今日もいつものように日の出前から働く恋人の首に、どうか何事もなく無事に帰宅するようにと願いを込めて小さなノーティカルスターがきらりと光るネックレスを着けてやり、行ってらっしゃいのキスをして頼りになる背中を見送ったノアは、明日−正確には今日の午後−から次の仕事の打ち合わせがある為にベッドに潜り込もうと小さく欠伸をしてベッドルームのドアを開けるが、何故か一歩を踏み出せなかった。
身体は睡眠を求めているはずなのに、神経が昂っているようで眠ることへの無言の抵抗を受けていた。
寝なければ仕事に支障を来たす、初めて一緒に仕事をする相手に悪い印象を与えたくないのにと呟き、ホットミルクでも飲めば眠れるかもという期待の元、キッチンでミルクを温める。
その時、キッチンの窓の外へと目を向けたノアは、ああと呟き、レンジで温めているミルクをそのままに、ベッドルームの廊下を挟んだ向かい側にある作業部屋に入り、仕事でも使っているカメラを片手にキッチンへ戻ってくる。
木製の窓枠は飾り気も何もない実用一点張りだったが、その木枠に先日ノアが興味半分で購入した小さな観葉植物を二つ並べた為、キッチンの中でそこだけ雰囲気が少し変化していた。
ノアがこの家で恋人と一緒に暮らし始めて一年が過ぎたが、リビングの壁にアクセサリーフックを設置したのを筆頭に、気が付けば家主である恋人、テッドの趣味とは少し違うが違和感を感じさせないペースでノアのセンスが混ざり込むようになっていた。
その結果の観葉植物でありアクセサリーフックだったが、作業部屋から持ってきたカメラを構え、観葉植物の葉の隙間から顔を出す月を何枚か撮影する。
カメラのモニターで撮影したものを確認し、良いとも悪いとも言えないそれに微妙な顔になってしまったノアの耳に、レンジがホットミルクが完成したことを教える音が流れ込み、カメラを置いてレンジからマグカップを取り出し、窓と正対する作業台に腰を預け、ホットミルクの湯気を顎で受け止める。
暖かな湯気を受け止め鼻腔を擽るミルクの香りに昂っていた神経が落ち着いていくようで、無意識に息を吐いてマグカップに口をつける。
少し熱いぐらいのそれが喉を通って胃に到着すると、じわりと腹の中から温まってくる。
一度暖かさを覚えた身体は次から次にそれを求めるようで、息を吹きかけて少し冷ましつつ時間をかけて半分ほど飲んだノアだったが、窓枠に綺麗に収まっている月を見つめ、ついさっき送り出したばかりなのに、恋人のぶっきら棒だったり素っ気なかったりするが、己への優しさだけは篭っている声が聞きたいと、腹を温めてくれる熱とは比べられない程の熱さを胸に感じ、出航の準備で忙しいのにと己に言い聞かせるように呟くが、何故かいつもならば我慢できるそれができない事にも気付いていた。
だから、さっきは一歩を踏み出せなかったベッドルームに入って枕の上でポツンと待っているスマホを片手にキッチンに戻ってくる。
電話をかけようか、掛けても迷惑にならないだろうか。
冷蔵庫に貼り付けてある小さな時計は夜明け前の時間を示していて、常識的に考えれば迷惑な時間だったし、相手が今何をしているのかを思えば更に迷惑になるとしか思えなかった。
そんな分かりきった事に素直に従える気持ちがどうしても沸き起こらなかったノアは、仕事の邪魔だから少し声を聞いたらすぐに電話を切ると決め、履歴の一番上にある番号へと電話をかける。
コールが5回目を数えた時、やはり仕事の邪魔をするのは良くないと腹に力を込めて通話を切ろうとするが、どうしたという少し焦っているような声が聞こえてきて、呆然と目を見張ってしまう。
己から掛けた電話なのに、相手が出た事で何故こんなにも驚いてしまうのか分からなかったが、胸の中で熱を発していた何かが体全体を一瞬で温めたように指先が痺れてしまう。
『ノア?何かあったのか?』
「あ・・・いや、その・・・」
上手く言えないんだけどと、情けないけれど急に声が聞きたくなっただけと消え入りそうな声で呟くと、呆れたような溜息が聞こえ、仕事で忙しいのにガキみたいな事言って邪魔をした、もう切ると口早に告げるが、そうじゃないという落ち着いた声が溜息の理由を口にする。
『何かあった訳じゃないんだな?』
「え?あ、ああ、うん、大丈夫」
ホットミルクを飲んで寝ようと思ったけれどそれでも眠れなかったから写真を撮っていたと小さく笑うと、安心したような声がそうかと短く返してくる。
その恋人の声の向こうに同じ漁港に所属している漁師仲間が出港するぞと呼びかける声が重なり、ああ、そろそろ出港だから切らないと邪魔だなとノアが溜息混じりに呟く。
今夜−というか今朝−はどうしてこんな不安や焦燥感を覚えるのだろうと、己の精神状態に不安を感じ、遠く離れたドイツで暮らす兄やそのパートナーに話をすれば落ち着くのかと考えるが、少しだけ強い声で名を呼ばれて驚いたように顔を上げる。
『ノア────月が見えるか?』
「え?」
それは存在しているのが当たり前のものがあるかと確認するような声で、窓枠の中に収まっている月を見つめてああと返すと、今日の月は大きく明るい、だから眠れないのかもしれないなと、普段の恋人からは想像できない言葉を聞かされて更に驚いたノアだったが、月のせいかぁと恋人の言葉に乗ってみる。
そうすると何故か心が落ち着きを取り戻したように感じ、さっき少し撮影をしたけれど何か気に食わなかったと呟くと、また撮ってみればどうだと返す声に船のエンジン音が重なる。
「うん、どうせ眠れないのなら撮ってみるかな」
『そうだな、いい感じのものがあればリビングに飾ればどうだ』
「うん、それも良いな」
低く落ち着いた声はノアのまるで逆剥けのようにささくれ立っていた心を鎮める作用を持っているようで、他愛もない話をしているだけで落ち着きが戻ってくる。
そうして話をしている間に片手がカメラを構え、気が付けば肩と頬でスマホを挟み、ファインダーを覗き込んでいた。
カメラの中で素朴な木の枠と二つ鎮座する小さな観葉植物、そしてその向こうに今ノアが感じている不安などちっぽけなものだと優しく諭すような大きな月が光っていて。
無意識にシャッターを何度も押して満足そうに息を吐いたノアは、満足したかと問われて我に返る。
「あ!悪い癖が・・・!」
無意識に集中してしまっていたと慌てるノアにくすりと小さな笑い声が流れ込み、もう大丈夫かとそっと問いかけてくる。
その声に見えないのに頷いた後、うん、大丈夫と声に出して伝えると、安心したようなそうかという声が返ってくる。
「テディ」
『ん?』
「うん・・・ありがとう。もう、大丈夫」
だから今日も仕事を頑張ってと、さっきも伝えたが気をつけてとの言葉を再度伝えると、返事の代わりに小さな音が返ってくる。
その音が何を意味するのかを今では十分理解しているノアも同じ音をスマホに向けて発すると、帰ってきたら写真を見てくれとも告げて小さく欠伸をする。
「今なら寝れそう」
『そうか』
良かったと言葉だけを聞けば素っ気無いが、己への想いがしっかり篭っている声にうんと頷いたノアの耳に微かな船のエンジン音が聞こえてくる。
まさかと掃き出し窓から飛び出して庭の小さなドアを開け、足元の少し先から広がっている暗い海原へと目を向けると、見覚えのある船が少し離れた場所に停泊していて。
港から出て漁場へと向かうはずなのに、ノアの様子が変だったことからこちらに回ってくれたのだと気付いた瞬間、恋人が見られないことを悔やむような泣き笑いの顔になる。
「・・・テディ、もう大丈夫だから行ってくれ」
『・・・ああ』
お前が帰ってくるのを家で作業をしながら今日も待っている、だから無事に帰ってこいと鼻を啜りながら笑み混じりに告げると、テッドが安心したのか、停泊していた船がゆっくりと動き出して方向を変える。
『────行ってくる』
「うん」
その言葉をノアの耳に強く響かせて通話を終えた為、スマホを軽く握って庭のドアを閉めて家の中に入る。
そしてふと窓を見た時、方向転換をした船が窓枠をちょうど横切るところだった為、慌ててカメラを構えてシャッターを押す。
上手く撮れたかどうかは分からないが、この写真をこれから眠れない時のお守りにしようと決め、帰宅した恋人に見せると羞恥からデータを消してしまえと言われかねない事に気付き、門外不出のテッドにも見せない写真にしようと決め、冷めてしまったミルクを飲み干してベッドルームに今度はすんなりと入ると、抜け出した形に盛り上がっている掛け布団に潜り込むのだった。
観葉植物が二つ並ぶ窓枠の中、大きな月がまるでノアの様子を案じるようにしばらくそこに留まっているのだった。
2021.12.02
超健康優良児のノアでも不安になったりするようです(笑)


