030:雨音

Kain&千暁

  南に面した大きな窓と、その先に広がる庭に背中を向けるように置いた革のソファに胡座を掻いて腰掛け、己の左右のスペースにご自慢のコレクションである新旧取り混ぜたクラシックのレコード盤を並べた彼、森千暁は、リビングの壁の棚-恋人とそのその幼馴染みが大騒ぎをして作ったもの-の、個人が所有するには立派すぎるオーディオセットから流れ出していたお気に入りのピアノ曲が止まった為、ソファから勢いよく降りたってオーディオセットの前に向かう。
 その時、ピアノ以外の音が家の中に響きだしたことに気付き、音のする方へと顔を向けた彼の視界、二階まで吹き抜けになっているリビングの大きな窓に雨粒が円を描き始め、あっという間に流れになって雨のカーテンを作り出したのだ。
 「・・・・・・雨かぁ」
 雨のカーテンを見ながらぼんやりと呟いた彼だが、窓に宛がった手指が自然と動きだし、幼い頃から馴染んでいた鍵盤を叩く動きを繰り返し始める。
 小さな頃からピアノに馴染み、そのピアノで生計を立てていきたいとの思いからドイツへの音楽留学を選択したのだが、紆余曲折を経た今はその夢には柔らかな蓋をして鍵を掛けてしまっていた。
 だが癖というのは直らないもので、手指が求める動きに苦笑し、オーディオセットの隣に置いてあるグランドピアノの前に座り、このピアノが最も美しい音を奏でる為の準備に取りかかる。
 手指の関節を解して気軽にピアノを弾く気分で白と黒の鍵盤に向かい、もう一度深呼吸をして楽譜を見なくても弾ける名曲の最初の一音を軽やかに響かせる。
 彼が心のままに弾き始めた曲は、突然降り出した雨にインスピレーションを得た作曲家が生み出した名曲だが、コンクールや賞の為に練習していた頃はただ弾いているだけだと称されたこともあったが、今ならばこの曲を作った偉人の気持ちが少しだけ理解出来そうだった。
 甘く響く音の中に消せない哀しさが滲んでいて、曲の中程に突如現れるような暗い気持ち、そして終わりに向けてまた軽やかな甘い気持ちが感じられ、何だか自分たちのようだと苦笑する。
 今日は休日で出かけている恋人は、この街に留学し、学生向けの共同住宅に暮らしていたが、突然その建物を取り壊す事になって路頭に迷い掛けた時に偶然知り合ったのだ。
 当初の約束事は、まるでハウスキーパーのように食事の用意と家の掃除洗濯など、いわゆる家事全般を引き受けてくれるのならば住む場所を提供するというもので、明日から生活する家を探していた彼にしてみれば渡りに船だったのだ。
 条件を詳しく聞いて納得した為に同意をし、そして共同生活が始まったのだが、その間今振り返れば笑い事にしてしまえる事や、今でもやはり笑い事には出来ない事が二人の間に沸き起こり、不器用ながらも相手を真正面から見つめて心を交わしてきた為、今もこうしていられるのだろうと気付き、自然と浮かぶ笑みのままピアノで音を奏で続ける。
 長身とモデルでも通用しそうな顔、そして生き馬の目を抜く様な目まぐるしく変化をする金融の世界で若くして成功を収めているとなれば、例え彼が本心では自身も含めて周りにいるもの達を金の亡者と嘲笑していたとしても、彼とともにいて成功を収めたい、そのステータスにあやかりたいと願うもの達は多数いた。
 振り返った過去で様々な男女と付き合い、千暁と共同生活を送る家に女性達を連れ帰ってきていた彼だが、お互いが必要不可欠な存在だと気付かされた大きな事件の後、全てを新たに始める気持ちでこの家に引っ越してからは、彼の周囲から一夜を共にしていただけの女性の姿は見えなくなり、ステータスシンボルのように扱おうとしていた男達の姿もなくなりつつあった。
 彼のことを思いつつ、降りしきる雨音に合わせるように音を奏でていた時、グランドピアノの向こうに人の姿が見えた為に思わず手を止めてしまいそうになるが、そのまま続けてくれと囁かれて続きを弾いていけば、赤い髪ののっぽさんと呼ぶ恋人が雨が流れる窓に背中を預けて腕を組んで聞き入る体勢になる。
 背中に恋人の気配を感じ、心地よい緊張と先程感じたこの曲に秘められた思いが入り交じりながらも最後まで弾ききると、小さな小さな吐息が背中を滑り落ちる。
 「・・・・・・どうだった?」
 「────良かった」
 お前の友人達のように、聞こえてきた音の良さ、弾き手の感情を言葉に出して表すことは出来ないが、聞いていて本当に気持ちよかったと、窓から背中を剥がしながら目を伏せる彼に千暁は軽く驚いたように見上げ、上体を折る恋人に自慢気に笑いかける。
 「きみが良いと言ってくれるのが・・・嬉しい」
 幼い頃、まるでピアノを弾く為だけに生まれてきたような扱いを受け、賞賛の声を一身に浴びていたが、そんな声も遠く霞んでしまうほどその一言が嬉しいと告げれば、彼が千暁の横に腰を下ろす。
 「今の曲は?」
 「ショパンの雨だれ」
 作曲をしているときに突然の豪雨があり、出かけている恋人の身に何かあったんじゃないかと不安になったけど、結局何も無く帰ってきたという逸話がある曲だと告げると、恋人の長くて綺麗な指がぽんと鍵盤を叩いた為、千暁も音階の違う鍵盤を押して彼が出す音に合わせれば、それが楽しかったのか、今度はまた違う別の鍵盤を二つ同時に押してくる。
 その音に合わせるように鍵盤を叩き、左手で同じ音を出し続ければ、何を望んでいるのかを察した恋人が音を合わせる為に文字通り手探りで辿々しい音を奏で出す。
 「・・・カイン、そのまま」
 そのままでその音を出していてと笑顔でカインに頷いた千暁は、脳裏で溢れていた音を一緒に楽しもうと告げて彼が奏でる音を自らが出す音で追いかけ追い越し、重なり合うように自由に鍵盤の上で指を踊らせる。
 背中には雨の音が響き、二階までの吹き抜けになっている高い天井に吸い込まれるように二人が奏でる音が舞い上がり、響き渡って音の滴となって降ってくる。
 その心地よさについつい千暁の顔が綻び、隣で極力同じ早さで同じ音を出そうとするカインを見れば、一つのことに集中する人間特有の表情に息を飲みながら脳内の音を全て吐き出して静かにフェードアウトさせていく。
 「────気持ちよかった?」
 「お前はどうなんだ?」
 二人でピアノの前に並んで顔を見合わせ、今の曲はどうだったと問いかけると、カインが灰色の目を細めてそっと頷いて千暁の頭に手を載せる。
 「ぼく?・・・気持ちよかった」
 くすりと笑いながら大きな手を掴んで引き寄せた千暁は、もう一度弾きたいなぁと笑いながらカインにもたれ掛かるが、そのまま腰に腕を回されて足の上に座らされてしまい、瞬間的に真っ赤になる。
 「あわわっ!カイン!!」
 他に誰かの目があればしてこないが、二人きりになれば途端に千暁に甘い顔を見せるカインのそのスキンシップに千暁が慌てふためくが、誰も見ていないのだと己に言い聞かせせて珍しく千暁から甘えるように彼の首に腕を回してそっと身を寄せれば、背中に回った腕が軽く力を込めて引き寄せる。
 雨が窓を流れ落ちる音を聞きながら静かに身を寄せていると、オーディオセットの上に飾ってある古いカッコウ時計が時を告げた為、それを合図にどちらからともなく身を離して立ち上がる。
 「そろそろリオンが来るんじゃないのか?」
 「うん。用意はもう出来てる・・・・・・あ」
 「どうした?」
 「レコード、出しっぱなしだった」
 ピアノを弾くまで座っていたソファへと視線を向け、慌てて駆け寄った千暁がコレクションを掻き集める様に苦笑し、片付けておかないとリオンが踏んでしまうと告げれば、見ていないで手伝ってと千暁が目を吊り上げるのに肩を竦め、やれやれと溜息を零してレコードを集め、オーディオセットの横にある棚に立て掛けていく。
 「あ、そうだ。ねえカイン、この間、マルクトで綺麗な鉢植えを見つけたんだ」
 「花の名前は?」
 「んー・・・・・・・・・覚えてない」
 己の恋人の趣味がガーデニングだと知ったときの千暁の驚きぶりは見事で、暫くの間立腹したカインが口を利かないほどだったのだが、今ではすっかり良き理解者になっていて、毎日の買い物に出向く市場に店を出している花屋とすっかり顔馴染みになり、少し弱っている花があれば安く譲ってくれるようにもなったのだ。
 ただそれはあくまでも彼を喜ばせたい一心での行動の為、その花の名前はと問われてもそこまで千暁には分からなかった。
 だからごめんと肩を竦めれば軽く額を押されて思わず上目遣いにカインを睨むが、思い出したと小さく叫び、今度は笑顔でカインを見上げる。
 「あ、でも今日は木瓜の枝が蕾を付けてたから、それを貰ってきた!」
 「・・・後で飾ろう」
 「そうだね」
 大切なレコードを戻し、もうすぐ来る友人二人を出迎える準備を整えたカインと千暁だったが、雨音が静かになった事に気付いて二人でテラスへと出る窓の前に向かう。
 「・・・あ、太陽が出てる」
 窓に手をついて顔を出し始めた太陽に目を細めた千暁は、カインの顔が肩に載せられたことに気付いて視線だけを向け、そっと手を挙げて赤い髪を優しく梳く。
 「さっきの曲、もう一度聞きたいな、アキ」
 「雨だれを聞きたいの?」
 「・・・・・・いや、その後の曲だ」
 「うん、分かった」
 自分の脳内でのみ飛び跳ねていた音達だが、それをもう一度聞きたいとひっそりと頼まれて嬉しそうに顔を綻ばせた千暁は、頬にキスをされて少しだけ目元を赤らめるが、ピアノの前に再度腰を下ろし、弾き始める前の儀式を済ませるが、大切なことを忘れていた様に目を瞠ってカインを振り仰ぐ。
 「カイン、きみも座って」
 この曲はきみがいないとだめなんだと手招きし、何とも言えない微妙な顔で腰を下ろすカインの手を取って長くて綺麗な指をもう一度同じ二つの鍵盤に置かせると、先程と同じように一定のリズムで弾いてくれと笑顔で頷く。
 同じようでいて少し違うそのテンポに合わせて千暁が弾き始めた時、背後では雲の合間から太陽が地上を見下ろすように顔を出していて、背中と恋人と触れあいそうな身体から熱が伝わってくる。
 さっきよりも温かくて気持ちの良い心のまま弾き終えた千暁は、カインの広い肩にもたれ掛かってくすくすと笑みを零す。
 「本当に・・・気持ちよかった」
 一人でピアノを弾く楽しみは確かにあるが、今はもうそんな一人の楽しみよりも、きみと二人でこうして弾ける事が何よりも嬉しいし、楽しい。
 その言葉が嘘ではない事を示すように千暁の頬が赤みを増して、日頃から幼いと言われる顔付きが更に幼くなってしまうが、カインだけに見せるように笑いかければ、くしゃくしゃと黒髪を掻き乱される。
 「・・・・・・楽しかったらそれで良い」
 「うん。ダンケ、カイン」
 楽しい心地よい時をありがとうと礼を述べて椅子から飛び降りると、友人達に出す料理を見て欲しいと言い残してキッチンへと駆け込むのだった。
その小さな背中を見送ったカインだが、ピアノをそのままにジーンズの尻ポケットに手を差し入れてキッチンへと向かい、忙しなく動き回る千暁に何をすればいいのか指示をしてくれと告げて二人で共通の友人をもてなす準備をするのだった。

 

 その後程なくして皆で食べる為の料理と酒を持参したリオンとウーヴェを迎え、リビングで楽しく盛り上がりながら料理を食べ、ボードゲームに興じて大騒ぎをするが、吹き抜け部分のガラス窓から差し込む光が、まるで二人が奏でた音の欠片のようにきらきらと降り注ぐのだった。

 

2011/03/27
2011/04/21 改題


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