豪奢なシャンデリアが煌めき、その光をグラスに受けた紳士淑女が親しげに談笑する広間の一角に設けられたテーブルに腰を下ろしているのは、見事な赤毛を丁寧に撫で付け、蝶ネクタイとトラガスと呼ばれる箇所に挿しているピアスと同じクリスタルのカフスをしたカインだったが、その顔は知らない者が気安く声を掛けられないほどの無表情さを保っていた。
今夜のパーティは以前から参加の要請があったものだったが、ある日を境に彼はこの手の主催者の成金趣味を見せびらかすようなパーティを毛嫌いするようになっていた為、今日もまた不機嫌極まりない顔で渋々出席していたのだ。
テーブルには一本何ユーロするのか聞いて呆れたことのある名の通ったシャンパンやワインが並べられていて、そのシャンパンをまるでビールかミネラルウォーターの様に飲み干していたカインは、同じ会社で働く昔の彼女がシャンパングラスを片手に近づいてきたことに気付き、露骨に嫌な顔をして長い足を行儀悪く組む。
「・・・・・・そこまで徹底して嫌ってくれるのは嬉しいわね」
「うるさい。────このパーティはいつ終わるんだ?」
頬杖を付いて足を組んだその姿は、誰が見ても不機嫌であり不愉快であることを態度で示すものだったが、カインとそれなりの付き合いのある彼女は意に介することもなくテーブルの反対側に同じく足を組んで腰を下ろし、深いスリットの入ったオリエンタル風のドレスの裾から魅惑的な足を覗かせる。
「いつ終わるって、さっき始まったばかりよ」
「知るか」
叶うならば一分一秒たりともこんな金の匂いに充ち満ちている場所にはいたくないと、素直な心を吐き捨てた彼に彼女が無言で肩を竦め、この変わり様は一体どういうことだと内心で呆れてしまうが、自分と別れた後にその存在を知った、まるで小学生にも思える小柄で童顔の日本人の少年が彼に変化を与えたことに気付き、自分が知る彼とは全く違った顔を見せ始めていることに驚きを隠せなかった。
その少年のような青年が家でハウスキーパーのようなことをしていると知ったのは、別れてしばらく経ってからだったが、今振り返ってみればその頃からカインの様子は変化していたが、仕事に関して言えば以前よりもグッと勘が冴え渡っているらしく、危なげなく売れ筋の株などをいち早く見つけては顧客の要望に応えて金を稼ぎ出していた。
はっきり言ってこの会社でトップを争うほどの稼ぎ頭になっているカインだったが、以前ならば一晩で一本500ユーロは下らないシャンパンをお気に入りの男女と共に無造作に開け放ったり、ホテルのスイートで酒を飲んでは女達と稼いだ金を湯水のように使っていたが、最近はそんな金遣いの荒さを発揮することはなく、決まった時間になればそそくさと家に帰っているようだった。
「・・・最近はすぐに家に戻っているようだけど、誰かが家で待っているの?」
待っている人がいる家に早く帰りたいのかと問えば、カインの手が一瞬だけぴくりと揺れるが、表面の不機嫌さなどとは比べられない冷たい気配が彼の身体から立ち上り、彼女は踏み入れてはいけない場所に足を突っ込んだことを知って肩を竦める。
「・・・・・・関係ない」
「そうね、失言だったわ。────ああ、パーティの主催者が来たわよ。会社に出資して貰わなければならないんだから、少しは愛想良くしてちょうだい」
「お前が愛想良くすればどうだ?」
人に勧める前に自分が実践してみせろと冷たく笑い飛ばしたカインは、近づいてくる小柄で腹回りだけは立派な中年男性に気付いて舌打ちをするが、不機嫌さを一瞬にして掻き消して少しだけまともな表情で手を差し出し、お招きありがとうございますと社交辞令を舌に載せる。
「良く来てくれたね、カイン」
「いえ。さすがはブライトブロイさんだ。パーティの参加者の顔ぶれを見ればすぐに分かる」
内心の声をおくびにも出さずににこりとしながら中年男の自尊心を擽れば、そんな事は無いと尊大な態度でカインの言葉を否定するふりをしながら左右を見回して自慢気に目を細める。
自らの人脈を自慢したい男に話を合わせるように調子の良いことを少しだけ告げたカインは、後は任せるとばかりに彼女へと話を振って男の視線を見事な脚線美に向けさせると、シャンパングラスを片手にテーブルから離れていく。
ざわざわと心地よいざわめきは以前ならば胸を少しでもときめかせてくれていたが、今ではすっかりただの騒音と化していて、これだけの音が溢れている中に何故自分が求める声が無いのかと、思わず手にしたグラスを壁に向けて投げつけたくなるほど苛々してしまう。
彼が求める声は、いついかなる時も元気いっぱいで陽気で、人生を謳歌していることを教えてくれるような明るいものだった。
だがその望む明るさや元気さを持った声がこんな夜更けに集まって酒を飲んでいる紳士淑女の中に有るはずが無く、また無いからこそどうしても手に入れたいと、まるで砂漠で水を求めて彷徨う旅人のように餓え渇いてしまっていた。
その声が、ひいてはその声の持ち主が己にとって掛け替えのない存在であることを彼が認識したのはつい最近で、皮肉なことに生まれ育った国で傷を癒す為に送り返すことを決意し、呆然と見送ったその日の夜に喪ったものの大きさに気付いて打ちのめされてしまったのだ。
永遠ではない-と心から祈り願っている別れを迎えた彼とその声の主だったが、幸いなことに互いの顔を見て話をするのは無理でも、お互いの声を聞いて心の平安を取り戻すことは可能だった。
そうと気付いたのは、大切な人が生まれ故郷に戻った翌日、無理を言って買って貰ったらしい携帯から彼の携帯に電話が入ったからだった。
文明の利器を使えば遠く離れていても声を聞くことは出来ると気付いたが、悲しいかな日本とドイツでは8時間近くの時差があった。
その時差のお陰で、カインが帰宅して眠りに就く前に声を聞きたいと願って電話をすると、日本は夜明けまで後何時間という時間になってしまうのだ。
以前までのカインならば、たとえ相手の国が真夜中であろうと真昼であろうと、自分が声を聞きたいと思えば電話をしていただろうし、そもそも遠距離恋愛などという口にするだけでも気恥ずかしい恋愛関係など築くことはなかった。
だが、今は相手のことを僅かでも慮れるようになり、電話をする前にメールをして様子を確かめたりもするようになっていた。
学生の頃からの友人であり、自分たちの関係を密かに心配してくれていたリオンが知れば驚愕のあまりぶっ飛びそうな気遣いをしつつも、時には無性にその声が聞きたくなる夜もあった。
その夜が今だと気付き、時計を確かめて時差を確認するものの、気遣う余裕を無くした心が勝手に手を動かして携帯を取りだし、遠く離れて空の色が全く違う国にいる掛け替えのない人へと電話を掛ける。
コールが5回を数える前に切ろうと密かに決めていたが、5回目を数える寸前、慌てたような声がもしもしと日本語で叫んだ為、切羽詰まっていた心に一瞬の空白が生まれ、次いでおかしさが込み上げてきて肩を揺らして笑ってしまう。
『・・・カイン?』
「・・・・・・ああ。突然もしもしと言われたら驚くな」
『え?・・・・・・・・・あ!あ、や、その、違うっ、違うんだ、カインっ!!』
これは日本ではごく一般的に交わされる挨拶であり、きみが考えるような性的な意味を持つ言葉ではないと電話の向こうで慌てふためく声と、その声に重なるように何かが落ちる盛大な音と悲鳴がが響き、どうしたと少しだけ顔色を変えて問い掛けると、慌てていたからベッドから落ちてしまったと笑って答えられて胸を撫で下ろす。
「気を付けろよ」
『うん。・・・・・・カイン、もう家に帰ってきてるの?何だか後ろが賑やかだけど、まだ会社かな?』
目が見えなくても遠く離れていてもカインのことを気遣う心は、ここにいて二人で奇妙な同居生活を送っていた頃と全く変わっていなくて、どうしてここに、手を伸ばせば届く場所にいないんだと思わず不満を口にしたカインは、電話の向こうに沈黙が生まれた後、ごめんという小さな呟きを聞かされて自らの思慮のなさに舌打ちをする。
「謝るな」
『・・・・・・ね、カイン、もしかして今パーティ会場にでもいるの?』
「どうしてそう思う?」
先程告げられたように背後は酒を飲んで談笑する人々の喧噪で賑やかだった為、バルコニーに出るためのドアを開けて外に出ると、会場になっているホテルから夜の世界に沈もうとする街並みが眼下に広がる。
『だってさ、何か賑やかだったし、音楽も聞こえたからさ』
「ああ。主催者が自慢をしたいんだろうな、ホテルにピアノを運び込んでバイオリンと一緒に演奏してる」
『生演奏?』
「ああ。バイオリンなんて聞いてもさっぱり分からないな」
確かそのバイオリニストが持っているバイオリンは5万ユーロもすると自慢していたが、バイオリンで5万ユーロというのは自慢できる金額なのかと冷たく問い掛けると、電話の向こうから小さな苦笑が聞こえ、在籍していた学校では大抵のバイオリニストはそれぐらいのものを持っていたし、別に自慢できる金額ではないと教えられて納得の証に冷笑する。
「そうか」
『うん。それに・・・ぼくは自分の楽器を見せびらかしたり自慢するためだけに買い集めたりするのは嫌いだな』
自尊心を満足させるために集められて満足に弾いて貰えない楽器なんて可哀想すぎると彼の心優しさを伝えてくれる言葉に目を伏せ、夜風に赤い髪を少し乱させたカインは、不意に沈黙が訪れたことに気付くと同時に、己の心がどれ程餓え渇いていたのかを思い知らされてしまう。
こうして望んでいる声を聞いている今、ほんの少しの沈黙でさえも許せないとバルコニーの欄干を握りしめる己に気付き、友人であるリオンの恋人に対する執着心にも似た愛情を笑えないと自嘲するが、そんなことは関係ないと何処か遠くで声が響き、それに従うように携帯に向かって呼びかける。
「─────アキ」
『・・・うん。なに、カイン?』
「何じゃない。何でも良い・・・・・・声を聞かせろ」
『え?何だよ、それ。何でも良いってどういう意味だよ、カイン』
カインの突然の強い口調に乗せられた言葉に電話の向こうで彼が驚いたようだったが、くすくすと笑いながら子どもみたいな我が儘を言ってると言われ、瞬間的に感じた苛立ちからうるさいと返すと、少しだけ沈黙が生まれた後に彼だけが出せる声でそっと囁かれる。
『カイン、カイン。ぼくはここにいる』
その声にささくれだっていた心が一瞬にして平穏を取り戻し、己の失態に気付いたカインがスーツの胸ポケットから煙草を取りだして火を付けて煙を上空へと吐き出す。
『離れてるけど・・・・・・ぼくはいつもきみの傍にいる』
だからそんな哀しい声を出さないでと、聞いているこちらの胸が締め付けられるような声で囁かれ、傍にいれば抱き締めてやれるのにと拳を握ると、それはぼくのセリフだと真剣な声で告げられた後、お互い様なのだからどうかこうして電話だけででも繋がれることに今は納得してくれとも囁かれて舌打ちをし、あの夜に交わした約束を思い出す。
待っていてくれ、必要な金を用意すればすぐに迎えに行く。
そう切り出したカインに、初めて見せた涙でぐしゃぐしゃになった顔に信頼の色を浮かべて頷いた彼を抱き締め、再会を期した別れのために空港まで送っていったのだ。
その約束を思い出し、ここで会えないことへの不満を彼にぶつけても仕方がないこと、そんな暇があるのならば少しでも早く金を稼いで迎えに行けと心の中で怒鳴られて目を瞠ったカインは、そっと名を呼んでくる愛しい彼に向けて出せる限りの穏やかな声でもう一度名前を呼ぶ。
「千暁」
『う、うん』
「待っていろ。すぐに迎えに行く」
『・・・・・・うん。じゃあきみが来てくれるまで、ぼくはこっちでしっかりとピアノの練習をしているよ。久しぶりに演奏して下手くそになっ たって言われたくないからね』
何処かの誰かさんは本当に素直ではないし口も悪いから、再会を果たして演奏をしたとしても絶対に褒めてくれないだろうから、目玉が飛び出るほど驚くような演奏をしてやると、自信と茶目っ気をふんだんに混ぜた声で告げられて自然と唇の端を持ち上げる。
「期待していようか」
『絶対にびっくりさせてやるからな!』
「ああ」
奇妙な同居生活を送っていた時も密かに驚いていたが、その驚きを毎日感じるためには必要な別離だと己に言い聞かせ、二人を隔てる時間と空間を埋めるためにはがむしゃらに働くしかないと新たに決意をし、あの頃毎日聞いていた元気で陽気な声が今もすぐ耳元で聞こえることに目を閉じたカインは、バルコニーに出るドアの向こうに彼女の姿を発見し、手招きされたことに気付いて溜息を吐く。
「アキ、そろそろ戻る」
『あ、うん。まだパーティ会場にいるんだろ?飲み過ぎないようにね、カイン』
「ああ」
あの頃も良く小言を貰ったことを思い出し、今夜ぐらいはその小言に従ってみようと苦笑したカインは、ドアを開けて彼女にすぐに戻ることを伝えると、名残惜しさを隠さないでまた連絡すると告げて通話を終える。
こちらがこれから夜更けの時間帯になってくるが、日本は夜明けを迎えている頃だろう。
早朝に話をさせてしまったことへの申し訳なさを感じるよりも、以前と変わらない明るく元気いっぱいで、聞いているこちらにまでその元気を届けてくれるような彼の声が聞けたことが嬉しくて、バルコニーに出る前とは全く違った表情で会場内に戻り、出迎えた彼女を盛大に驚かせてしまうのだった。
2012/10/07


