そろそろ太陽が顔を出す時間が早くなり始め、重苦しい冬が終わりそうだと教えてくれるようになったある日の朝、朝食を食べ終えて出勤の準備をする為にバスルームの鏡の前で二人が並んで座っていた。
ウーヴェが足を悪くしてからは不自由が無いようにとの配慮から、以前置いてあったものとはまた違うワイヤーチェアが二つ並び、バスタブの側には水に濡れても平気なものが二つ並んでいた。
鏡の前のそれに二人並んで座っているが、リオンがはいとウーヴェに向けて顎を突き出すと、本当に仕方がないと言いたげにウーヴェがシェービングフォームのボトルを手に取り、泡を掌に乗せていく。
「なー、オーヴェ」
ウーヴェの手が顎や鼻下に泡を乗せていく擽ったさを堪えながらリオンが不明瞭な声を出すと、ウーヴェが手を止めて小首を傾げる。
「どうした?」
「昨日ヴィルマにネクタイがいつも同じだから他のものを買いなさいって言われたんだけど、同じものじゃダメか?」
「俺はあまり気にしないけど、父さんやノルはどうだ?」
一緒にいる時間が長い二人はどうだと問いかけるウーヴェにリオンが蒼い目を丸くするが、あの二人は対外的にもセンスを問われることが多い為、会社にクローゼットを持っていて驚くほどのネクタイがあると文字通り呆れたような声で返した為、確かにそうだなとウーヴェも微苦笑するが、ヘクターはどうだと問いかけつつリオンの顎を掴んで固定する。
「動くなよ」
今口を開けば肌を傷付けてしまうぞと忠告をしてくれるウーヴェに無言で頷いたリオンだったが、ヘクターが着ているシャツやネクタイを思い出し、確かに彼もネクタイに関しては結構な頻度で変わっている事も思い出す。
「割と本数を持っている感じか?」
「・・・・・・」
ウーヴェが慎重な手付きでリオンの顎にカミソリを滑らせていくのを感じつつ頷く代わりに人差し指を立てた右手を軽くあげると、それならばいつも同じ物をしていると女性の目には不満に映るかもしれないと苦笑される。
「リアは?」
「ん?ああ、リアも時々ネクタイとシャツの組み合わせに首を傾げている時があるな」
どちらかと言えばウーヴェはお洒落な方だったが、そんなウーヴェでも時々一緒に働く女性にセンスを疑われる時があるのかと、今度は盛大に目を見張ったリオンにウーヴェが肩を竦め、彼女の好みでは無い組み合わせだったんじゃ無いかと答えると、鼻の下にカミソリをあてがう。
「ネクタイとシャツか・・・今度の休みに見にいくか?」
泡で覆ったリオンの顔半分を綺麗に仕上げていくウーヴェがネクタイを買いに行くかと問いかけると、リオンの右手が先程と同じ様に挙げられるだけではなく、ついで人差し指の代わりに親指が立てられる。
「どんなネクタイにするかな」
よし、と、満足そうに一つ吐息を零したウーヴェにリオンが満面の顔で頷き、ダンケと礼を言いながらウーヴェの頬に顔を擦り寄せる。
「こら!」
「うん、剃り残しはねぇな」
「だからそんな確かめ方をするな」
いつかも言ったが、剃り残しがあるかどうかは手で確かめろとウーヴェが眉を寄せるが、まぁまぁと何とか宥め賺したリオンは、オーヴェはどんなネクタイがいいと思うと問いかけてチェアから立ち上がると、バスルームを飛び出して戻って来た時にはネクタイを手にしていた為、今度はネクタイを結べと言われている事にウーヴェが気付いて何度目かの溜息をこぼす。
「そうだな・・・シャツは淡い色が多いからな、濃い色合いのものとか、ああ、黒かグレーシャツも似合うんじゃないかな」
「へ?グレーシャツ?」
「ああ。濃いグレーのシャツと細身のニットタイも悪くないな」
ニットタイはカジュアルな雰囲気になるが、父や兄の会社でニットタイ禁止などとは聞かないから大丈夫だろうと頷くウーヴェの手に淡い桜色のネクタイを預けたリオンは、グレーシャツかぁと己の脳裏にそれを着た姿を思い浮かべている様に顔を上げるが、そんなリオンのシャツの襟を立ててウーヴェが手早くネクタイを結ぶ。
「グレーシャツを着たお前はきっとセクシーだろうな」
「・・・ハイ、ハニー、朝から誘ってる?」
「そうだな、100ユーロなんてどうだ?」
ウーヴェが思わず本音を零したように小さく呟いた言葉にリオンがすかさず反応し、白とも銀ともつかない髪に隠れている耳に囁くと、せっかく結んだネクタイをぐいと引っ張られて意地の悪い笑みを浮かべられる。
「ぐえ」
「バカな事を言ってないでさっさと支度をしろ」
「ちぇ」
朝から誘ってもいないしハニーじゃないとも言い返すウーヴェに口を曲げたりオンだったが、それでもウーヴェの手がネクタイを好みの形に整えてくれる事に気付き、このネクタイと似たような色合いのシャツはどうだとウーヴェの目を覗き込む。
「うん?ああ、この色も綺麗だな」
グレーシャツとこの淡い桜色のシャツの二枚買ってもいいんじゃないかと、満足気な吐息を再度零したウーヴェは、洗面台の隅に置いた時計に目を向け、そろそろリオンが出勤する時間だと気付いてくすんだ金髪を抱きしめるように手を回す。
「・・・ん」
「あまりゆっくりすると遅刻するぞ、リーオ」
頭を抱き寄せて朝からするには少しだけ色の滲んだキスをし、そろそろ出勤の時間だと額を重ね合わせてウーヴェが囁くと、リオンも同じキスを返して名残惜しそうにウーヴェの頬を撫でる。
「そろそろ時間か」
「ああ、行って来い」
今日も精一杯お前の持つ力で皆を支えてやってくれと、以前とは少し違うがそれでもリオンに力を分け与える言葉を伝えたウーヴェは、行って来ますのキスを頬に受け、リオンの手の甲に恭しいキスをし、腹を拳で一つ叩く。
「行ってくる」
「ああ」
名残惜しさを押し隠したリオンがウーヴェの頭にキスをし、ベッドルームを大股に飛び出していくが、ひょっこりと顔だけを出して今夜は早く帰れる筈だからゲートルートでメシを食おうと片目を閉じる。
「そうだな、そうしようか」
バタバタと賑やかな足音が次第に遠ざかり、少し遠くでドアが開閉する音が聞こえた後、一瞬にして室内から音が消えてしまう。
リオンの存在が賑やかだと常々思い、周囲の人々にそう零していたウーヴェだったが、対極にあるような静けさに包まれた瞬間、己がどれほどその賑やかさを愛し必要としているのかに気付いてしまう。
毎朝同じ事を考えている己に呆れ返ってしまうが、あいつが騒々しいのが悪いのだと、たった今愛していると思案した存在のせいにしたウーヴェは、己も出勤時間が近づいている事を思い出し、リオンにしたものと比べればはるかに大雑把にネクタイを結び、立て掛けてあったステッキを片手に立ち上がると、気分を切り替えるように頭を一つふり、バスルームを後にするのだった。
白のBMWを来客用の駐車スペースに停めて運転席から降り立ったウーヴェは、ステッキを突きながらゆっくりと自動ドアを潜り、すっかり顔見知りになった受付スタッフに笑顔で持参した小さな袋を差し出す。
「・・・お二人で食べて下さい」
「いつもありがとうございます」
リオンから聞かされている、受付にいる二人のベッティの話を思い出しながら笑顔でビスケットを差し出すと、いつも差し入れありがとうございますと、社交辞令以上の笑顔で二人が同時に頷く。
「お部屋にどうぞ」
「ありがとう」
今日のウーヴェの来訪を聞いていたからか、これまた二人同時にエレベーターを指し示されて再度頷いたウーヴェは、ステッキの音を磨かれたロビーの床に響かせながらエレベーターに向かうが、そんなウーヴェに少し離れた場所から声が投げかけられる。
「ちょーっとそこのステッキをついた美人さん、エレベーター止めて欲しいなー!」
「!?」
その突如響いた陽気な声にウーヴェの肩がびくりと上がり、受付の二人も飛び上がりそうになるが、声の主を見た瞬間、驚きよりも呆れから溜息をこぼす。
「リオン・・・!?」
「ハロ、オーヴェ!ちょっと荷物あるからエレベーター止めて!」
どこからやって来たのか、大股にエレベーターへと向かってくるリオンの腕には確かに大きな荷物が抱えられていて、ドアを開けたエレベーターのドアを背中で押さえながらやってくるのを待っていたウーヴェは、助かると礼を言いながら荷物ごと駆け込んでくるリオンを見上げ、すごい荷物だなと苦笑する。
「そーだろ?今度の親睦会で使うんだってさ」
「親睦会?」
リオンが乗り込んで安堵の息を零して足元に荷物を下ろした為、ウーヴェが最上階のボタンを押してドアが閉まるのを待つ。
「社員への福利厚生。流石に大企業だけあって色々充実してるぜ」
「ふぅん」
それにしても随分と大きな荷物だと肩をぐるぐる回すリオンに微苦笑したウーヴェは、どんな福利厚生があるんだと問いかけ、その部署で月ごとに誕生日の人たちにケーキか花束のプレゼントがあり、その月以内ならば有休とは別に休みを二日取っても良い事になっていると教えられてメガネの下で目を丸くする。
「二日も?」
「そう。リアが二日も休んだら正直厳しいよな」
「ああ」
もう一人雇うつもりがない為、彼女が休んでしまうとウーヴェとしては仕事の量が激増してしまうと呟き、そんなウーヴェに同意する様に頷きつつ、社員が沢山いればそういったことも出来るんだなと、ここで働き始めてから知った福利厚生の充実さに感心していたリオンだったが、お前は休みを取ったのかと当然のようにウーヴェに疑問を投げかけられ、俺はお前の休みに合わせて休んでるから誕生日休暇は取ってないと何でもない事のように肩を竦める。
「そう、なのか?」
「そう」
だからと言ってお前が気にする事じゃないと、ウーヴェの不安を先読みしたリオンがウーヴェの背後の壁に手をついて耳元に顔を寄せて囁くと、ウーヴェの唇がキュッと噛みしめられる。
「・・・リオン」
「俺が望んでやってる事。無理強いされてる訳じゃねぇ」
だから本当に気にするなと囁きながら頬へのキスでウーヴェの心に芽生えた罪悪感を和らげようとするが、目的の階に到着した事を音から察し、身体を起こして伸びをする。
「オーヴェ、もう一回ドア押さえて待ってて。荷物先に運んでくる」
「・・・ああ」
暫く呆然としていたウーヴェは、リオンの頼み事で我に返り、先程とは違って手でドアを押さえると、リオンが荷物を再度持ち上げて大股にエレベーターから出て行く。
その背中が一つのドアに消えるのをぼんやりと見守っていたが、程なくして駆け足で戻ってきたリオンが当たり前の顔で手を差し出した為、ついつい習慣でウーヴェもその手を取る。
「お待たせー」
「あ、ああ」
家と同じ様にウーヴェの杖になる事を態度で示すリオンに小さな声で礼を言ったウーヴェは、どういたしましてとの言葉の代わりに頬に小さな音を立ててキスをされ、わずかに頬を赤らめる。
「こらっ」
「へへ・・・親父が待ってる」
悪戯っ子の顔で笑うリオンを睨んだウーヴェは、会長室の扉が開いて腕を組んでウーヴェの到着を待っている父を発見し、挨拶の代わりにステッキを軽く持ち上げる。
「今日の診察はもう終わったのか?」
「うん、終わった」
「そうか」
リオンの腕に支えられながらやってくる息子を笑顔で出迎えた父は、笑顔で立ち上がるヴィルマに彼女自身も含めた人数分のコーヒーを買ってきて欲しいと伝えて二人に先立って室内に戻る。
「ボス、頼まれたもの運んだけど、あれ、何に使うんだ?」
「あれはヘクターが仮装する為の道具だ」
リオンの疑問にレオポルドが何事もない様に返事をするが、それを聞かされた二人が顔を見合わせ、あのヘクターが仮装をするのかと素っ頓狂な声を上げてしまう。
「おお、いつもやっているぞ」
今年は何の仮装かはわからないが、下の部署ではその話で持ちきりだったと、大企業を一代で大きくした立志列伝が何冊も並びそうな偉大な実業家と言うよりはただの悪戯好きの子供の様な顔で笑うレオポルドに呆然とした二人だったが、ウーヴェが父の悪戯好きを思い出し、額に手をあてがって溜息をこぼす。
「そんなところに突っ立っていないでこっちに来い」
ソファに座ってヴィルマがコーヒーを持ってきてくれるのを待っていろと笑う父に頷き、ウーヴェをソファに座らせたリオンは、少しだけ残っている仕事を終わらせるから待っていてくれと頬に再度キスをし、レオポルドのデスクの前に向かう。
「社長が出向いていた件、無事にうちが取ったぞ」
「マジで?さすがは社長だな」
今出張でウィーンに出向いているギュンター・ノルベルトが割と大きな仕事を取るためにこのひと月ほど文字通り飛び回っていたのだが、その成果が出たと教えられ、さすがは兄貴だと、本人の前では絶対に見せない顔で社長を褒めちぎったリオンだったが、ウーヴェがいることを思い出して肩越しに振り返ると、リオンでさえも滅多に見ない穏やかな心底嬉しそうな笑みを口元にだけ浮かべたウーヴェが関心のなさを装いながら雑誌を捲っていた。
嬉しいくせに素直じゃないんだからと、レオポルドにだけ聞こえる声で囁くと、息子の表情に父も似た様な笑みを浮かべ、まあなんだ、特別ボーナスは出ないがお前達が良ければ労いに食事にでも連れて行ってやってくれと、もう一人の息子の疲労が一発で吹っ飛ぶものが何であるかを熟知している顔で頷いたため、リオンも満更ではない顔で頷く。
「そーですね」
何しろオーヴェがあんなに喜んでいるのだからと、ウーヴェ以上に素直ではない事を呟きながらリオンが掌に拳をぶつける。
「さ、仕事は終わりだ」
「やっほぅ」
レオポルドの一言にリオンが口笛を吹いて伸びをするが、ウーヴェが待つソファの後ろに回り込むと、ソファの背もたれ越しにウーヴェを抱きしめる。
「お待たせー、オーヴェ」
「もう終わったのか?」
「終わった。もうちょっとしたらムッティも来るから、揃ったら飯食いにいこう」
「ああ、そうだな」
そもそも今日の来訪は久しぶりにランチを一緒に食べようという誘いがイングリッドからあったためで、その為に診察を終えてやってきた事を思い出したウーヴェは、己の顎の下で重なる手に手袋が嵌められたままであることに気付き、手袋を取ればどうだと振り仰ぎながら苦笑すると、リオンがニヤリと笑みを浮かべてウーヴェの耳に口を寄せる。
「取って、オーヴェ」
「・・・っ!」
耳元で囁かれる声にウーヴェの背筋がぞわりと粟立つが、それ以上感情が揺れない様に右足に力を込め、そんな心の揺れを表に出さない様に最大限注意を払いながら苦情をこぼす。
「自分でしろ」
「良いだろー?」
甘えるんじゃないと言いつつもリオンを最も甘やかしているウーヴェが溜息を落としながら己の胸の前で待っている手を一つ叩いてからそれを取ると、リオンがウーヴェを再度抱きしめて頬にキスをする。
「ダンケ、オーヴェ」
「・・・あまり甘やかすんじゃないぞ、ウーヴェ」
二人のそれを何とも言えない顔で見守っていたレオポルドが諦めた様な溜息を零して二人の向かいに座り、ウーヴェが反論なり異論なりを唱えようとした時、背後の扉が開いてヴィルマとイングリッドが入ってきた為、リオンの腕を軽く叩いて合図を送る。
「お待たせしました」
「おお、ありがとう、ヴィルマ。これを飲んだら俺たちは帰る。後は頼んだ」
「かしこまりました。お疲れ様でした、会長、リオン」
今日の仕事の終わりを告げたレオポルドに頭を下げたヴィルマは、リオンとウーヴェにもお疲れ様と労いの声をかけて部屋を出て行く。
「もう仕事は終わったの?」
「ああ、さっき終わった」
事情を知らないイングリッドがいつも仲良くしている息子とその伴侶の様子に安堵し、コーヒーを片手にレオポルドの横に腰を下ろすと、スペイン料理店を予約したから行こうと二人に笑いかける。
「最高」
「良いな」
三人の賛成を受けて満足そうに頷いたイングリッドだったが、食後に予定が無ければ買い物に付き合って欲しいとウーヴェに告げられて頬に手を充てがう。
「何か欲しいものがあるの?」
「・・・リオンのネクタイとシャツを買おうと思っているんだ」
ネクタイがいつも同じだと言われたらしいと肩を竦める息子に母が小首を傾げるが、確かにリオンはいつ見ても同じネクタイをしているわねぇと長閑に笑うと、出て行ったヴィルマにそう言われたのかとリオンを見、次いで夫の胸元を見る。
「ダークグレーのシャツも良いと思うんだけどな」
母の視線を追いかけて父のネクタイとシャツを見た後、己のそれを少しだけ見下ろしたウーヴェは、自分には似合わないがリオンには色の濃いシャツも似合うだろうと笑うが、ニットタイをしていると何か言われるかと呟き足を組む。
「ニットタイをしているぐらいで文句を言うような奴はいないぞ」
「そーだなー。蝶ネクタイしてる人が広報にいるけど、それがポリシーだって本人は言うし周りは何も言わないからなぁ」
ノーネクタイでもポロシャツなどの襟があるものであれば何も言われない、基本的に清潔な身なりであれば何も言われないとレオポルドに問いかけつつ頷いたリオンは、ダークグレーのシャツがどうもウーヴェのお気に入りらしいと何気無く笑うが、その言葉にウーヴェのホクロの周辺が赤く染まった為、己の言葉が与えたものに気付いてニヤリと笑う。
「・・・オーヴェ、何考えた?」
「・・・なんでもないっ」
何も考えていないと、眼鏡のブリッジを押し上げながら口早に呟くウーヴェにリオンが蒼い目を眇めるが、淡い色合いのシャツも好きだけどとだけ答えれば、うん、似合うだろうなとの声が返ってくる。
「そっか?」
「ああ。チェックでもストライプでも似合うだろうな」
ただ、淡い色合いよりははっきりしているものの方が似合うと思うぞと、リオンの前髪を指先で軽く弾きながらウーヴェが笑えば、リオンの顔にじわじわと笑みが浮かび上がる。
「じゃあ濃い色のシャツを探そうかな」
「そうね、悪くないと思うわ」
息子達の会話を笑顔で聞いていた母は、夫のネクタイを指先で摘んだ後、ネクタイも揃えて買いましょうと手を組む。
「オーヴェが似合うって言ってくれるのが良いかなー」
「好きなデザインとかは無いの?」
リオンの呟きにイングリッドが少しだけ意地悪な思いを込めて問い返すと、リオンの蒼い目が丸くなるが、次いで見惚れるような笑顔が顔中に広がる。
「そんなの、あるに決まってるって。でもそれ以上にオーヴェが似合うって思うものを着たいだろ?」
だって誰よりも愛している人が似合うと言ってくれるものなのだ、それを着たいと思って当たり前だろうと、そんな当たり前のことを何で今更聞くんだと逆に問い返されて一瞬言葉を失ったイングリッドだったが、小首を傾げるリオンの顔に疑問だけが浮かんでいることに気付き、そうねぇと頬に手を当てて笑う。
「あなたよりウーヴェの方がこう言ったことは向いているわね」
「だろー?オフに着る服は流石に自分で選ぶけどさ、オンの時はオーヴェに選んで欲しいなぁ」
そうすればきっと俺は自分で思う以上の力が出せると、二人で悲喜交々の出来事を乗り越えたからこそそう思えるようになったと、今度はリオンがウーヴェの髪を弄りながら若干の照れを滲ませつつ告白し、だからオーヴェ、仕事の時はネクタイを結んでとも告げると、レオポルドとイングリッドが微笑ましいと言う代わりにレオポルドの腕に手を重ねる。
「仲良くするのは良いことね」
「だろー?」
ムッティからの許可も得たことだし、もっと仲良くしようと笑ってウーヴェを抱きしめようとしたリオンだったが、無情にも立てられた掌に遮られて情けない声を出す。
「ぶっ!!」
「・・・・・・場所を考えろ」
「良いじゃんかよー。オーヴェのケチ」
「うるさいっ」
眼の前で繰り広げられる息子達の痴話げんかに両親はどんな類の言葉も持たなかったのか、ただ顔を見合わせた後、本当に仕方がないと言いたげに深い溜息を零すのだった。
その後、イングリッドが予約したスペイン料理店で大満足のランチを終え、予定通りに両親の行きつけのデパートで買い物をすませた二人は、会社を出る前の痴話げんかなどなかったかの様に自宅に帰るが、リオンが会社でのアレは何だと話題を振り返す。
「・・・っ!なんでもないっ!」
「あー、まーたすぐにそんなウソを言うだろー」
何でもないなんてすぐにバレるウソを言うなと、廊下の手すりを頼りに足早にリビングに向かおうとするウーヴェを大股に抜き去ってその前に立ちはだかったリオンは、会社と同じ様に目尻のホクロを赤くしている事に気付き、ウーヴェの顔の側に手をついて軽く上体を屈める。
「・・・っ!」
「な、何考えたんだよ、オーヴェ」
俺にだけ教えてと、目尻から頬にまで範囲を広げた赤みを更に広げさせるように低く囁いたリオンだったが、返事がない事に小さく息をこぼし、分かっていることを教えるようにその赤く染まる頬にキスをするが、上体を起こそうとしたその時、ウーヴェの手が伸びて一つに束ねられているリオンの後ろ髪を掴んだかと思うと同時に引っ張ったため、リオンの頭が仰け反ってしまう。
「痛い痛いっ!オーヴェ、首いてぇ!!」
「バカたれ!!」
「ごめーん!許して、オーヴェ!!」
「うるさいっ!!」
廊下中に響く悲鳴にウーヴェがうるさいとバカたれと怒鳴り返すが、一頻り怒鳴ったら気が済んだのか、首筋を押さえるリオンの手に手を重ね、頼むから両親の前であんなことを言うなとピアスが嵌る耳に囁きかける。
「・・・うん、調子に乗った」
「・・・分かってくれたらそれで良い」
だからもうそんな顔をするなと、リオンの頬を撫でてキスをしたウーヴェは、全てを許すと伝える代わりに両腕をリオンに向けて伸ばし、その仕草から何を求められているのかを察したリオンがウーヴェの頬に顔を寄せ、しっかりと思いが伝わったことを教えるように抱き上げる。
「おいしいコーヒーが飲みたいな」
「あ、良いな、それ。淹れようか」
「ああ」
望み通りリビングのソファにおろしてもらったウーヴェは、テーブルに置いたままの雑誌を手に取り、マグカップを両手に戻ってきたリオンを笑顔で出迎え、二人揃って午後のゆったりした時間を両親の前で見せたように仲良く過ごすのだった。
2019.03.24 何だか両親が気の毒になってきました(・_・;


