人々が羨むような一流どころか、世界規模の企業に勤務し、その企業をたった一代で巨大なものへと進化させた立身出世の見本の元で働く彼、リオン・フーベルト・ケーニヒには不満があった。
その不満を口にすれば、聞かされた相手のほぼ全て−それは彼に無条件の愛を注いでくれる母という奇跡の人ですらも−呆れてしまうのだが、それでも本人にとっては不満なことだった。
今日も今日とて、真冬だけども暖かな日差しを全身に浴びながら、広いデスクに突っ伏す様に頬を膨らませたリオンに、室内の温度が下がりそうな冷たい視線が投げかけられる。
「・・・朝から鬱陶しいな、お前は」
「えー、鬱陶しいはひでぇ。全ての元凶はボスの可愛い可愛い末息子にあるってのに」
「だったらそれを俺じゃなく本人にぶつければどうだ?」
子供が駄々をこねる様にデスクをさっきからガタガタさせているが、いい加減うるさいぞと、日課の業界新聞から目を上げたのは、リオンが密かに尊敬している−がその態度は滅多なことがないと見せない−立身出世の張本人、レオポルド・ウルリッヒ・バルツァーだった。
目を離した新聞をデスクに下ろし、不満たらたらな顔で上目遣いに睨んでくる秘書であり息子の伴侶であるリオンに何か言いたげに口を開くが、出てくるのは呆れが生んだ溜息だけで、それを無事に生み落とした後、新聞を丸めつつゆったり座れる椅子から立ち上がる。
「今日は昼から休みだから一緒にデートすると言ってなかったか?」
「言った!オーヴェが休みだから俺も休みを取ってる!」
「それの何が不満なんだ。何だったらたかがデートで休むな、働けと言ってやろうか?」
丸めた新聞を掌に打ち付けつつニヤリと笑みを浮かべる上司を見上げたリオンは、暴力反対、パワハラ反対と憎たらしい顔で舌を出すが、頭の上に軽い衝撃が降ってきたことで今の今まで全身から撒き散らしていた不満をひとまずは解消させる。
そして、ついでとばかりに表情を一瞬で真剣なものに変化させ、新聞を己の頭に振り下ろした上司を見上げ、この世の終わりを告げられた時の様な顔になる。
「────ボス、どうすればお宅の可愛い可愛い末息子は俺にハニーって呼ばせてくれるんですか?」
「・・・おはようございます、会長、リオン。コーヒーをお持ちし・・・!?」
爽やかな、朝一番の最高の笑顔で挨拶をしつつドアを開け、二人のためにコーヒーを運んで来てくれたヴィルマだったが、彼女の視界に飛び込んで来たのは、真っ赤に顔を染め、握った拳をくすんだ金髪の頭頂部にグリグリと押し付けているレオポルドと、痛い痛い、ハゲるから止めてくれ、暴力オヤジと涙目で叫んでいるリオンの姿だった。
「か、会長・・・!?」
「ヴィルマ!こいつにコーヒーなど飲ませる必要はない!」
「あー!人のコーヒーを奪うなんて横暴だ!暴力はんた────イタイイタイっ!!」
あまり表情を変えないヴィルマが茫然自失と立ち竦む前、レオポルドとリオンがどこの誰が聞いても低レベルと断言するような言い合いを続け、流石の彼女もどうすればいいのかがわからずに額に汗を浮かべた時、背後のドアが開いておはようという何時もに比べれば少しだけ低い声が聞こえて来て、ぎこちない動きで振り返り、声をかけて来た救世主に引きつった笑みを見せてしまう。
「お、はようございます・・・社長」
「・・・何をしてるんだ、二人とも」
ヴィルマの引きつった笑顔など滅多に見ないと内心感心しつつも、言葉ではその原因となった二人の大騒ぎを睥睨したのは、出勤して来たギュンター・ノルベルトだった。
「朝っぱらから大騒ぎできるほど暇なんですか、父さん」
「おお、社長以下一人を除く社員が皆汗水を流して働いてくれているお陰で俺に暇ができている」
「・・・で、その一人の社員の頭に拳骨を食らわせてどうしたんですか」
全く、と呆れを隠さない顔で二人を見おろしたギュンター・ノルベルトは、ヴィルマの手からコーヒーの載ったトレイを受け取り、今日もいつものように仕事のサポートをよろしく頼むと笑顔で彼女を安心させると、ようやく落ち着きを取り戻したらしいヴィルマが一礼を残して会長室を出て行く。
その背中を三者三様の目で見送った男三人だったが、ドアが静かに閉まる音と同時に、今度はリオンの耳に良く馴染んだ氷河期を連想させる声が降ってくる。
「・・・で、もう一度聞くが、何をしているんだ、二人とも」
わー、さすが兄弟、怒り方も怒る声もそっくりだーと、内心の声を流石に今この場で表に出す程リオンも命知らずではない為−悲しいことに過去の経験からリオンが学んだ事の一つだった−、ボスからパワハラを受けていると宣言する。
「それは見ればわかる。何故そうなったかを聞いているんだ」
全く、父さんも父さんだ、リオンだから良いものの、他の誰かに同じ事をすれば社内のハラスメント相談室に駆け込まれるぞと苦笑し、二人を応接ソファへと呼ぶように頭を振る。
「・・・こいつが朝っぱらからあまりにも鬱陶しい溜息ばかりついていたからだ」
「何かあったのか?」
先にソファに座ったギュンター・ノルベルトが父にコーヒーを差し出し、後から座るリオンの前にもカップを置くと、ダンケと涙目で礼を言いながらリオンがソファに腰を下ろす。
「絶対に絶対に、親父や兄貴のせいだと思うんだけどなぁ」
「?」
朝一番に出勤したばかりのギュンター・ノルベルトが、いきなり己のせいだと言われても理解できないと眉を寄せ、レオポルドも背凭れに頭を乗せて天井を仰ぐ。
「オーヴェにハニーって言ったら怒られるだけじゃなくて1ユーロ貯金させられる事!」
「何故それが俺や父さんのせいなんだ」
「じゃあ逆に聞くけど、親父、ムッティの事をオーヴェの前でハニーって呼んだことあるか?」
「・・・ある訳ないだろうが」
「ほら!だからオーヴェに免疫がない!」
その免疫のなさが羞恥につながり、結果俺が言葉を発したら1ユーロ貯金させられることになるんだと、頭を抱えて嘆くリオンにどんな類の言葉を掛ければいいのかが咄嗟に分からなかった二人は、年々似通ってくる顔を見合わせ、あーだのおーだのと意味のない音を発してしまう。
「今朝は機嫌が悪かったからか、10ユーロ分捕られた!」
「・・・一回呼んだだけで10ユーロはさすがに気の毒だな・・・」
「まあ、な・・・ああ、でもそう言えばミカもハニーって呼んだら怒られると肩を落としてたことがあったな」
もう一人の家族のアリーセ・エリザベスも、夫が酔った時などにハニーと呼ぶと全身真っ赤にして怒ると、その怒られる夫から嘆かれたとギュンター・ノルベルトが思い出し、兄貴はどうなんだと上目遣いに問われて目を瞬かせる。
「俺?」
「そう。兄貴はさ、今までハニーって呼んだ人とか今呼んでいる人はいねぇのか?」
その問いはリオンだからこそできるものであったが、当人ははっきりとはそれを自覚しておらず、問われた方とそれを聞かされた方の肩が同じ角度で揺れるのを不思議そうに見つめるが、ハニーと呼ぶ相手も呼ばれる相手も今はいないなぁと、足を組んで微苦笑する。
「何だ、3ヶ月交替の彼女達には呼んでねぇのか?」
それとも、ハニーと呼びたいのは一人だけかと、何気無い言葉の割には二人の心に違う形で刺さる一言をため息混じりに告げたリオンは、コーヒーのカップを両手で持って湯気を吹き飛ばすように息を吹き掛ける。
「なー、結局二人が呼ばねぇからオーヴェに免疫がねぇんだよ」
そんなに恥ずかしいことなのかと小首を傾げるリオンに二人が今度も顔を見合わせるが、レオポルドが咳払いをひとつした後、お前があの子の事をオーヴェと呼んでいる、それだけで十分だと思っているからじゃないのかと呟くと、リオンが己では考えつかない事を知ったとばかりに目を見張る。
「へ!?」
「お前が誕生日の時にプレゼントと一緒にオーヴェと呼んだと聞いたぞ」
あの子にとってそれが意外であり何よりも嬉しいものだったんじゃないかと、リオンと付き合いだして少しずつ良い方へと変化をしていったウーヴェの様子を脳裏に描いたレオポルドが、他のカップルがハニーだのと呼ぶそれが、あの子にとってはオーヴェという名前なんじゃないのかと肩を竦めると、日頃のリオンの言動に苦言を定することが多いギュンター・ノルベルトの顔に柔らかな笑みが浮かび、同意するように何度か上下する。
「・・・俺、じゃあ今までハニーって連呼してたって事か?」
「そうなるな」
冷静に考えればそちらの方が恥ずかしいと思うのだが、いつ如何なる時でもウーヴェの事をリオンだけが呼ぶ名で呼び、それにちゃんと返してくれているのだと認識した瞬間、ウーヴェの最愛の宝物である笑顔になる。
人は愛する人に愛され信頼されている、ただそれだけで強くも優しくもなれる事を他の人たちよりほんの少しだけ経験して理解している二人だが、目の前のそれは、浮かべた人よりもそんな笑顔を浮かべさせた相手に対して興味を抱かせる不思議な笑みであり、その二人の信頼関係を一目で伝えてくるものだった。
「・・・そっか」
そういう事だったらハニーと呼ぶのは控え目にしようかなと、沈黙したまま己を見つめる義理の父と兄の視線に流石に羞恥を覚えたのか、リオンがマグカップに口をつけつつモゴモゴと不明瞭な言葉をこぼす。
「・・・分かったか?」
「分かった、かな」
「まったく・・・・・・さっきはびっくりするぐらい痛い所を突いた癖に、自分の事になると分かっていないんだからな」
レオポルドの言葉に素直に頷くリオンにギュンター・ノルベルトが呆れたような感心したような溜息をつき、何のことだと首を傾げられて何でもないと頭を左右に振る。
「分かったのなら仕事に戻れ。父さんも社員が頑張っているからってサボらないで下さい」
年相応に働けと息子に忠告されてそっぽを向いた父だったが、コーヒーを飲み干した後、大きく伸びをするリオンをジロリと睨み、何でも良いがあまり感心しないことで喧嘩をするなと親としての忠告をすると、拳を突き上げたままリオンが素っ頓狂な声を上げる。
「へ?別にケンカなんかしてねぇけど?」
「・・・・・・なら、それで良い」
だから働けと呆れた顔で手を振るレオポルドにニヤリと笑みを浮かべたリオンだったが、ギュンター・ノルベルトの雰囲気が少しだけ変化している事に気付き、それを気持ちの切り替えに利用する。
「────ボス、明日の会議の資料チェックをお願いします」
「ああ」
気持ちを瞬間的に切り替えられる男である事を態度で示したリオンに満足そうに頷いた二人は、今日も一日働くかとギュンター・ノルベルトが立ち上がると、リオンのデスクの電話が鳴る。
「Ja」
『社長にヘクターから電話が入っているわ』
「了解────社長、ヘクターから電話です」
受話器を押さえてギュンター・ノルベルトに差し出し受け取ったのを確かめると、さっきレオポルドにチェックしてくれと伝えた書類をデスクから取り出し、会長の重厚なデスクにそれを置く。
その行動から会長室の雰囲気が変化し、ウーヴェが迎えに来る午後になるまで、バルツァーの中枢である事を感じさせない重厚で静謐な空気の中、不満を完全解消した顔でリオンが仕事をするのだった。
半日の完全休養に必要不可欠な存在を迎えにきたウーヴェに突進する様に駆け寄ったリオンは、オーヴェ大好き愛してるーと叫び、条件反射の様にうるさいバカタレと返されてがっくりと肩を落とすが、その言葉の根底にある気持ちをいつも以上に感じ取っていた為、満面の笑みでウーヴェの淡いピンクに染まる頬にキスをする。
その二人の姿を目の当たりにし、珍しく会長室でランチを食べていたレオポルドとギュンター・ノルベルトは、たった今感じた気持ちを言葉にするべきかどうかを逡巡し、互いの顔に見なかったことにしようとの言葉を見出して溜息だけで気持ちを抑える。
「親父、兄貴、また明日!」
「・・・フェリクス、そいつを甘やかすのも程々にしなさい」
「そうだぞ」
「何だよ、それー!」
ああ、どうしても抑えきれなかったと笑うギュンター・ノルベルトとレオポルドにリオンが憎たらしい顔で舌を出すが、何の事か全く話の流れが掴めないウーヴェが小首を傾げる。
「?・・・分かった」
「ああ。じゃあ気をつけて帰りなさい」
今日のデートの内容は聞いても苦しくなるだけだから聞かないでおこう、ではまた明日と、背中を見るだけでどれだけ浮かれているかが判別できるリオンに言葉を投げつけたギュンター・ノルベルトは、口では文句を言いながらも自宅以外でもリオンがいればその手を借りる様になったウーヴェが出て行くのを見送り、一日分の疲労感を覚えて父を見るが、父もまた同じ顔で盛大な溜息をつくのだった。
2020.02.22
・・・父上、兄上、ご苦労様です(笑)


