035:指定席

天球座標(総一朗&一央)

 『────明日のスーパームーンを見るため、今からてるてる坊主を作っておきましょうか。今日は関西産業大学の准教授である杠先生に来ていただきました。先生、お忙しい中ありがとうございました』
 『いえ、こちらこそありがとうございました』
 控え目に流しているテレビから聞こえてきた声にグラスを拭く手を止めたのは、明日の大きな満月を恋人と一緒に観察するのが楽しみだが憂鬱でもある[[rb:渡瀬一央 > わたせ かずひろ]]だった。
 ちらりとテレビに目を向けると、一歩間違えれば職業を勘違いされかねないダークスーツをそつなく着こなし、頭の良さを際立たせるような細身の眼鏡を掛けた准教授がご清聴ありがとうございましたと頭を下げている所だった。
 「あ、この先生、前もこの番組に出てはったよ」
 「せやったか?」
 テーブルにいたカップルがテレビに映る生真面目そうな准教授について何か話し始めるが、グラスを拭いて一息ついた一央は、凝りを解すように肩を回す。
 「カズくん、お疲れさん。お茶にしよか」
 「はーい」
 カウンターの奥で何やら作業をしていた初老の紳士然とした男が一央に声を掛けると、疲れが一気に吹き飛んだ顔で彼が頷き、男の奥にいる後輩の手元を覗き込む。
 「今日はロールケーキ?」
 「センパイ、イチゴとメロンやったらどっちが良いですか!?」
 「そんなん、イチゴに決まってるやん!」
 初老の男を挟んで先輩後輩がロールケーキを切り分けたときにどのフルーツが多い方が良いかと言い合いを始めるが、明日の天気はどうでしょうかという声が聞こえ、ロールケーキよりもテレビの中の話に集中してしまう。
 明日、スーパームーンと呼ばれる大きな月を恋人の自宅で一緒に見ることになっているが、お天気おじさんと親しまれている男性気象予報士の顔が曇っていることに気付き、ああ、やはり明日は曇りか最悪雨だと残念な気持ちになるが、いつものことだ、仕方がないと内心苦笑する。
 「センパイ、明日の天気なんてゆーてます?」
 「んー、曇り時々雨。まあ夕方には雨は上がるやろうけどって」
 せっかくの満月を見ることが出来ないかもなぁと告げた彼は、後輩がすでにイチゴが多く乗っているケーキの皿を手にしていることに気付いて目をつり上げる。
 「ちょ、オレが食べよ思てたのに!」
 「早い者勝ちでーす」
 べーと、子どものように舌を出す後輩の額を指で突いた彼は、デートするときは絶対雨やと呟きながらメロンがふんだんに入っているケーキの皿を手に取るが、それでもやはりテレビを見てしまう。
 仕事が多忙な恋人とのデートは待ち遠しく、昨日などは浮かれすぎて幼馴染みに真夜中にも関わらずにメッセージを送ってしまい、うるさい、はよ寝ろと怒られたぐらいだったが、久しぶりのデートの時には必ずと言って良いほど雨が降るのだ。
 その雨は小雨のときもあれば土砂降りの時もあり、一度など、三ヶ月ぶりのデートだと浮かれた瞬間からしとしとと雨が降り続け、ピクニックに行くはずの日曜日、近年稀なほどの嵐に襲われたときもあった。
 お天気おじさんが関西各地の天気を伝えているが、明日は雨かも知れないんだってと、先ほどのカップルが残念そうに言葉を交わすのを聞き、俺は悪くないと無意識に呟いてしまう。
 「カズくん?どうしたんですか?」
 「へ?あ、いや、何でもないです、大丈夫」
 初老の紳士の言葉に慌てて返し、大丈夫ですとの言葉をロールケーキと一緒に飲み込んだ彼は、テーブル席にいた客が立ち上がったことに気付き、コーヒーを飲んで口の中のケーキを流し込む。
 「ありがとうございましたー」
 帰って行くカップルの話題はまだ明日のことだったため、ホンマにごめん、でもオレが悪いんちゃうねんと内心呟き、テーブルを片付けるためにカウンターから出るが、古き良き時代の名残とメディアなどで取り上げられることの多い店の窓から外を何気なく見、空を見上げれば明日を待たずに今からでも降り出しそうな空模様になっていた。
 そして、その空模様の下、ダークスーツはそのままに、ネクタイのノットが僅かに緩んでいるスーツ姿の男性が立っていて、軽く驚いたことを示す様に窓に手をつくが、その男が独り言を呟いているように幾度か口を開閉させたため、窓が白くなるように息を吹きかけ、人差し指でくるりと輪を描くが、吐息のキャンバスはあっという間に消えてしまい、それが消えると同時に男も踵を返して背中を見せる。
 「明日いうか仕事終わりぐらいに降り出すで、雨」
 残念そうに呟きながらテーブルを拭いていると、後輩がカウンターの中からさっきテレビに出ていた准教授じゃないのかと声を上げる。
 「へ?」
 「今あっちに行った人、満月の説明してた先生ちゃうんかなぁ?」
 「・・・あー、そうかもなぁ。テレビの出演終わったから帰るんちゃう?」
 後輩のいるカウンターを肩越しに振り返った彼は、ひょいと肩を竦めて仕事に戻るが、
行ってしまったかーという後輩の言葉に微苦笑する。
 「・・・おしゃべりはそれまでにして、仕事をしましょうか」
 「はーい」
 初老の男-つまりはこの店のオーナー-の言葉に二人の従業員が頷き、午後も遅くなれば客足は減るが、閉店までの数時間頑張ろうと気分を切り替えるのだった。

 今日も一日お疲れ様でした、明日は休みなので明後日また元気に出勤してきて下さいと、この店で働く者達の間で交わされる労いの言葉に三人が頭を下げてお疲れ様でしたと返す。
 「カズくん、今日もカラオケに行くのですか?」
 「今日は行きませんー。スーちんもユンファも仕事忙しいみたいやし。あ、せや。ユンファのおばちゃんがまた食べに来ててゆーてましたよ、オーナー」
 スーちんやユンファは一央の幼馴染みで、オーナーも顔見知りだったため、お誘いがあったことが嬉しいと笑み崩れる。
 「そうですねぇ。また行きましょうか」
 「そーですねー」
 オーナーの言葉に満面の笑みで返した彼は、店の裏に停めてある自転車に跨がると、お疲れ様でしたと声を掛ける後輩に手を上げ、真冬の大阪の街へと走り出す。
 冬は日が暮れるのが早く、すでに辺りは街灯の明かりが光への恋しさを呼び起こさせてくれていたが、彼が自転車で向かったのは二本の川に挟まれた場所にある市立科学館だった。
 その科学館前の広場が恋人との待ち合わせ場所になることが多く、数時間前にもそこで待っていることを教えられて窓に丸を描いたのだが、その際に危惧したようにぽつぽつと雨が降り始め、お天道さまも待ってくれても良いのに、ヤキモチ妬かんでもええのにと口の中で呟く彼だったが、自転車を漕ぐ足に力を込めた時、反対側からゆっくりと歩いてくる男の姿を発見し、手を上げて先ほどよりははっきりと分かるように合図を送る。
 「ソーイチロー!」
 冬の風に乗ってかき消されるかと思ったその声はしっかりと届いていたようで、自転車で向かってくる一央に気付いて足を止めたのは、一央の恋人であり、数時間前にテレビで満月について解説していた大学の准教授だった。
 その彼の前で器用に自転車を停めた一央だが、ソーイチローと少し間延びした親しげな呼び方をした彼が時間つぶしをする際に科学館に足を運ぶことを熟知していて、今日のプラネタリウムはどうだったと笑顔で問いかけるが、返ってきたのはテレビとは全く違う無愛想きわまりない声だった。
 「いつもと一緒だ」
 「ふぅん。いつもと同じに楽しかってんな。そりゃあ良かったなぁ」
 彼の無愛想さには慣れているのかどうなのか、一央がけろっとした顔でそう返すと、眼鏡の下の目が一瞬見開かれるが、次いでこれもまた瞬間的に優しい色を浮かべて細められる。
 「ああ」
 川を跨ぐ橋の上での会話はこの季節には厳しいもので、また今は雨脚が少しずつ強くなり出してきた為、早く家に帰ろうと一央が帰宅を促すように己の頭一つ以上も上にある整った顔を見上げる。
 「今日の晩飯はどうする?」
 「何も考えていない。お前はどうなんだ?」
 「どこかで何か買うて帰るか?」
 今だとまだ家の近くのスーパーが開いているから選択肢があるが、コンビニ弁当だけはイヤやと素直に吐露すると、眼鏡の下の双眸に微苦笑が点る。
 「あ、何食っても一緒や、何でもええって顔してる。何でもええ訳ないで」
 頭脳明晰容姿端麗、おまけにそれなりの名の通った大学で准教授という地位にいる彼だが、美点と比べれば数は少ないが遙かに面倒な悪癖や欠点を持っていた。
 その欠点の一つが食べるものに対する執着心の薄さで、家の冷蔵庫に入っているのはビールとワインだけで、食材などはほとんど入っていることがなかった。
 その悪癖からの言葉を笑顔で遮った一央だったが、微苦笑しつつ名を呼ばれて目を丸くする。
 「ヒロ」
 「ん?」
 「ハンバーグとポテト」
 呟かれる単語に一瞬軽く驚く一央だったが、彼が何を望んでいるのかを瞬時に察し、トマトソースで味付けしたパスタも付けてやろうと笑うと、厚みのある大きな掌が一央の頭にぽんと乗せられる。
 「じゃあスーパーで買い物してからそっち行くわ」
 「ああ」
 本番は明日だが、今夜の月も観測できるのならばしておきたいと微かに笑みを浮かべた彼に一央が大きく頷き、買い物を済ませてあいつを連れてそっちの家に行くからビールを冷やしておいてくれと一息に告げると、来た時以上に早さで走り去ってしまう。
 雨粒の中に走り去っていく背中を見送った彼は、プラネタリウムは彼が言うようにいつも通りに面白いものだったが、それをあの短い言葉から察してくれ、また腹は減っているが口に入れば何でも同じだとの思いを見抜いていながら呆れるでもなく笑って食べたいものを作ろうとしてくれる一央に口には出さないが感謝をしている為、一央の好みのビールを買うことを決め、雨脚が少し弱くなった大阪の空の下、駅に向けて歩いて行く。
 テレビに出ていた時に比べると驚くほどの無愛想さとぶっきらぼうさを見せながら、関西産業大学の准教授、杠総一朗は、こことはまた違う川沿いにある自宅に帰る前、駅前のコンビニで冷えたビールと、珍しく食べたいと思ったビターチョコを買い求めるのだった。

 

 彼が言葉少なに食べたいと言ったハンバーグとポテトサラダを、料理上手な女性も舌を巻くほど手際よく準備をし、最後の仕上げを高性能なオーブンレンジにお願いした後、二階の仕事部屋で観測の準備をしている恋人、総一朗の様子を見るために階段を上がるが、その後ろを白と青みがかった灰色の二色のはちわれ模様をしたウサギが楽しそうについていく。
 「ソーイチロー、準備出来た?」
 ドアを開けて顔だけ出して問いかけた一央は、川に向かって迫り出しているウッドデッキに設置されている望遠鏡とそれを覗き込む背中に向かって呼びかけつつ部屋に入る。
 「ああ」
 一央の言葉数に比べれば総一朗のそれは遙かに少なく愛想も無いものだったが、それが本当に寛いでいる時の証だと分かっている一央は、特に何も気にせずに望遠鏡を覗き込んでいる総一朗の背中にそっと手を置く。
 「どうした?」
 「もうちょっとでハンバーグが出来る。ポテトはサラダとフライにしてみた」
 「・・・それで良い」
 「明日はスーパームーンやけど、雨降らへんかったらええのになぁ」
 二人が科学館で待ち合わせをした時、お天道さまがイジワルをして雨を降らせていたが、軽くヤキモチを妬いたら気が済んだのか、今上空には明日の準備に大きく膨らんだ月が優雅に懸かっていて、その月に望遠鏡の先が向けられていた。
 望遠鏡を準備したとしても月を覆い隠す雲が出ていれば観測も出来ない為、テレビでてるてる坊主を作ろうと司会者が語りかけていたが、今ここで自分たちが一緒にいるのだから明日の雨は回避されると一央が笑うと、総一朗の背中も微かに笑みに揺れる。
 「そうだな」
 微かな笑いが一央には嬉しくて、背中に置いた手を滑らせて腰に腕を回すと、腹の前で組んだ手に手が重ねられる。
 こうしたスキンシップは積極的ではないが取ってくれるのに、何故己の感情を言葉に出すことが出来ないのだろうと内心苦笑した時、一央のジーンズの裾が引っ張られていることに気付いて足下を見下ろし、はちわれウサギの草一郎が鼻先を忙しなく動かしながら裾を囓っているのを発見する。
 「草一郎、おいで」
 その声にウサギの耳がぴくりと動いたかと思うと、後ろ足で立ち上がってまるで抱き上げろと言ってるように一央のジーンズに前足を引っかける。
 慣れた手つきでウサギを抱き上げた一央は、もたれていた背中から離れるとウッドデッキに裸足のまま出て望遠鏡を覗き込んでいる端正な横顔にウサギの鼻先を突きつける。
 「・・・・・・」
 「もう準備は出来たんやろ?」
 それやったらいつまでも望遠鏡を見ていないで俺を見ろと、ウサギの頭の後ろから覗き込むように尖った口を見せつけた一央は、微苦笑を浮かべる端正な顔に瞼も平らにして不満を示す。
 飼い主であり友人である一央の不満を、ウサギの草一郎も鼻先をひくひくさせることで表していると気付いたのか、総一朗が望遠鏡から離れるように上体を起こして伸びをすると、そのまま振り返って一央の頭に手を載せ、ハンバーグはまだかと問いかける。
 それは、観測に集中した結果、この年下の恋人に淋しい思いをさせてしまった事への詫びのつもりだったが、不器用な総一朗の気持ちを酌み取ることに長けている一央が小さく息を零した後、ホンマに言葉にするのん苦手なんやからと肩を竦めた後、ウサギを抱えたまま踵を返す。
 「ヒロ?」
 「・・・もうすぐ焼き上がるから一緒に食おう」
 こうして一つ屋根の下に一緒にいる今、一人でハンバーグを食べたとしても美味しいとも何とも思えないと口早に告げた一央だったが、背後で苦笑が聞こえた直後、背中が暖かな何かに覆われたことに気付き、顎を上げて上目遣いになる。
 「・・・淋しい思いをさせた」
 「やっと気付いたか?」
 「ああ」
 「しゃあないなぁ。ビールも買ってきてくれてることやし、許したるわ」
 寛大な俺に感謝しなさいと笑いながら振り返った一央は、頭上に陰りが落ちてきたことに気付き、顎を軽く上げられたことにも気付くと、無意識の行動で目を閉じる。
 重なる唇の感触に鼓動が一つ、耳の奥で響いて胸の奥深くで小さく弾ける。
 総一朗からのキスを唇と閉じた瞼で受け止めると、先程感じた不満や寂寥感がふわりと霧散していく。
 ああ、やはり俺はこの不器用で根っからの観測屋でもある杠総一朗という男が好きで仕方が無いと、初めて出会ってから常々感じていることを改めて認識した一央は、唇が離れた時を狙って小さく笑い声を零してしまう。
 「ヒロ?」
 「・・・ホンマに。不器用やなぁソーイチローは」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「でも・・・」
 そんな不器用なお前が好きでしゃあない。夜空に輝く月をお前が見るのと同じぐらい、お前が好きやと笑った一央は、背後から再度抱きしめられてくすぐったそうに笑みを浮かべる。
 「メシ食ったら望遠鏡見てええ?」
 「ああ」
 明日の月は言わずもがなだが、今夜の月も綺麗だと笑う総一朗に嬉しそうに笑った一央は、伸びをして先程は塞がれた唇に軽く触れるだけのキスをすると、驚きに目が瞠られる。
 「特等席で見たい」
 「そうだな」
 食後の観測会の予定を話ながら一央はウサギの頭を撫で、総一朗が一央の肩を抱きながら階段をゆっくりと降りていき、ハンバーグが焼き上がったことを匂いで教えられて僅かに顔を綻ばせ、これから二人で食べる食事が一人の時に食べるそれと比べられないほどの味と満足感をもたらしてくれることに珍しく胸を弾ませるのだった。

 

 恋人特製のハンバーグを二人で他愛もない話をしながら食べ終え、明日の大きな満月を心待ちにしつつ、今夜の月を望遠鏡で見るために再度二階に上がった二人だったが、ウッドデッキに置いた特大のビーズクッションに総一朗が腰を下ろし、その足の間に一央が入り込んで背後の大きな身体にもたれ掛かっていた。
 そこが一央にとっての特等席であり、また指定席でもあった為、己の身体を挟むように左右に立てられている膝に肘置きのように手を置いて時折膝頭を撫でたりしていたが、今日の午後、テレビを通して聞いたものよりも優しく穏やかな低音で自分にだけ向けて囁かれる、天空で瞬く星々や大きく光る月についての解説を心地好く思いながら聞いていたが、頭に何かが載せられた感触に気付き、上目遣いになってそれを確かめると、自然と口元に笑みが浮かんでしまう。
 総一朗の足の間が己の指定席であるように、色々な考え事-特に観測に関すること-をするとき、一央を抱き寄せた総一朗がその頭に顎を載せる癖があったが、当初は慣れないそれに戸惑う一央だったが、今ではそれが常態化していて、今もまたいつものそれに目を閉じる。
 「な、ソーイチロー」
 「・・・・・・何だ」
 「うん。・・・月、綺麗やな」
 「ああ、そうだな」
 望遠鏡を通してではなく、恋人の腕の中、肉眼で見上げた月は本当に綺麗で、素直にその思いを口にすると、同じことを思っている総一朗が同意の言葉を囁く。
 「今度な、オリオン座見てみたい」
 「ああ。一緒に見るか」
 「うん」
 お前が教えてくれたオリオンの左上で輝く赤い星、あれを望遠鏡で見てみたいと笑った一央は、頭の上に満足そうな吐息が落ちた事に気付くと、総一朗の腕の中で足を伸ばして少し身体をずらし、見上げても端正な顔に溜息をつきつつ音にならない声で名を呼び好きと囁く。
 「・・・月、綺麗やなぁ」
 「ああ」
 同じ言葉を何度も繰り返す一央に苦笑した総一朗は、足の間で仰向けに寝そべる恋人の鼻先にキスをした後、一央の耳に口を寄せて何かを囁きかける。
 その言葉に一つ身体が震えるが、甘えるように総一朗の首に両腕を回した一央は、こんな時だけ信じられない程の強い力を発揮する恋人に呆れつつも引き上げられて起き上がると、ウッドデッキからベッドルームに入ってベッド代わりのマットレスに向かうが、大きな掃き出し窓から大きな月が見下ろしていることに気付き、お月様と総一朗のデートは明日だから今日はあかんと舌を出してブラインドを一気に下ろす。
 「────ヒロ」
 ブラインドを下ろしきる前、己の名を呼んだ総一朗に小さく笑いかけ、見下ろす月に背中を見せるのだった。

 『今日はスーパームーンですね。今年は何年か前とは違って快晴で、雲一つない星空が見えるでしょう』
 テレビから聞こえる声につい反応してしまい、グラスを拭く手を止めて画面を見つめた彼は、味のある老紳士と称されることが増えてきたオーナーが休憩しましょうかと笑いかけてきたため、肩を解すように回す。
 「今日は満月ですか」
 「そーですねー。一番大きく月が見えるらしいですよー」
 毎日のように意識せずとも見えている月だが、その見かけの大きさが変化をしていることについて、以前は知らなかった彼だが今は良く知っていて、それを知る切っ掛けを思い出すと胸の奥深くが疼痛を覚えてしまう。
 今も覚えたそれを何とか押し隠し、明日は晴れるらしいので大きな満月を見るにはちょうど良いと笑うと、確かにそうですねぇと穏やかに笑われ、このオーナーも色々あったのだろうが、こんな風に穏やかに笑える時の過ごし方をしたいと彼は願い、自分たちのためにとっておきのコーヒーを淹れると、お気に入りのカップをオーナーの前に差し出す。
 「昨日、中之島のカフェに行ってきたんです。ちょっと変わった焙煎をする店やったから豆買って来ました」
 「そうですか。カズくんのお気に入りの店がまた一つ増えたんですね」
 「はい。あの店やったら通っても良いかなーって」
 ただ、最近出来たばかりだからかどうかは不明だが、カップルや大学生などが多く、心地好い喧噪を少し通り越していたのが残念だと肩を竦め、淹れたてのコーヒーの香りに自然と心が和んでいく。
 「今日は天気良いんやってー。大きな月見えるねぇ」
 「そうやなぁ」
 テーブル席のカップルの声も穏やかに聞けるようになった今、今夜の月をどこで見ようかと思案するが、脳裏に浮かんだ端正な顔が口を開く前に頭を振ってその顔を掻き消す。
 「カズくん?」
 「あ、何でも無いです、大丈夫」
 オーナーの心配そうな顔に笑って手を振り、変わった方法で焙煎しているコーヒーの味についてオーナーとコーヒー談義に花を咲かせ、極力満月の話題から意識を逸らそうとするのだった。

 

 今日も一日ご苦労様でした、明日もよろしくお願いしますと、オーナーと向かい合って挨拶をした後、店の裏側に止めてある自転車に跨がった彼は、冬の星座が瞬き始めた空の下へと自転車をこぎ出す。
 川に挟まれた場所にある科学館に足を向けることはなくなり、川沿いのあの家も指定席が無くなると同時に行かなくなった彼は、今日の晩ご飯はどうすると呟きつつ自転車を漕いで自宅アパートに向かう。
 賃貸の小さなアパートだが、小動物の飼育が許可されている為にはちわれウサギの草一郎と一緒に住んでいるが、足をタンタンさせながら帰りの遅い彼を待っている姿を想像すると、自転車を漕ぐ足に自然と力がこもるのだった。
 その背中を大きな満月が照らしているが、今の彼が月だけではなく空を見上げることを避けている、それを知ってか知らずか、ただ静かに地上を照らすだけだった。

 

 

2016.11.14
シリーズになるかどうか、まだまだ未定なので、ひとまずこちらでupします。pixivに『天球座標-Super Moon-』としてupしたものになります。


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