いつものようにお互い全力で仕事に向き合い、今日も一日力を出し切ったと微かな自慢すら浮かべた顔で待ち合わせ場所で落ち合った二人は、ウーヴェが見に行きたいと前から言っていた美術展へと訪れていたが、目を細めたり何かに気付いて何度も頷きながら絵に見入るウーヴェと背後で展示品よりも恋人の満足そうな顔を見ることに精を出していたリオンは、どちらも種類は違っても好奇心を満足させた顔で美術館を出た。
その時から既に雲行きは怪しくなり、早いうちにどちらかの家に戻った方が良いと頷いた直後、少し離れた空が白く光ったかと思うと微かにゴロゴロと鳴りだした。
今二人がいる美術館からだとリオンの家の方がより近い為、ごく自然な流れでリオンの家に向かったが、アパートのエントランスを潜るリオンの背中が降り出した雨に少しだけ濡れてしまう、そんなタイミングで帰宅出来た。
毎度ながら散らかっている-どころではない散らかり具合の部屋にウーヴェが無言で溜息を吐き、リオンも誤魔化すように笑い声を上げるが、じろりと睨まれて二人揃って無言で部屋の片付けを始め、何とか床に大きなクッションを敷いてウーヴェが腰を下ろせるようになった頃には叩き付ける激しい雨と同じく激しい風が吹き荒れていた。
「当分降りそうだなぁ」
「そうだな・・・」
リオンが最近手に入れたらしい牛の模様が描かれているエスプレッソメーカーを取り出し、ウーヴェが気に入っている為に自分も好きになったカフェで買い求めた豆をセットすると、冷蔵庫からミルクを取り出して手際よく準備をしていく。
その様を見守りつつベッドに凭れて膝を立てたウーヴェは、荒れ狂う風雨を見つめるようにベッドの向こうにある窓を見つめながら膝頭に頬を押し当てる。
二重窓の向こうの世界は珍しい程の嵐で、分厚い窓を通してもその激しさが分かり、確かにリオンの言葉通りこれはなかなか止みそうにもないとぼんやりと思案した時、不意に睡魔が訪れて小さく欠伸をしてしまう。
「オーヴェ?」
「・・・ん、何だ?」
エスプレッソメーカーが立てる音がやけに心地よく、また、まるでリオンの匂いに包まれているような感覚に陥ったウーヴェは、珍しい事に居眠りをしてしまったようで、リオンがマグカップを床に置いて呼びかけられた声に頭を振って眼鏡を外す。
「眠いか?」
「・・・ああ、少し、な」
まさかお前の匂いに包まれているような気がして安心したとはさすがに気恥ずかしくて言えずに苦笑すると、用意された自分専用のマグカップを両手で持ち息を吹き掛ける。
「今日は忙しかったのか?」
「少し難のある患者が今日は多かったな」
だから気疲れしたのだろうと、隣に腰掛けるリオンの肩に頭を預けるように自然ともたれ掛かり、大きく溜息を吐くとマグカップが取り上げられてしまう。
「・・・こら」
俺のカプチーノを返せと声に出さずに睨んでみるが、熱いと言いながら一口飲んだリオンの鼻の下に泡の髭が出来ている事に気付き、小さく吹き出してしまう。
「似合うか?」
「バカ」
本当に髭を生やせばどうだと笑われ、しばらく考え込んだウーヴェだったが、どうやら本当に今日は気疲れ-と言うよりは脳味噌が疲労困憊-していたらしく、キスをする時に邪魔になるし、無精髭だと肌触りが悪いから止めろと呟き、奪い返したカプチーノをゆっくりと味わうように飲んで満足げに溜息を吐く。
「髭はダメか?」
「キレイに手入れされていても、今流行のものでもダメだ」
ウーヴェ自身は毎朝丁寧に手入れをしている為に無精髭を生やしていることは滅多に無かったが、リオンはと言えばウーヴェと付き合う以前は面倒なときには何日もヒゲを剃ることは無かった為、無精髭に覆われているのも珍しい事ではなかった。
「男っぽくなるのになぁ」
まるで同僚のジルベルトからフェロモンがないと言われた事を根に持っているような発言にもう一度苦笑したウーヴェは、取り返したカプチーノを半分だけ飲んでマグカップをリオンの手に預け、そっと目を閉じて口元に笑みを浮かべる。
「オーヴェ?」
「・・・・・・今のままのお前で良いだろう?」
誰に何を言われたとしても今のままのお前が好きなのだ、男であることを殊更強調するように髭を生やす必要もないだろうと告げ、頭を預けた温もりに眉間に寄りかけていた皺があっという間に平らになり、触れていた肩とは逆の肩も温もりに包まれたことに気付いてそのまま身を任せる。
こんな風に寄り掛かって身を任せられる人など今まで存在しなかった事を、今こうしている事は本当に珍しいのだと言う事をリオンに伝えた方が良いのだろうかとぼんやりと思うが、触れる温もりと伝わってくる穏やかな規則的な鼓動にやけに安堵してしまい、そのまま意識を手放してしまいそうになりながらもやはり伝えておきたいと焦った心が口を動かしてしまう。
「何だって、オーヴェ?」
「・・・・・・・・・お前・・・だけだ・・・」
「・・・そっか。うん」
それは嬉しいなと文字通り嬉しそうな表情で頷いている、そんな事を安易に想像させる声に自然と笑みが深くなるが、そのまま意識は深い所へと落ちていくのだった。
寄り掛かった肩から聞こえ出す穏やかな寝息をじっと聞いていると、窓の外で荒れ狂う嵐が遠くへ去ったような気分になる。
いつも冷静で滅多に表情を変えない恋人だが、二人きりになるとこうして甘える様に身を寄せてくるようになったのはいつ頃からだっただろうか。
幾度か口論や喧嘩を経験したが、その総てにおいて仲直りのキスをした後、より深く互いを知る事が出来ていた。
そうして気付いた事は、二人きりで他者の目が無い場所ならばこのように肩を抱くことも手を繋ぐ事も、またキスをすることも許して貰えると言う事だった。
今までの経験上、家であろうと外であろうと気にせずにキスをし、彼女達を困惑させてきたリオンだったが、ウーヴェに同じ事を初めてした時、自分だけがいきなり真冬に追いやられたような寒さを感じ、その後結構長い間居心地の悪さを味わってしまったのだ。
それ以降なるべく外ではあまりスキンシップを取らないようにしていたが、その反動は家に二人でいるときに現れていた。
そんな時は呆れたり苦笑したりしつつも、しっかりと受け止め受け入れてくれているのだ。
外では羞恥のあまりスキンシップを取れないだけだと、優しい温もりで抱きしめながら教えてくれるウーヴェにはただ深い情しか感じる事はなく、同じものを返せないがそれでもそうしたいと、痩躯をハグし端正な顔に口付けをしていた。
本当に一体何処まで己を愛してくれているのかと、もし機会があれば聞いてみたいと苦笑し、預けられたマグカップに残ったカプチーノを飲めば、身動いだ事への不満が微かな吐息となって流れ出す。
「ああ、ごめんごめん」
動かないからゆっくりと寝てくれと、照明にきらりと光る白っぽい髪を何度も撫でると、幼い子供のような笑みが浮かび上がり、至近でそれを見たリオンが息を呑む。
リオン自身は日頃から子供じみただのガキっぽいだのと言われ慣れているが、ウーヴェに対しては誰もそのような事を言うものはおらず、今見せられた顔を見る事が出来るのは己だけであるとも気付くと、顔がにやけることを抑えられなかった。
口元を大きな手で覆い隠してにやけた顔を隠そうとするが、テレビに映った己の顔は誰がどう見ても脂下がったと言いたくなるような顔だった。
「オーヴェぇ・・・それ、反則だぜ」
眠っているウーヴェに届く訳はないと思いつつもつい愚痴のような言葉を告げ、手触りの良い髪に口を寄せてキスをする。
さっき睡魔に負けつつある声が囁いた言葉を思い出し、更に顔が脂下がりそうになるが、何とかそれを押し殺すように軽く唇を噛んだリオンは、伝えられた言葉の真意に思いを馳せる。
お前だけだと言われたが、今現在がそうなのかそれとも過去からそうなのかをぼんやりと考え、出来るのならば過去からが良いと苦笑する。
こうして身を任せられる相手が自分だけだとすればどれ程嬉しい事だろうか。
自分とは違い過去に付き合ってきた女性の数はそんなに多くはないだろう。
しかも付き合い出してからもそれ以前からも、時々耳にしたその付き合い方からすれば、こんな風に恋人の家で居眠りをする事もなかったのではないのか。
安易に想像出来る過去に目を細め、過去の女性達には悪いがウーヴェは今が一番幸せだと笑みを浮かべる。
彼女達と付き合っている頃に比べれば、遙かにウーヴェの気苦労は増えているだろうし、リオンに対して腹を立てる事も多くなっているだろうが、以前と比べれば遙かに充実した日々を過ごしている。
人として不自然に押し殺した感情のまま日々を過ごすよりも、怒りだろうと呆れだろうと心の裡から溢れ出す感情のままに生きて欲しかった。
そんな思いを持っている事に気付き、どうしたんだと自らに問い掛けながら二重窓の外を見れば、さっきと全く変わらない激しさで雨と風が窓を揺らしていた。
カプチーノを飲み干し、今日は泊まって帰るよなと寝ているウーヴェに囁きかけたリオンは、カラーシャツとスラックスをあっという間に脱がせると、動くことを嫌がるように微かに頭を振るウーヴェの痩躯をベッドに押し上げ、自らも手早く服を脱いで隣に潜り込む。
ベッドに入ることでより一層窓に近くなり、遠くで響いていた嵐が間近に迫ってくるが、余程疲れているらしいウーヴェが立てる静かな寝息が徐々に大きくなった気がし、狭いベッドで何とか眠る姿勢を整えて白っぽい髪に口を寄せる。
今日は仕事が終わった後に美術館に立ちより、嵐の前触れを感じた為に早々に帰宅した為に夕食を食べていなかったが、何故か空腹を感じる事は無く、間近で響く小さな寝息に誘われたリオンにも睡魔が手を差し伸べてくる。
夜中に空腹で目を覚ましたなら何か適当に食べればいいし、朝まで眠れるのならば翌朝少しだけ早く家を出て二人で何処かのカフェに入れば済む事だった。
今夜は嵐が止みそうにないと誰かに言い訳するように呟いたリオンは、気がつけば腰に腕が回されていた事に笑みを浮かべ、眠っているウーヴェにお休みのキスをして同じように目を閉じるのだった。
窓の外では先程と全く変わらない勢いで雨風が吹きつけ窓を揺らしていたが、リオンの予想通り朝方まで嵐は止むことはなかった。
だが早々と眠りに落ちた二人がその嵐の息吹に起こされることは無かった。
2010/09/07


