ゆらゆらと大きくも小さくもない波に揺られ、さほど大きくも新しくもない船が上下する。
その船の舳先が向かう先に、見事な月の道が波の揺れに合わせながらも形を保って伸びている。
その月の道を眩しそうに目を細め、ボートの縁に背中を預けて黙ったまま見つめているのは、少し離れた場所で一心不乱という言葉がふさわしい様子でカメラを構えている恋人を見守っているテッドで、一体どのくらいの時間こうしているのかという疑問を覚えて左手を目の前に持ってくると、夜でも時間の視認がしやすいという理由で長年愛用している時計で小一時間経過していることを知る。
エンジンを切って波に揺られているために当初船を止めた場所から少し流されていることを、闇夜に微かに浮かぶ目印にしている陸の形から判断したテッドだったが、潮風に吹かれた身体が寒さを覚え、操縦室に置いたポットを取りに行こうと立ち上がる。
テッドの動きに合わせて船が少し揺れ、その揺れに気付いたフォトグラファーの恋人、ノアがカメラから顔を上げて夜目にも鮮やかな青い目を丸くする。
「テディ?」
どうしたと名を呼ばれることで問われて寒いから紅茶を飲む、飲むかと問い返しながら操縦室からポットを手に戻ってくる。
「・・・Hatschi!」
「Bless you.」
「・・・ダンケ」
テッドが同じ位置ではなくノアのすぐ傍に腰を下ろすが、その途端、寒さを認識したようにノアがくしゃみをし、肩を竦めつつお大事にと返すと鼻を啜りながらノアが礼を言う。
「ドイツ語では何というんだった?」
「ん?ああ、Gesundheit.だな」
「ふぅん」
ウィーンで生まれ育ち、昨年までは短期間だがドイツ南部の大都市に生活の基盤を置いていたノアだったが、ニュージーランドに移住してからはほぼ英語で生活をしていて、マオリの言葉と英語は話せるがドイツ語は勉強をしたことがなかったテッドとは英語で話をしていた。
そのため、その都度気になった言葉をノアにドイツ語に翻訳して教えてもらっていたが、くしゃみの後に相手に伝える言葉は違っても気持ちは同じだと笑われ、確かにそうだと頷くと、再度操縦室に行きシートに引っ掛けていたジャケットを手に戻ってくると、まだ鼻をぐずぐずさせている恋人の肩に無造作に掛けてやる。
「・・・ダンケ」
「どういたしまして」
俺に比べ筋肉も脂肪も少ないのだからと笑うテッドに少し赤面したノアだったが、小一時間掛けて撮影した写真をカメラのモニターで確認し始め、お気に入りの一枚はあったかと問われて上の空で返事をする。
「・・・月の道がきれいに写ってるといいんだけど」
今特に大きな仕事は抱えていないがいつか何かの役に立つかもしれないと、己の仕事のキャパシティを広げる為のストックだと微苦笑しつつテッドにモニターを見せたノアは、覗き込まれるように寄せられる顔に一瞬息を止めてしまう。
美醜観は人それぞれだが、体格にふさわしい、一見厳ついが深い海の色にも似た双眸に見つめられた時、今のように息ができなくなる事が何度もあった。
ドイツで暮らす友人にそれを話すと少しの沈黙の後、どれだけテッドのことを好きなんだと好意的に揶揄われた事もあったと思い出し、本当にどれほど好きなのかと内心呟いて自嘲する。
一目惚れから始まり半年近くの遠距離恋愛の末に同居を始めて一年が経過する恋人の顔が不意に近づくだけで息ができなくなるなんて、恋を知ったばかりの少年かと自分を笑ってしまうものの、現実問題としてそうなるのだから仕方がないという開き直る己も心のどこかにいて、思わずノアが口に出したのはテディが悪いという、聞かされたテッドにとっては全く意味の分からない非難の言葉だった。
「は?」
「・・・お前が悪い」
「何かしたか?」
ノアの目尻が夜目にも分かるほど赤く染まり、唇も不機嫌というよりは納得がいかない時のように歪められていて、今までのやり取りの中何か恋人の機嫌が悪化するようなことをしたかと自問したテッドだったが、思い返しても何も思い当たる節はなく、何か気に障ることをしたかと困惑気味に問いかける。
その顔すらもノアの息を止めかねないものだった為、何でもないと言いながら決して不機嫌になった訳ではないと教えるようにテッドの頬にキスをしたノアは、更に驚いたように見つめられてバツの悪そうな顔になる。
「・・・お前は時々意味が分からないことを言うな」
「そうか?」
「ああ・・・別に構わないが、少し困る」
俺は姪であるミアや親友のボブに人の心がわからない人間だと言われる時があるが、今のように唐突にお前が悪いと言われてもお前の心がどこにあるのか分からないと自嘲するテッドにノアの目が限界まで見開かれた後、逞しい体にしがみつくように腕を回した後、驚きに固まる顔に悲しそうに眼を閉じ、不安にさせて悪かったと己の言動を詫びる。
「・・・テディは人の心がわからない人間じゃないし、冷血な男でもない」
ただ適切に表現するその方法を知らないだけだと、一緒に暮らすようになって遠距離恋愛中には見えなかった顔をいくつも見るようになったノアが得た確信を穏やかな声で伝えると、ジャケットの背中へと太い腕が回される。
「言葉に出すのが苦手なだけだ」
そんな人はいくらでもいる、それを冷血だの朴念仁だのと言い切るのは短慮すぎると笑うノアの言葉に目を細めたテッドを見上げ、こんなにも温かいと尚も笑って腕に力を込めたノアは、今のはお前の顔が急に近付いたから驚いただけと悪戯っ気を込めて広い背中を回した手で撫でる。
「言っとくけど、お前が今思ったことと逆だからな」
「・・・・・・」
「恥ずかしいんだけどなぁ」
でも俺たちには口があり言葉がある、だからちゃんと想いを伝えようと頷いたノアは、お前の顔が好きすぎると照れた様な笑みを浮かべ、何度目かの驚愕の色を恋人に浮かべさせる。
「恥ずかしいけど何度でも言うからな」
俺はお前の顔や時々意地悪な所も好きだから、口数が少なかったり気持ちが分からない所も腹が立つ時はあるけど、でもそれでも好きだからと、テッドがコンプレックスに感じている性格を好きだと笑ったノアだったが、ジャケットの上からきつく抱きしめられてさっきは撫でた背中を子供を宥めるようにポンと叩く。
「俺は、お前のように言えない」
「良いよ。俺が分かってれば問題ない」
ノアの優しい言葉にテッドが自嘲するように呟くが、その言葉をそっと拾ったノアが感情と同じ様に何倍にも増幅させて顔中に広げると、俺だけが知っていれば良いと繰り返す。
「お前の良い所も悪い所も、俺だけがちゃんと知っていれば良い」
何も知らない、知ろうとしない他人が何を言っても関係ないと、テッドからすればただ羨ましくなるしなやかな強さで笑うノアの顔が見たいと今この瞬間強烈に思い、白い頬を両手で挟んで真正面から見つめると、何だよ、恥ずかしいだろうと口早に吐き捨てるが、テッドの大きな手に手を重ねて月の下でも似合う笑みを浮かべる。
波に揺られて流されていた船が気が付けば月の道を横切っているようで、月明かりに照らされたブロンドがきらりと光る。
「言葉に出来ないならハグしてくれ、テディ」
それで思いは伝わるからと笑うノアの言葉通りにもう一度抱きしめると、安堵にも似た吐息が一つ、こぼれ落ちる。
「素直に言えって。それで言えれば楽だろうけどなぁ」
それが出来る人出来ない人がいて当然だから気にするなと笑うノアに黙ったまま頷いたテッドだったが、船が流されてると照れ隠しに呟いてそっと離れて操縦席に向かう。
その広い背中を見つつ本当に苦手なんだろうなぁと船縁で頬杖をついたノアだったが、月の道に照らされたことに気付いて目を細め、近くに置いていたカメラを再度構えて心ゆくまで写真を撮るのだった。
この夜にコンプレックスが解消された訳ではないテッドだったが、それでも少しずつつ言葉ではなく態度で示すようになり、態度で出されたノアも己の言葉を守るようにそれを受け止め、二人ともそれに満足しているのだった。
2021.12.23
少し短いですが、二人にとっては大切なストーリーですね(・_・;。それにしても、どうしてこうも自分の気持ちを言葉で表すのが苦手なメンズが多いのか(・_・;


