今日も一日無事に患者の診察を終えた満足の溜息を零したウーヴェは、窓の外の景色を視界に納めつつ、窓際のデザイナーズチェアの肘置きに尻を乗せて足を組む。
窓の外の景色は夏の名残をとどめる雲がゆったりと流れていくが、窓を開けた時に感じた風の冷たさに秋の気配を感じ取り、もうすぐここを休診する時期が近づいている事を教えてくれていた。
クリニックを休診して出掛ける話を数日前に己の右腕でもあり、プライベートでは友人でもある彼女に話をしたが、何も言わずにただ無言で頷いて三週間近くの休暇をどのように過ごそうかしらと穏やかに笑うことで了解してくれたのだ。
その笑顔がウーヴェの気持ちを少しだけ軽くし、そのように言葉を選んでくれた友人に感謝の言葉を告げたのだが、その彼女がコーヒーと彼女特製のチーズケーキを運んできてくれた事に気付き、顔だけを振り向けて白い歯を見せる。
「今日はチーズケーキだけど、コーヒーで良いかしら」
「ああ。ありがとう、リア」
「食べましょうか……ック」
「リア?」
窓際のテーブルにトレイを置いて笑顔でウーヴェを見たオルガだったが、肩が軽く上がると同時にしゃっくりが響き渡り、ウーヴェが眼鏡の下で目を瞠る。
「…失礼、しゃくっりが…っ」
止まらないと、手で口元を覆い隠しながら顔を背けて息を止めたり吐き出したりしながら何とかしゃっくりと止めようとする彼女だったが、ウーヴェが微苦笑を浮かべて気にするなと告げるものの、その間もやはりしゃっくりは止まらなかった。
そんな彼女を見かねたウーヴェが顎に手を宛がって何かを思い出すような仕草を取った後、自分の両耳に真っ直ぐに指を差し入れつつ驚く彼女に同じようにしろと視線で促す。
「……こう?」
「ああ。30秒ほどじっとそのままにしていろ、リア」
彼女が訝りつつもウーヴェの声に従ってじっと指を耳の穴に差し入れた姿のまま立ち尽くしているが、30秒経った頃に指を抜いて今のは一体何のおまじないなんだと苦笑すると、しゃっくりの止め方だと言われて半信半疑の眼差しで友人を見返す。
「本当に?」
「そうだな…どうだ?」
「………止まったわ」
まだ少しだけ違和感にも似たものを感じるが、先程のようにしゃっくりは出てこなくなった事にオルガが驚いて口元を手で覆いながらウーヴェを見れば、言った通りだろうと眼鏡の下でウーヴェが片目を閉じる。
「しゃっくりの止め方なんてどこで知ったの?」
「あいつらと集まった時にそんな話になった事があったんだ」
「…あなたのお友達は医者が多いものね。ねえ、他にはないのかしら?」
「そうだな。後は何故かは分からないが、砂糖を口の中で溶かしてみたり、冷たい水を一気に飲むと止まると言われているな」
彼女がソファに腰を下ろした為、ウーヴェもさっきまで尻を乗せていたチェアに腰掛け、自慢の手作りチーズケーキを手元に引き寄せたその時、ドアが激しくリズムを付けてノックされる。
そのノックから誰が来たのかを察した二人は、ちらりと視線を重ねて瞬間的に譲り合うと、今日はウーヴェが溜息混じりに立ち上がってドアをそっと開ける。
「ハロ、オーヴェ!」
「………お前には食べ物センサーか何かが付いているのか?」
「へ?」
どうしてそう高確率でお茶の時間になればやってくるんだと溜息混じりに呟いたウーヴェは、リオンの青い眼がまん丸になった事に苦笑し、中に入れと頭を傾げて指し示して休診の札が掛かっているドアを確認して閉めると、オルガからコーヒーのカップを受け取ったリオンがウーヴェが腰を下ろしていたチェアの横に座って満面の笑みを浮かべる。
「今日はチーズケーキかぁ…!」
どうして俺が来る時に俺の好物であるチーズケーキを作ってくれるのかな、二人ともそんなに俺の事を愛してくれているんだと、二人にしてみればただ絶句してしまう事をさらりと言ってのけたリオンは、二人に最大級の賛辞を込めたダンケを告げてケーキにフォークをぐさりと突き刺すが早いか、一気に半分近くを口の中に詰め込んだ為に咳き込んでしまう。
「慌てて食べるからだ、バカたれ」
「だってさ…美味そうだったし…っ…ヒック」
「あ…」
リオンの喉から零れる開閉音にオルガが目を瞠り、ウーヴェがウンザリしたような顔で額に手を当てて天井を見上げる前で、リオンが苦しそうにしゃっくりを繰り返し始める。
「リア、水を持ってきてくれないか?」
「え、ええ」
しゃっくりを止めるのならば先程の方法を教えればどうだとオルガが視線で訴えると、ウーヴェのターコイズ色の虹彩に珍しく悪戯っ気の強い光が浮かんだ為、彼女は何も言わずに水を取りに行きグラスとボトルを手に戻ってくる。
「はい」
「ありがとう。────リオン、これを飲め」
「う、うん…」
ただの水だよなぁと訝りつつグラスを受け取り、ごく普通の水をごく普通のグラスで飲み干して溜息をつくが、その溜息が絨毯の上に落ちる前にしゃっくりが口から飛び出す。
「オーヴェぇ、止まらねぇ…!」
「…口を開けて舌を出せ」
「へ?」
「良いから早くしろ。リア、30秒計ってくれ」
「え、ええ」
全く事情が分からないのに口を開けて舌を出せと命じられて戸惑うリオンだったが、ウーヴェの顔がやけに真剣でどきりとしてしまい、素直に口を開けて舌を出したその時、ウーヴェがハンカチを手に取ったかと思うとそのままリオンの舌を鷲掴みにして軽く引っ張り出す。
「…ぃ、ひでででででっ…!ホーフェ、ひひゃい…っ!!」
「30秒だけだ、少し黙っていろ、リオン」
突然の暴行としか思えないその行為にリオンが青い目を白黒させるが、オルガが気の毒そうな顔で時計を見つめ、永遠にも感じた30秒が過ぎたと同時にリオンに噛み付かれないようにウーヴェが手を離し、チェアの背もたれを飛び越えた後ハンカチで手を拭いて苦笑する。
「オーヴェぇ!?」
「しゃっくりが止まらないんだろう?だから止めてやったぞ」
「へ!?」
どうだ止まっただろうと苦笑するウーヴェにリオンが己の腹を見下ろして暫く動きを止めてしまうが、確かにしゃっくりが止まったと勢いよく顔を上げてぱぁあと曇り空に日が差した時のように明るい笑みを浮かべて今度はウーヴェの鼓動を早めさせてしまうが、その顔が急激に不審なものへと変化を果たす。
「じゃあなんで俺は水を飲まされたんだ?」
「口の中に入っていたチーズケーキを流し込む為に飲ませただけだ」
「んなー!何だよ、それっ!!」
食べ物を咀嚼したばかりの口内は一般常識的に考えてもあまり綺麗なものではないだろうと肩を竦めたウーヴェは、ハンカチを逆に折りたたんでポケットに落とすと、ミルクは入れないのかとリオンを窺うように上目遣いに見つめる。
「……いれる、けどさぁ…」
「分かった」
お前の為にミルクを取って来ようとリオンの髪を一つ撫でたウーヴェが診察室を出て行こうとするが、その前にオルガが目を細めて静かに部屋を出て行く。
彼女のその気配りに内心で感謝の思いを伝えたウーヴェは、しゃっくりが止まったことは嬉しいが納得がいかないと拗ねた気配を漂わせ始めるリオンの背後に回り込むと、そっと後ろから抱きしめる。
「リーオ」
「……んだよ」
「チーズケーキがまだ残っているぞ?」
「………食う。コーヒーも飲む!」
でもその前にと断りをいれると同時にウーヴェの腕の中でくるりと振り返ったリオンは、驚いたように瞬きを繰り返す恋人を細めた視界で見つめた後、がっちりと顔を両手で固定し、青い眼を不気味に光らせてウーヴェの顔に冷や汗を浮かべさせる。
「止めろ、リオン!止めろといって…!!」
「痛かった!」
一際大きく吼えたリオンが、止めろ離せバカたれと目を吊り上げるウーヴェの口を塞ぐようにキスをし、息の根を止めるような深いキスへと変えれば、程なくしてウーヴェの手から力が抜けてだらりと垂らされる。
ウーヴェの身体から力が抜けたことに気付いて内心ほくそ笑んだ後、まるで吸盤が離れる時のように音を立てて唇を離したリオンは、ぐったりともたれ掛かってくる恋人の白い髪を撫でてこめかみにもキスをし、チーズケーキを食べようと歌うような声を挙げるが、その時ドアが静かに開いてオルガが戻ってくる。
「ウーヴェ?どうしたの?」
「…………リア、その男にケーキを食べさせる必要などない」
「あ、なんてことを言うんだよ、オーヴェ!リア、俺のチーズケーキちょうだい!!」
「え?何、何なの…?」
自分が不在の間に仲直りのキスでもしたと思っていたオルガだったが、ぐったりして額を押さえて座り込むウーヴェと対照的に浮かれまくっているリオンの様子からウーヴェが負けてしまったことを察するが、一体何があったのと問いかけてリオンの目がまるで砂糖の塗されていないシュトレンのような形に変化した事に気付いて口を閉ざす。
「……ウーヴェ、今日はお疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」
「あ、ああ…お疲れ様」
いつもの就業の挨拶をいつもとは全く違う声音で返したウーヴェは、オルガがそそくさと帰ってしまう背中を見送り、嬉々としてチーズケーキにかぶりつくリオンに最早何も言えずにただ深々と溜息を零すのだった。
翌朝、いつものように出勤してきたオルガにバツの悪そうな顔で昨日の事を謝罪したウーヴェは、事の顛末を知りたいと片目を閉じられた為、あの後家に帰って一騒ぎをしたが今朝も用意をした朝食を平らげて元気いっぱいに仕事に向かった事をぼそぼそと呟き、朝から見るには相応しい爽やかな笑顔で痴話げんかも程ほどにと返されてしまい、今日も一日忙しいですと言われて口の中で何事かを呟くが、気分を切り替えて今日も一日よろしく頼むと頷くのだった。
2011.09.24-10.19


