春の陽気と気の早い夏の熱気が入り混じったような不思議な暖かさに街が包まれている日曜日の午後、今日は午前中をホームでバザーの手伝いがあるために来られないと鼻を啜るような声混じりに恋人に告げられ、精一杯手伝ってくれば昼から好きなものを食べさせてやると宥め賺せ、機嫌を直せと携帯越しにキスを送ったウーヴェは、疲れて帰ってくるかも知れない恋人のために何を食べさせてやろうか考えながらリビングのソファでテレビを見ていた。
休息日である日曜には所謂家事をするなど以ての外だと、幼い頃から両親や兄姉に叩き込まれてきた為にすることが無く、晴天が広がる外を見ては一人で出掛ける事への寂しさを感じていた。
以前ならばスパイダーでドライブをしたり、その先で見つけた豊かな自然に心を落ち着けていただろうが、リオンと付き合いだしてからは一人きりで出掛ける事がめっきりと減ってしまっていた。
今まで一人で楽しめていた事に対し、最近では一人は寂しいと感じるようになっていたのだ。
己の心の変遷が愉快でもあり不思議でもあるが、それをもたらしたのがリオンである事実はウーヴェの胸の裡をひっそりと温めてもいた。
付き合いだして様々な出来事を乗り越えてきた自分たちだが、一緒にいられる事の楽しさだけではなく、逢えない夜の寂しさをも分け合うように感じていた。
いつか一緒に暮らそうと伝えたことはあるが、まだまだ具体的にいつからとは言えず、きっと期待しているだろうリオンを悲しませたり焦らせたりしている事は分かっていてもどうしても最後の一歩が踏み出せなかった。
そんなことを考えているとついつい気分が滅入ってしまい、見ていたテレビのスイッチを切るとそのままソファに身体を横たえ、定位置に座っているレオナルドの足を掴んで枕代わりにするために引き寄せるが、気分を切り替えるためにソファから立ち上がったウーヴェは、リビングにある総ての窓を開け放ち、春の空気を室内に巡らせるためにドアも開けて腰に手を宛う。
心地よい春風に目を細め、窓の外へと視線を向けた時、テーブルに置いていた携帯がただ一人を示す映画音楽を流し出し、慌てることなく耳に宛がって聞こえてくる声に心を弾ませる。
『ハロ、オーヴェ!』
「ああ。もうバザーは終わったのか?」
『うん、終わった!頑張ったぜ!』
どうだ凄いだろうと、胸を張る子供の声で告げられて小さく吹き出してしまうと、笑うなよと拗ねた声が返してくる。
春の陽気に相応しい明るい声に先程までの沈んだ気持ちも薄れていき、もうこちらに向かっているのかと笑み混じりに問いかけたウーヴェの耳に、甲高い金属音とリオンの悲鳴が流れ込み、一瞬にして表情を切り替えたウーヴェがリオンを呼ぶ。
『え、ちょ、ま…っ……ぎゃ────っ!!』
「リオン!?」
聞こえてきた悲鳴とその声に被さるように響く金属音、そして何かがぶつかったような音がウーヴェの鼓膜を震わせ、その痛みに携帯と咄嗟に耳から離してしまうが、慌ててリオンの名を呼び続ける。
「リオン?どうした!?」
大丈夫かと切羽詰まった声で問いかけるウーヴェだが、不意に携帯が沈黙してしまい、頭髪の色を顔中に広げたような顔色で携帯を握りしめて立ち尽くす。
つい今までいつものように陽気な声を出してこちらに向かっている事をそれとなく教えてくれていた筈だが、突然の驚愕の声と悲鳴、そして激しい衝突音。
リオンの身に何かが起きたことは間違いはないだろうが、全く予想が付かない事と、そもそもリオンが今どこにいたのかさえも分からない事に歯痒い思いを抱き、無駄だと思いつつ窓から上体を乗り出して住宅街の何処かにリオンの姿がないかを探し求めてしまうが、当然のように姿は見えず、ずるずると床の上に座り込んで白い髪をきつく握りしめる。
鼓膜に刻み込まれたような悲鳴が耳の奥で木霊し、きつく唇を噛み締めたその時、悲鳴の合間を縫って映画音楽が響き出す。
「!!」
その物音に慌てふためき、いつの間にか手放していた携帯を盲目の人のように手探りで探し、少し離れた場所で音と共に振動を伝えている姿を発見して傍まで膝で這っていく。
「リオン!!」
『オーヴェぇ…開けてー!』
「!?」
耳に押し当てて上擦った声で名を呼んだが、開けてくれと懇願されて一瞬どこを開けるのかを忘失してしまい、目を丸くしてその場に座り込んでしまえば、まるでその姿が見えていたかのようにリオンが苦笑し、今アパートのフロアにいるから開けてくれと告げられ、その言葉で我に返ったウーヴェがリビングを飛び出して長い廊下を走り抜け、玄関の壁に設置されているパネルを操作すると、安堵の滲んだダンという言葉が流れ出す。
「大丈夫なのか?リオン、一体何があ…」
『詳しいことは後で説明するからさ、次は玄関のドア、開けて』
日頃冷静な人間が冷静さを失った場合のパニックぶりについてはリオンは熟知している為、今ウーヴェがその状態であることをしっかりと見抜き、次にして欲しい事を冷静に伝えれば、ただ命じられるままウーヴェが玄関のドアを開け放ってリオンの姿を探すようにフロアに出て行く。
そして程なくしてエレベーターが開き、人影が見えたかと思うと、さすがにこればかりは無意識でも注意を払っている為にドアの間にサボサンダルを残してドアが完全に閉じないようにすると、笑顔を浮かべるリオンに駆け寄るとその身体に腕を回してきつく抱きしめる。
「リーオ…っ!」
「へへ、ごめん、オーヴェ。心配を掛けちゃったな」
「………良い」
無事ならばそれで良いとくぐもった声で呟き、そっとリオンの顔を窺うように顔を上げると、顔の彼方此方に擦り傷や打撲を示す痣を拵えた男前が子供のような顔で笑みを浮かべて立っていた。
その顔を見た安心からか、膝が崩れ落ちそうになるのを必死の思いで堪え、リオンの腰に腕を回して家に入ろうと促すが、ちょっと待ってくれと制止の声を掛けられて首を傾げる。
「これ…」
「………あ」
リオンが声と視線で指し示したのは、古びていても手入れだけはされている、ワイヤーらしきものが垂れ下がった青い自転車だった。
「ブレーキのワイヤーがさ、ぶちって…」
切れちゃったと情けない顔で自転車を見下ろし、肩を竦めたリオンに呆気に取られたウーヴェは、とにかく自転車を家に入れろと苦笑し、ドアを大きく開け放って迎え入れる。
「じゃあ…あの悲鳴は」
「うん、ブレーキが切れて、そのまま回収前の段ボールの山に突っ込んじまった」
痛かったと肩を落としながら鼻を啜るリオンの髪をそっと撫でて心配と安堵を伝えたウーヴェに、リオンが鼻の下を擦り剥きながらも自慢する子供の顔で笑い、何とか両足を突っ張ったから大丈夫だったともう一度肩を竦め、ウーヴェの髪に小さな音を立ててキスをする。
廊下でようやくキスを交わし、もう一度リオンの身体に腕を回して抱きしめたウーヴェは、耳に伝わる鼓動に胸を撫で下ろして目を閉じる。
「まさかブレーキがイカれるとは思わなかったなぁ…」
「どうするんだ?」
「ん?んー……オーヴェ、ワイヤーなんてもってねぇよな?」
ひとまず自転車を玄関から一番近いがほとんど使うことのない部屋に放り込み、肩を並べてリビングに向かう途中で問われ、この家には日曜大工に必要な道具や工具類は一切無いと少しだけ情けない声で告げれば、少し考え込んだ気配の後、今日は日曜日だから店は休みだし諦めたと突き抜けたような明るい声が聞こえ、思わずリオンを見たウーヴェは、そこに朗らかな笑みを浮かべている恋人を発見して目を丸くする。
「ワイヤーがあれば自転車の修理をしようと思ったけど、明日でイイや」
「自転車の修理など出来るのか…?」
リビングのソファに腰掛け、まじまじとリオンの顔を見つめながら問いかけたウーヴェは、その質問をするお前に驚くと言いたげな顔で見つめ返されてしまい、居心地の悪い思いを感じ取って顔を背けてしまう。
教会に併設された孤児院で育ったリオンは、幼い頃から力仕事を任されることが多々あった為、家の改装や作り付けの家具の付け替え等も当たり前のように出来るが、何だかんだ言っても全ては実家が手配する職人などが行ってくれていたウーヴェは当然日曜大工などしたことは無かった。
「フレームが歪んだとかならば話は別だけど、ブレーキが切れたぐらいなら慣れたものだって」
「…そうなのか?」
「うん、そう。オーヴェは余り自転車に乗らないし、ブレーキが切れた事なんて無いだろうから分からないだけだ」
ウーヴェが後ろめたい思いを抱かないように無意識に気を配り、だからそんな顔をするなと白い髪に手を差し入れて胸元に引き寄せた後、もう一度髪に口付けて破顔する。
「な、オーヴェ」
「………ああ」
リオンの言葉に何とか己を納得させたような顔で頷いたウーヴェだが、痛みを堪えるような小さな声に気付き、リオンの顔を覗き込んで瞬きを繰り返す。
「…消毒をするか?」
「え?痛いからイイよ!」
「ダメだ。傷口が化膿すればどうするんだ?」
「こんなの舐めときゃ治るって!」
だからお願い、酷くしみる消毒だけは止めてと泣きそうな顔で懇願するだけではなく、胸の前で手を組んでお願いオーヴェと縋られてしまい、ここまで言うのならば消毒など要らないだろうという楽観論と、冗談ではない、早く消毒をしてしまえと急かす悲観論が脳内で鬩ぎ合い、結果溜息一つを零して悲観論が姿を消してしまう。
「本当に大丈夫なんだな?」
「大丈夫だって。心配なら傷口を見てみろよ」
精神科医と言っても医者なのだ、外科の手当ぐらい出来るだろうと挑発するような笑みを浮かべられ、さすがに表情を険しくしたウーヴェは、リオンの顔に浮かび始めた痣を指先で確かめるように押さえて悲鳴を上げさせると、擦り傷と最も酷い手の甲の傷口を確認し、テーブルにその手を載せると、傍にあったミネラルウォーターのボトルを傾けて水を掛ける。
「いてぇ!!」
「汚れだけでも落としておかないとダメだ」
「痛い痛いっ!!」
リオンの悲鳴を無視するように水を掛けたウーヴェだが、汚れが流れ落ちたことを確認した後、濡れた手を再度掴んで口元に引き寄せ、労るようなキスを傷口近くに落とす。
「…痛くないか?」
「────キスしてくれたら、痛くない」
「バカたれっ」
「ははっ。でも本当なんだって、オーヴェ」
お前のキスのお陰で本当に痛みが消えたと笑い、服で濡れた手を拭いたリオンは、ダンと礼を言いながらウーヴェを抱き寄せて目を閉じる。
「オーヴェぇ、腹減った」
その声がいつもと全く変わらないそれだった為、深く溜息を零したウーヴェは、何を食べたいんだと問いかけ、この後二人で用意をすればあっという間に準備が出来て食べられると笑みを浮かべてリオンのくすんだ金髪を何度も撫でる。
「じゃあ手伝うからさ、早くしようぜ」
「分かった」
その様子から怪我が本当にただの掠り傷である事を知り、安堵の吐息を零すが、立ち上がりざまにリオンが不気味な笑みを浮かべた事に気付き、くっきりと眉間に皺を刻む。
「それにしても…」
心配して玄関から飛び出してきた時のオーヴェは本当に可愛かったよなぁと、青い眼を砂糖の塗していないシュトレンの様な形に変化させ、不気味なことこの上ない思い出し笑いを垂れ流すリオンに一瞬にして真っ赤になった後、己の醜態とも言えるその様を思い出して真っ青になったウーヴェは、忘れろと叫んでキッチンへと向かおうとするが、背後から伸ばされた腕がしっかりと身体に回されて身動きが取れなくなってしまう。
「離せ、リオンっ!」
「な、そんなに心配だった?」
「……!うるさいっ!」
「あー、まーたうるさいって言う。本当に素直じゃないんだからなぁ」
だがそんな素直でない事ばかりを吐き捨てる口とは違い、心や身体は本当に素直だと笑われ、これ以上はないほど真っ赤になったウーヴェは、新鮮な空気を求めて水面に顔を出した魚のように口をぱくぱくとさせてしまう。
「好きだぜ、オーヴェ」
「…っ、そんな事を言うお前は嫌いだ!」
「ホント、素直じゃねぇよなぁ」
まあったく、このドクターだけはとリオンが一声吼えたかと思うと、真っ赤になって顔を背けるウーヴェの顎をしっかりと掴んだ後、文句を言う為に開いていた口を己のそれで塞ぎに掛かるが、唇を離した直後、己の身体を取り巻く空気が一気に過去に遡ったことに気付いて素早くウーヴェから離れる。
「ごめんごめんっ!オーヴェ、許してっ!!」
「う・る・さ・い!」
「ごめーん!」
調子に乗ったと謝罪を繰り返すリオンに腕を組んだウーヴェが鼻息も荒く言い放ち、本当にごめんなさいと肩を落とすリオンを一瞥した後、昼食を食べるんだろう、用意をするから手伝えと溜息混じりに告げて今度こそキッチンに向かうのだった。
休息日である日曜には所謂家事をするなど以ての外だと、幼い頃から両親や兄姉に叩き込まれてきた為にすることが無く、晴天が広がる外を見ては一人で出掛ける事への寂しさを感じていた。
以前ならばスパイダーでドライブをしたり、その先で見つけた豊かな自然に心を落ち着けていただろうが、リオンと付き合いだしてからは一人きりで出掛ける事がめっきりと減ってしまっていた。
今まで一人で楽しめていた事に対し、最近では一人は寂しいと感じるようになっていたのだ。
己の心の変遷が愉快でもあり不思議でもあるが、それをもたらしたのがリオンである事実はウーヴェの胸の裡をひっそりと温めてもいた。
付き合いだして様々な出来事を乗り越えてきた自分たちだが、一緒にいられる事の楽しさだけではなく、逢えない夜の寂しさをも分け合うように感じていた。
いつか一緒に暮らそうと伝えたことはあるが、まだまだ具体的にいつからとは言えず、きっと期待しているだろうリオンを悲しませたり焦らせたりしている事は分かっていてもどうしても最後の一歩が踏み出せなかった。
そんなことを考えているとついつい気分が滅入ってしまい、見ていたテレビのスイッチを切るとそのままソファに身体を横たえ、定位置に座っているレオナルドの足を掴んで枕代わりにするために引き寄せるが、気分を切り替えるためにソファから立ち上がったウーヴェは、リビングにある総ての窓を開け放ち、春の空気を室内に巡らせるためにドアも開けて腰に手を宛う。
心地よい春風に目を細め、窓の外へと視線を向けた時、テーブルに置いていた携帯がただ一人を示す映画音楽を流し出し、慌てることなく耳に宛がって聞こえてくる声に心を弾ませる。
『ハロ、オーヴェ!』
「ああ。もうバザーは終わったのか?」
『うん、終わった!頑張ったぜ!』
どうだ凄いだろうと、胸を張る子供の声で告げられて小さく吹き出してしまうと、笑うなよと拗ねた声が返してくる。
春の陽気に相応しい明るい声に先程までの沈んだ気持ちも薄れていき、もうこちらに向かっているのかと笑み混じりに問いかけたウーヴェの耳に、甲高い金属音とリオンの悲鳴が流れ込み、一瞬にして表情を切り替えたウーヴェがリオンを呼ぶ。
『え、ちょ、ま…っ……ぎゃ────っ!!』
「リオン!?」
聞こえてきた悲鳴とその声に被さるように響く金属音、そして何かがぶつかったような音がウーヴェの鼓膜を震わせ、その痛みに携帯と咄嗟に耳から離してしまうが、慌ててリオンの名を呼び続ける。
「リオン?どうした!?」
大丈夫かと切羽詰まった声で問いかけるウーヴェだが、不意に携帯が沈黙してしまい、頭髪の色を顔中に広げたような顔色で携帯を握りしめて立ち尽くす。
つい今までいつものように陽気な声を出してこちらに向かっている事をそれとなく教えてくれていた筈だが、突然の驚愕の声と悲鳴、そして激しい衝突音。
リオンの身に何かが起きたことは間違いはないだろうが、全く予想が付かない事と、そもそもリオンが今どこにいたのかさえも分からない事に歯痒い思いを抱き、無駄だと思いつつ窓から上体を乗り出して住宅街の何処かにリオンの姿がないかを探し求めてしまうが、当然のように姿は見えず、ずるずると床の上に座り込んで白い髪をきつく握りしめる。
鼓膜に刻み込まれたような悲鳴が耳の奥で木霊し、きつく唇を噛み締めたその時、悲鳴の合間を縫って映画音楽が響き出す。
「!!」
その物音に慌てふためき、いつの間にか手放していた携帯を盲目の人のように手探りで探し、少し離れた場所で音と共に振動を伝えている姿を発見して傍まで膝で這っていく。
「リオン!!」
『オーヴェぇ…開けてー!』
「!?」
耳に押し当てて上擦った声で名を呼んだが、開けてくれと懇願されて一瞬どこを開けるのかを忘失してしまい、目を丸くしてその場に座り込んでしまえば、まるでその姿が見えていたかのようにリオンが苦笑し、今アパートのフロアにいるから開けてくれと告げられ、その言葉で我に返ったウーヴェがリビングを飛び出して長い廊下を走り抜け、玄関の壁に設置されているパネルを操作すると、安堵の滲んだダンという言葉が流れ出す。
「大丈夫なのか?リオン、一体何があ…」
『詳しいことは後で説明するからさ、次は玄関のドア、開けて』
日頃冷静な人間が冷静さを失った場合のパニックぶりについてはリオンは熟知している為、今ウーヴェがその状態であることをしっかりと見抜き、次にして欲しい事を冷静に伝えれば、ただ命じられるままウーヴェが玄関のドアを開け放ってリオンの姿を探すようにフロアに出て行く。
そして程なくしてエレベーターが開き、人影が見えたかと思うと、さすがにこればかりは無意識でも注意を払っている為にドアの間にサボサンダルを残してドアが完全に閉じないようにすると、笑顔を浮かべるリオンに駆け寄るとその身体に腕を回してきつく抱きしめる。
「リーオ…っ!」
「へへ、ごめん、オーヴェ。心配を掛けちゃったな」
「………良い」
無事ならばそれで良いとくぐもった声で呟き、そっとリオンの顔を窺うように顔を上げると、顔の彼方此方に擦り傷や打撲を示す痣を拵えた男前が子供のような顔で笑みを浮かべて立っていた。
その顔を見た安心からか、膝が崩れ落ちそうになるのを必死の思いで堪え、リオンの腰に腕を回して家に入ろうと促すが、ちょっと待ってくれと制止の声を掛けられて首を傾げる。
「これ…」
「………あ」
リオンが声と視線で指し示したのは、古びていても手入れだけはされている、ワイヤーらしきものが垂れ下がった青い自転車だった。
「ブレーキのワイヤーがさ、ぶちって…」
切れちゃったと情けない顔で自転車を見下ろし、肩を竦めたリオンに呆気に取られたウーヴェは、とにかく自転車を家に入れろと苦笑し、ドアを大きく開け放って迎え入れる。
「じゃあ…あの悲鳴は」
「うん、ブレーキが切れて、そのまま回収前の段ボールの山に突っ込んじまった」
痛かったと肩を落としながら鼻を啜るリオンの髪をそっと撫でて心配と安堵を伝えたウーヴェに、リオンが鼻の下を擦り剥きながらも自慢する子供の顔で笑い、何とか両足を突っ張ったから大丈夫だったともう一度肩を竦め、ウーヴェの髪に小さな音を立ててキスをする。
廊下でようやくキスを交わし、もう一度リオンの身体に腕を回して抱きしめたウーヴェは、耳に伝わる鼓動に胸を撫で下ろして目を閉じる。
「まさかブレーキがイカれるとは思わなかったなぁ…」
「どうするんだ?」
「ん?んー……オーヴェ、ワイヤーなんてもってねぇよな?」
ひとまず自転車を玄関から一番近いがほとんど使うことのない部屋に放り込み、肩を並べてリビングに向かう途中で問われ、この家には日曜大工に必要な道具や工具類は一切無いと少しだけ情けない声で告げれば、少し考え込んだ気配の後、今日は日曜日だから店は休みだし諦めたと突き抜けたような明るい声が聞こえ、思わずリオンを見たウーヴェは、そこに朗らかな笑みを浮かべている恋人を発見して目を丸くする。
「ワイヤーがあれば自転車の修理をしようと思ったけど、明日でイイや」
「自転車の修理など出来るのか…?」
リビングのソファに腰掛け、まじまじとリオンの顔を見つめながら問いかけたウーヴェは、その質問をするお前に驚くと言いたげな顔で見つめ返されてしまい、居心地の悪い思いを感じ取って顔を背けてしまう。
教会に併設された孤児院で育ったリオンは、幼い頃から力仕事を任されることが多々あった為、家の改装や作り付けの家具の付け替え等も当たり前のように出来るが、何だかんだ言っても全ては実家が手配する職人などが行ってくれていたウーヴェは当然日曜大工などしたことは無かった。
「フレームが歪んだとかならば話は別だけど、ブレーキが切れたぐらいなら慣れたものだって」
「…そうなのか?」
「うん、そう。オーヴェは余り自転車に乗らないし、ブレーキが切れた事なんて無いだろうから分からないだけだ」
ウーヴェが後ろめたい思いを抱かないように無意識に気を配り、だからそんな顔をするなと白い髪に手を差し入れて胸元に引き寄せた後、もう一度髪に口付けて破顔する。
「な、オーヴェ」
「………ああ」
リオンの言葉に何とか己を納得させたような顔で頷いたウーヴェだが、痛みを堪えるような小さな声に気付き、リオンの顔を覗き込んで瞬きを繰り返す。
「…消毒をするか?」
「え?痛いからイイよ!」
「ダメだ。傷口が化膿すればどうするんだ?」
「こんなの舐めときゃ治るって!」
だからお願い、酷くしみる消毒だけは止めてと泣きそうな顔で懇願するだけではなく、胸の前で手を組んでお願いオーヴェと縋られてしまい、ここまで言うのならば消毒など要らないだろうという楽観論と、冗談ではない、早く消毒をしてしまえと急かす悲観論が脳内で鬩ぎ合い、結果溜息一つを零して悲観論が姿を消してしまう。
「本当に大丈夫なんだな?」
「大丈夫だって。心配なら傷口を見てみろよ」
精神科医と言っても医者なのだ、外科の手当ぐらい出来るだろうと挑発するような笑みを浮かべられ、さすがに表情を険しくしたウーヴェは、リオンの顔に浮かび始めた痣を指先で確かめるように押さえて悲鳴を上げさせると、擦り傷と最も酷い手の甲の傷口を確認し、テーブルにその手を載せると、傍にあったミネラルウォーターのボトルを傾けて水を掛ける。
「いてぇ!!」
「汚れだけでも落としておかないとダメだ」
「痛い痛いっ!!」
リオンの悲鳴を無視するように水を掛けたウーヴェだが、汚れが流れ落ちたことを確認した後、濡れた手を再度掴んで口元に引き寄せ、労るようなキスを傷口近くに落とす。
「…痛くないか?」
「────キスしてくれたら、痛くない」
「バカたれっ」
「ははっ。でも本当なんだって、オーヴェ」
お前のキスのお陰で本当に痛みが消えたと笑い、服で濡れた手を拭いたリオンは、ダンと礼を言いながらウーヴェを抱き寄せて目を閉じる。
「オーヴェぇ、腹減った」
その声がいつもと全く変わらないそれだった為、深く溜息を零したウーヴェは、何を食べたいんだと問いかけ、この後二人で用意をすればあっという間に準備が出来て食べられると笑みを浮かべてリオンのくすんだ金髪を何度も撫でる。
「じゃあ手伝うからさ、早くしようぜ」
「分かった」
その様子から怪我が本当にただの掠り傷である事を知り、安堵の吐息を零すが、立ち上がりざまにリオンが不気味な笑みを浮かべた事に気付き、くっきりと眉間に皺を刻む。
「それにしても…」
心配して玄関から飛び出してきた時のオーヴェは本当に可愛かったよなぁと、青い眼を砂糖の塗していないシュトレンの様な形に変化させ、不気味なことこの上ない思い出し笑いを垂れ流すリオンに一瞬にして真っ赤になった後、己の醜態とも言えるその様を思い出して真っ青になったウーヴェは、忘れろと叫んでキッチンへと向かおうとするが、背後から伸ばされた腕がしっかりと身体に回されて身動きが取れなくなってしまう。
「離せ、リオンっ!」
「な、そんなに心配だった?」
「……!うるさいっ!」
「あー、まーたうるさいって言う。本当に素直じゃないんだからなぁ」
だがそんな素直でない事ばかりを吐き捨てる口とは違い、心や身体は本当に素直だと笑われ、これ以上はないほど真っ赤になったウーヴェは、新鮮な空気を求めて水面に顔を出した魚のように口をぱくぱくとさせてしまう。
「好きだぜ、オーヴェ」
「…っ、そんな事を言うお前は嫌いだ!」
「ホント、素直じゃねぇよなぁ」
まあったく、このドクターだけはとリオンが一声吼えたかと思うと、真っ赤になって顔を背けるウーヴェの顎をしっかりと掴んだ後、文句を言う為に開いていた口を己のそれで塞ぎに掛かるが、唇を離した直後、己の身体を取り巻く空気が一気に過去に遡ったことに気付いて素早くウーヴェから離れる。
「ごめんごめんっ!オーヴェ、許してっ!!」
「う・る・さ・い!」
「ごめーん!」
調子に乗ったと謝罪を繰り返すリオンに腕を組んだウーヴェが鼻息も荒く言い放ち、本当にごめんなさいと肩を落とすリオンを一瞥した後、昼食を食べるんだろう、用意をするから手伝えと溜息混じりに告げて今度こそキッチンに向かうのだった。
そんなウーヴェを追いかけて大股に歩くリオンの背中と髪を、開けっ放しにしていた為に通り抜ける春の風が労るように撫でていくのだった。
2011.04.21-05.19


