073:egoism

天球座標

 冬の太陽はあっという間に姿を消し、大阪のシンボルである城がライトアップされ、その威厳をごく自然と周囲に見せつけ始めた頃、トレンチコートを程よく着崩した長身の男がホテルのエントランスに姿を見せる。
 エントランスで客を出迎えるスタッフとも顔馴染みなのか、頭を下げるスタッフに軽く会釈をし、慣れた様子で重厚さが漂うホテルのロビーを目的地目指して進んで行く。
 男の長い足が向いた先はラウンジで、最奥の円形ソファで小難しい顔で書類を読んでいる男を見つけると、軽い足取りで向かう。
 「・・・待たせた」
 「・・・いや、書類に目を通していたから大丈夫だ」
 「そうか。じゃあ行こう」
 書類から目を挙げないで言葉を交わす男の様子に慣れているのか、トレンチコートのポケットに手を突っ込んだ男は、美味い飯を食って酒を飲もうと声をかけて漸く書類から目を挙げた男にニヤリと笑いかけるが、その顔は周囲にいた人達が二人の顔を交互に見てしまうほどそっくりだった。
 「そんな難しい顔で読む書類か?」
 「・・・あまり楽しくない書類だからな」
 離婚寸前の妻の素行調査報告書などどう転んでも楽しい話じゃないと、己の側に立って笑う同じ顔を見上げた男の顔に皮肉気な笑みが浮かぶが、ほぼ同時に年相応に見えない、いつまで経っても子供の様な青年の笑顔を思い浮かべる。
 『オトコマエが台無しや。そんな笑い方やめとき』
 脳内で再生される柔らかな優しい声に目を見張るが、男の表情から何を考えたと見下ろす男が口の中だけで問いかけるが、言葉に出したのは行こうかという行動を促す言葉で、それに頷いた男もテーブルに投げ出していた封筒を無造作に手に取る。
 「確かに楽しくない書類だな」
 「ああ」
 この書類で一応は好き合って結婚したはずの妻との関係に一つの区切りが付くが、煩わしいことこの上ないと、紺色のトレンチコートを腕に引っ掛けた男が肩を竦める。
 「仕方がないな」
 「そうだな・・・それよりも、フランクフルトで会った時に一緒にいた医者は誰だ、ケイ?」
 ラウンジから最上階にあるレストランに向かうためにエレベーターへと足を向けた二人だったが、眉間の皺を解すように指を宛てがいつつ先週の出来事を問われ、ケイと呼ばれた男が悪戯っぽい笑みを口元に浮かべる。
 「ああ、あれか。研修で知り合った。俺たちとあまり変わらない年で随分優秀な外科医だそうだ」
 「そうなのか?」
 「名前はカール。ああ、カスパルだったかな」
 「・・・そうか」
 己から問いかけておきながら興味をなくした様な顔で頷く男に慣れているのか、特に何も言わずに一緒に酒を飲みに行ったが楽しい男だった、その友人達とも後日一緒に酒を飲んだが、お前と気の合いそうな男もいたと、フランクフルトとその後の出会いについて楽しそうに語る。
 エレベーターに乗り込み、最上階へと向かった二人は、スタッフに名前を伝えて中に入り、城が見える席へと案内される。
 「相変わらず、大阪に帰って来たらここか」
 ホテルに泊まったりせずに家に来れば良いのにと、席に着きながら少しの寂寥感を滲ませた声でケイと呼ばれた男が肩を竦めれば、左隣に腰を下ろした男の目が軽く見開かれるが、まるで小さな子供の機嫌をとる時のようにケイの頭を撫でて許しを求めてしまう。
 「・・・で、さっきの書類、どうなんだ、ソウ?」
 その何気ない仕草で寂寥感も薄れたのか、ケイが頬づえをついていつものように左隣にある同じ顔をにやりと見つめれば、見られた方にも同じ笑みが浮かび上がる。
 「ああ。決定的な証拠が出て来た。これで別れられる」
 しかもこちらの条件を全面的に飲ませられると、皮肉気を通り越して底意地の悪い笑みを浮かべる男に似たり寄ったりの笑みを浮かべるが、席に着くと同時にオーダーしていたビールが運ばれて来たため、どちらも意地の悪い笑みを隠してグラスを手にとる。
 「乾杯」
 「ああ」
 グラスの縁ではなく底を軽く触れ合わせて乾杯をした二人は、一先ず喉の渇きを潤し、運ばれてくる料理を前に、消化に悪い話は後にしようと囁きあい、久しぶりに味わう日本の料理に胃袋を満たしてもらうのだった。

 

 「────不倫相手の子供を妊娠した?」
 「どうやらそうらしい。結婚してすぐに俺はドイツに出向した。一度帰国したのは半年後だ。その時も調子が悪いと言って会っていない。・・・顔も見ていない妻を妊娠させることなどできる訳が無い」
 ホテルの最上階から場所をラウンジへと移した二人は、カウンターの端でバーテンダーに聞こえないほどの声で話していた。
 バーボンのグラスを手の中で揺らしながら左隣の同じ顔を見たケイは、聞かされた言葉に心底驚いた顔で目を見張り、少しだけ声を大きくしてしまう。
 「ケイ、医者と看護師でも良くある話だろう?」
 「まぁ、な。良くあるといえばあるけどな」
 「その良くある話の主役に俺がなってしまっただけだ」
 「・・・他のヤツはどうでも良い。お前がその話に引きずりこまれたってのが気にいらない」
 お前にとっては研究していること以外瑣末なことかも知れないが、俺にとってはお前の一生に不必要な汚れを付けたあの女が許せないと、グラスの中の琥珀を一息に飲み干し、当人以上に怒りの感情を覚えているのか、納得できないと呟き、グラスをコースターに少し高い音を立てて置いてしまう。
 「ケイ。落ち着け」
 「・・・どうしてお前は落ち着いていられるんだ、ソウ?」
 愛情は少なかったとは言え、妻の不倫とその結果の妊娠にどうして落ち着いていられると、アルコール以外の理由で頬を赤らめるケイにソウが小さく笑みを浮かべ、幼い頃からしているようにケイの肩を抱いて慰めるように頭を寄せる。
 「落ち着け、ケイ」
 同じ言葉を繰り返し、お前が本気で怒るようなことではない、こんなことは俺の目標達成の一つの足掛かりに過ぎないと小さく笑うソウにケイが納得いかないと言いたげに口を曲げる。
 「・・・これで妻と別れられる。それに、義父もこの件では何も言えないはずだ」
 己の娘が結婚直後に不倫をするだけではなく、その相手との子供を妊娠してしまったという痛恨のミスをどのように処理するつもりかは分からないが、己が思っているように進めるには重要すぎるコマだと笑うソウにケイが漸く納得したのか、小さく吐息を零し、ソウの前にあるグラスを無造作に手に取ると、こちらもまた一息に飲み干してしまう。
 「お前がそう考えてるのなら、それで良い」
 「ああ。・・・ケイ、好きなのを飲まないか?」
 二人分を飲み干してしまったから飲むものがないと肩を竦めるソウにケイが悪びれる様子も無く己と兄の分の、バーボンを最も美味く飲める方法でと、バーテンダーの腕を試す様な注文をし、左隣に向けて握った右手を突き出す。
 右隣から突き出された拳に気付いたソウが一つ苦笑し、己の左手を同じ形にしてその拳にぶつければ、長年二人の間で築き上げた信頼が拳を通して二人の中に入っていく。
 「手続きはいつするんだ?」
 「そうだな、なるべく早く済ませたいな」
 年度末までは日本にいるつもりだからその間に全てのケリをつけてしまうと、緊張を必死に押し隠した顔でバーテンダーが二人の前にそっとグラスを置き、ケイが一目見た後、バーテンダーを安心させる様に片目を閉じるが、隣のソウはバーボンを味わう余裕も無い様で、申し訳ないと内心思いつつケイが肩を竦め、仕方がないと同じくグラスを手に小さく笑う。
 「まだしばらく大阪にいるのなら・・・会わないのか?」
 年度末ということはまだひと月以上の時間があるが、あいつに会わないのかと、ケイが何気無く問いかけ、長い沈黙の後、どの面を下げて会いに行けるんだと、先程の冷酷と打算を滲ませた声とはかけ離れた、後悔と自嘲に満ちた呟きに小さく吐息を零す。
 「そう、か」
 「ああ。・・・あいつを泣かせたのに、会いに行ける筈がない」
 己の夢に近づく道だと信じて当時の上司でもあった教授の娘と結婚するため、己の半身とも言える恋人と別れることを選び、泣かせてしまったのにどうして俺から会いに行けると、本当はそれでも会いたくて仕方がない顔をしながら弟へと視線を向けたソウは、さっきとは逆に肩を抱かれて頭を寄せられて無意識に安堵のため息をこぼす。
 「お前がそう決めたのなら反対はしない。ただ・・・もし、少しでも気が向けば会いに行って来いよ」
 「・・・・・・」
 お前のやせ我慢も意地っ張りな所も全て知っているあいつに会いに行って来いと、いつか訪れる再会の時がせめて別れの涙を上書きしてくれるものであることを願いつつ、再度頭を寄せたケイは、不器用な兄が今までの人生の中で出会った最上の存在と別れを選んで別々へと踏み出した道がいずれ一つになる日を一瞬だけ思い描き、そのようになれば良いとも強く願う。
 家庭の事情で幼い頃から兄には負担ばかりを強いてきた負い目がケイにはあり、また弟が負い目を感じている事を兄のソウも気付いていた為、二人が何よりも願うのは互いの幸せだった。
 その幸せへ向かう道へと兄の背中をそっと押し続けてきた弟は、今の一言が結果的にまた背中を押すことになるのだが、この時の二人にそれがわかるはずもなく、ただ今は過去の別れに後悔ばかりの兄を慰めるように酒を注文するのだった。

 ホテルのラウンジで静かに飲んでいた二人だったが、海外からの観光客が団体で入ってきたことに気付き、雰囲気の賑やかさにソウが短く舌打ちをする。
 「そろそろ出るか」
 「ああ」
 好きなだけ飲んだ事だし明日も仕事があるから今日は解散しようとケイが立ち上がりながら兄の肩を叩き、兄も無言で肩を竦めて立ち上がる。
 「・・・・・・ケイ」
 「ん?」
 ラウンジを出てソウは予約している部屋に向かうためにエレベーターのある方へ、ケイは自宅に帰る為にエントランスへと向かおうとするが、そんな弟の背中に呼びかけた兄は、ここには明日までいるつもりだから明後日からしばらくの間家に泊めてもらえないかと、少しだけバツの悪そうな顔で問いかければ、ケイが同じ顔を驚きに彩るが、大股にソウの前に向やってくると、お前のビーフシチューが食いたいから作ってくれ、それが条件だと条件とも言えないものを提示する。
 「ビーフシチューで良いのか?」
 「他にも何か食わせてくれるのなら作ってくれ」
 「ああ」
 部屋は明日にでも片付けておくからいつでもホテルを引き払って来いと笑い、必要なものがあれば買っておくからとも伝えた弟は、兄の腹に拳を当ててにやりと笑う。
 「久しぶりの二人暮らしだな」
 「ああ」
 離婚に向けた手続きや協議など煩わしい事ばかりが続くだろうが、せめて心身を休めることの出来る場所は気心の知れた場所が良いとソウが笑い、ケイも同意する様に頷くが、最も落ち着く場所はあいつの隣なのになと、口には出さずにただ兄の事だけを思って小さく胸を痛めてしまう。
 「じゃあ、ケイ、仕事が終わったら連絡をくれ。それまで適当に時間を潰してる」
 「分かった」
 じゃあまた明後日と、再会を約束して背中合わせに別れた兄弟は、久しぶりの二人暮らしに胸を弾ませるが、ソウの精神的にも重圧を感じそうな話し合いや様々な事を思えば素直に喜べないのだった。

 弟のありがたい申し出に感謝しつつホテルの客室に戻ったソウは、城が見える窓辺へと向かい、無意識に溜息をつく。
 ケイに言われたが、妻との離婚が成立すれば独身に戻る。そうなれば何よりも大事だった恋人とまた会う事ができると思案するが、何を都合の良いことを言っていると、もう一人の己が胸中で嘲笑う。
 「確かにそうだな」
 己の出世の為に教授とその娘を利用し、今まで付き合っていた彼とは別れて女を取って泣かせたくせに、その女に不倫をされて手痛いしっぺ返しを受けたのは良いザマだとも笑われてその通りだと自虐気味に呟く。
 「・・・・・・どこまでも自分勝手な男だな」
 良く自己中だ何だのと言われていたが本当にその通りだと自嘲し、窓ガラスを拳で軽く殴ったソウだったが、ケイの言葉が不意に蘇り、もしも許してくれるのならばもう一度会いたい、会ってあの笑顔を見たいと、酔いを理由につぶやくと、脳裏に浮かぶ笑顔につい手を伸ばしてしまう。
 だが己の記憶に手を伸ばした所で掴めるはずもなく、ただ虚しく目の前の空気を握りしめたソウは、何を滑稽なことをしていると肩を竦め、シャワーを浴びるためにバスルームへ向かうのだった。

 

 明後日から兄がやって来る、その未来に心を弾ませた弟は、真っ暗なリビングに入ってブラインドを一気に開けると、大阪の街灯りに霞む夜空を見上げる。
 市内を流れるいくつかの川、その川縁に建つ高級マンションは一人で暮らすには十分すぎる部屋数と広さがあるが、それもこれも全ては兄のソウがここを利用する事があるかも知れないという理由からだった。
 家庭の事情で兄に対する負い目は常にケイの中にあり、総てと言っても過言ではないほど、行動の根底にはソウに対する思いが存在していた。
 医者として有能であり将来を嘱望されているケイがこのマンションを購入することを決め、ソウのための部屋も用意をしていたが、その部屋へと足を向け、久しぶりの二人暮らしがどうか兄にとって心休まるものである様にと願い、シャワーを浴びて明日の仕事に備えるのだった。

 

 互いに負い目を感じつつもそれを押し隠す事で仲の良さを保ってきた総一朗と慶一朗の双子の兄弟は、これから先しばらくの間は一緒に居られることの安堵感を覚えつつも眠りに就く。
 大阪の明るい夜空、己の出世の為に他人の心を踏みにじってきた男と、そんな男の幸せをただ願う男が眠りにつくのを、心許ない細い月が静かに見下ろしているのだった。


2019.01.27
天球座標の主人公の一人、総一朗と双子の弟、慶一朗のお話です。なんか嫌な人っぽいぞ、お前ら(・_・;


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