春の陽気がまだ残る夕方-と言ってもすっかり日が暮れるのも遅くなってしまった為、真冬の夕暮れとは比べられない程明るい時間、仕事を終えたリオンが一段飛ばしに階段を駆け上り、己の恋人が待つ部屋に鼻歌交じりに向かっていた。
今日は仕事で頑張った成果が見事に現れた為、賭をしていたジルベルトから昼食を巻き上げることが出来てホクホクだったのだが、その浮かれ気分のまま階段を昇って辿り着いた最上階のフロアで軽く深呼吸を繰り返すと、シンプルなドアの横にあるボタンに人差し指を押しつける。
程なくしてドアの向こうから人の気配が漂ったかと思うと、静かにドアが開いていつもの癖で破顔する。
「ハロ、オーヴェ」
「お疲れ様。今日も頑張ってきたのか?」
「勿論!」
ドアを開けて出迎えてくれたのは、リオンの最愛の恋人であるウーヴェだった。
いつものように頬だけではなく唇にもただいまのキスを交わしあったが、その時何かに気付いたリオンが小首を傾げてウーヴェを見つめる。
「料理でもしてたのか?」
出迎えてくれたウーヴェの服装がいつもとは違って、生成りのエプロンを着けていたのだが、廊下にまで微かに漂う匂いとその姿から単純に思いついた事を問いかけたのだが、二人並んで廊下を歩いている時に嗅覚を刺激する匂いが増してきて思わず鼻を鳴らしてしまう。
「・・・コンポートを作ってみた。食べるか?」
「もちろんっ!!」
仕事を終えた空腹の腹にはずっしりと堪えるような甘い匂いだったが、食後のデザートならば問題はないと胸を張るリオンに苦笑したウーヴェは、キッチンに入るとテーブルの上で湯気を立てるミルクパンをコンロに戻して加熱し始める。
「すげーイチゴの量だな・・・どうしたんだ?」
「ああ、リアが頂いたそうだ」
それのお裾分けを貰ったと肩を竦めたウーヴェにリオンが目を丸くするが、ボウルに山のように盛られているイチゴを一つ手に取ると、ウーヴェが咎めるよりも先に口に放り込む。
「酸っぱ・・・っ!!」
「・・・・・・だからコンポートにしようと思っているんだ」
それなのに摘み食いをするからだと呆れた様にウーヴェに睨まれたリオンだが、当然ながらそれで懲りる筈もなく、イチゴジャムも良いが、チョコでコーティングしても美味いとウーヴェの背中から抱きついて肩越しに鍋を見下ろす。
「チョコか?」
「うん。マザーが時々作ってくれたんだよ。すげー美味くてさ、ゼップと良く取り合いをしてた」
「買い置きのチョコはまだあったか?」
「んー・・・・・・見てみる」
鍋の前から離れられないウーヴェに代わってリオンが冷蔵庫を開け、広い庫内の決められた場所に納められている正方形のチョコを発見し、一つを取り出してチュッと小さな音を立ててキスをする。
「あったぜ、オーヴェ」
「ああ。じゃあそれを使うから割っておいてくれ」
「ん、了解」
仕上げに掛かるウーヴェの言葉にリオンが素直に頷き、ボウルを取り出してチョコを割り入れていくが、腹が減ったと唐突に宣い、ウーヴェが小さく吹き出してしまう。
「あ、なんで笑うんだよ」
「・・・これをバニラアイスに掛けて食べないか?」
「賛成!!」
いやっほぅと歓喜の雄叫びを上げるリオンを呆れと感心の入り交じった顔で見守るウーヴェだが、自身も空腹を感じるようになった為、なるべく急いで仕上げに取りかかるのだった。
ベーグルにサーモンだのクリームチーズだのをサンドし、朝食の残りであるレバーケーゼのスープを食べ終えた後、出来たてのコンポートが予想外に美味くて、ウーヴェが呆れるほどお代わりをしてしまったリオンだが、満足そうに溜息を零す。
「美味かった・・・!!」
本当にいつも美味いメシをありがとうと、魂の叫びのような声で感謝の言葉を告げられ、美味しかったのならそれで良いと頷いたウーヴェは、お腹が一杯ならばチョコでコーティングしたイチゴは要らないなと苦笑する。
だが、真剣な顔でそんな訳が無いだろうと目を光らせられてしまい、まだ食べられるのかと恐る恐る問いかければ、別腹だと断言されてしまう。
ほとんどの女性には個人差はあるし無い人もいるが、別腹という概念なり物体なりが存在する事は知っていたし思ってもいたが、男性であるリオンにもあるとは思わなかった。
別腹が出来上がるメカニズムを何かのテレビで見たことがあったが、自分の今の言葉から一体何を連想し、満タンになっているはずの胃袋に隙間を作り出したのだろうか。
「オーヴェ、食いたい!」
「・・・・・・分かった」
作ってやるから手伝ってくれと目を伏せて苦笑したウーヴェは、リオンの頬に手を宛がってにこりと綺麗な笑みを浮かべる。
「もちろん、片付けも手伝ってくれるよな、リーオ」
「へ?や、俺は片付けをしてはいけない!ってマザーに教わったからなぁ・・・」
「────要らないんだな?チョコでコーティングしたイチゴは要らないんだな、リーオ」
「うぅ・・・手伝うよっ!手伝えば良いんだろっ!!」
「お前が怒るな」
「あぅ」
ウーヴェの厳しい声にリオンがしょぼんと肩を落として項垂れるが、美味しいデザートを食べるんだろうと微笑まれ、一も二もなく頷いて元気を取り戻す。
「このイチゴ、酸っぱいけど大丈夫かな?」
「どうだろうな・・・一つ食べて酸っぱかったら止めておけばどうだ?」
苦笑しつつウーヴェが呟くが、それよりも早くにもう一つイチゴを口に運んだリオンは、それが余りにも酸っぱかったのかどうなのか、きつく目を閉じて身体をふるふると震わせる。
「オーヴェ・・・っ!」
「・・・・・・お前には学習能力がないのか?」
全くと呆れたウーヴェにリオンが情けない顔で眉尻を下げるが、そんな事を言うお前なんて嫌いだと吼えたかと思うと、ウーヴェの頬を両手でしっかりと挟み、驚く彼の唇を塞いだのだ。
「ん・・・っ!?」
「ぷはー!・・・な?酸っぱいだろ?」
にたりと笑みを浮かべたリオンにウーヴェが腕で口元を覆い隠し、端正な顔を赤く染めると、何をするんだと目を吊り上げる。
「味見してみた」
「俺の味見をしてどうする?するのならばイチゴだろう?」
更に呆れた様な声でウーヴェがリオンを見つめるが、いつもならば笑って誤魔化す様な顔になる恋人の様子が少し違うことに小首を傾げる。
「どうした?」
「いや・・・・・・確かにこのイチゴ、酸っぱかったよなぁ」
ボウルに山となっているイチゴを一つ摘んで鼻先に近づけ、匂いだけでも酸味を感じ取ってしまうのか、顔を顰めたリオンがウーヴェと同じように首を傾げておかしいと呟きを発する。
「さっき食ったイチゴ、すげー甘かった」
「は?」
己の言動に責任を持てと冷たく笑うウーヴェの皮肉に対して全く反応を示さなかったリオンは、一つのイチゴを手に取って矯めつ眇めつした後、意を決したように口に放り込んでその酸っぱさに再度身体を震わせるが、何とかそれを飲み込んで深く溜息を零す。
「・・・そんなに酸味の確認をする必要があるのか?」
己の恋人の不可思議な言動にただ呆気に取られるウーヴェは、天井を見つめて考え込むリオンに苦笑し、チョコをコーティングする為のイチゴを選んでくれとボウルを差し出し、自らはリオンが割り入れていたチョコを湯煎に掛けて溶かす作業を開始する。
「オーヴェ」
「ん?」
良いイチゴを選べたかと呼ばれて振り返ったウーヴェは、再度唇を塞がれて目を白黒させるが、今度は離れた後も大人しく考え込んでいるリオンに本当にどうしたと問いかけ、選別された大ぶりのイチゴを受け取って程良く溶けたチョコの衣を纏わせていく。
「・・・うん、やっぱりそうだ」
「何か新しい発見でもあったのかね、リオン・フーベルト教授?」
「世紀の大発見だぜ、オーヴェ!」
ウーヴェの冷ややかな言葉にもめげずに満面の笑みを浮かべたリオンが親指を立てて己が見いだした何かを誉めろと宣うが、ならば何を発見したのか教えてくれと、全く気乗りしない様子で促したウーヴェは、お前のキスが甘くするんだと断言されて目を丸くする。
「は?」
「だから、この酸っぱいイチゴも、お前とキスしたら甘くなった」
ほら、と確認を促すようにもう一度キスをするだけではなく、口の中に残っていたのか新たに含んだのか、ころりとイチゴが押し込まれて来た事に気付き、手にしていたイチゴをボウルの中で程良く溶けているチョコの中に落下させてしまう。
「!?」
「普通に食ったらすげー酸っぱかったけど、オーヴェにキスしたら甘くなった」
好きで仕方がない相手にキスをすれば、味覚に変化が訪れた事は新しい発見だと思わないかと破顔する恋人にただ深く溜息を零したウーヴェは、前にも似たようなことを言っていなかったかと低く問いかけ、覚えてねぇときっぱりと断言されて肩を落とす。
「だからさ、このイチゴを甘く食べるにはオーヴェにキスすれば良いんだ」
その言葉に最早沈黙するしかできなかったが、ウーヴェの心が素直になれよと小さく囁き、己の囁きを封じる為にチョコに落下したイチゴを摘んでリオンの口元に押しつける。
「んぐっ!」
「俺とキスをしなくてもこのイチゴは甘いんじゃないのか?ん?」
甘いチョコをコーティングしたのだからと目を細めるウーヴェだが、ぱくりと開いた口がイチゴを頬張った後、にたりと笑みを浮かべられると同時に後退るが、二人の食卓にもなるが作業台にも荷物置きにもなる小さなテーブルが背中にぶつかり、それ以上後退出来なくなってしまう。
「オーヴェ」
逃げるなと笑われ、今のお前の顔を見れば誰でも逃げ出す、だから近寄るなと必死に言い募ったウーヴェだが、あっさりと顎を掴まれて身動きが取れなくなった直後、笑みから想像する不気味さなど全く感じない不思議なキスが唇になされ、条件反射のように目を閉じる。
「・・・・・・ん・・・っ」
「チョコが甘いからもっと甘くなるのかと思ったけどさ、あんまり甘く無かったな」
これは一体どういう理由だろうかと、真剣な顔で腕を組むリオンを睨み付けたウーヴェは、ただただ溜息を零し、残っていたイチゴを全てボウルの中にやけくそのように投げ入れるのだった。
その後、チョコでコーティングしたイチゴを皿に盛り、リビングで濃いめのコーヒーとともに堪能したリオンは、少し膨れたような拗ねたような顔でソファで雑誌を読むウーヴェをちらりと窺い、視線が重なった瞬間を狙って腿の上に上体を投げ出す。
「こらっ」
「へへ・・・まだ怒ってるのか?」
いい加減に怒りを解けとウーヴェの顎を擽りながら声にだけ真剣さを滲ませて囁けば、溜息がリオンの顔に吹きかけられ、その風圧に片目を閉じて口を尖らせる。
「────イチゴの味はどうだった?」
「チョコでコーティングしたのか?」
「ああ」
「そーだな・・・マザーが作ってくれたのが一番なら、後ちょっとで追い越すって感じだな」
やはり幼い頃から食べ続けてきたものには負けると呟くが、その舌の根が乾かない内に前言撤回、勝負も何も無いと笑みを浮かべ、ウーヴェの眼鏡をそっと奪い取る。
「こら」
本が読めないと、今度は明らかに不満を訴える顔で見下ろされるが、じっとターコイズを見つめる蒼い瞳には何も言えず、本をソファに置いたその手でリオンの前髪を掻き上げてやり、姿を見せた額をその感触を楽しむように何度も指の腹で撫でる。
「気にするな」
「────うん」
己の言葉が冷たかったり皮肉に唇を持ち上げたりもするが、心を許した相手にならば限りなく優しい恋人が与えてくれる温もりと、生まれ育った環境で接していた温もりとを比べるつもりや優劣を付けるつもりなど全くないと言いたかったが口に出来ず、ただ無言で見つめたリオンの気持ちを酌み取ったウーヴェの言葉に目を閉じて頷けば、額に濡れた感触が生まれ、くすぐったさに笑みを浮かべて首を竦めてしまう。
「オーヴェ、もっと」
「うん?イチゴが食べたいのか?」
「分かってんだろ?」
額へのキスが心地よくてもっとと強請ったリオンにくすくすと笑みを零し、チョコが食べたいのならばまだあるぞと意地悪を言ったウーヴェは、じろりと睨まれて無言で肩を竦めるが、少しだけ躊躇った後、そっと上体を伏せてリオンの顔に覆い被さる。
「リーオ」
「・・・・・・ダン、オーヴェ」
額と鼻の頭、そして唇に口付けられて満足な笑みを浮かべたリオンは、腕を持ち上げてウーヴェの頭を抱き寄せ、顔中にお返しのキスをしていく。
「こらっ、リオン!」
「チョコ、美味かった」
リオンの腕から逃れようと藻掻くウーヴェに小さな音を立ててキスをした後、手を離して起き上がったリオンは、胡座を掻いて両足首を掴んだ姿で身体を前後に揺らし、ついつい自然と浮かんでくる笑顔で顔を赤らめる恋人を見つめる。
マザー・カタリーナが特別な日に作ってくれたささやかすぎるお菓子だが、それと同等の美味さのものを作り出してくれる恋人の存在が本当に嬉しくて、所在なげに腿に置かれている白い手を掴んで口元に引き寄せる。
特別な手入れなどはしていない筈なのに、それでも白くて綺麗な指からチョコの匂いが微かに立ち上り、鼻を鳴らしてその匂いを確認した後、指先を舐めればぴくんと腕が引かれるように震える。
鼻先を擽るチョコの匂いに負けない濃密な甘さを纏った匂いを嗅ぎ分けたリオンは、青い目を細めて愛して止まない恋人の双眸を見つめると、思いが伝わるように願いつつ唇をゆっくりと舐めていく。
その行為からリオンの気持ちを察したらしいウーヴェの目元が微かに赤くなるが、リオンの手の中にある己の手に軽く力を込めたかと思うと、そっとリオンの唾液で濡れた色に光る唇に指の腹を押し当てる。
「────うん」
お互いに望むものを言葉ではなく触れた場所から伝えあい、しっかりと互いの心に伝わったことを確認した二人は、夜にだけ見せる笑みを浮かべた顔でひっそりと笑いあい、どちらからともなく立ち上がるのだった。
リビングのテーブルの上、チョコの衣を身に纏ったイチゴが皿の上でころりと揺れて二人を見送るのだった。
2011/04/19


