後小一時間で夜の営業を始める時刻を迎える、女性の名前を冠するレストランのドアが開き、世間一般にはまだまだ若いと言われる年代の青年が一人、少しだけ目立つようになってきた腹回りを撫でて青空を仰ぎ見る。
春の象徴である復活祭を終えた街はすっかりと春本番に染まり、天気さえ良ければ夏を思わせる陽気さに満ちていた。
このレストランで料理という世界に殴り込みを掛け、それなりに名を成している青年だが、メディアに大きく取り上げられてちやほやされる料理人のように気の利いたコメントも言えないが、こんなにも良い天気の午後にはビールやワインをバスケットに詰め、ゼンメルやライ麦パン、ハムにソーセージや野菜をサンドしたものを食べたいと暢気に呟くが、金色の嵐が近づいてきたことに気付いて軽く目を瞠る。
「ベルトラン!」
己の名を呼びながら駆け寄ってくる青年に顔を顰め、一体どうしたと腕を組んだ青年、ベルトラン・デュバルは、肩で息をするくすんだ金髪の持ち主を見下ろして腕を組み替える。
「店、まだだよな?」
「ああ、後一時間ぐらいはあるな」
「・・・・・・腹減ったぁ・・・」
情けない一言を発した後、その場にしゃがみ込んで足の間に頭を垂らしたリオンに瞬きをし、一体どうしたと再度問いかければ、恋人でありベルトランの幼馴染みであるウーヴェと一緒に夕食を食べる約束をしていたが早く店に着いてしまった事と、今日は仕事は休みだったがホームでマザーらの手伝いが忙しくて昼飯を食い損ねたと鼻を啜るように告げられて絶句する。
「何か食わせてくれよっ!!」
「何かって言っても・・・簡単なものしかないぞ?」
「食えりゃあなんだって良い!野菜山盛りでも文句言わねぇ!!」
だからどうか何か作ってくれと懇願するリオンにベルトランが呆気に取られるが、それほど腹が減っているのならば作ってやると、元来のお人好しさから肩を竦めると、中に入れと顎でドアを示して一足先に中に入る。
いつもは人の話し声や笑い声で賑やかな店内も営業が始まる前だからか静けさの中に沈み込んでいて、通い慣れた店とは思えない空気にリオンが店内を見回してしまう。
「どうした?」
「なんか・・・静かなここって初めて来た気がするなぁ」
いつも自分たちがここに来るときは当然ながら世間一般的に食事時であったりする為に酒を飲んでは陽気に騒ぐ人々がいたり、好みの料理に顔を綻ばせて話を弾ませる人たちが多数いて賑やかだと苦笑するが、カウンターに座れと示されて言葉通りにカウンター前に向かい、カウンターにぴたりと寄せられているテーブルに気付いて椅子を引こうとするが、厨房のコンロの前で作業をしていたベルトランが苦笑しつつそこはダメだとリオンを制止する。
「店のみんなが使うテーブルなのか?」
「まあそうだ」
「ん、悪い」
彼の歯切れの悪い言葉にいつもならば追求してしまうリオンだが、今は空腹でそれどころではないと鼻を啜り、カウンターに懐くように身を乗り上げる。
「ベルトラン、腹減った」
「・・・・・・・・・キング、中に入って来い」
「了解」
ベルトランが話をするには離れているカウンターからリオンを招き寄せたかと思うと、卵に粗みじんに刻んだ野菜をボウルに入れて混ぜ合わせ、熱したフライパンにボウルの中身を流し込む。
「お前みたいに腹を空かせたヤツに美味いメシを鱈腹食わせる事が夢だった」
「小さい頃からの夢だったのか?」
「ああ。まあ子供特有の漠然としたものだったけどな。それを目標にしたのは・・・進学にするかどうするかを決めるときだった」
ベルトランがフライパンの中で熱せられていく卵と野菜を見つめながらぽつりぽつりと呟くと、リオンが腕を組んで冷蔵庫にもたれ掛かって先を促す。
「十四歳で将来が決まるってのもなぁ・・・」
「ああ。まあ俺は途中までウーヴェと一緒の学校にいたけど、目標を決めてからは料理の道に進む事に決めた」
ドイツでは十四歳になると将来の進路を決める事になるのだが、その際、進学するつもりにしていたベルトランは、学校に復帰した後には前とは打って変わった暮らしぶりになった幼馴染みの為になると信じて進路を大きく変更し、料理人への道へと一歩を踏み出す為に表情を無くしたと陰口を叩かれる彼の傍を離れたのだ。
「大学行くつもりだったんだ、ベルトラン?」
「ああ。目標はまだ無かったし、アビトゥーアを受験できるだけの頭は一応あったからな」
フライパンの中で弾ける油に目を細め、こう見えても学校の成績は優秀だったと胸を張る彼にリオンが盛大に驚いた顔をするが、自分はどうにかこうにか進級できるだけの頭しか無かったと肩を竦める。
「でもさ、なんで夢が目標になったんだ?」
ガキの頃の夢など所詮は夢で終わる人が多いのに、それを目標へと昇華させるだけではなく叶える原動力は何だったと、己のそれを脳裏の片隅で思い出しながら問えば、パチパチとフライパンの中で食材に火が通っていく音だけが響くが、小さな溜息混じりにベルトランがその音に負けそうな程小さな声で呟く。
「お前も知っているだろう?・・・・・・あいつは、ウーヴェは食べる事に対してあまり興味を示さない」
幼馴染みの端正な横顔を脳裏に描きながら苦笑した彼は、確かに食べる事に関しては自ら進んで何かをしないとリオンが同意を示せば、幼い頃は二人でおやつを奪い合って良くケンカをしていたと苦笑を深めると、冷蔵庫の辺りから驚愕の気配が流れ出してくる。
「ガキの頃は食べる事が好きで、美味しそうにものを食べるヤツだった」
事件の後全てのものが変化をしたのと同じように、ウーヴェの食に対する興味や感情も何もかもを喪失していたと呟かれ、リオンが目を伏せて己のブーツの爪先を見つめる。
「・・・自分が食事をする事が悪い、そんな風に思い込んでいるらしい」
これはウーヴェの姉であるアリーセ・エリザベスから聞かされた言葉だと苦々しく表情を歪めた彼は、リオンが腕を組み替えて視線だけで見つめてきた事に気付き、気分を切り替えるように肩を竦める。
「だから・・・俺が料理を作って、あいつに腹一杯食わせたいと思った」
「・・・・・・そっか」
「ああ。昔はそれはよく食べる子供だったからなぁ。リンゴのタルトがあるだろう?」
「ああ、うん。この間一切れ余ったから食いたいって言ったらすげー怖い顔で睨まれた」
ウーヴェの好物であるリンゴのタルトを食べたいとリオンが口に出しただけなのに、それはそれは恐ろしい笑顔で食べるのかと迫られてしまい、泣く泣く諦めた夜を思い出すだけで切なくなってしまうが、この世の終わりを迎えるような顔で見つめられてしまえばリオンに太刀打ち出来る筈もなかった。
「ガキの頃、リンゴのタルトを一台食った事があってな」
「は!?」
幼馴染みである彼の口から衝撃の過去が語られ始めた事に気付き、リオンが己の空腹を忘れた顔でどういうことだと背中を冷蔵庫から引っ剥がす。
「俺たちのおやつだから子供サイズにはなっていたが、タルトを一人で全部食っちまった事があったんだよ」
当然ながらその後、食べ過ぎによる腹痛でベッドの住人と化したと教えられ、ベルトランならば兎も角、信じられないとリオンが口をあんぐりと開けてしまう。
一緒に食事に行ってもどちらかと言えばリオンが食べる方が多くて、恋人であり彼の幼馴染みであるウーヴェはワインかビールを飲む事が多いのだ。
だからリオンに比べれば細すぎるし、ベルトランの様に少し腹回りが目立ち始めた体型にもならなかった。
そんなウーヴェが過去にリンゴのタルトを食べ過ぎた結果、腹痛に悩まされた事があると教えられても俄には信じられず、またその過去が愉快だった為に他に何かないのかと問えば、ベルトランがフライパンの蓋を外して料理人の顔で頷き、器用に手首を返して中身をひっくり返す。
「あいつは上の二人と年が離れているから、おじさんおばさんがかなり可愛がっていて、二人はフェリクスに甘いと良く兄貴が愚痴を言ってたっけ」
「おじさん・・・あー、オーヴェの親父さん達か」
「甘やかされたと言っても、まあ一般的に躾には厳しかったけどな」
ただ手放しで可愛がる様な甘やかし方ではなく、幼いながらも一人の人としての人間性を大切にするような育て方をしていたと、遠い昔を思い出すようにベルトランが目を細め、その育てられ方だからかそれとも持って生まれた性分からなのか、ベルトランと彼が幼稚園に入る前にはすっかりその基礎が出来上がっていたと苦笑する。
「基礎?」
「ああ・・・・・・お前も分かってるだろうが、あいつは基本的に平和主義だ」
過去の凄惨な事件に巻き込まれた結果、暴力に対しての激しい拒否や拒絶を見せるが、それは事件の前にもすでに育まれつつあった事を思い出す。
「危ないことは何があっても引き留めようとする優しい一面もあった」
「・・・優しいっていうかさ、心配性?」
「まあそうだな・・・その心配性のせいで俺は何度もあいつに怒鳴られて泣かれたことがあるがな」
遠い昔、少しばかり元気が良すぎるベルトランを心配のあまり大声で制止し、それでも聞き入れられないと分かると、最後の手段とばかりに大きな目に涙を浮かべて上目遣いにベルトランを睨んできたのだ。
その光景が脳裏に蘇り、あの頃はあいつも可愛かったと嘯けばリオンがぽかんと口を開けて彼の顔を見入ってしまう。
「あいつの家の裏庭にサクランボの木があったが、それを取って食べようとなってな・・・」
あの日、晴れ渡る青空の下で見事に色づいサクランボを取る為に木に登った幼いベルトランは、同じく幼いウーヴェの不安と心配が入り交じる視線を受けつつ枝に手を伸ばし、小振りのサクランボの果実をもぎ取った事があった。
その時の事を思い出したベルトランがソーセージを沸騰している湯に投げ入れると、続きを聞きたいと顔中で表現する幼馴染みの恋人に気付いて苦笑する。
「・・・・・・あいつには内緒だぞ?」
「もちろん!」
己の過去を知る彼が恋人に勝手に話をしたと知れば無表情に怒り狂うだろうからと釘を刺したベルトランは、リオンがカウンターに背中を預けて聞く体勢に入ったことに目を細め、遠い昔を思い出すように天井を見上げるのだった。
その日、ベルトランはいつものように背の高い門を見上げながら、特別に設置されているインターフォンのボタンを小さなころころの指で押し続けた。
このインターフォンは彼の母親がインターフォンを押す姿を見て自らもやってみたいと駄々を捏ねた結果、この家-と言うよりは城と呼んだ方が相応しい屋敷-の主であるレオポルドが自らホームセンターで買い求めてきた道具で設置してくれたベルトラン専用のもので、さすがにオーダーメイドだけはあって小さなベルトランが苦労することなく押せる高さに設置されていた。
そのボタンを押し続けると程なくして立派な門扉が金属音を鳴らして内側に開いた為、その隙間を潜り抜けたベルトランは砂利が敷かれている道を走り抜け、水がきらきらと陽光に光る噴水の横をすり抜けて広い階段を駆け上る。
彼の小さな身体が階段の上に登った時には玄関のドアが開いていて、中から背の高い人の姿と、その人物の足にしがみつくように腕を回す小さな姿が見えていた。
「今日は一人で来たのか?」
背の高い青年がベルトランと視線を合わせるようにしゃがみ込んで栗色の髪を撫でてこんにちはと笑えば、彼も元気いっぱいに笑みを浮かべてこんいちはと返し、今日は仕事が休みだった父さんに送って貰ったと子供らしい笑みを浮かべ、青年の肩に寄りかかるように立つ幼馴染みに手を伸ばす。
「でんしゃ持ってた!一緒に遊ぼ、ウー!」
「・・・うん」
青年の身体に隠れるように顔を出す幼馴染みに彼が嬉しそうに頷き、持ってきた電車のおもちゃを見せると初めてその顔に笑みが浮かび上がる。
「バートと遊ぶ」
「リビングで遊びなさい」
背の高い青年を見上げて満面の笑みを浮かべたのは、幼稚園への入園を控えているウーヴェだった。
ほ乳瓶を片手に紙オムツで膨らんだヒップを揺らしながら歩き出した頃からの付き合いであるベルトランが笑顔で見せる電車を指さし、嬉しそうに笑うウーヴェに青年が目を細め、ベルトランの頭をぽんぽんと撫でた後、同じ栗色でも光が当たれば金髪に見える柔らかな髪を撫でて頭頂部にキスをし、左右の手で子供達の手を握ると長い廊下を進んでいく。
「いらっしゃい、ベルトラン」
「こんいちは」
こんにちはとまだはっきりと話せないながらも、頭が床につくほど上体を折り曲げて挨拶をしたベルトランに、白いレースのエプロンを着けたウーヴェの母、イングリッド・アウロラがにこやかに笑みを浮かべてはい、こんにちはと答える。
「あのね、バートとね、でしゃで遊ぶ」
「そう?じゃあリビングに持って来なければならないわね」
先程の青年が彼女に挨拶を残して出て行った為、代わりに母が二人の手を引いてリビングに入り、窓際のソファで足を組んで新聞を読んでいるレオポルドに気付いたベルトランがまた舌足らずに挨拶をすれば、顔を上げたレオポルドが太い笑みを浮かべて大きく頷く。
「レオ、二人がここで電車で遊ぶそうよ」
ウーヴェの部屋から電車とレールを持ってきてと夫ににこやかに告げた彼女は、渋々立ち上がる大きな背中に苦笑し、今日のおやつはプリンよと子供達の頭を撫でる。
「プイン?」
「そうよ。ウーヴェもベルトランも大好きなプリンよ」
ウーヴェが口元に指を宛がいつつ舌足らずにプリンかと問えば、その横でベルトランが歓喜の舞を踊り出しそうなほど顔中に笑みを浮かべ始める。
「用意をするから、ここで遊んでなさい」
「あーい!」
「うんっ!」
子供達の元気いっぱいの声を満面の笑みで褒め称え、良い子で遊んでいるのよともう一度頭を撫でたイングリッド・アウロラは、夫が両腕に抱えきれないほどのレールや電車のおもちゃを運んできた姿に目を細め、彼らの為にプリンの仕上げに掛かるのだった。
レオポルドが組み立てたレールの上を自在に電車を走らせて遊んでいた二人は、何やら気難しい顔で入ってきたスーツ姿の男性を尻目に賑やかに遊んでいたが、レオポルドが大声を上げて苛立たしそうな表情を浮かべた為、顔を見合わせてウーヴェの父の様子を窺う。
子供は子供らしく元気いっぱいに遊べと言うのがバルツァー家の家訓でもあったが、周囲に同年代の子供と言えばベルトランと幼稚園の子供達しかいないウーヴェにしてみれば周囲の雰囲気を敏感に察する癖がいつの間にかついていて、父の表情と苛立ちを現すように葉巻に火をつけた事から、ベルトランの服の袖を引いて潤んだような瞳で彼を見つめる。
「バート・・・・・・あっち、あっち」
「え?・・・う、うん」
ウーヴェのその言葉にベルトランが躊躇いを覚えながらも頷き、何やら語気も荒くスーツ姿の男性に命令をするレオポルドの声が届かない場所を探すように細く開いていたドアから抜け出すと、玄関ではなく庭に出る為のドアを開けて外へと出てしまう。
広大な屋敷の周囲はこれまた立派すぎる庭に囲まれていて、噴水のある正面玄関の左右に広がる庭の敷石を辿っていけば裏庭にまで歩いて行けるのだが、あまり裏庭の手入れには気を配らない為か、彼方此方に立ち枯れた植物が植わったままだったりモグラが這い出した跡などがくっきりと残っていた。
「ウー、どうしたの?」
「・・・・・・大きな声、イヤ」
「そっか・・・じゃあさ、ここで遊ぼ!」
この頃からすでにベルトランはウーヴェがイヤだと思うことは極力避けるようになっていて、電車遊びはまた明日しよう、その代わり今日はここの庭を探検だと笑うベルトランにウーヴェの顔にも笑顔が戻り、少しだけ元気を取り戻したような顔で頷いた後、自然と芽吹いた草花を探して裏庭を歩き回り、手入れが行き届いていない為に朽ち果てている東屋にまでやってくると、蔦や苔が生えている石のベンチに二人でよじ登り、小さな足をぶらぶらとさせては東屋を吹き抜けていく春風に楽しそうな笑い声を上げる。
「あした、ママにサンドッチ作ってもらおか」
「ウーはリンゴ、ほしい」
「うん!じゃあぼくはイチゴ!」
幼馴染み同士で好物を言い合い、それぞれの母親に作って貰ったサンドッチ-サンドイッチ-と飲み物を持ってここに来ようと笑い、二人だけのお楽しみが出来たと子供らしい笑顔を浮かべるが、東屋の石柱の間から何かの枝が入り込んでいて、それに気を取られたウーヴェが石のベンチから身を乗り出して枝の根元を見つめ、ベルトランの服を再度引っ張る。
「なに?」
「・・・・・・あれ」
「あー!チェリーだ!」
枝を伸ばしていたのはチェリーの大木で、東屋内の枝には実がついていなかったが、その建物の背後の他の枝にはたわわに紅い宝石が実っていて、食べたいとウーヴェがぽつりと呟く。
「ぼくも食べたい!」
二人で手の届かない高さに実る宝石を見上げ、今すぐ食べたいねと顔を見合わせると、ベルトランがウーヴェの肩に手を置いて大人顔負けの笑みを浮かべて胸を叩く。
「取ってくる!」
「ダメ!あぶないっ!」
「大丈夫!」
いつも家の庭にあるリンゴの木に登っていると笑うベルトランにウーヴェが真っ青な顔でダメだと言い張り、いつも両親や兄姉にしつこいほど言われている、木に登るときは大人がいないとダメという言葉を脳裏に響かせながら必死になって彼を止めようとするが、失敗することなど疑いもしない子供の顔でベルトランが大きく頷き、大丈夫だからとウーヴェを安心させるように胸を張る。
「バート、ダメ・・・っ!」
「だーじょぶ!」
「・・・ダメ・・・バート、ダメ・・・」
お願いだから止めてと大きな碧の目に一杯の涙を浮かべ、危険を冒そうとする友人を言葉と態度で引き留めるウーヴェの頭を小さな手で撫で、三ヶ月だけ早く生まれた為にウーヴェを守らなければならないと思い込んでいるベルトランが自信に満ちた笑みを浮かべ、テレビで見たアニメのヒーローの様に親指を立てる。
「だじょぶだから、ウーはここでまってて!」
碧の瞳を潤ませながら見つめてくる友人にもう一度頷いた彼は、その目の前で靴と靴下を脱ぎ捨てて木に張り付いて子供とは思えない素早さで木登りを始めていく。
あと少しで宝物を手に入れられる、その歓喜にベルトランが短い手を精一杯伸ばして二つの実を掴んだその時、裸足の足が木肌を滑り、バランスを崩してしまう。
「!?」
二人で食べる為に小さな手にしっかりとチェリーを握ったまま小さな身体が下草が生い茂る地面へと吸い込まれていくが、落ちたとベルトランが判断をした時、衝撃が背中を襲い、痛みに呼吸が止まりそうになる。
「!!」
「バート!!」
涙と痛みに滲む視界一杯に碧の瞳が入り込み、ああ、泣かせてしまったと幼いながらも彼が感じて詫びようと手を挙げるが、木から落ちた衝撃を受け止めた身体が意識を手放せと命じた為、身体の命令に素直に従ってしまう。
薄れ行く視界の中でまるで天使のような優しい顔に涙の跡を付けたウーヴェがベルトランの名前を呼んでいた気がするが、その声は意識を手放した彼には届かないのだった。
「・・・・・・ベルトラン、木から落ちたのか?」
苦笑混じりに語り終えた彼にリオンが呆気に取られたというか、ある意味予想通りの展開に苦笑しつつ問えば、その通りだと肩を竦められたが、皿を出せと命じられて素直に従う。
フライパンの中で程良く焼き上がっていた野菜入りオムレツの様なものを皿に盛りつけ、同じ皿にボイルしたソーセージも盛りつけたベルトランは、リオンの目がきらきらと輝きだしたことにもう一度肩を竦め、冷やしておいたアプフェルヴァインをグラスに注いで差し出せば、リオンの目の煌めきが一層強くなる。
「その後が大変だったんだ」
ウーヴェのベッドで目を覚ましたが、椅子に腰掛けてベッドに突っ伏しているウーヴェに気付いて肩を揺さぶったものの、起き上がった顔を見てベルトランは幼心に傷付けてはいけない人に傷を負わせた事に改めて気付いたのだ。
「・・・大変ってさ、もしかして・・・」
「ああ」
いつかお前も経験しただろうが、あいつは小さな頃から心配をしすぎると大声を張り上げる癖があったと、ベルトランが当時を思い出してげっそりした顔で天井を仰ぐ。
「泣きながらバートのバカと叫んで・・・それを聞きつけたギュンターがきてくれたが、それでも泣き止まなかった」
あの後、弟の泣き声にいち早く気付いたギュンター・ノルベルトが肩を震わせて泣いているウーヴェと、そんなウーヴェを慰めようと必死になりながらこちらも泣きそうな顔のベルトランに呆気に取られ、ひとまずはウーヴェを泣き止ませようとプリンとジュースで気分転換を図らせたのだが、ウーヴェを泣かせた事実に落ち込んだベルトランが今度は泣き出してしまい、せっかく泣き止んだウーヴェがベルトランにつられるように再び泣き出した結果、ギュンター・ノルベルトは悲しそうにしゃくり上げる弟とその友人を両腕に抱き上げて家族が待つリビングに向かい、驚き笑い出しそうな父と母にベルトランの小さな身体を預けて何とか三人がかりで二人を泣き止ませたのだった。
「怪我はなかったが心配をさせたって事で親父とお袋にこっぴどく叱られるし、ウーヴェはしばらく笑ってくれなかったしで後々大変だったんだぞ」
「へぇ・・・でもその時に取ったチェリーはどうしたんだ?」
「・・・プリンに載せて食べたな」
「食ったんだ!」
「当たり前だろう?」
心身ともに痛い目に遭って手に入れた宝物なのだ、美味しく美味しく頂いたと大仰に頷いた彼は、涙でコーティングした為に本来の味に塩味がプラスされているそれをウーヴェが真っ赤に泣き腫らした瞳をぱしぱしと瞬かせながらも美味そうに食っていたと片目を閉じるが、その直後に何か思い出したくない事が浮かんだ様な苦い顔になって頭を振る。
「・・・ま、あいつの心配性は失われていないって事だな」
「・・・ああ、うん。確かにオーヴェは心配性だよな」
良くあれで今までやってこられたものだと、野菜がふんだんに入ったオムレツを頬張りながらリオンが天井を見上げて苦笑すると、ベルトランの穏やかな顔に一瞬だけ険しい表情が浮かび上がるが、リオンがそれに気付く前に霧散してしまう。
「・・・・・・・・・なあ、キング」
「ん?」
ボイルされたソーセージも美味いと頬張っていると不意に呼びかけられ、真剣な顔で見つめられている事に瞬きを繰り返してどうしたと先を促せば、自分がこんな事を言うのはおかしいかも知れないが、あいつを頼むといつかにも聞かされた言葉を再度聞かされ、一抹の不安を隠しきれない様子の恋人の幼馴染みに向けて親指を突き立てる。
「安心して良いぜ、ベルトラン」
「・・・・・・ああ」
お前にだからこんな事を頼むとの思いから苦笑した彼にリオンもしっかりとその思いを受け止めた顔で頷き、思わず目の当たりにしたベルトランが息を飲みそうな強い光を湛えた目で彼を見つめ返す。
「大丈夫だから」
「そうだな・・・・・・お、お待ちかねのお前の王子様が来たぜ」
「王子様なんて可愛げのあるものじゃねぇって」
ベルトランの言葉にカウンター越しに振り返ったリオンは、ドアが開いて姿を見せた恋人に気付いて破顔一笑し、片手を挙げて今自分が何をしているのかが一目で分かるフォークを振りかざす。
「ハロ、オーヴェ!」
「もう来ていたのか?」
「うん。早く着いたから先にちょっとだけ食ってた」
カウンター越しに言葉を交わす恋人達を横目で見つめたベルトランは、厨房に直接出入り出来るドアが開いて荷物を抱えたチーフの姿に目を細め、開店準備に掛かるかと声を挙げる。
「オーナー、うちのばあちゃんが良かったら食べてくれって」
「ん?・・・立派なチェリーだなぁ!」
チーフが小脇に抱えた袋を差し出し、覗き込んだベルトランが歓喜の声を挙げれば、リオンが同じように中を覗き込んで小躍りし、ウーヴェが微苦笑を浮かべてリオンが飲んでいたアプフェルヴァインのグラスに口を付ける。
「ありがとうよ。また店に来てくれって言っててくれよ」
「ありがとうございます。あ、リオンにウーヴェさん、来てたんですか?」
「今日は予約を入れてなかったから、早く来た」
「・・・・・・ああ」
チーフの問いにリオンが明るく返し、一足先に食べていたオムレツが美味かったとベルトランに礼を言い、さあ腹一杯メシを食うぞと宣言すれば、食前食後にメシを食うのかとチーフとベルトランに笑われ、ウーヴェには呆れた様に額を押さえて溜息を落とされる。
「食前食後にメシを食うなんて、酷いぜっ!」
リオンの声にベルトランとチーフが高々と笑い声を上げ、つられたようにウーヴェも口元に拳を宛がってくすくすと笑いだしてしまう。
他の二人は兎も角、ウーヴェが笑ってくれる事が何よりも嬉しかったリオンは、己を貶されたことも忘れて一緒になって笑ってしまうのだった。
いつもの窓際の席で2人で賑やかに食事の時を過ごす幼馴染みとその恋人へと時々目を向けたベルトランは、テーブルの上の料理の大半がウーヴェではなくリオンの腹に消えたことに気付いて溜息を零すが、幼馴染みの手元の皿にしっかりと食べた形跡を発見して安堵の吐息を零す。
先程ひょんな事からリオンに告げてしまったこの店を持つ契機だが、あの当時に決意した思いは形を変えても未だに彼の中でしっかりと息づいており、それを示すようにウーヴェがカウンター越しにベルトランを呼んだ時には食べてくれたことが何よりも嬉しいと言い出しかねない表情で包丁を置いたのだ。
「どうした?」
「ああ・・・・・・いつも美味しいものをありがとう、バート」
チーフやその他の従業員が忙しく動き回り、店内で流れている程良い大きさの音楽に掻き消えそうな声だったが、ベルトランはしっかりとそれを聞き止め、己の腕に自信を持つ料理人の顔で大きく頷く。
「しっかり食ったか?」
「ああ・・・・・・本当に美味しかった。今度は久しぶりにラクレットが食いたいとリオンが言ってる」
「ラクレット?また用意しておいてやる」
だからまた一緒に来いと笑みを浮かべたベルトランは棚の上に上げておいたチェリーが詰まった袋を下ろし、中身を少しだけ取り出して別の袋に詰めて笑みを浮かべてそれを差し出す。
「何だ?」
「キングと家で食えよ」
「・・・・・・ありがとう」
チーフが運んできてくれた春の味覚に目を細め、彼にも礼を言っておいてくれと笑うと、今日は帰ると手を挙げてカウンターからテーブル席の恋人を振り返る。
「そう言えば・・・俺の心配性は子供の頃からだったんだなと言っていたが、何かあいつに話をしたのか?」
「ん?いいや?」
何かあいつにはあいつなりに思い当たる節があるんじゃないのかと内心の冷や汗を表に出さないように必死に我慢したベルトランは、なんだそれはと呆れる幼馴染みの肩に手を載せてあまり気にすると禿げるぞと目を細めるが、俺が禿げるよりもお前の腹が出るのが先だと鼻先で笑われて絶句する。
「その口の悪さ、いつかキングに嫌われるぞ」
「うるさい、ぽよっ腹」
「またそれを言う!」
「ふん」
カウンターを挟んで幼馴染み同士が違う色の瞳で睨み合うが、どちらからともなく吹き出すと、今度チェリーのタルトを食べさせてくれとウーヴェが目を伏せ、どうせならばいわゆる黒い森のチェリーケーキと呼ばれるものを作ってくれと笑みを浮かべると、ベルトランがぽかんと口を開けてしまう。
「本当に俺の守護天使は口が悪いし我が儘だな!」
「何か言ったか?」
「何も言ってねえよ。そうだ、そのケーキが食いたいのならキルシュヴァッサーを持って来いよ、ウー!」
「とっておきのものを持って来ようか」
懐かしい呼び方がつい口をつくが、それよりも先に呼んだ守護天使という言葉が気に入らないのかどうなのか、誰が天使だ気持ち悪いと露骨に嫌がるウーヴェにベルトランが肩を竦めて顔を覗き込むと、気分を切り替えたらしいウーヴェが守護天使はお前だろうと微かに笑みを浮かべる。
そんな2人の姿をテーブルから見ていたリオンが幼馴染み達を見て何か楽しそうだなと肩を竦めた事に気付き、じゃあまた来るとウーヴェが合図を送るように手を挙げ、ベルトランも注文が入った料理に取りかかる為に作業台の前に戻っていく。
「ベルトラン、今日も美味いメシをありがとう!」
「おぅ!また来いよ!」
リオンの笑顔の声に彼も大きな声で返し、チーフが二人を送り出す声を遠くの世界の様に聞いていたが、何かを思い出したようにチェリーが詰まった袋に手を突っ込み、あの日痛い目に遭いながらも手に入れた宝石と同じ艶やかさで輝く果実を一つ口に入れる。
爽やかな甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がり、あの時食べたチェリーも今と同じほど酸味がきつかったが、それでもウーヴェが美味しいと言って食べていた顔を思い出すと、ウーヴェの為ならば少々の無理も無茶も難なく出来た事も思い出す。
今はそれなりに口も悪くなり感情も取り戻せたウーヴェだが、幼い頃に良く見ていた天使のような面影は今でも微かに残っていると笑ったベルトランは、出来上がった料理を器に盛りつけてカウンターに置き、ウエイターに運んでくれと頼むのだった。
2011/05/113


