089:瞳を閉じて

Lion&Uwe

 「・・・・・・オーヴェぇ・・・」
 「お疲れ様、リオン」
 玄関のドアを彼が開けた途端、どさりと大きな身体がもたれ掛かってきた為、慌てて手を伸ばして受け止めると、腕の中から盛大な溜息が零れ落ちる。
 「もう事件は解決したのか?」
 「何とか解決した・・・。年が変わったばっかでドラッグでイッちまったヤツの相手なんてなぁ・・・」
 腕の中のくすんだ金髪にそっと問い掛けると、先程は溜息だったが今度は盛大な不満が零れ落ちる。
 「お疲れ様」
 「うん・・・・・・疲れた」
 年が変わってまだ数日しか経過していない為、彼、ウーヴェのクリニックはさほど混み合うこともないが、刑事をしている恋人、リオンはどうやらそうではないようだった。
 リオンが一つの事件に絡んで家に帰る事が出来ない、せめて声だけでも聞きたいがそれも無理だと嘆きのメールを送ってきたのは、仕事始めのその日の午後だった。
 新年早々忙しいことだと苦笑し、事件が片付けばすぐに帰って来いと何時の頃からか告げる様になった言葉で帰宅を促せば、もちろんという一言だけが返ってきたのだ。
 そんな遣り取りから二日が経った今朝、やっと事件が片付いた、家に帰るとメールがあった為、夕食には好物を用意しておいてやると返事をし、そして待っていたのだ。
 もたれ掛かってくる身体から感じ取る疲労の色はかなり濃いものだった為、食事をせずに寝るかと問い掛けて少し離れてくれと頼めば、縋るように回されていた腕が言葉通りに離れて行き、身体を温めたいとぼそりと呟かれる。
 「風呂に入るか?」
 「うん・・・・・・オーヴェも一緒が良い」
 何時かのように一緒に入ろうと誘われ、ここで断ればきっと唇の両端が急下降する事に気付いて苦笑に止め、バスタブに湯を張ってくるから着替えを取ってこいと背中を一つ叩く。
 「お前の着替えは?」
 「そうだな・・・部屋で着替えるからバスローブだけで良い」
 廊下の途中にあるバスルームに入りながら声を掛け、ベッドルームに疲れた足を引きずりながら向かう背中に苦笑を深くしたウーヴェは、仕方がないと溜息を零してバスタブに湯を張っていくのだった。

 

 二人が入れば狭いバスタブなのだが、ウーヴェの前で背中を向けたリオンがそのまま背後に倒れた為に慌てて身体を支えたウーヴェは、己の胸にもたれ掛かって満足そうな溜息を零す恋人に掛ける言葉を無くしてしまう。
 伸びた前髪に隠れている目元には疲労の色が漂い、身体を挟むように立てた膝に重ねられた手には力など入っていない様子で、今回の事件が残した疲労感をありありと感じ取ってしまう。
 「リオン」
 「んー・・・?どうした、オーヴェ?」
 「いや・・・本当にお疲れ様」
 「うん・・・・・・ドラッグなぁ・・・最近多いんだよな、クスリ絡みの事件」
 目頭を指の腹で押さえながら呟くリオンにそうなのかと問えば、何か急に増えたような感じがすると返されて口を閉ざす。
 「オーヴェの患者にはいないか?」
 「今のところ薬物依存の患者数は増えていないな」
 「そっか・・・・・・疲れたなぁ」
 きつく目元を押さえて呟くリオンの手をそっと掴んだウーヴェは、何をするんだと振り仰いで来る顔に目を細めて掌にキスをする。
 この手が護るものは多数の人の命であり財産であったが、その手が疲労の極みにあってはいざという時に役に立たない。
 その危惧から自分の手を労れとの思いを込めて掌と手の甲に順に口付けると、逆の手が遠慮がちに差し出される。
 「こっちも」
 「・・・・・・・・・一度につき1ユーロでどうだ?」
 「相変わらずの暴利だよなぁ・・・」
 愛する人にするキスなんだ、1ユーロなどと言うなと呟くリオンだったが、その声にも顔にも嫌悪も呆れもなく、ただ言葉遊びを楽しもうとする様な色だけが浮かんでいた。
 「1ユーロは暴利か?」
 「だってさぁ、お前に1ユーロ払ったら、その分を取り戻す為にボスに煙草を売りつけなきゃならないだろ?」
 最近は何か小遣いが減らされたとかで売り上げが落ちるんだと、逆にウーヴェの手を掴んで指の節に小さくキスをしたリオンに何だその理屈はと笑うと、子供のような笑い声が小さく上がる。
 悪戯っ子を窘めるようにその手で顎から頬を撫でて髪を掻き上げた時、薄く生え始めた無精髭が手に触れたことに気付いて目を細める。
 「リオン」
 「んー?」
 「髭を剃らないのか?」
 「面倒くせぇ」
 ウーヴェの問い掛けにきっぱりと返したリオンは、頭上で苦笑が零されたことに顔を振り向け、セクシーだろと目を細める。
 「駄目か?」
 「・・・・・・前も言ったと思うがな、無理に色気を出す必要など無いだろう?」
 男の色気や色香は無理に作るのではなく気がつけば滲み出している、そんな風に感じさせるのが最高なんだと目を細めれば、青い眼が逆に大きく見開かれた後、悔しそうな舌打ちがバスルームに響く。
 「・・・・・・ちぇ」
 「それに・・・」
 何もしなくてもお前はもう十分にセクシーだ。
 ひっそりと、だがそれに気付いているのが自分だけだという自負を込めてウーヴェがリオンの濡れた髪に埋もれる耳に囁けば、一つ身体を震わせたリオンが後ろ手でウーヴェの頭を抱き寄せる。
 「じゃあさ、お前が剃って」
 「仕方がないな」
 自分で剃るのは面倒だ、指一本動かしたくないと宣言するリオンに呆れとも何とも言えない溜息を零すが、満更でもない顔で洗面台に置いてあるカミソリと自分が使っているシェービングクリームを手に取り、胸に頭を凭せ掛けて目を閉じるリオンの顎に泡を載せていく。
 「シェーバーじゃないから下手に動けば大変な事になるからな?じっとしていろよ?」
 「・・・・・・眠ってしまいそうだ」
 「本当だな」
 他愛もない言葉のスキンシップと背中と胸が温めの湯の中で触れ合い、優しい温もりで全身を包んでくれている中で目を閉じると、ベッドに入った時にだけ感じる安堵感が一気に押し寄せてきて瞼を下ろさせてしまう。
 くすくす笑いながら呟くリオンにその通りだなと答えたウーヴェは、丁寧な手付きでリオンの顎髭をそっと落としていく。
 バスルームにゆっくりと皮膚の上を滑る刃物が出す特有の音が小さく響いたかと思うと、次いで空間の心地好さに珍しくウーヴェが小さな、だが良く通る声で歌いはじめる。
 ウーヴェが歌うそれを聴きながら心地良い空気に包まれていると、次第に上と下の瞼がキスをしたいと言い始める。
 「その歌・・・誰の歌なんだ・・・?」
 耳に馴染みのない、だが何処かで必ず耳にしたことのあるその曲は一体誰が作った歌だと眠い目を瞬かせながら問い掛けたリオンは、ブラームスか誰かの子守唄だったと教えられて身体が求めるままに目を閉じる。
 「子守唄・・・?」
 「ああ。・・・・・・昔、良く歌ってくれていた」
 「ふぅん」
 どうか歌の続きを歌ってくれと、手を挙げて手探りでウーヴェの頬を撫でたリオンは、そのリクエストに応えるように歌うウーヴェの声に目を閉じて一頻り聞き入ってしまう。
 心身ともに疲れを癒してくれる手の持ち主は、二人きりになればこうして際限なく優しく自分を甘く包み込んでくれるのだ。
 その手に感謝をしてもしきれないと常に思うが、それを口に出しても思いの半分も伝わらないだろうと内心自嘲するが、思いの総てを伝えられないとしても愛している事に変わりはないと納得した直後、意識がすぅと遠のいて行ってしまう。
 「リオン・・・?」
 「・・・・・・・・・・・・」
 手を休めることなく動かし続けたウーヴェだが、ふと胸に掛かる重みが増した気がし、顔を覗き込んで軽く目を瞠る。
 青い眼が閉ざされて薄く開いた唇からは微かな寝息が零れだしていたのだ。
 どうやら自分が歌った拙い限りの子守唄であっても完全に寝入ってしまったようで、仕方がないともう一度溜息を吐いたウーヴェは、この温もりの中に何時までも留まっていたい気持ちも良く理解出来るが、やはり寝るには相応しくないと思い直し、自分の時よりも丁寧に最後の仕上げをするのだった。

 

 眠り込んだリオンを軽く揺さ振って目を覚まさせたウーヴェは、このままここで眠っていたいと欠伸混じりに呟く恋人に何とか着替えをさせる。
 バスルームの掃除などは明日の朝にしようと、リオンに少しだけ遅れるようにバスローブを羽織ったウーヴェだが、いきなり身体が宙に浮いてしまい、驚きの声を挙げて犯人を睨み付ける。
 「リオンっ!」
 「・・・・・・眠いんだから、早くベッド行こうぜ」
 「歩くから下ろせ!」
 「頭の上でギャーギャー騒ぐなよ、オーヴェ」
 あんまり大声を出して騒ぐとこの場で今すぐ犯すぞ。
 頭の下で告げられる物騒な言葉に呆然と口を開いたウーヴェだが、驚愕している間にベッドルームに連行されてしまい、バスローブを身に纏ったままベッドに投げ出される。
 「・・・着替えさせろ」
 「ああ、そっか。ごめん」
 さすがにそのままじゃあ風邪をひくし、疲れきっている俺に何をされるか分からないと、瞼を半分まで閉ざした顔で呟かれて更に絶句するが、宣言したとおりにされる前にベッドから転げ落ちるように逃げ出すと、クローゼットに飛び込んで手早く着替えを済ませて戻ってくる。
 その時には既にベッドのど真ん中に人の形に盛り上がったコンフォーターの山が出来ていて、山の端からはくすんだ金髪が見え隠れしていた。
 恋人の様子から今回の事件が本当に大変だった事を察し、お疲れ様と何度目かの労いの声を掛けたウーヴェはそのままベッドに潜り込んでリオンに背中を向け、サイドテーブルの照明を点けて読みかけの本へと手を伸ばそうとするのだが、背中から腰を滑って腹の前に腕が回されたことに気付く。
 「・・・眩しいか?」
 照明が眩しいかと背後を振り返りつつ問えば緩く首が左右に振られる感触が背中に伝わり、次いでこのままが良いと言う言葉がぽつりと闇の中に落ちていく。
 「リオン?」
 「このまま・・・良いか、オーヴェ?」
 「ああ」
 自分はまだ本を読んでいるがお前さえ良ければそのまま眠ってしまえと、腹の前に垂れている手の甲を撫でたウーヴェは、満足気な吐息が首筋に掛かった事に目を細める。
 「な、オーヴェ」
 「どうした?」
 手の甲をゆったりと撫で続けるウーヴェにぼそぼそと聞き取りにくい声が投げ掛けられ、先を促した後、パジャマの背中にぽつりと言葉が零れ落ちる。
 「・・・・・・さっきの歌さ、また聞きたい」
 「随分と気に入ったんだな」
 「うん。何か不思議な感じがする」
 今まで意識して聞いた事のない旋律だったが、何故か忘れられないと素直な言葉が告げられ、本のページを繰ろうとしていた手を止めて腹の前にある大きな手を掴んで顔の傍に引き寄せる。
 「昔さ、マザーが寝る前に歌ってくれたり本を読んでくれたりしたけど・・・」
 あの時は全く意味も理由も分からなかったと告げ、ウーヴェが歌う口元に手を宛がわれたことに気付いてその肩に額を軽く押し当てる。
 閉じた瞼の下に浮かぶのは、与えられた衣服をどれ程重ねても一向に暖かくならない部屋で小刻みに震えながら夜を過ごしていた時、小さくなったロウソクを片手に静かに部屋にやって来たマザー・カタリーナがそっと頬を撫で、眠りやすいようにと歌ってくれていた顔だった。
 あの頃、貧しい日々の暮らしの中でいつも考えていたのは、何故自分だけがこんなにも寒くいつも腹を空かせていなければならないんだと言う、誰に対するものでもない、この世に存在する総てのものに対する恨みだった。
 そんな己を振り切りたくて夢を見つけてそれをしっかりと握りしめ、今自分は夢見た大地をしっかりと踏みしめているのだ。
 なのに何故あの頃のコールタールを流し込んだような、ねっとりとした恨みが浮上するのかと自嘲し、握られていた手を逆に握り返して顔を擦り寄せる。
 肉体的疲労が精神的疲労を招いた事は間違いが無く、何とかしようと考えたその時、心地良い歌声がぴたりと止まってしまい、背中を見せていた身体が寝返りを打って真正面から見つめられる。
 「リーオ」
 何を考えていると、何かを読み取った事を暗に告げながらリオンの額に口付けたウーヴェは、返ってきた答えに目を細め、ただ黙ってくすんだ金髪を胸に抱き寄せる。
 背中を抱く腕の強さなどは幼い頃に感じていたマザー・カタリーナと比べれば遙かに強くたくましいが、温もりに関して言えば同等かもしくはそれ以上の熱を持って己に前を向く力を分け与えてくれていた。
 それが嬉しくて顔を擦り寄せればくすぐったいと微かに不満に染まった声が返ってくるが、抱きしめてくれる手の強さは全く変わらなかった。
 一度目を開けてもう一度ゆっくりと瞼を閉ざしたリオンは、浮かび上がる光景が先程までのどす黒い世界ではなく、今己が身を置く世界と全く変わらない色である事に安堵し、ついでに顔を寄せたウーヴェの身体にしっかりと腕を回す。
 「苦しいぞ」
 「オーヴェ・・・さっきの子守唄、ありがとう」
 子守唄を聴いて眠った事など無いと小さく笑った後、今ならば眠れるとも告げて腕の力を抜いて枕に頭を載せれば、ぽんぽんと肩口をコンフォーターの上から叩かれる。
 「おやすみ」
 「・・・・・・うん」
 本当に小さな子供にしているみたいだと思うが、何故かそれに対しての嫌悪も反発も覚える事は無かった。
 代わりにどうあっても抗いきれない睡魔の力に負けてしまい、ウーヴェが訝るように問い掛ける声に答えることも出来ないままに眠りに落ちてしまうのだった。

 

 結局、読もうと思っていた本を諦めてサイドテーブルに戻したウーヴェは、穏やかな寝息を立てて熟睡するリオンを愛おしそうに見つめた後、ぱちりと照明のスイッチを消し、明日の予定を脳内に刻み込んだ後、リオンを追い掛けるように眠りに落ちるのだった。

 

2011/01/04


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