ぎしり、と安物のシングルベッドが一つ悲鳴を上げるのを聞きながらそっとベッドから抜け出し、足の踏み場も無いような床に降り立つと同時に足裏から伝わる心地よい冷たさに身体が自然と震えてしまう。
雑多なもので溢れる室内は古くてお世辞にも広くてきれいとは言えないが、この部屋が醸し出す空気が彼はどうしようもないぐらい好きで、二重窓に掛けられている古いブラインドから入ってくる朝の気配も、自宅で感じるそれとは違うようにも感じていた。
この空気に包まれているだけで心が平穏になり、仕事の関係で抱え込まなければならない悩みも、どうあっても逃れることの出来ない過去の苦しみもこの時ばかりは顔を出さずに大人しくしてくれていた。
そんな不思議な力を分け与えてくれるこの部屋から出て行かなければならないのは本当に心苦しいと自嘲したとき、背後から腕を掴まれて強い力で引き寄せられてしまう。
「・・・・・・・・・・・・どこ、行くんだよ・・・」
「危ないだろう?」
背後から腕を掴んで彼を引き寄せたのはこの部屋の主であり、彼の人生を通しての最愛の青年だった。
睡魔に囚われている事を如実に示す声で非難じみたことを告げ、引き寄せた彼の身体にしっかりと腕を回して拘束してくる青年に苦笑し、それでも胸に秘めている思いを伝えるために青年の手に手を重ねて持ち上げ、おはようのキスをすると、背後でもぞもぞと何かをした後、ベッドが更に軋んで溜息の音が掻き消されてしまう。
「・・・・・・・・・もう帰るのか?」
「そうだな・・・・・・」
この居心地の良い空間から出て、世間という冷たい風が吹き付ける世界に今日も出向かなければならない事を一言で伝えるものの、背後から回された腕の温もりと己が握っている温もりを手放す事はなかなか出来そうにもなく、未練がましく掴んだ手の指にキスをしたりしていると、背後からくすくすと笑い声が聞こえてくる。
「くすぐってぇ」
「・・・今日も仕事だろう?」
「ああ」
己の手に施されるキスがくすぐったくて、腕を引き抜こうとする青年を同じように笑いながら阻止し、この手が守るものがこの街に暮らす人々の生命であり財産である事へ改めて思いを馳せていると、肩に顎を載せて鼻息で朝が来て彼が帰宅する事への不満を訴えてくる。
そんな子どもじみた行為を苦笑一つで胸に納めた彼は、寝癖が着いて彼方此方に跳ねている柔らかな髪をそっと撫でて目を伏せる。
「リーオ」
「・・・分かってる」
自分たちがガキみたいに毎日一緒にいてこうして触れあってキスをして抱き合っていられないことなど他の誰よりも十分理解しているが、やはり離れて互いの仕事に向かう直前は腹が立つしどうして朝が来るんだと、朝という目には見えないものへの文句の一つや二つ思わず言いたくなると呟かれ、宥めるように髪を撫でてもう一度彼だけが呼べる名前を呼ぶと、諦めの溜息を零しつつ背中にのし掛かってくる。
「こらっ」
「・・・・・・・・・今日は早く終われそうなら映画見に行かねぇか?」
「うん?ああ、映画も良いな」
「決定。俺は何でも良いから、オーヴェが見たいものを探しててくれよな」
「分かった」
毎日毎日汗水を流し、時にはやるせない思いや辛く悲しい思いをしながらも持てるすべてを発揮して働かなければならないが、その時間が過ぎればまた二人で過ごせるのだから我慢しろと、ほぼ同時に己を納得させた二人だったが、そんな風に腹を括っていてもやはり離れがたい思いが強く、時間が迫っていてもどちらもそれを切り出すことが出来なかった。
「・・・・・・オーヴェぇ・・・」
「・・・・・・・・・今日も一日、頑張って働いてこい」
お前は誰にとっても太陽のような存在なのだからと、恋人の腕の中で何とか振り返って間近にある顔に笑いかけた彼は、軽く目を瞠る青年の鼻先と額にキスをし、嬉しそうな気配を感じ取ってから唇に小さな音を立ててキスをする。
「・・・・・・誰かの太陽でいられるかな?」
「ああ」
鼻先が触れ合う距離で、まるで秘め事を囁き合うように声を潜め、色の違う双眸を互いの目に映しあいながら囁き、素っ気ないほど短い言葉であっても有りっ丈の思いが込められた一言が二人の間に誓いの言葉のように響く。
「俺を信じろ」
「ああ」
俺もまた、俺を信じてくれるお前を信じ、そんなお前から力をもらっているんだと笑って額を重ねた彼は、青年の顔に力強い笑みが浮かんだことに気付いて唇の両端をきれいな角度に持ち上げる。
「リーオ────俺の太陽」
どうか今日一日、お前自身もお前と深く関わりを持つ人たちも心身共に健やかに過ごせますようにと、自身のためには祈ることのない神に短く祈りを捧げた彼は、背中に回った腕の強さと温もりから答えを受け取った気持ちになり、いつも歩き出す勇気をくれる恋人に最大限の感謝の思いを胸に秘めて立ち上がる。
「オーヴェ」
ベッドから立ち上がって振り返る彼の両手を組ませてその手を両手で包んだ青年は、額を軽く触れあわせながらどうか今日一日、平穏無事でありますようにと、彼と同じ思いを口にして短く祈り、見下ろしてくる彼にもう一度力強い笑みを見せて伸び上がり、驚く唇にキスをする。
「行ってこい、オーヴェ」
「・・・・・・ああ」
互いに力を与えあい、仕事が終わった後の何の遠慮も要らない二人だけの時を過ごすために頑張ってこようと頷くと、サイドテーブルから煙草を取って年季の入ったジッポーで火を付ける。
「まだ後ちょっと寝られるからゆっくりする」
「目覚ましは合わせてある」
「ダン、オーヴェ」
礼を言いつつ仰向けに寝転がる青年に目を細め、分けてもらった力を胸と腹の奥底に仕舞い込んだ彼は、己の力をフルに発揮する為に一度自宅に戻り、万全の準備を整えてから出勤しようと決め、居心地の良い空間を一時的に離れるのだった。
雑多なもので溢れる室内は古くてお世辞にも広くてきれいとは言えないが、この部屋が醸し出す空気が彼はどうしようもないぐらい好きで、二重窓に掛けられている古いブラインドから入ってくる朝の気配も、自宅で感じるそれとは違うようにも感じていた。
この空気に包まれているだけで心が平穏になり、仕事の関係で抱え込まなければならない悩みも、どうあっても逃れることの出来ない過去の苦しみもこの時ばかりは顔を出さずに大人しくしてくれていた。
そんな不思議な力を分け与えてくれるこの部屋から出て行かなければならないのは本当に心苦しいと自嘲したとき、背後から腕を掴まれて強い力で引き寄せられてしまう。
「・・・・・・・・・・・・どこ、行くんだよ・・・」
「危ないだろう?」
背後から腕を掴んで彼を引き寄せたのはこの部屋の主であり、彼の人生を通しての最愛の青年だった。
睡魔に囚われている事を如実に示す声で非難じみたことを告げ、引き寄せた彼の身体にしっかりと腕を回して拘束してくる青年に苦笑し、それでも胸に秘めている思いを伝えるために青年の手に手を重ねて持ち上げ、おはようのキスをすると、背後でもぞもぞと何かをした後、ベッドが更に軋んで溜息の音が掻き消されてしまう。
「・・・・・・・・・もう帰るのか?」
「そうだな・・・・・・」
この居心地の良い空間から出て、世間という冷たい風が吹き付ける世界に今日も出向かなければならない事を一言で伝えるものの、背後から回された腕の温もりと己が握っている温もりを手放す事はなかなか出来そうにもなく、未練がましく掴んだ手の指にキスをしたりしていると、背後からくすくすと笑い声が聞こえてくる。
「くすぐってぇ」
「・・・今日も仕事だろう?」
「ああ」
己の手に施されるキスがくすぐったくて、腕を引き抜こうとする青年を同じように笑いながら阻止し、この手が守るものがこの街に暮らす人々の生命であり財産である事へ改めて思いを馳せていると、肩に顎を載せて鼻息で朝が来て彼が帰宅する事への不満を訴えてくる。
そんな子どもじみた行為を苦笑一つで胸に納めた彼は、寝癖が着いて彼方此方に跳ねている柔らかな髪をそっと撫でて目を伏せる。
「リーオ」
「・・・分かってる」
自分たちがガキみたいに毎日一緒にいてこうして触れあってキスをして抱き合っていられないことなど他の誰よりも十分理解しているが、やはり離れて互いの仕事に向かう直前は腹が立つしどうして朝が来るんだと、朝という目には見えないものへの文句の一つや二つ思わず言いたくなると呟かれ、宥めるように髪を撫でてもう一度彼だけが呼べる名前を呼ぶと、諦めの溜息を零しつつ背中にのし掛かってくる。
「こらっ」
「・・・・・・・・・今日は早く終われそうなら映画見に行かねぇか?」
「うん?ああ、映画も良いな」
「決定。俺は何でも良いから、オーヴェが見たいものを探しててくれよな」
「分かった」
毎日毎日汗水を流し、時にはやるせない思いや辛く悲しい思いをしながらも持てるすべてを発揮して働かなければならないが、その時間が過ぎればまた二人で過ごせるのだから我慢しろと、ほぼ同時に己を納得させた二人だったが、そんな風に腹を括っていてもやはり離れがたい思いが強く、時間が迫っていてもどちらもそれを切り出すことが出来なかった。
「・・・・・・オーヴェぇ・・・」
「・・・・・・・・・今日も一日、頑張って働いてこい」
お前は誰にとっても太陽のような存在なのだからと、恋人の腕の中で何とか振り返って間近にある顔に笑いかけた彼は、軽く目を瞠る青年の鼻先と額にキスをし、嬉しそうな気配を感じ取ってから唇に小さな音を立ててキスをする。
「・・・・・・誰かの太陽でいられるかな?」
「ああ」
鼻先が触れ合う距離で、まるで秘め事を囁き合うように声を潜め、色の違う双眸を互いの目に映しあいながら囁き、素っ気ないほど短い言葉であっても有りっ丈の思いが込められた一言が二人の間に誓いの言葉のように響く。
「俺を信じろ」
「ああ」
俺もまた、俺を信じてくれるお前を信じ、そんなお前から力をもらっているんだと笑って額を重ねた彼は、青年の顔に力強い笑みが浮かんだことに気付いて唇の両端をきれいな角度に持ち上げる。
「リーオ────俺の太陽」
どうか今日一日、お前自身もお前と深く関わりを持つ人たちも心身共に健やかに過ごせますようにと、自身のためには祈ることのない神に短く祈りを捧げた彼は、背中に回った腕の強さと温もりから答えを受け取った気持ちになり、いつも歩き出す勇気をくれる恋人に最大限の感謝の思いを胸に秘めて立ち上がる。
「オーヴェ」
ベッドから立ち上がって振り返る彼の両手を組ませてその手を両手で包んだ青年は、額を軽く触れあわせながらどうか今日一日、平穏無事でありますようにと、彼と同じ思いを口にして短く祈り、見下ろしてくる彼にもう一度力強い笑みを見せて伸び上がり、驚く唇にキスをする。
「行ってこい、オーヴェ」
「・・・・・・ああ」
互いに力を与えあい、仕事が終わった後の何の遠慮も要らない二人だけの時を過ごすために頑張ってこようと頷くと、サイドテーブルから煙草を取って年季の入ったジッポーで火を付ける。
「まだ後ちょっと寝られるからゆっくりする」
「目覚ましは合わせてある」
「ダン、オーヴェ」
礼を言いつつ仰向けに寝転がる青年に目を細め、分けてもらった力を胸と腹の奥底に仕舞い込んだ彼は、己の力をフルに発揮する為に一度自宅に戻り、万全の準備を整えてから出勤しようと決め、居心地の良い空間を一時的に離れるのだった。
2012.06.24-07.04


