今日も一日頑張ったと、浮かれ気分で恋人が待つクリニックに足を運んだリオンは、元気よく重い扉を押し開いて中に飛び込む。
「オーヴェ!」
お前の愛する恋人がやって来たぞと、自ら言い放ち、どんな返事があるのかを待ってみるが、いつまで経っても返事はなく、首を傾げた後部屋の中を見回す。
初めてここに来た時にも感じたが、いつまでもこの部屋でのんびりとしていたい、自らの世界に帰りたくないとすら思える様な空気が部屋中を満たしているのだ。
本が好きな人には本がある空間を提供し、花が心を落ち着かせる事に一役買う人達にはその為の空気を与えてくれる部屋の何処にも恋人の姿はなく、受付をする秘書が座るデスクに手を付いてオーヴェともう一度小さく叫んでみる。
「────リオン?早かったな」
その声に誘われたのかどうなのか、診察室のプレートが控え目に掲げられているドアが開き、苦笑を浮かべたウーヴェがそれでも笑顔で出迎えてくれる。
「オーヴェ!逢いたかったぁ!」
「……………煙草臭い」
痩躯を思いっきりハグし、顔を擦り寄せると氷点下近くまで下がった声がヤニ臭いと呟き、そんなに臭いかと腕を持ち上げて匂いを嗅ぐが、確かに煙草の匂いが染み込んでいた。
「今日さ、小難しい顔をした上の人と会議があったんだよなー」
その時は禁煙じゃなかったために会議室を出た後、皆に煙草臭いと睨まれたが、やはり今も臭いかと眉尻を下げてしまえば、くすんだ金髪に手が差し入れられて気にするなと苦笑を深められる。
「オーヴェ」
「何だ?」
「うん。すげー、好き」
「…………急に何だ」
頭を撫でる手を掴んで口元に寄せ、大好きともう一度告白すると、突然のそれが気恥ずかしかったのかどうなのか、眼鏡の下のターコイズが左右に揺れるが、気分の鎮まりを教えるように揺れが止まったかと思うと、唇が綺麗な弧を描いて持ち上がる。
「リーオ」
俺もそうだと同じ言葉ではなくウーヴェだけが伝えられる言葉を囁かれた為、そっと眼鏡を取り上げると、唇が尖ろうとする寸前を唇で押さえ込む。
「────っん…っ」
唇で押しつぶすように押しつけると僅かに開いて招き入れてくれた為、遠慮することなく舌を絡めてここが何処であるかを忘れたようなキスをすると、鼻から抜けるような吐息が零れ落ちる。
ここが家ならば間違い無くこのままベッドに転がり込んでいる、そんなキスをしている時、コホンと小さな咳払いの声が聞こえ、どちらも一瞬にして我に返ると同時にリオンが顔を向け、ウーヴェはあろう事かリオンの顔を両手で突き飛ばしてしまう。
「ぃてぇ!!」
文字通り横っ面を叩かれたリオンだったが、ウーヴェが煩いと叫んだ為に口を閉ざして咳払いの主へと顔を向け、次いで気の抜けたような溜息を吐く。
「なぁんだ、リアかぁ」
「………お邪魔するつもりは無かったのよ、ごめんなさいね」
「リアなら構わないけど?なぁ、オーヴェ?」
今度一緒にベッドで遊ぼうと、目元をうっすらと赤くしたオルガの肩に手を載せたリオンだが、ひんやり冷たい空気が背後から伝わってきた事に気付いて身体を震わせる。
「………ごめんなさい」
「何か言ったかね、リオン・フーベルト?」
にっこりと空恐ろしい程の笑みを湛えて見つめられ、ナンデモアリマセンと反省の意を表すように項垂れると、後頭部に掌が叩き付けられる。
「ぃて」
「…リア、忘れ物でもしたのか?」
「え、ええ、定期券を忘れてしまったの」
そっと取りに戻ろうと思ったのだが、何しろ定期券はデスクの引き出しにしまってある為近付くことが出来なかったと、逆に申し訳なさそうに謝罪をされて首を振る。
「リアが気にする事じゃ無い」
本来気にしなければならないのは場所柄も弁えず、まるで発情しているかのようなリオンだとちらりと視線を流し、項垂れているリオンを更に項垂れさせる。
「あ、あまり叱らないであげてね、ウーヴェ。リオンも少しだけ調子に乗っただけなのよ」
「そうそう!だからあまり叱らないでくれよ、オーヴェっ!」
ぐりぐりぐりぐりとリオンの頭を撫でるには強すぎる力で撫でていたウーヴェに、オルガが定期券を取り出した後、リオンを庇うように眉尻を下げると、それに同調したリオンがそうだそうだと気勢を上げるが一際強くぐりぐりされて息を呑む。
「ほぅ。良かったなぁ、リオン。リアが味方になってくれるそうだ」
「あ、そ、そうだわ!お邪魔しちゃってごめんなさいね、私、これからデートだから」
ウーヴェの言葉から何かを察したオルガが慌てて取り繕うように告げ、そそくさとクリニックを出て行く。
味方になってくれると思っていた彼女が出て行った為、恐る恐る顔を上げたリオンは、腕を組んでそれはそれは怖ろしく綺麗な笑みを浮かべる恋人を発見して悲鳴を上げる。
「ひーっ!!!」
「どうした、リーオ。俺の太陽」
「ごごごごめっ…ごめんなさいっ!オーヴェ、ごめーん!!」
ベッドの中で言われると嬉しいその呼び方だったが、今この場限定で言えば限りなく怖ろしかった。
その思いからしどろもどろになりながらも謝罪をし、綺麗な綺麗な笑顔のウーヴェから後退って逃げ出そうとするが、さすがに行動を読まれていた為か、がしっと襟首を掴まれてしまって逃げられなくなる。
「リーオ」
「ごめーん!調子に乗った!!お願い許してオーヴェっ!!」
頭を抱えて小さな子供のように謝るリオンの襟首をしっかりと掴んでいたウーヴェは、ぱっと手を離すと、訝るように見上げてくるリオンの頬を両手で挟んで目を細める。
「俺はリアであれ誰であれ、三人でベッドインするつもりはないからな?」
「~~~~~ぅん、ごめん」
細めたターコイズに少しの怒りを浮かべた後、拗ねたように尖る唇をぺろりと舐めた後、下唇だけを唇で挟んで軽く引っ張る。
「…んぅ…っ」
「────そろそろ帰ろうか」
「うん。腹減った!」
下唇にだけキスをした後、帰ろうと笑みの質を変えたウーヴェにリオンも盛大に賛成し、腹の虫で現在の心境を伝えてくる。
「今日は何が食べたいんだ?」
「そーだな…パエリアなんてどう?」
「そうだな……そうするか」
街にある世界中の料理を提供してくれる各お気に入りの店から、今日はスペイン料理だと笑えばそれも良いと返され、帰りは運転するから行きは頼むとリオンが片目を閉じる。
「なら今日のデザートにはオレンジのムースを追加だな」
「いやっほぅ!オーヴェはサングリア飲んでも良いぜ」
「そうしようか」
二人笑顔でこの後の食事の景色を思い描きながらクリニックを閉める準備をし、今日も一日よく働きましたと両開きのドアの前で笑い合う。
ウーヴェとオルガとはまた違う、二人だけの儀式めいたそれを交わした後、ウーヴェがリオンの腰に腕を回して軽く身を寄せ、お疲れ様と万感の思いを込めて今日も労うと、ウーヴェもとの言葉とキスがこめかみに降るのだった。
2010.09.24-10.24


