038:抱かない理由

Über das glückliche Leben & Your Song

 初めて出会ったのは、日々の生活を送る街から少し郊外に車で走った川縁に整備された桜が淡い春色に染まる中だった。
 己が抱えている仕事の中でも最重要と思っていたそれが驚くほど上手くいき、特別手当をもらって珍しく浮かれ気分で昼から仕事を休んだカインは、何と無く車を走らせて桜並木を発見し、公園に整備されている場所を見つけて車を止めたのだが、春の午後の長閑な空気に珍しく車から降り立って一本の桜の樹の幹に寄り掛かり、タバコに火をつけた。
 春は何もかもが茫洋としているようで、真夏の空の青さや真冬の鈍色の空と比べればとりとめのない色に思え、どちらかと言えば好きではなかった空色だったが、それを見上げつつタバコの煙を細く吐き出した時、頭上でガサガサと物音が聞こえ、鳥か小動物がいるのだろうと何気なく顔を振り上げたその瞬間だった。
 小さな悲鳴とともに、子供が降って来たのだ。
 人付き合いが嫌いで大抵の物事を斜めに見る癖のある彼は、余程のことが無い限り驚いたり顔色を変えたりしないと同僚たちに思われていたし、また半ば事実だったが、流石にこの時ばかりは驚きを隠せずに、グレーの切れ長の双眸を限界まで見開いて石化したようになってしまった。
 『ウソー!』
 人がいるー!との叫び声に我に返ったカインの肩にずしりと荷重がかかり、思わずよろけそうになるのを渾身の力で堪えた己を後日褒めてやりたいと尊大に言い放つことになるのだが、不意打ちのようにのしかかって来た子供を何とか支え、文句を言うために顔を振り仰ぐと、申し訳なさそうな、だが何が嬉しいのか、顔の半分近くもあると思う大きな黒目がちの双眸を見開き、感嘆の声を挙げる。
 『スゴイスゴイ!背が高い人ってこんな世界を見てるんだ!』
 己の肩の上、つまりは肩車をされた状態で視界に飛び込んでくる光景にただただ感嘆の声を上げる子供にこれもまた珍しく呆気にとられて何も言えなかったカインは、タバコを桜の幹に押し付けて揉み消した後、気に入ったかと小さく呟いてみた。
 振り返ってみれば何故その言葉を呟いたのかも理解出来ない事だったが、グレーの双眸に一瞬にして焼き付いたものが言わせたものだとしか思えなかった。
 『うん!スゴイ!僕もこんな世界を見てたいなぁ』
 その言葉と笑顔がカインの脳裏に焼き付き、いつまで経っても忘れられないものになるにはさして時間は必要なかった。
 運命の出会いなど信じたことがない彼だが、そんな彼に訪れた、運命的な出会いだった。

 

 

 自分は本当に彼に愛されているのだろうか。
 そんな、友人たちに話せば一斉に否定される言葉を溜息混じりに呟いたのは、来週の週末に友人達と一緒にオペラを鑑賞し、晩御飯を食べることになっている千暁だった。
 二重窓のそばに置いた応接セットのソファに腰をおろし、腿に肘をついて深くため息を再度こぼした千暁を前に、リオンとウーヴェが顔を見合わせる。
 「アキ、今何と言った?」
 Wie Bitte?と、もう一度言ってくれとウーヴェが呟く横、試作品だから遠慮せずに感想を教えて欲しいとリアに念押しされたスコーンを頬張りながらリオンもウーヴェの言葉に同意するように頷く。
 「カインは本当にぼくのこと、好きなのかなーって」
 思うんだけどどうだろうと、二人を上目遣いに見つめた千暁だったが、リオンが盛大に喉を詰めて咳き込む姿と、そんなリオンの背中をさすりながらなんとも言えない顔で見つめ返してくるウーヴェに、自分はそんなに変なことを言っただろうかと呟くと、危うくスコーンに窒息死させられるところだったリオンが盛大に目を剥いて言葉にならない声を上げる。
 「んガー!何でそんな事を考えた、アキ!」
 「え、だ、だって・・・!」
 危うくゾフィーと再会するところだっただろうと、涙目で千暁を睨みつけながら、本当にどうしてそんな事を思ったと優しく問いかけるウーヴェの手に慰められるが、そんな二人の様子に、カインがベッドに入っても何もして来ないと思わず呟いてしまい、コーヒーテーブルの上に落下した言葉の意味を理解した瞬間、今度はウーヴェの喉が奇妙な音を立ててしまう。
 「・・・いつだったかさ、愛してるって言えねぇって顔真っ赤にしてたことあったよなぁ」
 「あ、あ・・・あったな、そんなことも」
 「それが今じゃ・・・ベッドで何もしてこねぇ、愛されてねぇって・・・」
 千暁が落とした爆弾が破裂した衝撃にリオンとウーヴェが同時にソファの背もたれに寄り掛かり、あの時のウブな千暁はどこに行ったとリオンがぼそりと呟く。
 「え、だって・・・びっくりするぐらいスキンシップして来るのに・・・ベッドで何もしないんだよ?」
 ぼくだって男なんだ、好きな人と一緒に寝てればその気になることもあるし、ようやく抵抗がなくなったのにと、肩を落としながら呟く千暁に咳払いをして気持ちを切り替えたウーヴェが、本当に何もしてこないのかと問いかけ、千暁の視線が天井の模様をなぞるように左右に動くのを見守っていると、リオンがさっき喉に詰めかけたスコーンの残りを頬張り、モゴモゴと口の中で何かを呟く。
 「んー・・・手か口でするぐらい?」
 「ぶふっ!!」
 ウーヴェの問いへの千暁の回答が二人の予想外だったのか、リオンが再びスコーンを喉に詰めたのか、それとも本能が危険を察して口から吐き出せようとしたのか、とっさに口を手で覆ったリオンの口元から何かが吹き出したような音が響く。
 「リオン!」
 大丈夫かと、さっきよりは激しく喉を詰めた可能性にウーヴェが冷や汗を流しながら水を飲めとグラスを差し出すと、リオンが文字通りの命綱だとそれを受け取って一気に飲み干す。
 「あーくそ!アキ!俺を殺す気か!?」
 「だって・・・!」
 だってじゃねぇと涙目で吠えるリオンに千暁が慌てたように顔の前で手を振るが、そんな二人にため息を零したウーヴェがもう一度咳払いをし、スキンシップは取って来るが、ベッドに入ると何もしてこないんだなと問いかける。
 「う、ん・・・」
 それに、と口ごもる千暁の先を促しつつリオンの柔らかなくすんだ金髪を無意識に撫でたウーヴェは、人が嫌いで誰か他の人を褒めた言葉など聞いたことがなく、出てくるのは千暁が日本語でもあまり口にしたことのない罵詈雑言の類なのに、自分の事は褒めこそしないが絶対に貶したりしないと、上目遣いに呟かれてリオンに寄りかかりたいのを鉄の意志で堪える。
 「そ、うか・・・なあ、アキ」
 千暁の落ち込みようは側から呆れてしまう以外ないが本人にとっては真剣な事だと己に言い聞かせながら三度咳払いをすると、それはきっときみのことが大切だからだろうと伝えて足を組む。
 「そうかな・・・?」
 「そうじゃないかな。俺はリオンほど付き合いが長くないからよく分からないが、どうなんだ、リオン?」
 ようやく落ち着いたらしいリオンに話を振ると、リオンも一つ肩を竦めるだけでその言葉を否定しなかったため、だからきみは愛されていないなどと思わなくても良いと、相談に来た人の不安を軽減させる力を持つ声と笑顔で頷いたウーヴェに千暁の顔が僅かに明るくなる。
 「ありがとう、ウーヴェ、リオン」
 「・・・ったく。なんでそんなバカなこと思いついたんだよ」
 お前が愛されていないなど、絶対にありえないことなのだからと、リオンが背もたれに肘をついて頬を支えながら呆れた声で千暁に真相を問いかけると、カインのお気に入りの植木鉢をこの間盛大に割ってしまったのだが、その時でさえもただ怪我はなかったかと聞かれるだけでそれ以上何も言われなかったし怒ることもなかった、それは僕に愛情がないからではないかと、聞き取りにくい声で囁かれて流石にリオンとウーヴェが顔を見合わせる。
 リオンなどからすればカインが植木鉢を割った千暁を怒らないのは興味も関心もないからではなく、その植木鉢と比べられないほど千暁が大切であり重要であると見抜けるのだが、どうも己の悩みに囚われている千暁にはそれが分からないようだった。
 リオンが長い付き合いから理解した事をウーヴェはクリニックで様々な人の話を聞いた経験から察し、どうすると顔を見合わせるが、オペラ鑑賞の後の食事時にでも話をしようかとウーヴェが提案をする。
 「今度カインに聞いてみれば良い」
 「でも・・・」
 「これだけは言える。アキ、きみが思っているような事をカインは考えていないと思う」
 「・・・」
 「今のきみには信じられないかも知れないけれど、それだけは疑う余地はないと思う」
 だから、今はそのことで悩んで俯くのではなく、週末の夜、このオペラを四人で楽しみ、その後の食事も楽しもうと、千暁が持ってきたチケットを顔の前に掲げ、顔を上げた年下の友人に綺麗な笑顔で頷く。
 「そんな気持ちのままじゃせっかく彼が用意してくれたオペラのチケットが無駄になってしまう」
 しかもこのチケットはきみが観てみたいと言ったから彼が手配したものだと聞いたよと、片目を閉じて笑うウーヴェに千暁の大きな目がさらに大きく見開かれるが、黒髪がうんと上下に揺れる。
 「リオン、ウーヴェ、ごめん。ありがとう」
 「・・・そんな時はダンケだけで良い」
 悪い事だと思うのなら最初から相談するな、相談したのなら悪いと思うのではなく感謝の思いだけを伝えろと、まだやはり遠慮する癖のある千暁に些か手厳しい言葉を伝えたリオンだったが、それが自分のためを思っての言葉だと理解している為か、素直にうんと頷き、最高に近い笑顔で頷く。
 「オペラ、楽しみだな」
 「そうだな・・・リオン、寝るなよ」
 「・・・・・・自然の摂理だ!逆らえねぇから仕方ねぇ!」
 「開き直るな!」
 オペラだクラシックコンサートなどに出かけるとほぼ間違いなく居眠りをする伴侶を睨めつけたウーヴェに、胸を張って寝てしまうことは仕方がないことだと言い張るリオンの頭に手をぺしりと叩き付けながら、そろそろクリニックを閉める準備をすると伝えると、千暁が忙しいのに長居をしてしまったがありがとうと、先程のリオンの忠告をしっかりと守るように礼を言い、笑顔で頷く二人の頬にそっとキスを残し、来週のオペラ楽しみにしてると手をあげて診察室を出て行く。
その小さな背中が完全に消えたのを見た二人は、ほぼ同時に顔を見合わせ、互いの顔に同じ感情を見出してそれぞれ肩を竦め、今日の仕事を終わらせる為の作業に戻るのだった。

 

 

 千暁がウーヴェのクリニックに駆け込んだ次の日、リオンが珍しくカインと飲みに出かけていた。
 二人が出向いたのは、ウーヴェや千暁がいれば絶対に入ることのない、顔馴染みがいないと入ることすら躊躇うような雰囲気の店で、この店は社会人になった二人が定期的に飲む時の店で、店員も昔から二人のことをよく知っている為、好きな料理とビールを提供した後は放っておいてくれるのだ。
 そんな気心の知れた店のドアを開けたカインは、カウンターでいつもと変わらない顔でビールジョッキを傾けているリオンを発見し、無言のまま隣のスツールに腰を下ろす。
 「・・・ピルス」
 「────オリーブかアーティチョークねぇか、リタ?」
 カウンターの中でカインの為のビールを注いでいる店員にリオンが頬づえをつきながら問いかけると、奥のカーテンが左右に開いて驚くほど体格の良い店主が現れ、ポテトフライを二人の間に出し、オリーブやアーティチョークなど食べるようになったのかと笑われる。
 「俺のダーリンがいつも出してくれるんだよ」
 ここに通うようになった頃から考えれば信じられないほどおしゃれな食事をするようになったが、それもこれも全てはオーヴェのおかげだと、胸元に手を当てて僅かに眼を伏せたリオンを意外そうな目で見つめたカインだったが、特に何も言わずにジョッキを隣へと差し出すと、リオンもそれに気づいてジョッキの底を触れ合わせて小さな音を立てる。
 「乾杯」
 二人で飲む時の決まりのそれを儀式のように行い、喉の渇きを潤した後、ポテトにサワークリームをつけて食えば美味いが、スイートチリソースをつけてもまた美味いと、リオンが塩だけを振ったポテトをつまみながら歌うように呟く。
 「・・・本当に食うものが変わったな、お前」
 「あ?ああ・・・前みてぇにインビスで飯を食うこともなくなったからなぁ」
 カリーヴルストが時々無性に懐かしくなってランチで食いに出かけることがあるが、贅沢を覚えた今ではあまり食いたいと思わなくなったと肩を竦め、お前もアキが美味い飯を作ってくれるんだろうと隣を見ると、灰色の双眸が細められ、リオンの言葉を肯定する。
 その様子から昨日の千暁の心配が単なる杞憂であることをリオンは確信するのだが、お前、アキに今の顔を見せてるのかと問いかけ、何の事だと睨まれる。
 昨日千暁が落とした爆弾はリオンやウーヴェからすれば誤爆以外の何物でもないのだが、カインが感情表現をろくにしない為に覚えた不安が破裂した結果でもあった。
 だからそれをしてみろと伝えると、長年の付き合いのおかげか、リオンが何を言おうとしているのかを察し、一瞬だけ苦々しい表情になるものの、確かにお前のいう通りだなと、珍しくカインが素直に言葉を返す。
 「・・・何で抱かねぇんだ?」
 俺たちはゼップも含めた三人でガキの頃からアダルト女優も真っ青なほどの乱暴な抱き方を付き合っていた女性たちにしてきただろう、だから男の抱き方がわからない訳じゃないだろうと、己の行いを苦い思いを込めて呟いたリオンにカインもそっけなく頷くが、そうじゃないと再び口を開き、あいつの傷が治っているかどうかが不安だったと続けると、傷とリオンが呟く。
 「・・・大学に通っていた時、アキを目の敵にしていた奴がいた」
 そいつが卒業を控えた頃、スランプからか日頃のストレス発散の為かは分からないが、千暁に暴行を加えたことがあったと、リオンの苦々しさと比べられないほどのそれを込めたカインが吐き捨てれば、リオンが再び傷と呟く。
 「・・・レイプは未遂で済んだが、肩を殴られた事で暫くアキはピアノが弾けなかった」
 そのショックから立ち直るのにかなりの時間を必要としたのだが、未遂とは言え男に無理やり突っ込まれかける恐怖を経験した事から、その当時から同居していたカインでさえも近付くだけで怯えてしまうほどだったと教えられ、何処にでもいるんだな、クソ野郎はとリオンも吐き捨てる。
 「そうだな・・・ただ、アキが言うには、そいつも結局大した成績も残せずに卒業して、いまは何処かの音楽教室でアシスタントをしてると言っていたな」
 自分に自信がない奴ほど、同程度のライバルに敵愾心を剥き出しにすると冷笑するカインにリオンも同意するように頷くが、目の傷は大丈夫なんだろうと問いかけてそちらはもう何も問題はないと頷かれる。
 「だったら尚更だ。アキ、結構悩んでたみたいだぜ」
 自分は本当に愛されているのかとも呟いていたことを伝えると、カインの目が意外そうに見開かれる。
 その視線を受けつつポテトを摘んだリオンは、大切なのも分かるが、大切にしすぎると相手に正しく伝わらないぞと、ウーヴェとの間に決めた、思ったことはちゃんと口に出して話し合おう、そして互いに同じ方を向いて歩いていこうとの言葉を思い出しながら幼馴染を思って呟いたリオンは、分かっているが、壊してしまいそうで怖いとポツリと本音をこぼされて驚きのあまり言葉を無くしてしまう。
 人との関係を煩わしいものだと思い、己の思うままにするのが当然で、人の思惑など踏み砕くのみと、言葉ではなく態度で表し、味方よりも敵の方が多いカインだったが、その幼馴染がまさか己のパートナーを壊してしまう恐怖から抱くことができないなどと考えていたとは到底考えられず、マジかよと思わず呟くと、カインの髪の色が頬に移ったかのように白皙の頬が淡く染まる。
 「・・・うるさい」
 「・・・あー、今の言葉は取り消す。・・・心配だったんだな」
 「・・・仕方ねぇだろう?」
 「まぁなぁ」
 アジア系の人達は年齢よりも若く見られることが多いが、千暁の場合は特別若く見られる童顔に体格も小柄な為、カインがその恐怖を感じても不思議ではなかった。
 「ベッドで何もしないから、好かれていないと思った、だそうだ」
 「そんな訳あるか」
 千暁がそんな悩みを抱えていたなどつゆ知らず、こちらはどれだけ必死に堪えていたと思うんだと、まるでリオンが悪いようにカインが睨んだ時、二人の間にチーズ増量のハンバーガーと、ハラペーニョを追加したハンバーガーが、ごつい店主の手が差し出してくる。
 「ダンケ、シグ」
 「・・・ダンケ」
 元レスラーである店主のシグが作るハンバーガーは二人の好物でもあり、必ず注文するものでもあった。
 それを出されて顔を見合わせた二人は、ペーパーにも包まずにバーガーに齧り付き、学生気分のまま、だけど確実にその頃とは違う想いから、アキが大事ならば抱いてやれとリオンが前を向いたまま呟くと、カインも不安を抱えたままは可哀想だなと返す。
 びっくりするぐらい大きな目を好奇心に光らせ、毎日楽しい事があればその心のまま、落ち込むようなことがあってもそれでも元気を失わない顔でカインに何があったかを教えてくれる、己の周囲には皆無だった素直な存在の千暁を喪ってしまう経験は、目を負傷させた時に離れ離れになった時だけで十分だった。
 あの時、目が見えなくなった千暁の身を案じた家族が彼を迎えに来たが、己のせいで怪我をさせた事を家族に責められて反論も否定も何も出来ずにただ日本に戻っていく千暁を手を拱いて見送るしか出来なかった。
 その時の自己嫌悪と胸を掻き毟り心臓を鷲掴みにされたような苦痛に苛まれたが、あの時のような無様な姿は二度と見せたくないものだった。
 それを思い出したカインは、リオンの言葉に思い出させてもらえたことに気付き、バーガーを食べ終えて指を舐めている幼馴染にそっけなく礼を言う。
 「・・・思い出した。ダンケ、リオン」
 「・・・アキが暗い顔をしてるとオーヴェが心配する。そんなオーヴェを見たくねぇからな」
 お前の心配をしている訳じゃないと、ニヤリと笑みを浮かべつつカインへと体ごと向き直ったリオンは、それを忘れるなと告げてカインの脇腹に拳を充てがうと、その上に手が重ねられる。
 「・・・リタ、ラドラーくれ」
 「もう帰るのかい?」
 久しぶりに来たのだからもっとゆっくりして行けばいいのにと、カウンターの奥でさみしそうに笑うリタを手招きしたリオンは、記憶の中のリタからすれば皺が増えた頬にキスをし、俺のダーリンが寂しがっているから早く帰ると笑うと、惚気ちゃってまぁと呆れながらも祝福している声が上がる。
 「カインも帰るんだったらこれを持って帰りな」
 シグがサイドカーテンの奥から姿を見せるが、その手には二つの紙袋があり、中をのぞけばそこにはフライドポテトとカリーヴルストが二人前ずつ入っていた。
 「家でお食べ」
 「ダンケ、リタ、シグ」
 リオンとカインの前にラドラーをそれぞれ置いたリタは、二人が金を適当に置いたため、釣りは次に来た時のためにとって置いてくれと言われて素っ気なく頷く。
 「これを飲んだら帰るか」
 「ああ」
 大して長い時間この店にいた訳ではないが、店を出る直前には何故か飲むことにしているラドラーを一気に飲み干した二人は、また来ると店主とその妻に挨拶をし、店を出る。
 頭上に光る星々の名前など二人は知らなかったが、ほぼ同時に脳裏に互いの永遠の恋人の顔を思い浮かべ、リオンがスマホを取り出す。
 「・・・ハロ、オーヴェ。・・・ああ、今から帰る」
 『迎えに行こうか?』
 「んー、もうちょいカインと話しながら帰るから大丈夫だ」
 なら気をつけて帰ってこい、分かったと言葉を交わした最後にキスを届けるリオンを見るとはなしに見ていたカインだったが、同じくスマホを取り出したかと思うと、自宅に電話を掛ける。
 「ああ、アキ?」
 『うん、どうしたの?』
 「いや・・・今から帰る」
 『うん。分かった。気を付けてね』
 電話の向こうの優しい声にカインの目元が和らいだのを見逃さなかったリオンは、それを理由に揶揄い倒しても面白いと思うものの、滅多に見ない素直なカインの感情の表れだったため、からかうことはやめておこうと肩を竦め、星々が光る夜空の下を隣に並ぶ幼馴染に他愛もない話題を振りながら駅に向けて歩いていくのだった。

 

 週末のオペラとその後の食事は千暁が随分とご機嫌だった事もあり、いつにも増して楽しいものとなった。
 その機嫌の良さが何から来ているのかを、ウーヴェは千暁からメッセージで教えられ、リオンもカインから千暁は壊れなかったと教えられる事で察していた。
 友人とそのパートナーが仲が良いのは本当に嬉しい事だなと、二人には聞こえないようにこっそりと話し合ったリオンとウーヴェは、目の前で楽しそうに笑う千暁と、そんな千暁を優しい目で見つめているカインに安心と若干の呆れを感じてしまうのだった。

 


2020.02.01
壊れないと思うんですけどねー(笑)


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