キャンドルを模した小振りのランプがゆらりと揺れ、その揺れた灯りがカウンターに置いたグラスの中の琥珀色の海に滲む。
人工の揺れを楽しんだ後でグラスを手に取り、ゆっくりと喉に流し込むように傾けると、隣の席から小さな吐息がカウンターに落とされ、その音に気付いて顔を振り向けると、バーテンの向こうの酒のボトルが並ぶ棚をじっと見つめ、顎の下で手を組んで左右の親指をくるくると回す青年がいて、その横顔に視線を注いでいると、ちらりと青い眼が見つめてくる。
『・・・どうした?』
『俺、最近おかしいんです』
唐突に告げられたそれに彼の目が軽く見開かれ、一体どうしたんだと友人を心配する顔と声で身体ごと振り向くと、同じように振り向かれてカウンターに片肘をついて同じような姿勢で正対する。
『最近、ある人のことを考えるだけで何か苦しくなるんです』
これって病気でしょうかと、本気なのか冗談なのかが判断しにくい顔で告げられ、グラスをカウンターに戻すと、二人の間に置いてあるアーモンドを食べる。
『それは好きな相手なのか?それとも嫌いな相手か?』
『好きか嫌いかって言えばはっきり言って大好きです。もうね、好きすぎてどうしようーって言うくらい、好き、かな』
正面に向き直って彼と同じようにアーモンドを食べ、ウイスキーを飲み干すと、気付いたバーテンに合図を送って同じものを注文し、彼の為にはバーボンをロックで頼む。
『好きな相手のことを考えると苦しくなる?』
まるでティーンエイジャーの初恋のようだなと、バーボンが注がれたグラスを一度揺らして氷とグラスが触れる音を楽しむが、意外そうな声に首を傾げて眼鏡の瞳を楽しそうに細める。
『えー、今更初恋?俺みたいなのが?』
これまでの人生で付き合ってきた女は片手では足りないぐらいだし、付き合ったとも呼べない短い期間の関係の女を含めれば両手でも足りないような付き合いをしてきた自分が、今更この年になって初恋かよと自嘲する青年に彼の目が微かに光り、ならば今まで恋をしてこなかったんだろうなと告げると、更に信じられないと言った顔で青い眼が見開かれる。
『今更初恋かぁ・・・』
『良いんじゃないか?』
『え?』
青年の声に彼が、キャンドルを模した明かりに溶け込むような笑みを浮かべ、青年が微かに息を飲んで彼を見つめる。
『きみがどのような付き合い方をしてきたのかは知らないが・・・その人を思うだけで苦しくなる程の恋は初めてなんだろう?』
『・・・・・・そう、かな』
『今まではそれなりにその人のことを好きだったんだろうが、今度の恋は本気だと言う事であれば、初恋になるんじゃないか?』
何だか詭弁だなぁと呟く青年に私の言葉が信じられないのかと、少しの意地の悪さを込めて囁くと、慌てたように両手を振って青年がとんでもないと否定をする。
『ドクの言葉を疑うなんてない!』
『そうか・・・その相手はどんな人なんだ?』
青年の慌てっぷりが楽しくてその心のままに問いかけるが、返事がない事に気付いてプライベートに踏み込みすぎたと反省し、聞かない方が良かったかなと自嘲すると、身体を開くように椅子の上で座り直した青年が頬杖を付き、蒼い瞳を意味ありげに細めてじっと彼を見つめる。
『どうした?』
『────すげぇ真面目で仕事熱心で、優しくて・・・笑ってくれるとホントに嬉しい』
自分だけが知っている秘密をさらけ出す口調で好きな相手を語る青年に好意的に目を細め、無言で先を促すと青年の顔が夢を見ているような幸福感に包まれる。
『ホントにね、笑った顔を見るだけですげー嬉しいんです。いつも自分に厳しいのかあんまり笑わない人なんだけど、一緒にいて俺が何か面白いことをしたり言ったりしたときにちょっと笑ってくれる事が多くなった。それがすげー嬉しくて、でも・・・嬉しいのと同じくらい苦しくなって・・・』
こんなに苦しいのは初めてだと笑い、ウイスキーを飲んで喉を潤した青年は、眼鏡の下のターコイズ色の瞳に向けて笑いかける。
『何でこんなに苦しいんでしょうね、ドク』
『・・・そう、だな・・・人を本当に好きになると苦しいことが多いな』
『でも・・・・・・同じだけ、嬉しい事や幸せに感じる事がある』
『その通りだな』
ある人を好きになる、たったそれだけの事でその相手の一挙手一投足が気になり、その目が捉えているものを共有したいと願ったり、その心が自分にだけ向いてくれればと願ったりもする。
好きになるというだけで、己の心が思いも寄らない軌跡を描いて動き出すのだ。
グラスを見つめてぽつりと呟く彼に青年も同意をするように頷き、もう一度彼と視線を合わせて目を細める。
『ホントにね、笑ってくれるだけで嬉しいし、考えるだけで苦しくなる、そんな風に人を好きになったのって・・・初めてだ』
『その初恋が叶うと良いな』
初恋は叶わないと言うジンクスを何処かで聞いた覚えがあるが、きみの初恋が叶う事を心より祈っていると、友人の恋が上手く行くことを真摯に願う顔と声で囁き、グラスを目の高さに掲げた彼は、その日初めて見た心からの笑みを浮かべた青年も同じようにグラスを掲げた事に小さく頷いて乾杯と呟いて片目を閉じる。
『きみの初恋に、乾杯』
『────その人の笑顔に』
グラスの縁を軽く触れあわせて綺麗な音を響かせた後、グラスの中身を一息で飲み干した二人は、自然と小さく笑いだしてしまう。
『あ、何でそんなに笑うんです、ドク?』
『きみが楽しそうに笑っているからだろう?』
『えー、だって楽しいし?』
二人で自然と大きくなりそうな笑い声を必死に堪え、肩を揺らして楽しそうに笑っていると、青年が満足そうな、だが陰を秘めた笑みを浮かべて目を伏せる。
『俺が笑ってるとその人も笑ってくれる、のかな』
『怒っている相手に笑いかけたいと思うか?』
『まさか!』
『だったら、きみが笑っていればその人もきっと笑ってくれるだろう。きみが怒っていれば心配になって笑えないかも知れないな』
彼の言葉に、まるで重い何かで頭を殴られた時のように青年が驚愕に目を瞠るが、確かにその通りだと納得したように彼にダンケと礼を告げる。
『俺が笑ったら笑ってくれるのか・・・じゃあ笑うようにしようっと』
『怒るより笑う方が絶対に良いだろうな』
バーテンに合図を送って支払いをしていた彼は青年がジーンズの尻ポケットから財布を取り出した事に気付いて手で合図をするが、不満の色が浮かんだ事に気付いて次に食事に行ったときに出してくれと片目を閉じる。
その言葉が青年に届いた時、青年の口が何やら言葉を紡いだが彼の耳には届かず、どうしたと振り返るとただ楽しそうな笑みを浮かべているだけだった。
『そう言えば、この間の資料がすげー参考になったってボスが言ってたっけ』
『それは良かった』
一介の精神科医の言葉が役に立ったのならば本当に嬉しい事だと淡々と告げ、顔馴染みのバーテンに挨拶をして店を出た二人は、すっかりと雪も止んで冬の星座が瞬く夜空を見上げて寒そうに一つ身体を震わせる。
『タクシーで帰るか?』
『ドクは?』
『私は友人の店に行くことになっているからタクシーだな』
二次会に行くのかと目を瞠る青年に苦笑し、幼馴染みがやっているレストランで新作料理のお披露目会があるんだと肩を竦めると、青年が羨ましそうな顔で彼を見る。
『良いなぁ・・・新作発表会・・・』
その顔があまりにも期待に満ちていて、自然と笑みが浮かんで言葉が流れ出す。
『一緒に行くか?』
『へ?行っても良いんですか?』
『ああ。構わない』
ロクに言葉を話せない頃から付き合いをしている幼馴染みは、人がやってきてその人に料理を提供して笑顔を受け取ることが大好きなんだと笑い、きみさえ良ければ一緒に行こうともう一度誘うと、青年の顔がまるで今夜の空のように晴れ渡った突き抜けるような笑みを浮かべる。
『はい!』
『じゃあ行こうか』
バーテンに頼んで呼んで貰ったタクシーが合図を送ってきた為に手を挙げ、二人で乗り込んで運転手に幼馴染みが経営するレストランの名前と番地を告げると、青年が本当に満足した時にだけ零す溜息を吐いてシートにもたれ掛かる。
『・・・次の約束もしたし・・・ホント嬉しいな』
聞き取れるか取れないかの言葉に彼が視線を向けても青年はうっとりと嬉しそうに目を細めるだけで、タクシーが店に着くまでは口を開くことは無かった。
だが青年の身体から滲み出る雰囲気が歓喜のものである事をしっかりと見抜いていた彼も、その雰囲気につられるように心が浮かれてしまうのだった。
パチパチと暖炉で炎が爆ぜる音が響き、暖炉の前に置いたソファベッド-元々は来客用にウーヴェが用意したもの-に魔法のブランケットと呼ぶそれを被って丸めた身体を横たえていたリオンは、背後から呆れた様な苦笑と優しい手がふわりと舞い降りたことに気付いてブランケットから顔を出して無理な体勢になる。
「そんなに寒いのか?」
「寒い。すごく寒い」
「大げさだな」
暖炉が近すぎて熱いぐらいだろうと苦笑を深めるウーヴェにリオンが憤慨の声を挙げ、同時に起き上がってブランケットを肩には織るように引っかけて胡座を掻く。
「大げさじゃねぇって。マジ寒かったんだ」
「ああ、分かった分かった。だからマジなどという言葉を使うな」
「ぶー」
リオンの憤慨を8割方差っ引いた上で理解出来ると頷き、起き上がったことでスペースの出来たソファベッドに座ったウーヴェは、座るとほぼ同時にリオンが倒れ込んできた事に気付いて目を瞬かせる。
「寒かったけどさ・・・今は平気になった」
「そうか?」
「そう」
ブランケットに包まれて微睡んでいたとき、出会って間もない頃の夢を見ていた事を思い出し、あの時ウーヴェが告げた言葉を疑わずに無意識にでも実践している自分に気付いて小さく笑うと、優しい手がそっと髪を掻き上げて撫で付け、髪の間にちらりと見える肌を滑っていく。
「オーヴェ」
「何だ?」
掻き上げてくれる手の向こうを見上げれば、自分にだけ見せる穏やかな顔で見つめてくるウーヴェがいて、その穏やかさに笑みも混ぜて欲しいと願って手を挙げ、眼鏡に掛かる白とも銀ともつかない髪を一房摘んで軽く引っ張ると、痛みに目が細められてしまう。
「オーヴェ、笑って」
「・・・・・・髪を引っ張られて笑えると思うのか?それに突然どうしたんだ?」
いきなり言われても笑えるはずがないだろうと苦笑するウーヴェの言葉に目を伏せ、ゆっくりと目を開けてもう一度ウーヴェを見上げると、躊躇うようにターコイズ色の虹彩が左右に揺れるが、程なくして真っ直ぐにリオンの青い眼を見下ろしながらゆっくりと口の両端が上がっていく。
「どうしたんだ、リーオ?」
何か考え事でもしているのかと笑み混じりに問いかけられて息を飲んだリオンは、あの夜相談した時と同じ苦しさとそれを遙かに上回る幸福感に包まれて眉を寄せる。
「リオン?」
「・・・・・・オーヴェ、もっと笑ってくれよ」
「だからどうしたんだ?」
今まで昼寝をしていたと思っていたのに、何か不安になる様なことでもあったのかと、勘の良さを発揮するウーヴェに首を左右に振って否定したリオンは、お前が笑ってくれる事が嬉しいと素直に告白し、驚くウーヴェの手を取って掌に口付ける。
「お前が笑ってくれたらさ、俺ももっと笑える」
好きな人にはいつも笑顔でいて欲しい。それが難しい事だと分かっているからこそ、そう願ってしまう思いを込めてもう一度笑ってくれと告げると、額に優しく何度もキスが繰り返される。
伝わる優しさと温もりにじわりと胸が温まり、苦痛を感じた心が軽くなって幸せな痛みへと転化されて腹の底へと下りてくる。
それを受け止めてウーヴェを見上げると、リオンが望んでいた以上に優しくて温かくなれる笑みを浮かべた恋人に見つめられている事に気付き、微かに震える呼気を吐き出す。
「・・・・・・俺、最近おかしいかも」
「何か気になる事があるのか?」
「ん?そういう訳じゃねぇけど・・・何かさ、ある人のことを考えただけで苦しくなるんだ」
もしかしてこれって病気か何かだろうかと、出会って友達として食事に行くようになった頃を思い返しながら囁いたリオンは、あの夜にも見せられた真剣な表情で見つめられて鼓動を早める。
「それは好きな相手か?嫌いな相手?」
「んー・・・はっきり言って、好きなんて言葉じゃあ言い表せないほど、好き」
その人を感じられる物ですら愛おしくなる程好きだし愛していると目を細めて囁くリオンの額にもう一度キスが降ってきたかと思うと、初恋は叶わない筈なのにと小さく笑われる。
「叶ったぜ、初恋」
あの時お前が俺の初恋が叶う事を祈って乾杯してくれたが、その甲斐あって見事に叶って今俺は本当に幸せだと太い笑みを浮かべると、自然な動きで目が逸らされて小さな咳払いが聞こえてくる。
「胸が苦しくなるほどの幸せってあるんだな。初めて知った」
お前を好きになりしつこいほど告白し続けて懇願し、念願叶って付き合いだした今でさえも、笑って欲しいもっともっと好きになって欲しいと我が儘を言い出しそうな自分がいる事も知った今、過去の女性達との付き合いが思い出せないほど幸せだった。
「な、ドク、これって病気?」
「そうだな・・・・・・重症だな」
「えー、薬か何か出してくれよ、オーヴェ!」
ウーヴェのにべもない言葉にリオンが勢いよく起き上がり、薬を出して今すぐ治療してくれないと死んでしまうと眉尻を下げると、ウーヴェが口元に拳を宛がってくすくすと笑い出す。
「笑ってねぇでさぁ、オーヴェぇ」
くすくす笑い続けるウーヴェの肩を掴んで揺さぶったリオンだが、笑いを納めたウーヴェが真摯な色を瞳に浮かべて正対するように座り直した事に気付いて背筋を伸ばす。
「────リーオ」
「っ・・・・・・う、ん」
特別な薬を出してやろうかと問われて素直に頷いたリオンは、青い石のピアスが填っている耳にキスをされて思わずくすぐったいと首を竦めたくなるような吐息で好きだと囁かれて呆然となるが、言葉の意味と間近で感じる吐息に一つ身体を震わせて離れていこうとするウーヴェの首に腕を回して抱き寄せる。
「・・・・・・苦しいのは治まったか?」
「すげー、一瞬で治まった」
本当に特別な薬だと笑うリオンにウーヴェが安堵に胸を撫で下ろすが、そんな恋人の様子にも気付かずにただ凄いと笑っていると、ウーヴェも小さな声を挙げて再び笑い出す。
「ダン、オーヴェ」
「・・・・・・分かったらもうそんな心配をするな」
「うん・・・オーヴェ、もう一つだけ、お願い」
今日は本当にどうしたんだと問いかけたくなるのをグッと堪え、何だと溜息混じりに囁いたウーヴェは、いつも笑って欲しいともう一度告げられて軽く目を伏せるが、俺に笑って欲しいのならばお前も笑ってくれと返されて瞬きをする。
「お前が笑っているから俺も笑えるんだ。そうだろう、リーオ?」
「・・・・・・うん」
あの日何と言ったか思い出せと言外に告げられて頷いたリオンは、ウーヴェの頬に掌を宛がいながらじわじわと笑みを浮かべ、眼鏡の下で目を瞠るような笑顔になってウーヴェの薄く開いた唇にそっとキスをする。
「二人で一緒に笑って過ごそう」
それが何よりも胸の奥で居座り続ける痛みに対する薬になると笑われ、額と額を軽く触れあわせながら小さく笑ったリオンは、恋人も同じ思いを持っている事が嬉しくて目を閉じる。
胸の裡では苦痛に感じるほどの幸福感が溢れていて、早くもウーヴェだけが与えられる特効薬の効果が現れたことに自然と笑みを浮かべてしまうのだった。
2012/02/26


