036:最後の夜

It’s a Wonderful Life.ーリアムと慶一朗ー

 目の前を行き交う大小様々な船を岸壁近くに止めた愛車のボンネットに軽く腰掛けながら見つめていると、行き先すら分からない船に乗り込み、遠く離れた日本で暮らす兄の元へ行きたくなってしまう。
 窓が一つだけの小さな部屋が世界の全てだった幼い頃、ある日突然ドアを開け放ち、光を背負って入ってきた幼い兄の顔は興奮と自負と罪悪感に染まっていて、その意味がわからないまま呆然としている己に近付いたかと思うと、一瞬で涙を浮かべ、やっと願いが叶うと噛み締めるように呟いたのだ。
 涙と呟きの意味も分からずに呆然としていると兄に抱きしめられ、もうすぐ外に出られる、一緒に学校に通えるようになるからと肩を掴んで教えられ、学校とぽつりと呟くと、うんと同じ顔が上下した。
 父さんに親としての義務を果たさせる、その為に行動することにしたと、目を覗き込むように見つめられ、どの言葉の意味も理解できなかったが、外に出られるとの言葉だけは理解でき、出られるのかと呟くと大きく頷かれてようやく言葉の意味が身体中に染み渡る。
 『・・・やっと、一緒に学校に通える』
 その言葉が腹に衝撃を与え、思わず兄にしがみつけばしっかりと支えられ、じわじわと歓喜が湧き起こってきた。 
 日常で使っているドイツ語や兄と会う時にだけ使う日本語ではそれをうまく表すことが出来ず、言葉を覚えたばかりの子供のように喃語を並べ立てると、兄の顔に嬉しそうな笑みが浮かび、頬を挟んで鼻の頭が触れ合う近さに顔を寄せられる。
 『これからずっと一緒だよ、ケイ』
 もう、こんな暗くて狭い部屋に一人で居なくて良いんだよと笑われ、それが素直に嬉しくてうんと頷いた結果、世界は広く大きいことを知れたのだ。
 その、世界の広さを体感した時のことを思い出し、愛車のボディを一撫でした時、近くに架かるシドニーブリッジの上を列を作って歩く人影が見え、怖いもの見たさか命知らずが安全対策を取った上で橋の最高地点を目指して歩いていくと小さく笑う。
 ツアーで人気があると聞いたことはあったが、万が一の出来事があり、最後に見る光景がシドニーブリッジだと言うのは幸福だろうか不幸だろうかと皮肉な考えが脳裏を過ぎる。
 そして、その言葉につられたように最後の瞬間へと思考が向かうのを止められず、背筋を小さく振るわせてしまう。
 世界が狭い時は最後の瞬間など想像も出来なかった。
 ただ、世界は何も変わらず、狭く暗い部屋で日がな一日寝転がっているだけの夜が続くものだと思っていたのだ。
 だが、兄に連れられて一歩を踏み出した世界は己の知らないこと、行ったことのないところに溢れていた。
 世界の広さの一端を知ったと同時に、それが得体の知れない恐怖を芽生えさせ、元いた狭い世界へと戻りたくなってしまう。
 だが、成長して大きくなった子供がベビーベッドに戻れないのと同じで、広い世界があると知ってしまった今、あの部屋に戻りたいなどと言う気持ちは沸き起こらなかった。
 それと引き換えに、最後を思うと恐怖を感じるようになったようで、兄と一緒に入学した中高一貫教育の学校―それすらも今は狭い世界だったことを知っている―に通っていた時、毎日のように感じていた恐怖を思い出して自然と苦笑してしまう。
 世界の全てを知ることなど、人の身ならば叶わないことだった。
 せめて己が手を広げて届く範囲、己の興味が向かう範囲のことだけでも知りたいと願うが、それすらも烏滸がましい事だと今は気付いていた。
 だからではないが、手を伸ばした先で、子供のようなと好意的に揶揄われる笑顔を浮かべ、人の痛みを自分のものにでき、己に対して無限とも思える優しさを見せてくれるマッチョマンことリアム・フーバーのことを知りたいと思い、同じ強さで己のことを知ってほしいと強く思ってしまう。
 人に自分のことを知ってほしいと思ったのは、10歳の夏に初めて出会った兄以外には彼が初めてだった。
 互いの心の奥深くを知り、決して壊れない絆を作りたかったが、永遠を誓ったパートナーとも別れが来るのだ、決して壊れない絆など存在しないだろうという冷めた思いが胸に過り、それでも構わないという小さな己の本音が声をあげる。
 永遠など望むべくもない、男女のカップルに比べれば不安定さが大きい自分たちの関係だが、それでも彼との関係を続けていきたい、終わりが来るその日まで傍にいたいと思うようになったのは付き合い始めて幾つかの大きな出来事を乗り越えた頃だった。
 その出来事も今までの関係で言えば破局を迎えていてもおかしくないものだったが、そうならないようにと彼が手を伸ばし、己も別れの道だけは選びたくない一心でその手を掴んだように思えるが、今までの友人関係の中では決して見せることのない必死さを見せていた。
 それを受け止め、また二人で同じ前を向いて歩いていこうと笑った顔が忘れられず、永遠に目を閉じるその瞬間まで覚えていたいと思えるものだった。
 その笑顔を自分にだけ向けてくれと願うことなど到底出来ず、だけど我慢するのも辛くなる時があり、そんな時は隣同士のフラットのどちらかの部屋で心ゆくまで抱き合ったり、リビングの頑丈なソファに二人座ってドラマを見たりしていた。
 最後の夜、その時に何を目にしたいのかと問われれば、きっと今の自分なら、あの笑顔と答えるだろう。
 それほど彼が己に向けて見せる笑みは、今まで見たことがないほどのものだった。
 永遠など分かるはずもない愚かな己だが、それでも、ほんの一瞬でもそう感じさせてくれる彼の存在は最早存在しなかった頃を思い出すのが困難なほどになっていた。
 この広い世界のどこかに存在していたのだろうが、知らなかった頃を思い出すだけで薄寒さも感じてしまうほど、横にいて当然のものになっていた。
 そんな彼を少しでも大切にしたいが、いつも笑顔で揶揄う、俺の皇帝陛下はワガママだとの言葉が示すように彼に対してはワガママな言動ばかり取っていた。
 こんな俺で良いのかと何度か冗談混じりだったり本気だったり問いかけたが、その度に返ってきたのは、こんなという言葉は嫌いだ、お前だから良いんだとの言葉で、それが今己の腹の奥底に決して揺るがない何かのように存在していた。
 双子の兄のスペアとしてだけの存在意義しかなかった己に世界の広さを教え、お前は俺のスペアなんかじゃないと教えてくれた兄以外に、ここまで己の心の奥底に自尊心を植え付けてくれた人などおらず、その言葉を聞く為に今まで生きてきた気持ちにすらなってしまう。
 この気持ちをどのように返せば良いか、頭の悪い己には理解できず、いつも目を覚ますと同時に、おはようとセットになっている愛しているの言葉にもロクに返事も出来なかった。
 言葉に出して好きだと言えないのなら行動で示せば良いとも思うが、その一歩をなかなか踏み出すことが出来ず、己の実行力の無さにただ呆れ返ってしまうだけだった。
 こんな情けない己のどこが好きなんだと問いかけると、きっと悲しそうな目をしてそんなことを言うなと諭されるのだろう。
 そんな生真面目さも、ただ愛しいだけだった。
 一体己はどれほど彼を愛しているのか。
 今まで考えたことなどないその疑問に軽く目を見張り、呆れてしまうと自嘲に肩を揺らすと、シャツの胸ポケットに入れていたスマホが振動し、着信を伝えてくる。
 「ハロー」
 『・・・ケイ?今何処だ?』
 仕事が終わった後いつもの場所で待っているとだけメッセージを送ってきたが、今どこにいると、周囲を探りながら電話をしている様子が手に取るように伝わってくる声に自然と笑みを浮かべ、さあ、どこでしょうと意地悪く言葉を返すと、教えてくれても良いだろうと、きっと眉尻を下げているだろうと思わせる声が耳に流れ込み、小さく肩を揺らしてしまうが、恋人の声の向こうにスマホを当てていない方の耳に流れ込む音が聞こえた気がし、教えてくれと言いながらも正しい場所にやって来ていることに気付く。
 いつもの場所という、よほど付き合いが長く行動を把握している相手でないと正解に辿り着けないそれに自信がなさそうに答えつつもちゃんと己の元へと辿り着ける恋人に不意に強烈な熱情が湧き起こる。
 今、お前の目に飛び込んできた世界を俺に見せろ、いや、その目に映る景色を俺だけにしろという心の奥底の本音に突き動かされるようにボンネットから尻を浮かせた時、スマホ越しと直接聞こえてくる声が見つけたと自信げに呟いた為、正解と通話を終えてくるりと振り返る。
 振り返った先、手を伸ばせば届く距離でいたずらが成功した子供を目の前にした親のような顔で、それでも笑みを浮かべて見つけたと再度呟く彼に口の端を持ち上げる。
 「────正解のご褒美は何が良い、Mein Prinz?」
 俺の王子様と、そう呼ぶことが精一杯だといつか伝え、王子様と聞いて連想する社会的地位や財産など持っていない自分をそう呼ぶのかと不思議そうに首をかしげられたことがあったが、確かに言葉が意味する地位や財産や何もかもを所有する友人に比べれば言葉の方が立派すぎたが、お伽話やメルヘンで語られる王子様はただ一人を迎えにくるだろうと笑うとそれが嬉しかったのか、ならお前の王子様で良いと気に入ってくれたことを思い出し、ご褒美はと笑いながら分厚い鍛えられた胸板にとんと指を突くと、どこかのパブで飲んだ後、家で二人きりで踊ってくれませんかとドイツ語で問われ、驚きつつも己もそれが良いと思っていた為、了解の合図に落ち着いた鼓動を生み出す心臓の上に掌を宛てがう。
 どうか、今掌を通して伝わる鼓動がいつまでも末長く続きますように。
 そして、この鼓動が止まるその時、傍にいられますように。
 言葉には出さない願いを込めて一度目を閉じると、外では断固拒否をしているために必要最低限のスキンシップをしてくる。
 己が決めたルールなのに、それが無性に腹立たしくて。
 「────帰るぞ、リアム」
 「帰るのか?」
 「ああ」
 パブで飲む時間も惜しいと言い放ち、驚いたように目を丸くする恋人に助手席に乗れとアゴで合図を送ると、返事も聞かずに運転席に乗り込む。
 シートベルトをしてGOと笑み混じりに呟く助手席の恋人を横目で見つめた後、音に出さずに好きだと告白し、驚く顔を視界の端に捉えつつ周囲を驚かせてしまう勢いで車を発進させ、マイルールを破ることができる唯一の場所である自宅に帰るのだった。

 

 永遠など望むべくもない、世界の全てを知ることも出来ない小さな己だが、助手席で楽しそうに鼻歌を歌う恋人と少しでも長く一緒にいることだけでも叶えようと腹の底で密かに誓うのだった。

 


2021.09.29/リアムのことホントーに好きなんだねぇ(笑)


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