季節が冬から春へと移り変わり、人々の心のありようも明るさを増したからなのか、刑事として街中を飛び回っているリオンが遭遇する事件の被害者やその関係者から事情を聞くときでさえも冬独特の陰鬱な空気を感じる事は少なくなっていた。
だからといって被害にあった人やその家族達の心までもが陰鬱な冬から解放されたのかと言えばそんなはずもなく、突然の事件に巻き込まれて命を落とした家族を思って悲嘆に暮れる関係者の神経を出来る限り逆撫でしないように気をつけているが、彼方此方で春の草花が芽を出すように昼夜を問わずに事件が発生し、ひとつが終われば別のひとつに強制的に向き合わねばならず、事件に巻き込まれた人達への配慮の余裕を失いつつあった。
そんな文字通り休む暇も与えられない忙しさの中に身を窶していたリオンは、ようやくひとつの事件が一段落ついた事と何日ぶりかの休暇を取得しても良いとの許可を得た為、石畳のささやかな段差でさえも躓いてしまう足を引きずりながら、まだ陽が昇っているうちに帰ろうとしていた。
いつもならば職場を出てから必ず恋人が経営するクリニックに立ち寄り、小腹に生息している虫を宥める為の食べ物を補給するのだが、その考えが思い浮かばないほど疲労困憊しているようで、自然と足が向いたのは自宅アパートではなく彼の実家とも言えるこちらも相応に古くて小さな教会とそれに併設されている孤児院だった。
昼と夜が入れ替わる頃合いに彼が様々な思いを込めてホームと呼ぶ孤児院に戻ってくるのは珍しい事で、孤児院のドアを開けて一歩足を踏み入れた途端、廊下の先にいたシスターが驚きのあまり飛び上がってしまう程だった。
いつもならば目敏く周囲の事も確かめられるのだが、さすがに今のように疲れ切っていると教会の敷地前にどんな車が停まっていたのか、誰かが座り込んで話しているのかに気を配る余裕もなく、ただ土気色の顔で玄関先に立ち尽くしてしまっていた。
シスターの驚きが室内にいた人達にも伝わったのか、何事だと少し慌てながら数人のシスターが顔を出し、各々の視線の先にいるのがまるでゾンビか何かのような顔色のリオンであることを発見すると皆一様に安堵の溜息を零すが、次いで滅多に見る事のない疲労困憊ぶりに狼狽してしまっていた。
「・・・・・・・・・あれ、マザーは?」
壁に手をついて何とか身体を支えながらぼそぼそと問いを発したリオンは、シスター達の心配の声に駆けつけたブラザー・アーベルの端正な顔を見ながら問いかけ、今来客中だと答えられて短く舌打ちをする。
「かなり疲れているようだね。何か食べるかい?」
「んー・・・・・・何か食うものある?」
背の高いブラザー・アーベルの肩に腕を載せて身体を支えるリオンを文句も言わずに見守り、キッチンへと導こうとするブラザー・アーベルの前に明るい表情をしたマザー・カタリーナが顔を出し、彼の肩に寄りかかるようなリオンを発見して目を瞠る。
「リオン?どうしたのです?」
「あー、マザー・・・・・・腹減った」
「仕事は終わったのですか?」
「うん、終わらせた。メシ食いてぇけど・・・・・・」
「リオン!!」
アーベルの肩からずるりと滑り落ち、廊下に倒れ込んだリオンに二人が慌てて膝をつくが、聞こえてくる意味不明瞭な言葉に顔を見合わせ、焦燥感もあらわに名を呼びながら身体を揺さぶる。
「リオン、眠いのは分かりますがあと少し我慢してください」
ここで寝込まれてしまえば、今ここにいるシスターやブラザーの手を借りてもベッドに運ぶのは一苦労だと告げ、彼の瞼を何とか持ち上げさせるが、もう一歩も動きたくねぇと吐き捨てるリオンにそんな事を言わずに起きて下さいとなおも言い募ると、勢いを付けて起き上がり、その場に胡座を掻いて苛立ちを隠さない顔で髪を掻きむしる。
幼い頃から空腹と睡眠不足に陥ると途端に機嫌が悪くなり、マザー・カタリーナでさえも手を焼く程だったが、遠い昔を彷彿とさせる顔で睨まれてしまい、彼女も申し訳なさそうに軽く目を伏せ、髪を掻きむしっていたリオンの手をそっと掴んで両手で包み込む。
「お仕事お疲れ様ですね、リオン」
「・・・・・・・・・・・・うん・・・・・・・・・あれ・・・?」
マザー・カタリーナの手の温もりが自然ともう一つの温もりを思い出させ、ただそれだけの事でささくれ立っていた心が僅かに平穏になった事に少し呆れたリオンは、マザー・カタリーナの身体からすっかりと馴染んでしまった匂いがする事に気付いてそれを確かめるように小さく鼻を鳴らし、彼女の首にふわりと巻かれているスカーフにも気付いて瞬きを繰り返す。
「マザー、お客さんってさ、誰?」
ある期待を抱きながらそっと問いかけるリオンにマザー・カタリーナが小首を傾げ、私たちの教会に寄付を下さる方で、今日も来てくれて子ども達に食べ物を持ってきてくれたと答えられてとくんとひとつ鼓動を跳ねさせる。
この匂いの持ち主が己の想像通りだとすれば、何という偶然なのかという思いと、神か悪魔かは分からないが後僅か彼をここに止めてくれればいいのにという盛大な不満が混ざり合い、溜息となって床にこぼれ落ちる。
後少し早く帰ってきていれば疲労困憊の今だからこそ逢いたい恋人に逢えたのにと、悔しそうな歯軋りをひとつしたリオンは、マザー・カタリーナがそっと手の甲を撫でるのに苦笑し、何か言っていなかったかと問いかけると、最近は忙しいようでなかなか連絡が取れないあなたの事を心配していましたと返されて肩を落とす。
ここの所の忙しさから声を聞くことも文字でその存在や温もりを確かめる事も出来ずにいたが、己の恋人とほんの少しのタイミングで逢えなかった事実はリオンの中に残っていた体力を奪い取ったようで、マザー・カタリーナの華奢な肩にリオンが頭をぶつけるように身体を傾げてしまう。
「・・・・・・・・・何か言ってた?」
「ええ。いつものように私たちの事を気遣ってくれていました」
「そっか・・・・・・」
「あと、あなたの様子を知りたいような感じもしましたよ」
マザー・カタリーナの肩に額をぶつけ、何処かで見た事のあるスカーフに鼻先をすりつけるように顔を寄せたリオンだったが、ブラザー・アーベルに背後から抱え上げられてしまって仕方なく立ち上がる。
「アーベル、メシいらねぇから寝る」
身体の奥底に蓄積している疲労と恋人とのニアミスがもたらしたものから来る失望感に囚われながらブラザー・アーベルの肩に再度懐くように腕を回してぼそぼそと呟けば、ふわりと肩に優しい何かが回される。
「これを返しておいて下さい、リオン」
「・・・・・・うん」
マザー・カタリーナの首に巻かれていたスカーフが己の肩に掛けられている事に気付き、首を傾げて頬を軽く触れさせたリオンは、用意されている部屋へと足を引きずりながら向かい、手足を投げ出してベッドに倒れ込む。
その時、顔の下敷きになったスカーフからふわりと恋人の残り香が舞い上がり、自然と吸い込んだ結果、心の中にまで蓄積していた疲労が少しだけ薄らいでいく。
仕事が忙しい為になかなか連絡を取れないでいたが、それでも出勤前と帰宅後には生存報告のようなメールをすると、必ずこちらの心身に不調がないかを気遣う返事をくれるが、電話を掛けてくることはなかった。
それはリオンの仕事に差し支えがあってはいけないという恋人の心の現れではあったが、さすがに何日も声を聞けないとなると寂しさが募ってくる。
自分の仕事を十二分に理解した上で負担にならないように気遣ってくれているのだろうが、そんな大人な顔をかなぐり捨て、逢ってその温もりを匂いを直接感じていたかった。
「・・・・・・オーヴェ」
スカーフを手元で丸めて顔の下に突っ込み、残り香から恋人の姿を思い描いて目を閉じていると寂しさよりも心が安らぎを感じ始め、次いで疲労困憊している身体の奥底から力が沸き上がってくる。
水を感じさせる爽やかな匂いが心地よく鼻腔を擽り、血流に乗って全身を巡る頃には失われつつあった力が再び戻ってきたような感覚に、スカーフに顔を押しつけると更に心が落ち着きを取り戻し始める。
そうして落ち着いた心のままで枕に頭を預けると、目の上に凝り固まっていた疲労がじわじわと形を崩して流れ落ちていくような感覚に囚われる。
実体としての恋人はいないが、この残り香だけでも疲れを癒してくれる彼に言い表せない感謝の思いを抱いたリオンは、大きく欠伸をひとつするとスカーフを手にしたまま泥のような眠りに落ちていくのだった。
春の空は茫洋としているがそれでも冬の重苦しさを脱ぎ捨てた身軽さに溢れていて、昨日はあれからつい小一時間程前まで死んだように眠り続けていたリオンは、一日しっかりと眠ったお陰でいつも通りの元気を取り戻し、軽くなった足取りで昨日は立ち寄れなかった恋人が働くクリニックへの道を歩いていた。
昨日眠りに落ちる寸前まで恋人の存在を感じていたが、それをさせてくれていたものをジーンズの尻ポケットから引っ張り出すと、ヨレヨレになっているそれに気付いて少しだけ途方に暮れる。
マザー・カタリーナから受け取ったときは皺などほとんど無い、いつものように真新しさを感じさせてくれていたのに、今己の手の中にあるそれはもう何年も使い古して手入れしていないもののようになっていて、さすがにこれをそのまま返す訳にもいかないと気付くものの、だからといってリオンがこの皺を消す術を持っている筈もなく、仕方がないかと口笛を吹きながら手の中に握り込んで見えてきたアパートのドアを潜り抜ける。
夕方近くになれば診察も疎らになっていて、タイミングが良ければお茶のご相伴が出来るかも知れなかったが、万が一患者がいた時にはどのような行動に出るかを思案しつつ階段を駆け上り、廊下の先にある重厚な木の扉の前に立って無駄に深呼吸を繰り返す。
そしてそっとドアを開けて顔だけを隙間に突っ込んで室内の様子を窺うリオンに、心底呆れた様な声が当然のように投げ掛けられると思われたが、リオンの耳に流れ込んできたのは予想外の声だった。
「────不審者を発見したと警部に通報しようか?」
「ちょ、まっ・・・!」
久しぶりに会ったのに不審者扱いかと目を吊り上げるリオンを冷たい目で一瞥したのは、夢の前後でその存在を感じていた恋人、ウーヴェだった。
「不審者扱いされてもおかしくない行動を取るからだろう?」
片手で肘を掴み片手で眼鏡のフレームを撫でながら嘆息混じりに呟かれ、その行動の真意を把握したリオンが内心でほくそ笑むものの、表だってはただ情けない表情で縋るように見つめる。
「オーヴェぇ、腹減った・・・!」
「いつかも言ったと思うが・・・ここはカフェでもガストシュテッテでもない」
腹が減ったと言ってすぐさま食べ物が出てくるような場所ではないと、今度は心底呆れかえった顔で溜息を吐く恋人の前に駆け寄り、腹が減ったと宣いつつ眼鏡のフレーム傍にキスをする。
「ハロ、オーヴェ」
「・・・・・・・・・今日は休みだったのか?」
いつものようにいつもの挨拶を交わす頃にようやく恋人の表情が和らぎ始め、その様子に目を細めたリオンが頷いて大きく伸びをする。
「ああ、うん、ずっと休みを取れなかったからさ、今日は一日休みを取った」
「今日って・・・・・・もう夕方だぞ?」
ウーヴェの指摘に少しだけ残念そうな顔で肩を竦めたリオンは、久しぶりに丸一日寝ていたと笑うが、ジーンズの尻ポケットに突っ込んだスカーフを思い出して二人の間に引っ張り出す。
「これ、マザーが返しておいてくれって」
「・・・・・・・・・いつでも構わないのに」
「何で昨日すぐに帰ったんだよ?」
受付のデスクに尻を乗せて足を組んだウーヴェにリオンがスカーフを握って突き出せば小さな苦笑がこぼれ落ちるが、何故昨日後少し待っていてくれなかったんだと恨みがましい目で見つめると、ウーヴェのターコイズ色の瞳が驚きに瞠られた後で理不尽な怒りをぶつけられた困惑に細められる。
「俺が帰った後にホームに戻ったのか?」
「そう!マザーがこれを置いていったって教えてくれたけどさ、待っててくれてたらこんなスカーフじゃなくて直接ハグできたのに」
小さな子どもが拗ねる顔で文句を垂れるリオンにただ苦笑したウーヴェは、眼鏡のフレームをもう一度撫でながら仕方がないだろうと呟くものの、リオンの顔に不気味な笑みが浮かんだ事に気付いて上体を仰け反らせる。
「本当に素直じゃないんだからー」
「何の事だ?」
「しらばっくれても良いけどさー・・・」
リオンの青い眼が不気味な形に細められ、更にウーヴェが身体を仰け反らせてデスクに手をついて身体を支えると、その手の横にリオンが手をついて顔をずいと近づける。
「何か忘れてねぇか、オーヴェ」
「・・・・・・・・・・・・・・・お疲れ様、リオン」
「うん」
ここ数日の忙しさや身体の奥底に蓄積されていた疲労が一気に昇華するような声に素直に頷いたリオンは、ウーヴェの手が首の後ろで軽く交差した事に気付いて目を細めると、待ち望んでいたものがそっと与えられる。
久しぶりに感じたウーヴェの唇の感触にうっとりと目を細め、唇だけではなく舌や口の中の温もりも感じたいと不意に突き上げるような思いがわき上がり、片手で身体を支えつつウーヴェの口内に舌を差し入れて思いを叶える。
「────っ・・・」
「・・・・・・オーヴェ、逢いたかった」
仕事中はどうしてもそちらに意識が向いてしまい、ついついウーヴェに対する連絡が疎かになってしまうが、仕事から離れればいつも逢いたいという思いが胸にあった事をひっそりと告白したリオンは、頭を胸に抱き込まれるように引き寄せられて目を閉じる。
昨日夢の中でも感じていた匂いが鼻腔に溢れ、夢でも幻でもなく現実に今恋人の温もりに触れている事を実感し、深呼吸を繰り返して満足の吐息をひとつ零す。
「・・・なぁ、オーヴェ」
「何だ?」
顔を見ることなくシャツの胸元に呼びかけたリオンは、お前はどうだったと短く問いかけるがなかなか返事は無く、焦れて顔を上げようとした時、胸に額を押し当てる強さで頭を抱きしめられて少しだけ痛みに顔を顰める。
「・・・・・・・・・・・・・・・ああ」
たった一言だったがウーヴェの心の総てを伝えてくれていることに気付き、じわりと笑みを浮かべたリオンは、そっと恋人の端正な顔を少し見上げ、目尻のほくろの辺りがうっすらと赤らめたウーヴェに満足そうに目を細める。
「寂しい思いさせてごめんな、オーヴェ」
「・・・・・・別に、誰も寂しいなんて言って無い」
「あー、まーたそんな素直じゃない事を言うんだからー」
デスクにウーヴェを完全に座らせ、広げさせた足の間に己の身体を押し込んだリオンは、目元を赤らめるウーヴェを細めた目で見つめ、素直になれよと囁きかけて唇の端にキスをする。
「俺の様子をマザーに聞きたかったけど聞かなかったんだろ?」
「!!」
「俺の仕事を理解して気遣ってくれるオーヴェが本当に好き」
ありがとうと囁いて小さな音を立ててキスをすると、ウーヴェの口から意味が分からない溜息がこぼれ落ちるが、次いでリオンでさえも一瞬どきりとしてしまうような優しい目で見つめられて息を飲む。
「・・・・・・・・・リーオ」
「ガンバッて働いたご褒美が欲しいな、オーヴェ」
「久しぶりにゲートルートに行こうか」
「それも良いけど・・・」
もっと大切なものが欲しいと吐息で囁いてキスをしたリオンは、先程と同じように首筋の後ろを抱き寄せられたことに気付いて恋人からの褒美を何度も受け取ると、しわくちゃになったスカーフをウーヴェの首にふわりと巻き付ける。
「ごめんな、オーヴェ。寝るときに握ってたからすげーしわくちゃになった」
こんな薄い布切れでお前の存在を感じなければならなかったのは本当に寂しかったと、いつもとは少し違う声音で告白するリオンにウーヴェが伏し目がちになるが、先程から何度か告げられている言葉から力を貰い、いついかなる時でも填っている青い石のピアスに口を寄せて心の中で蓄積されていた思いを口にする。
「────逢いたかった」
さっきよりは長いがそれでも短い一言で思いを伝えたウーヴェにリオンがもう一度満足そうな吐息を零し、ウーヴェのこめかみにキスをする。
「今日は家に帰ろうぜ、オーヴェ」
「良いのか?」
「うん。オーヴェの家でゆっくりしてぇ」
「分かった」
じゃあ家に帰ってお望み通りゆっくりとしようと笑いながら額と額を軽く触れあわせ、くすくすと小さな声を出すとリオンもつられたように笑い声を挙げるのだった。
そうしてリオンの望み通りウーヴェの自宅に久しぶりに二人で帰り、軽い食事で腹を満たすが、その後は昨日のように残り香でウーヴェの存在を確かめるのではなく直接肌に触れる温もりから感じるためにソファに寝そべったリオンがウーヴェの腿を枕にしながらテレビを見、そんなリオンをただ黙って愛おしそうな目でウーヴェが見守る。
離れていた間感じる事の出来なかった互いの温もりをようやく心ゆくまで感じられる時間は二人にとって望んでいるものであり嬉しいものであったが、どちらもその思いを口に出すことはせず、ただ静かにいつもと同じようにテレビを見たり雑誌を読んだりしているのだった。
2012/05/01


