その声がテレビから大音量で流れ出した瞬間、ウーヴェは生まれて初めてかも知れない経験をしてしまう。
貴重なそれを与えたのは最愛にして永遠の恋人であるリオンだったが、加害者は被害者が受けたダメージどころか被害者がいることすら理解していない顔で拳を突き上げてカウチソファで膝立ちになっていた。
ウーヴェの怒りを恐れるように足下に転がり落ちた円形のクッション-マイスターシャーレを象ったもの-を見下ろした後、クロスワードに没頭しながら心地よい世界を漂っていたウーヴェを現実に引き戻した暴力発生装置を睨み付けると、見られた方はそんな視線をものともしない顔で拳を突き上げ歓喜の舞を今にも踊り出しそうだった。
その歓喜の舞を踊るためにラグの上に降り立ったリオンという名の暴力発生装置は、背後から突如漂ってきた季節外れの冷気を感じて顔を強張らせてしまう。
幼い頃から手の付けられないほどの暴れっぷりを発揮してきたリオンを冷気一つで固めたウーヴェは、恐る恐る振り返る恋人にそれはそれはきれいな笑みを浮かべて腕を組む。
「……オーヴェ…?」
「なぁ、リーオ。マイスターシャーレって実際は重いのか?」
「へ!?」
ここの床に転がるこれはそれを模したものだからさぞかし軽いだろうが、顔面に直撃すると結構な衝撃があるんだが知っていたかどうなんだ経験してみるかと、立て板に水の勢いでリオンに苦言を呈したウーヴェは、瞳の色が顔中に拡散したようなリオンの顎を指先で持ち上げ、こんな時であってもリオンが思わずうっとりしてしまうような笑みを浮かべる。
「なぁ、どうなんだ?」
「や、どうなんだって言われてもさ、俺もマイスターシャーレを持ったことねぇから分かんねぇ…っ…」
「ふぅん。でも、そのクッションが飛んできて顔にぶつかることは経験できるよな?」
その言葉を言い終えるとごく自然にしゃがみ込んで円形クッションを手に取ったウーヴェは、事情を察して逃げ出そうとするリオンを言葉一つで呼び止める。
「俺の大切なリーオ。────クッションをぶつけられる痛みを思い知れ」
「へぶっ!!」
高らかに宣言をした後、リオンの顔面にクッションがクリーンヒットし、両手を叩いて珍しく鼻息を荒くふんと言い放ったウーヴェは、情けない顔で上目遣いに睨んでくるリオンを睨み返す。
「何だ?」
「……痛かった!」
「俺も痛かったぞ」
「不可抗力だ!」
「ほう?俺がクロスワードをしているときにクッションをぶつけてきたのが不可抗力だった?不可抗力とはどういう意味か知っているのか?」
それを言うのならお前にクッションをぶつけた俺の行為は正当防衛だと腕を組めば、過剰防衛だとリオンが喚いてどっちも譲らないことを示した時、テレビからゴールを決めた瞬間とはまた違うどよめきが沸き起こり、ほぼ同時にテレビを見つめてしまう。
テレビの中央では観戦にスタジアムに訪れていたサッカー好きな女性政治家が拳を突き上げて吼えるような仕草をしていたが、あまりに興奮したのか、シートに立ち上がって歓喜を表していた。
だが、その周囲の人たちが諫めるように彼女に手を伸ばすが、それよりも先に彼女の足がシートからはみ出してしまい、衆人環視の中その身体がシートとシートの間に落ちてしまう。
「……な、オーヴェ」
「何だ」
「うん……カウチで飛び上がってごめん」
もしかするとあんな風になっていたかも知れないと反省をするが、それよりも先に反省すべきことがあると思い出したのか、床に落ちたクッションを抱き上げながらウーヴェの前に近寄ると、不満を訴えるように口角が下がっている口に小さな音を立ててキスをする。
「クッションをぶつけてごめん」
「…………」
その殊勝な態度は珍しいもので、さすがにウーヴェもそこまで反省の意を示すのならばと態度を軟化させようとしたが、テレビから聞こえてきたホイッスルで試合終了だと知った途端、リオンがつい今し方見せていた態度をがらりと変えてクッションをギリギリと締め上げつつ、己が応援するチームに敗北を与えた敵を呪うような低い声で罵詈雑言を捲し立てる。
その言葉を聞いていられないときつく眉を寄せたウーヴェは、これは何を言ってももう無駄だと諦めの溜息を吐き、リオンの手からクッションを奪い取るとそれをソファに置いて枕代わりにするようにソファに寝転がる。
ウーヴェがソファに横臥したことに気付いたリオンは、ウーヴェに覆い被さるように手を付くが、じろりと睨まれて眉尻を下げる。
「オーヴェぇ、ごめーん!」
「うるさい!」
「ごめーん!」
クッションを投げつけたこともソファの上で飛び上がったことも、またたった今己が吐き出した罵詈雑言もごめんなさいと、一気に思い当たるすべての悪事の謝罪をしたリオンは、見下ろすターコイズの双眸が睨む強さから見つめる優しさに変化をした瞬間を見逃さずに顔を寄せ、まだ口角を下げていようか上げようか思案している唇に再度キスをする。
「ごめん、オーヴェ」
「……もう良い」
ただ、クッションをぶつけられるという初体験をさせてくれたお前にお礼がしたいが、そのお礼はサングリアで良いと笑うと、お礼の指定があるのか、しかもそれはお礼という名の罰だとリオンが情けない声を上げ、ウーヴェが楽しそうに笑みを浮かべてリオンの鼻をぎゅっと摘む。
「ふがっ!」
「な、リーオ。お前が作ってくれるサングリアが飲みたい、な」
「……オレンジ多め?」
「そう。シナモンは少しだけで良いな」
鼻の頭を触れ合わせながらどちらからともなくくすくすと笑うと、互いの背中に手を回して今までの半暴力行為を忘れるように許すように背中を撫でる。
「ゲームも終わったし。今から作ってさ、シャワーの後に飲もうぜ、オーヴェ」
「そうだな。じゃあシャワーをしてくるから作っておいてくれ」
一足先にベッドルームに戻ることを伝えたウーヴェは、立ち上がって伸びをするリオンの頬にキスをし、美味しいサングリアを飲ませてくれと囁く。
「もちろん」
期待してくれて良いと笑うリオンに頷き、何気なくテレビを見たウーヴェは、先程シートから落下する醜態をテレビで中継されてしまった女性政治家を少しだけ気の毒そうに見つめ、明日のスポーツ欄が楽しみだと笑ってクロスワードを片手にリビングを出て行くのだった。
その後、リオンが愛情をたっぷり込めて作ったサングリアを一瞬で飲み干したウーヴェは、もっと味わってくれと肩を落とすリオンに顔を寄せ、極上の味だったと己が味わったそれをリオンの唇に直接伝えるのだった。
~2014.08.03まで公開。
世間はワールドカップでした(笑)


