今までフォトグラファーとして生きてきたノアだったが、数年前に人生観だけではなく人生そのものを大きく変化させる出会いと別れを経験した結果、それ以前ならば考えることもなかった南半球の、まるでぽつんと一軒だけ建っているような家で恋人と一緒に住むようになった。
以前は生まれ育ったウィーンを離れるのは仕事の撮影で世界中を飛び回る時だけで、人生観を変化させた出会いを経てからは南ドイツの大都市を拠点として活動していた。
だが、そのどちらの大都市で暮らしている時でも己が好きな人と南半球の自然豊かな国に移住するなど、ノアの人生のアルバムのどのページにも書かれていない未来だった。
真っ白なアルバムに緊張しつつ足跡を付けた日から月日は流れ、漁師の家族を始めましたと友人や両親に報告してから一年が経過した夏のその日、一つの大きな仕事を終えて休暇を取っていたノアの耳に、控え目に流しているラジオからもうすぐ見えるかどうかと期待に満ちた天体ショーについてラジオパーソナリティが軽快な語り口で話し出す声が届く。
『流星群がもうすぐピークを迎えるようです』
隣国のオーストラリア在住のアマチュア天文家が発見し、世界中でも話題になった大彗星もあったが、今年の流星群はどれぐらい見えるのかという期待の声にラジオパーソナリティがそうですねと同じように期待に満ちた声が上がる。
『見えると良いですね』
そのラジオはノアの家があるダニーデンを中心に放送している地域のラジオ局で、地域の情報を発信している手作り感満載の局だった。
だから情報の中心が学生の街としても有名なダニーデンに関係する話題が多く、作業をしているときに流していても邪魔にならないことからノアは一人の時にはラジオをかけていた。
その情報に耳を傾けて流星群と小さく呟く視線の先では、先日の誕生日と一緒に暮らすようになった記念−実質的な結婚記念日だった−を祝い、今日も仕事に精を出している恋人が購入してくれた天体望遠鏡が出番を待っている顔で鎮座していた。
この望遠鏡を使って天体観測をするのが、恋人のテッドが仕事に出かけた後のノアの日課になっていた。
明け方前に船を出すテッドを見送った後、仕事がある時は仕事量などを考えて可能な限り睡眠時間を確保するようにしていたが、今のようにオフモードに入っていると一人きりで広いベッドに潜り込むことがなかなかできないでいた。
そんな時はどれだけ見ていても見飽きることのない夜明け直前の星空を、最も好きな場所である庭のベンチテーブルに腰を下ろして見上げているのだが、己の仕事に絡めた天体写真などはまだ撮影をしたことがなかった。
それは機材や経験不足と言った理由からだったが、その事を先日テッドに不思議そうに問われ、何事も始めないと経験にならないぞと至極当然のことを太い笑みまじりに告げられて頷いたのだ。
だから今夜それをしても良いかもとリビングのソファで猫のように伸びをした時、テーブルに置いていたスマホから着信音が流れ出す。
「ハロー」
『ノア?今日のランチはどうする?』
電話の相手は今日も精力的に働いてくれているテッドで、もうすぐ終わりそうだがランチはどうすると問われ、壁の時計を見上げてついで冷蔵庫の中身を思い出すが、買い物をしたいから市内のレストランで何か食べようと起き上がりつつ答える。
『買い物?』
「そう!望遠鏡のグッズを買いたい」
天体望遠鏡を二人で選んで買った店が市内にあるが、その店に行きたい、ついでにランチを食べようと笑うノアにテッドが驚いたような声をこぼすが、ふっと抜けるような息を吐いてそれも良いと同意をしてくれる。
それが嬉しくて、今から準備をする、どれぐらいで帰ってくると矢継ぎ早に問いかけながらベッドルームに駆け込んだノアは、さすがに恋人と一緒にランチに行くのにシングレットとハーフパンツでは出かけられないとワードローブを開いてあまり多くない服を引っ張り出す。
「あ、そうだ。テディ、今夜は漁に出るか?」
『いや、今夜は休みだな』
「そっか。じゃあさ、ちょっと付き合って欲しい」
やり出さないといつまでも未経験のままだよなと笑い、訝る気配を伝えてくるテッドに夜のお楽しみと返したノアは、待っているから気をつけて帰ってきてくれと見えない相手に笑顔で伝え、音だけでも伝われというようにスマホにキスをする。
そういえばこれもリオンがウーヴェに対して良くやっていた事だと思い出し、お前の真似をしているようだけどお前の専売特許じゃないよなと笑いかけて同じく小さな音が返ってきた事に目を丸くしてしまう。
「テディ・・・」
『・・・何でもない、準備をして待っていろ』
「うん」
互いに思っていることを確認するためのキスに自然と顔を綻ばせたノアは、ジャケットにネクタイのドレスコードがあるような店にはランチで出かけないと笑いながら着替えを済ませてリビングに戻る。
庭に出る掃き出し窓の横に鎮座する天体望遠鏡を一つ撫で、今夜撮影に使ってみるからと告げると、望遠鏡に太陽の光がきらりと反射し、まるで返事をもらったように感じるのだった。
庭のベンチテーブルではなく芝生に直接腰を下ろし、望遠鏡で星空を撮影するのに必要な機材をマニュアル片手に装着するノアの横、同じように芝生に腰を下ろしてちびちびとバーボンを飲んでいるテッドがいた。
テッドの目には何がどのように必要なのか全く理解出来なかったが、装置を着けては望遠鏡を覗き込んで満足そうに溜息を吐くノアの横顔からそれがどれ程彼を興奮させ感動させているのかは理解出来ていた。
誕生日と家族になった記念として贈り物に選んだのは天体望遠鏡だったが、己が仕事に出ている間に望遠鏡を使った星空探索を楽しんでいた事を教えられ、写真撮影をやってみればと提案し、未経験だからと躊躇するノアの髪をくしゃくしゃにしながら経験するまでは誰もが未経験だと笑った結果、今日の午後、ランチを食べ終えた後に望遠鏡を購入した店に二人で出向き、望遠鏡を使って撮影するために必要なものを購入することになったのだ。
それを今は使えるようにするために四苦八苦しているのだが、その横顔は好奇心と期待に満ち満ちていて、邪魔をするのも申し訳ないと思ってしまうほどだった。
恋人よりも十年以上長く生きてきたテッドだったが、もうすぐ流星群が見える事を今日のランチタイムに初めて知って己の恋人は物知りだと感心していたが、今セッティングしている望遠鏡でその流星群は撮影できるのかとの疑問が芽生え、お楽しみの邪魔をして悪いが教えてくれと苦笑すると、望遠鏡から顔を上げたノアが驚いたように振り返る。
「テディ?どうした?」
「いや、ランチの時に教えてくれた流星群を撮影出来るのか?」
「え?あー、どうだろうなぁ」
一応撮影出来るように機材は揃えたつもりだけどそれこそ未経験だからやってみないと分からないと眉尻を下げるノアに、以前ならば未経験での失敗が怖いと言いたげな顔だったのに今は失敗してもそれが経験になるからと言外に伝えてくれる。
それが嬉しくて一つ頷いたテッドは、ノアを手招きしそれに応じて寄せられた頬をつるりと撫で、どんな光景を見せてくれるのか楽しみにしていると目を細めれば、夜目にも鮮やかに白皙の頬が赤く染まる。
「・・・っ!」
「少し冷えてきたな」
このまま観測をするのなら何か温まるものを持ってこようと立ち上がると目尻を赤く染めたまま上目遣いで睨まれてしまい、そんな顔で睨まれると観測出来ないようにしてしまいそうで怖いと遠回しに可愛い顔をするなと苦笑する。
「人の楽しみの邪魔をするな!」
「そうだな、それは止めておこうか」
何しろ初めてのことにワクワクしているようだからと宥めるようにくすんだ金髪をぽんと叩いたテッドは、温かいコーヒーか紅茶を飲むかと庭から家に入る窓辺で振り返り、ロイヤルミルクティーと細かい注文をつけられて一つ肩を竦める。
「ただのミルクティーで許してくれ」
茶葉をミルクで煮出しておいしい紅茶に仕立て上げるのはお前の方が上手だろうと笑うテッドに確かにと奇妙に納得した顔で頷いたノアは、ビスケットも食いたいと広い背中に呼びかけ、分かったという返事をもらって満足そうに一つ息を吐くのだった。
温かいミルクティーを満たしたマグカップを両手に包み、その湯気を顎で受けながら満足そうに息を吐いたノアは、ベンチの隣に腰を下ろしながらずっと望遠鏡を覗き込んでいるテッドの背中に満足したかと笑いかけるが、ああという短い言葉を口にしながらも満足していないと教えるように顔を上げない恋人に仕方がないと息を吐く。
ノア自身も初めて望遠鏡を覗いた時の感動は今でも忘れられないもので、それを今恋人は経験しているのだと気付くと邪魔をする気にならず、マグカップに息を吹きかけて一口飲むと頭上の星々を見上げる。
ウィーンやドイツ南部の大都市では夜空を見上げても星よりも街灯や建物の灯りの方が強くて、余程明るい星でもなければ肉眼で捉えることは難しかった。
だが、今ノアがいるこの庭では、見上げるものは星々と日を追うごとに満ちては欠けていく月だけだというほど周囲には何もなく、見上げている首の痛さにベンチテーブルに背中を預けて仰向けになる。
好きなだけ星空を見上げられる事に嬉しそうに息を吐き、綺麗だなと毎夜見ても見飽きない星空に掌を向けると、視界の隅をスッと何かが通り過ぎていく。
「あれ?」
もしかして今のは流れ星ではないかと身体を起こして再度睨むように空を見上げると、もう一つ、今度は視界の中央を一筋の光が過っていく。
初めて流れ星を見たと感動する間もなく、また一つ星が流れ落ちる。
「テディ、流れ星だ!」
「え?」
望遠鏡の狭い世界ではなく肉眼で広大な星空を見上げろと、まだ望遠鏡を覗き込む為に上体を屈めているテッドの背中をバシバシと叩いて合図を送ると、何事だとテッドが不満そうに顔を上げる。
「ほら!」
今夜流星群が見えるなどラジオやテレビでは言ってなかったのにと、ノアが感動したように空を指差すと、その指の向こうに短いが確かに流れ星が一つ夜空を滑り落ちていく。
「・・・本当だな」
「何て名前か知らないけど、流れ星をいくつも見れるなんて・・・」
今夜は本当に運がいいと夜空の星を取り入れたように目を輝かせつつまた見えないかなと期待に胸を弾ませるノアだったが、そんなノアを間近で見ながらテッドは流れ星よりも綺麗に見えるものがすぐそばにある事に気付く。
好奇心にキラキラと光る蒼い目と、興奮から少しだけ赤く色付いている頬がどんな女性よりも美しく見え、大丈夫かと己の目を疑うように瞬きを繰り返すが、興味のある事に目を向け好奇心に胸を弾ませているノアの顔が本当に好きだという、テッドにとって疑う余地のない現実を突きつけられただけだった。
「・・・ノア」
「ん?」
小さく名を呼んで星空から恋人の視線を奪い取る事に成功したテッドは、不思議そうに首を傾げるノアの頬を指の背で撫でて見ることができて良かったなと目を細めると、月よりも太陽の下で見るのがふさわしいと思える笑みを浮かべたノアがテッドの指を掴んで口付ける。
「うん、嬉しい」
写真撮影はまたの機会にするが今夜は肉眼で流れ星を見ることができて嬉しいと笑うノアの髪をいつものようにくしゃくしゃにしたテッドは、もたれ掛かってくる身体をしっかりと受け止めてその肩越しに夜空を見上げるが、また一つ星が流れていく。
その残像を網膜だけではなく心にも焼き付けたテッドは、本当に今夜は運が良いなと笑ってノアを後ろから抱きしめるように姿勢を入れ替えさせると、二人で同じ流れ星を見ようと空を見上げるのだった。
この夜、撮影自体はできなかったものの、この経験がノアのフォトグラファーとしての仕事に少しずつ変化を齎す事になるのだが、この時はただ思い出したように流れる星を二人で見つけては指先で追いかけるのだった。
2021.11.30
望遠鏡をいつの間にかゲットしてました(笑)テッドも甘いよなぁ、絶対。ノアがおねだりしたら何でも買いそうな気がする(爆)


