「────オーヴェ」
「どうした、リオ……!?」
クリニックの二重窓の前に立ち、小雪がちらつく外界を見るとはなしに見ていたウーヴェは、背後から密やかな声で名を呼ばれて振り返ると同時に、己の想像よりも遙かに近い位置に恋人の蒼い瞳を発見して目を瞠るが、そんなウーヴェの驚きを倍増させたのは、その恋人が浮かべている不気味としか言いようのない笑みだった。
「な、なんだ……?」
「あ、なんでそんな顔して逃げんだよ」
今の自分の顔を見て見ろ、誰もが逃げ出すぞと、言葉と態度で逃げを示すウーヴェに盛大にむくれたリオンは、せっかく仕事で頑張ってきたのにその態度はなんだと口を尖らせる。
「何だも何も、お前が不気味な顔をするからだろう……?」
それについては自分に非はないが、仕事で頑張ってきたお前を労わないのは良い事ではないと、素直に認めずに咳払いをした後に肩を竦めたウーヴェは、期待に光る蒼い瞳に笑いかけ、雪の為に少し湿っているくすんだ金髪を撫でて抱き寄せ、こめかみにキスをする。
「お疲れ様、リーオ」
「ん、ダンケ、オーヴェ」
くすぐったさとそれ以上の情愛を感じて目を細め、逆にウーヴェの背中に腕を回してその頬にキスをしたリオンは、ウーヴェの気持ちが弛んだ瞬間を見逃さずに、青い眼をぎらりと光らせて一声吼える。
「バレンタイン・チュー!」
「!?」
咄嗟には意味が理解出来ない叫び声にウーヴェの目が白黒し、先程より真剣に逃げようとするが、リオンの腕が背中に回っている為にそれも出来ず、コマ送りのように近づいてくるリオンの不気味な顔を己の手で何とか遮ろうと努力するものの、無駄な抵抗は止せと笑われてしまい、そのままぶちゅっとキスをされてしまう。
「~~~~~っ!!!」
ウーヴェが目を白黒させる場面などきっと誰も見た事がないだろうが、唯一見た事のある-と言うよりもウーヴェにそんな表情をさせることが出来る筆頭であるリオンが間近で恋人が慌てふためく様を堪能した後、満足そうにぷはぁと息を吐いて笑みを深める。
一方は確かに満足したのだろうが、もう一方は当然満足するはずもないどころか、徐々に不満と憤懣が蓄積されていき、今のは一体何だったんだ、リオン・フーベルトと低い声に総ての思いを込めて吐き出してくる。
「ん?今日はバレンタインだろ?」
だからバレンタインにちなんだキスをしてみました。
朗らかに笑ってやはりウーヴェとするキスは最高だと言い放つリオンを、視線だけで凍り付かせられそうなウーヴェがじろりと睨み、バレンタインにちなんだキスなど聞いた事が無いぞと呟くと、俺も今日初めて聞いたと返されて瞬きを繰り返す。
「何だって?」
「ん?俺の同期で内勤にオリバーってのがいるんだけどな、そいつすげー日本の芸能人が好きなんだって」
何だったか、アイドルとか何とか言っていたと眉を寄せたリオンに、更に険しい顔でだからそれが何だと言い放ったウーヴェは、そのアイなんとかの歌の中にバレンタイン・キスというのがあるそうだと教えられて一瞬唖然とするが、意味が分からないと首を左右に振る。
「動画を見せて貰ったけどさ、日本語だからさっぱり分からねぇんだよなー」
そう言えばカインの家に下宿している留学生は確か日本人だったから、意味を教えてくれるかもと己の思いつきが最高だと手を打ち付けるが、その件のオリバーが言うには、バレンタインの時に日本ではチョコを配るらしい。その時に皆がチョコをあげるから目立たないのでキスをして好きな彼氏の意表を突くんだってと、更に意味の分からない言葉を続けられてウーヴェが頭痛を堪える顔で俯いてしまう。
「…………それは日本での話だろう?」
残念ながらここはドイツで、バレンタインなどという外来の風習に馴染みがない為にその日にチョコを買ってプレゼントすることもないし、また自分たちの周囲でそれをしている人を見た事もないと言い放ち、肩を竦めるリオンに向けてとどめの一言を放つ。
「それに、キスをするのにわざわざ馴染みのないバレンタインを持ち出す必要などない」
「それはそうだけどさぁ……オーヴェとキスしたいじゃん?」
いつもいつでもいつまでもお前とキスしたいと思う俺の恋心を良くも木っ端微塵にしてくれたなと、うっすらと涙すら浮かべたリオンがウーヴェを恨めしそうに睨み付け、オーヴェの朴念仁くそったれと、恋する男の純情を踏みにじる恋人を詰る言葉を捲し立てる。
「もー良い。もうオーヴェとキスしねぇ!」
「……ふぅん?」
良いんだな、本当にそれで良いんだなと、まるでいつかの出来事を立場を変えて繰り広げた二人だったが、ウーヴェが眼鏡を軽く押し上げて腕を組みむくれるリオンの前に顔を突き出すと、俺が言ったのはわざわざバレンタインというイベントを持ち出す必要はないと言うことなんだがと告げると、ウーヴェの言葉の意味を察したリオンの青い眼がみるみる見開かれるが、損ねた機嫌をあっという間に戻すことはしないと教えるように開いた目を眇めてくる。
「……だから?」
「うん?────リーオ」
自信家の顔で見つめられて名を呼ばれてしまえばいつまでも不機嫌でいられるはずはなく、口は不満を表すように尖っているが蒼い瞳は嬉しそうに細められていて、もう一度と呟いてウーヴェの口元に笑みを浮かべさせる。
「リーオ」
「……バレンタインを出さなくてもキスして良いって?」
「お前がそうしたいんだろう?」
リオンの言葉に条件反射的に返したウーヴェだったが、その後ウーヴェの手が眼鏡のフレームを軽く撫でた為、リオンの下がっていた口角が不意に上を向く。
「そーゆーことにしておきますかー」
「何だそれは」
「んふ、ナイショ」
すっかり機嫌を直した顔で笑うリオンに苦笑を深めたウーヴェは、その日本のアイドルにちなむ訳ではないがと咳払いをし、リオンの首にするりと腕を回して抱き寄せると、期待に薄く開く唇にキスをする。
「……バレンタイン・キスか?」
「そうそう」
わざわざバレンタインを持ち出さなくても良いが、こうして何かの口実をつけてするキスも大好きと笑うリオンにウーヴェも笑みを浮かべると、日本のアイドルも面白い歌を歌っているんだなと笑ってリオンの目尻にキスをする。
「そーだな。オリバーに言わせるとみんなで若い子を応援するんだってさ」
「ふぅん」
自分には理解出来ない事だが、そのオリバーとやらが幸せならば良いんじゃないかと二人同時に肩を竦めると、腹が減ったからそろそろ帰ってご飯を食べようと笑い合う。
「今日の晩飯はなーんだ?」
「ベーコンをたっぷり入れたポトフなんてどうだ?」
寒いし温まる食事をしてビールを飲んで、日本のバレンタインを真似してチョコを食べるなんてどうだとウーヴェがコートを腕に引っ掛けながらリオンの問いに答えると、今日一番の笑みを浮かべてリオンが賛成と手を挙げる。
「チーズ入れたらダメか?」
「パルメジャーノなら良いかもしれないな」
それだったら買い置きしているチーズを切って食べようと、更にリオンを喜ばせることを伝えたウーヴェは、クリニックの戸締まりを確かめ、一足先に外に出ているリオンの隣に並ぶ。
「今日もお疲れ様、ダーリン」
「ああ。お前もお疲れ様」
さあ、刑事と医者の衣を脱ぎ捨てて互いを思い合う二人になろうと囁かれてくすぐったそうに首を竦めたウーヴェは、小雪がちらつく街中にゆっくりと愛車を走らせるのだった。
その夜、暖炉の前に置いたソファに二人で並んで腰を下ろし、ウーヴェが用意していた大量のチョコの中から一枚を抜き出したリオンがそれを食べ、時々ウーヴェにも食べさせながらバレンタインと言っても何も無い穏やかな一日の終わりを迎えるのだった。
~2014.03.13まで公開
バレンタインデーキスvv


