも知れない。俺ももうジルを憎んでねぇけど許せねぇし」
憎しみをいつまでも抱き続けられない為に昇華したとしても許せるかどうかはまた違うだろうと頷くリオンだが、その脳裏には己がレオポルドを護衛した時の様子が浮かんでいた。
あの時ウーヴェは苦痛に歪む顔で親父を守る必要など無いと言い放ったが、その翌日には助けてくれてありがとうと言ったのだ。
その言葉がリオンの仕事に対する労いではないことはすぐに察することが出来た為、ならばレオポルドの命を守ってくれた事への感謝なのだと分かったが、いくら売り言葉に買い言葉のようなものであっても前夜に言い放った言葉と真逆の思いを伝えるだろうか。
その時の言動がどうしてもリオンの中で整合がつけられずにいたが、もしかするとその整合性の無さがウーヴェの本心を表しているのではとも呟くと、レオポルドが窓際から席に戻ってくる。
「どういうことだ」
「許してないって口では言ってるけど、何か違う気がする」
ウーヴェのように上手く言葉で説明できないのがもどかしいが、もっと他に何かあるのではないのかと顎に手を宛がったリオンは、レオポルドがバーボンを注いでくれたことに礼を言い、両手でグラスをしっかりと持ってくるくると回転させる。
「ハシムの死の責任を感じているんじゃないのか?」
「それは確かにあるだろうなぁ」
確かにハシムに対する贖罪の思いは何よりも強いが、本当にそれだけだろうかと呟くリオンにレオポルドも重苦しい溜息を吐く。
「・・・・・・明日は一日家にいるのか?」
「んー、オーヴェがいるのなら。出掛けるってのなら一緒に出掛ける」
「分かった。・・・・・・今日はもうこの話は止めておこう」
あの子の心をここで思ったとしてもきっと正解は分からない、分からないことを考え込んでも仕方がないと肩を竦める恋人の父にリオンも頷くと、気分を切り替えるようにレオポルドが足を組み替える。
「ヴィーズンに行かねぇって言ってるけど、今年こそ一緒に行って欲しいなぁ」
「あの子は人が多いところはあまり好きではないからな」
「そうだけどさ、でもヴィーズンを一緒に盛り上がりたいのになぁ」
テントで歌ったり踊ったりはしないが、せめてマスビールを飲んでチキンを食べたいと肩を落とすリオンを同情の目で見つめたレオポルドは、会社の取引先から招待状が届いているが毎年行っていないこと、古くからの友人がブルワリーと顔見知りなのでいつでも言えばテントで席を押さえてくれることを告げると、途端にリオンの目がぎらりと光り顔が歓喜に輝き出す。
「今年こそヴィーズンに行く!」
「・・・・・・無駄だと思うが、頑張ってみろ」
「最初から諦めちゃ何もできねぇ!」
だから頑張ってウーヴェを誘って年に一度のビール祭りに参加すると拳を握ると、レオポルドがさすがにウーヴェの祖父であり育ての親であることを示すような顔でリオンの宣言を笑い飛ばす。
「せいぜい頑張れ」
「くそー!その言い方オーヴェそっくり!」
親父のくそったれと恋人の父を面と向かって罵倒したリオンは、良くもそんな事を言えるな、今すぐ追い出すぞと凄まれても怯むどころか憎たらしい顔でレオポルドを見返す。
「さー、オーヴェが待ってるから部屋に行こうっと」
その憎たらしげな顔と言葉にレオポルドが舌打ちをした時、ドアが小さくノックされて不安そうな女性の声が聞こえてくる。
「・・・・・・レオ」
「ああ、リッドか。どうした」
レオポルドの声にドアが開いて顔に不安を浮かべたイングリッドが姿を見せると、リオンがたった今まで浮かべていた憎たらしげな顔を一瞬で掻き消して不気味なとウーヴェが称する表情を浮かべ、立ち上がってイングリッドの前に向かう。
「オーヴェのお母さん、親父が今日は俺とここでずーっと酒を飲むって言ってました」
「ま・・・・・・!」
「おい!」
「俺は身体のことを思えば減らした方が良いと思ったんですけど、止められませんでした」
反省していますと殊勝な声で軽く頭を下げたリオンだが、振り返ってレオポルドを見た顔はどう見ても反省などしていない、それどころかレオポルドがイングリッドに睨まれているのが心底おかしくて仕方がないと言いたげな顔だったため、思わず椅子の肘置きを掴んで腰を浮かせたレオポルドは、イングリッドが心配と怒りを綯い交ぜにした目で見つめている事に気付いて咳払いをする。
「リッド、俺とそいつのどちらを信じるんだ」
「・・・・・・どちらの話も半分に聞いておくわ」
「ちぇ」
さすがにウーヴェの母だ、そう簡単に引っ掛かってくれないかと舌を出すリオンを軽く睨んだイングリッドだが、リオンが表情を三度切り替えてイングリッドと向き直ったため、彼女も軽く息を飲んで出てくる言葉を待ち構える。
「明日、ハンナの朝飯が食えるのを楽しみにしてます」
「・・・・・・伝えておきましょう」
「ダンケ、オーヴェのお母さん。・・・・・・オーヴェを一人にしてるので、そろそろ戻ります」
表情と言動とが一致しないことへの戸惑いを感じつつも、己の息子の恋人が外見や言動だけでは理解出来ない心の動きをすることに気付き、頷いてついリオンのくすんだ金髪に手を宛がって優しく撫でてしまう。
その手の動きがリオンにとっては意外でもあり懐かしい人の温もりを思い出させるものでもあったため、ただ目を瞠って細くて白い手が己の頭から離れていくのを見守ってしまう。
「お休みなさい、リオン。・・・・・・ウーヴェを頼みますね」
「あ、う、うん・・・・・・お休み・・・・・・」
心なしか呆然と挨拶をしたリオンは、笑いを堪える顔のレオポルドに何も言わずに部屋を出て行くと、静まりかえった廊下を進みウーヴェの部屋に向かう階段を登っていくのだった。
リオンが出て行く背中を見送った二人だが、イングリッドがリオンが座っていた席に腰を下ろしたため、レオポルドが小さく溜息を吐いて今日はこれで止めておくとバツの悪そうな顔で告げる。
「・・・・・・ええ」
「リオンがどうしてもウーヴェと一緒にヴィーズンに行きたいそうだ」
「それは・・・・・・難しいでしょうね」
「ああ。でも頑張るそうだ」
無駄な頑張りにならないように何か助言をしてやってくれと妻に告げたレオポルドは、妻の顔が安堵に綻んだことに気付き、咳払いをして先程己が開けたカーテンの向こうへと目をやる。
「・・・・・・月が綺麗だな、リッド」
「ええ」
リオンやウーヴェと比べられない長い間一緒にいる夫婦にはその言葉で思いが伝わり合うようで、妻が夫の横に静かに移動すると夫もそんな妻を安心させるように握られている手に手を重ねるのだった。
ウーヴェが眠るベッドに小さな声で断りを入れつつ潜り込んだリオンは、己の動きに気付いて小さな声を挙げるウーヴェの髪にキスをし背中から守るように抱きしめる。
父や兄を憎んでいるからこそ、今でもメディアを通じて見聞きしただけで頭痛を覚えたりするのだろうが、ならばあの時のあの言葉はどんな思いから出てきたのか。
己のあまり賢くない頭では理解出来ないと小さな溜息を吐いたリオンは、ウーヴェの白っぽい髪に顔を寄せてもう一度キスをすると、今度は大きく欠伸をして目を閉じる。
「お休み、オーヴェ」
明日はこの屋敷で何が出来るのだろうか、何が起きるのだろうかと呟いて朝食を楽しみにする気持ちのまま眠りに落ちるのだった。
そんなリオンの腕の中では眠っているはずのウーヴェが苦痛に顔を歪め、縋るものがそれしかないと言うように枕元のテディベアの太い手をきつく握りしめているのだった。
2014/10/05


