冬がもうすぐそこまで来ていることを証明するような霧が街を包み、冬物のコートとマフラーが無ければ寒く感じるようになった今は、当然のように太陽が姿を消す時間も早くなってしまっていた。
急激に冬に近づく街を今日も忙しく飛び回っている恋人の姿を想像し、どうか怪我などしないで職分を全うできますようにと内心で呟いて大型本のページを繰っていると、ソファに置いた携帯が映画音楽を流し始める。
「Ja」
ただ一人を示すそれに自然と口元が綻んで目元も柔らかくなってしまうが、そんな彼の顔を間近で見た友人などは見たものが信じられないと言いたげな顔になってしまう程、その電話に出るときは甘い顔になっていた。
その顔で携帯を耳に当て、疲れた腹が減ったという地を這うような声を聞いた瞬間に顔を引き締め、お疲れ様と出せる限りの優しい声で疲れを労い、今は何処にいるんだと暖炉の上の時計を見ながら問いかける。
もうすぐお前の家が見えてくると返されてソファから立ち上がり、キッチンに向かう前にパントリーから保存しておいたスパイスやハチミツを取り出した彼は、家が見えたと聞かされて今度はキッチンから廊下に向かい、ドアベルが鳴り響く前にドアを開けて恋人を出迎える。
「ハロ、オーヴェ」
「ああ、お疲れ様。お帰り、リオン」
携帯をカーディガンのポケットに落とした彼は、声が現すように疲労感を漂わせる恋人の冷たい頬に両手を宛がい、今日も一日お疲れ様と優しく労いながら感謝と敬意の思いを込めて額に口付ける。
その優しいキスにリオンの目元も和らぎ、刑事の顔からウーヴェを愛する男の貌になると、ごく自然と口元に笑みが浮かんでくる。
「うん……今日も頑張った」
「ああ、本当にお疲れ様。先に何か食べるか?」
「オーヴェはどうした?」
今日はいつもに比べれば遅い時間だが、夕食-すでに夜食の時間になっていた-はどうしたと問われ、軽いものを食べたと答えながらリオンが腰に腕を回してきたことに気付いて首を傾げてリオンの肩に軽く頬を当てたウーヴェは、腹が減ったと言うよりも寒いと返されて近くにある蒼い瞳を覗き込む。
「何かさ、腹の中から暖まるものが欲しい」
「…そうだな、少しだけ待てるか?」
「うん、平気」
二人で長い廊下を歩いてキッチンに入ると、リオンは壁際のテーブルに軽く尻を乗せて溜息を零し、ウーヴェは疲れを滲ませるリオンの為に手早く暖まるものを用意しようと冷蔵庫を開けて中身を確かめる。
「先にシャワーを浴びてくるか?」
「んー……面倒くせぇ」
余程疲れているのか、人差し指の爪をカリカリと引っ掻きながら呟くリオンに苦笑し、じゃあそこで座って待っていてくれと告げた後は少しでも早く暖まって貰おうと手早く冷蔵庫からチーズを取り出して鍋をコンロに載せるが、リオンが背中から腰に腕を回して肩に頬を押し当ててくる。
「どうした?」
「………な、オーヴェ、このままだったら作りにくいよな」
背後から抱きしめられてしまえば当然ながら行動が制限されてしまうが、それに気付きながらもひっそりと問いかけてくるリオンの心が傷を負っていることを危惧し、動くときには合図をするから一緒に動いてくれと苦笑混じりに告げると無言の了解が方に宛がわれた頬から伝わってくる。
「チーズはエダムで良いか?」
「何でも良いや」
身体の餓えよりも心の餓えを満たすように身を寄せてくるリオンに極力いつもと変わらない口調で問いかけ、鍋で小麦粉をバターで炒め、ブイヨンと牛乳を注いで沸騰してくるのをじっと待つ。
「今日は忙しかったのか?」
「んー…なんかさ、ボスが一人でカリカリしてた。きっと奥さんとケンカしたんだぜ」
「八つ当たりされたんじゃないのか?」
「大丈夫。八つ当たりされたからちゃんと仕返しをした」
顔を見ることなく今日の出来事を問いかけて引き出したウーヴェは、以前上司が隠し持っていたチョコとを奪い取る為にその上司の妻に告げ口をしたことを聞かされたが、今回はどんな仕返しをしたんだと問いかけそうになってやや躊躇った後で口を閉ざす。
今人の肩に懐くように顔を寄せるリオンがしでかすことは大抵がロクなことではなく、その被害者には心底から同情してしまいたくなるようなことが多かった。
だから今回の仕返しもそうだろうと納得し、鍋の中に白い泡がいくつも出来ては消えていくことに気付き、火を止めてチーズを鍋の中にすり下ろしていく。
「…イイ匂い」
「今日はチーズが一種類だけだが、もし気に入ったのなら次からはいくつかチーズを混ぜてみようか」
「良いな、それ。すげー楽しみ」
ふわりと笑みを浮かべた気配を察して自然と笑みを浮かべ、チーズが溶けたそれを器に盛る為に少し離れてくれないかと腕をぽんと叩いて合図を送ると、大人しく腕が離れて背中が不意に寒さを感じて震えてしまう。
身動きが取れないと不満に感じる心よりも、離れてしまった後の寂寥感の方が重く感じてしまい、一つ頭を振って器にチーズスープを入れてテーブルに置くと、椅子を引いたリオンが待ちきれない顔でスプーンを握る。
その子供じみた行為を溜息一つで受け入れてどうぞと告げるが早いか、リオンが一口スープを食べてもう一口とゆっくりと食べていく。
無言で進む食事の光景にウーヴェがお代わりがまだあることを伝え、夕食の残りのパンを軽くトーストして差し出すと、ダンケと短い一言が投げ掛けられるがそれ以降は言葉らしい言葉は流れ出す事は無かった。
隣の椅子に腰を下ろし、頬杖をついてリオンが食べている横顔を見つめていたウーヴェだが、お代わりと器を出されて笑顔で受け取る。
「リオン」
「ん?」
「今日は警部の八つ当たり以外で嫌な事はなかったのか?」
「……いくつかあったけど……オーヴェに抱きついてたらどうでも良くなった」
さっきの背後からのハグの真相を教えられて小さな溜息をついたウーヴェは、大丈夫なんだなと確認を装った声で心配していることを伝えると、小さいながらもしっかりとした頷きが返ってくる。
「うん────オーヴェがいるから、平気」
「そうか」
スープをただ一心不乱に食べながらもウーヴェの存在を絶対に忘れない顔で頷いたリオンは、隣に感じる温もりに心底感謝しつつスープとパンを綺麗に食べ終え、満足げな吐息を一つ。
「美味しかった」
「そうか」
その溜息が満足の証であることをしっかりと気付いているウーヴェは、美味かったの一言で総ての労力が報われたことにも気付き、疲労感が滲んでいる顔に掛かる前髪をそっと掻き上げて姿を見せた額に再度キスをする。
「シャワーを浴びて来い」
そうして疲れと苛立ちとをシャワーで洗い流して明日に備えればいいと告げ、青い眼が己を見る為に動いたことに気付いて一つ頷く。
「オーヴェも入るなら入る」
「………仕方がないな」
子どものような顔で強請られて仕方がないと口では言いつつも、一緒にシャワーを浴びることで心の疲労が取り去れるのならばと己を納得させて立ち上がり、二人でシャワーを使う準備の為にベッドルームに向かうと、その後をリオンがのそのそとついてくるのだった。
二人でシャワーを使って先程の料理と合わせて身体を温めたリオンは、ベッドの中で背中に回されている腕の温もりのおかげで、心の中で棘のある塊になっていた感情が丸く解れていくことに気付き、腕の持ち主であり人の心の機微を敏感に察することの出来る己の恋人に感謝の思いを伝える代わりに顔を寄せて目を閉じる。
言葉に出せない感情をしっかりと感じ取るだけではなく、それが少しでも昇華するようにと言葉を選んで態度でも示してくれる恋人の存在が先程食べたスープのように胸に染み渡り、更に身を寄せれば呆れた様な溜息が零されるがそれでも背中に回った腕は離れる事はなく、絶対的な信頼を寄せられる相手に守られている安堵感がじわりと芽生えてくる。
幼い頃からそんな存在に餓えていたことをウーヴェと付き合いだしてから気付かされたリオンは、それを教えてくれたのが彼であったことへの感謝とそんな彼から愛されていると言う自負により、沈んでいた心が浮上してくることに気付いてそっと呼びかけると、まだ眠っていなかったのかと苦笑混じりに返される。
「ダン、オーヴェ」
「……ああ。もう気にするな。明日もまたしっかりと働いてこい」
己の職分を全うしてこいと伝えながら額に口付けてくるウーヴェに口の両端を持ち上げたリオンは、もちろんそのつもりだと伝えて逆にウーヴェの額に口付ける。
「おやすみ、オーヴェ」
「おやすみ」
互いに今日一日の疲れを労いあい、額に残したキスの温もりを明日への糧にしようと決めてお休みと伝えると、どちらからともなく目を閉じて寝心地が良い場所を探るように身動ぐが、ぴたりと決まったことを互いに伝えるように動かなくなり、夢も見ない眠りに向かったことを知らせる寝息が軽く室内に流れるのだった。
2011.11.20-12.19


