春の優しい雨と言うよりは、冬を思い起こさせる冷たい雨が窓を濡らしている夜半、ここ数日の激務の疲れから自宅に戻ると同時にベッドに倒れ込んだリオンは、意識だけが見えない糸に吊り上げられたように浮上したことに気付き、滲む視界で薄汚れている天井を見つめる。
手探りで携帯を探し当てて時間を確認すれば、信じられない事にベッドに倒れ込んでからまだ1時間しか経過していなかった。
いつもならば翌朝まで眠り通す自分の異変に首を傾げ、携帯を探り当てた手で煙草を探し出し、無意識にでも出来る動作でジッポーの蓋を弾いて煙草に火を付け、天井の染みを更に酷くするように紫煙を吹き付ける。
何故たかが1時間眠っただけで目を覚ましたのかとぼんやりと考えるリオンだが、理由など分からないと頭を一つ振って起き上がり、その勢いでベッドから降り立つとトイレにそのまま向かうが、戻ってきた時、ベッドに人の気配を感じて驚きに目を瞠る。
「オーヴェ!?」
ベッドには白っぽい髪から水を滴らせたウーヴェがぼんやりとした顔で腰掛けていたのだ。
いつ入ってきたのか全く気付かなかったリオンが青い目を見開いたまま近付くと、俯き加減の顔がのろのろと上げられてリオンを見据える。
「・・・っ!!」
ぼんやりとまるで光に包まれたようなウーヴェの輪郭がゆらりと揺れ、微かに震える手が向けられた為に疑うことなくその手を掴んだリオンだが、愛してやまないターコイズが悲しみに揺れている事にも気付き、ウーヴェが伸ばした手の先にあるものを確認するために振り返る。
だがリオンの目に飛び込んできたのは、予想通りの冷蔵庫とシンクの壁の小さな棚で、内心溜息を吐きながらウーヴェをもう一度見たリオンは、ゆっくりと震える唇が上下に離れて大きく口を開く様を呆然と見守るが、まさかと息を飲んだその刹那、音にならない悲鳴が部屋中に響き渡るが、その様をただ見つめることしか出来ないのだった。
「─────!!」
音にならない悲鳴が部屋中に響き渡ると同時に音を立てるような激しさで瞼が開き、肩を揺らして激しい呼吸を繰り返したリオンは、額から流れ落ちた汗が目に入った事にも気付かないほどの驚きに胸を上下させて呼吸を整えようとしていた。
今のは一体なんだと呟き、そう言えば煙草を吸っていた筈と思い出したリオンが飛び起きるが、サイドテーブルの灰皿には新たな煙草は無く、夢を見ていたんだと気付いて深く溜息を零す。
ベッドに腰掛けていたウーヴェが光に包まれていたようにも思ったが、あれは一体何だったのか。そもそもあれは本当にウーヴェだったのか。だとすれば、一体どんな早業を使ってここにやってきたというのだろうか。
連日の勤務がやっと一段落ついた為に今日は比較的早く帰宅できたのだが、疲労困憊の足を引きずりながらも心は恋人を求めていて、電話で疲れた事とやっと家で眠れる事を伝えた時、雨音に混ざった穏やかな声がお疲れさまと労ってくれていた。
その彼がもしもここに来るのならば、電話の一本も入れるだろう。
そして何よりも、光っている理由が分からなかった。
寝惚けていたんだろうとくすんだ金髪を掻きむしったリオンだが、その動きによって脳味噌の中身まで掻き回された訳ではないだろうが、思考がマーブル模様を描くように混ざり合い、純粋な一滴の水となって滴り落ちたと同時に映像が浮かび、その滴が落下した先で広がる波紋にウーヴェの穏やかな顔がゆらゆらと揺れるのを見届けると、無意識に携帯を掴んで登録してある番号を押すと同時に床に脱ぎ散らかしたままのジーンズに足を突っ込んで手早く着替えを始める。
自分は予知夢を見たり第六感が人以上に発達しているわけではないが、胸騒ぎに突き動かされて電話を肩と頬で挟んでコールを数えているが、もしもただの夢であり思い過ごしであれば、穏やかな眠りを妨げることにもなる危惧感に汗を流す。
そうしてコールが10回を数える直前に繋がった通話口から伝わってきた気配に、己の胸騒ぎが的中したことを知る。
「オーヴェ」
低く名を呼び返事を待つが、携帯を通して聞こえるものは尋常ではない呼吸音と途切れ途切れの言葉にならない音の羅列だった。
何だか久しぶりだなと頭の片隅で思案しつつ素早く自転車を掴んで部屋の電気を消したリオンは、もう一度伝わるようにウーヴェの名を呼んでみるが、その最中に鍵を掛けて老朽化の進んだアパートの階段を急ぎ足で駆け下りる。
冷たい雨が降る中に自転車を下ろして跨がり、根気よくウーヴェの名を呼べば、やっと言葉らしき音をリオンの耳が拾った為、安堵に胸を撫で下ろしながらどうしたと問いかける。
『・・・・・・リ・・・っ、雨、が・・・っ』
「あー、うん。雨降ってる。昼は良い天気だったけど、天気予報が当たったな」
今日の午後から下り坂で夜半に掛けては冷たい雨が降るでしょうと、夕方のお天気お姉さんと呼んでいるキャスターが淡々と説明していた顔を思い出し、必要なことは分かっているが、全く嫌になると笑いながら、そんな冷たい雨が降りしきる中を片手で携帯を押さえ、片手でハンドルを握って出せる限りの早さで自転車を走らせたリオンは、雨の音がうるさいのかと問いかけるが、また聞こえてくるのは途切れ途切れの苦しそうな呼吸音と呻き声にも似た音だけだった。
今自転車を飛ばしてウーヴェの家に向かっているリオンだが、さすがにそんな声を電話越しに聞かされると心が痛んでしまい、ついついそれを遮るようにわざと明るい声で今日の出来事を話し始める。
話題を逸らす方が良いのか,それともウーヴェの気が済むまで話をさせる方が良いのかも分からず、ただ今日はジルがふざけたことばかりをしたから、蹴り飛ばしてやっただの、コニーの愛妻-他者からすれば恐妻-が署にやってきて、残業ばかりをさせられるコニーが可哀想だと訴えていっただのと語りかけるが、聞こえてくる声に変化はなく、内心の苛立ちを思わず舌打ちで現しそうになるが、それをぐっと堪えてあと少しだけ我慢してくれと振り絞った声で伝える。
「オーヴェ、後ちょっとだけ我慢してくれよ」
『・・・な、にを・・・?』
「うん。もう見えた・・・!」
この坂道を上り、後はエレベーターで上がれば到着すると、弾んだ息の下で告白し、だからもう少しだけ待ってくれと切なる願いを声に込めれば、ようやくそれが通じたのか、ウーヴェの声に明るさがにじみ出す。
『リーオ・・・っ!』
「うん。あとちょっと・・・!」
あと少しの距離をなるべく早く駆けつけるから、一度電話を切ると口早に告げて携帯をジーンズの尻ポケットに突っ込んだリオンは、通話が途切れる前の切羽詰まった様な声に眉を寄せ、顔に叩き付けられる雨に負けないようにただ一心に自転車を漕ぎ、坂道を登って通い慣れたアパートの下へと辿り着く。
自宅からここまでの道のりでの最速記録を作り上げたと胸の裡で呟き、雨に濡れる自転車を肩に担いで警備員が常駐する小部屋の窓を叩けば、顔馴染みの警備員が驚いたように飛び出してきてくれた為、事情を説明して玄関を開けて貰い、ロビーへと濡れたまま進んでいく。
来客用のエレベーターに乗り込んで最上階まで上がったリオンは、唯一のドアの横に自転車を立て掛けて深呼吸を繰り返す。
そうして尻ポケットに突っ込んだ携帯を再度取り出してリダイヤルをすれば、程なくしてシンプルなドアを照らし出す明かりが点り、リオンの足下に陰を作り出す。
「ハロ、オーヴェ」
明かりが付くが早いかドアが内側に勢いよく開き、パジャマの襟元を乱れさせて白い胸元を露わにしたウーヴェが真っ白な顔色で姿を見せた為、雨で冷たくなった手でごめんと謝りつつ、白い髪を抱き寄せてそっと口を寄せる。
「遅くなった」
でも自転車を走らせながら携帯で喋るなんて凄いだろうと自信満々の声を挙げれば、抱え込んだ頭が小さく頷いた気配が伝わってくる。
「中に入ろうぜ、オーヴェ」
ウーヴェの身体を半ば抱えるように腕を回してドアを閉め、長い廊下をこの時ばかりは恨めしく思いつつ進んで開けっ放しになっているベッドルームに進めば、ウーヴェの足が竦んだように動きを止めてしまう。
「オーヴェ?どうした?」
「・・・・・・っ・・・、嫌だ、・・・そこに・・・っ」
そのドアの向こうに心優しい笑顔の少年が助けを求めて叫んでいると、噛み合わない歯の根で囁かれ、足を踏ん張ってドアの近くから動こうとしなくなる。
恋人の様子がおかしい原因がバスルームのドアの向こうに広がっている幻だと気付いたリオンは、ウーヴェの肩に回した腕に力を込めて大丈夫だと安心させるように告げるが、そんな事は無いと頭を左右に振って激しく否定されてしまい、困惑に顔を歪める。
そのドアの向こうには見慣れたバスルームの光景が広がっているだけで、決してウーヴェが思い描いている辛くて苦しい過去が広がっている訳ではないと苦笑混じりに告げ、大丈夫だと肩から腕に掛けて撫でてやる。
去年の秋に知ったウーヴェの辛い過去を思いだし、今まで何ともなかったのに何故今夜に限ってバスルームのドアがあの教会のドアに思えるのかを探るが、腕の中でカタカタと震えるウーヴェを感じるのが辛くて悲しくて、顔を伏せたままの彼の前に立ち、色を無くした顔に両手を宛がってそっと視線を合わせるように上げさせる。
「オーヴェ、大丈夫だ」
「・・・ハシムが・・・っ、嫌・・・だ・・・っ・・・!」
自分を見ているようで遠い昔を見ているウーヴェに唇を噛んだリオンは、それでも根気強くウーヴェが自分の目を見てくれるまで名を呼び、過去の恐怖に染まるターコイズを覗き込んでは大丈夫だと言い聞かせる。
あの日にも伝えたが、お前はもう何も見る必要はない、過去のどんな声にも従う必要はないんだと告げ、ウーヴェの名前とその言葉を交互に呼びかけ続ける。
10歳の頃に巻き込まれた凄惨な事件、それが全てを狂わせたとも聞かされたが、普段は穏やかな顔でクリニックを訪れる患者らを安心させ続け、不安が少しでも減るようにと言葉を尽くし手を尽くすウーヴェだが、ウーヴェ自身の不安は解消されているのかとふと疑問に感じるが、今の様子を見れば解消されているのではなく、ただ見えないように声が届かないように蓋をしているだけのように感じてしまう。
彼の家族や主治医らがあの時選択したのは、ウーヴェの命を守る事を第一にした治療法だったが、その課程で心を守る事は出来ていた筈だった。
だからこそウーヴェは医者の道に進んだのだろうし、今でもそれを職業として続けられているのだろうが、本当は隅に押しやっただけだったのではないのか。
見えないように蓋をし、心の片隅に押しやられてしまった感情が何かの切っ掛けを得てしまえばそれを抑えるだけの術はあるのか。抑えきれない時はどうなってしまうのかと考えるが、もしかすると今のウーヴェの状況はそれが出来なくなった事を示しているのではないだろうか。
その危惧に冷や汗が流れてしまうが、今は自分が恐怖を感じ取って恐慌に陥ってる場合ではないと己を叱咤したリオンは、膝が崩れ落ちそうになるウーヴェに気付いて慌てて身体を支えるが、いつまで経ってもここにいても埒があかないと腹を括り、ウーヴェの顔を再度両手で包んで上げさせると、コツンと額に額を重ね合わせて目を閉じる。
「オーヴェ、大丈夫だから。もう大丈夫だ」
「ハシム・・・が・・・、な・・・てる・・・っ」
「・・・・・・ハシムはもう痛みを感じる事も泣くこともない。だから心配するな」
ウーヴェから伝え聞かされた優しい少年の輪郭を脳裏に描き、悲しいがもう苦痛を感じる事は無いんだと強く囁き、訝る気配を滲ませるウーヴェの背中を一度撫でたリオンは、ウーヴェの髪にキスをしたかと思うと、抗えない強さで痩躯を抱き寄せてバスルームのドアに向かって歩き出す。
「────っ!!」
そのドアの向こうに広がる光景に脅えているウーヴェにしてみれば到底耐えられる事ではなく、リオンの腕の中で藻掻いて逃れようと身を捩るが、いつもは優しいはずのリオンの腕は全く力を緩めてくれず、気が付けば手を伸ばせば届く場所に恐怖を具現化したドアが立っていた。
「・・・ひ・・・っ!!!」
「この向こうはバスルームだ」
「ち、が・・・っ」
「違わない」
いつもの使い慣れているバスルームだと断言し、ドアを勢いよく開いたリオンの腕の中でウーヴェの身体がびくんと跳ねる。
「ほら、見てみろよ」
「・・・Nein・・・っ!!」
「何も見る必要はないけど、今だけは見てくれ」
いつも穏やかで静かなお前に戻る為に必要だから目を逸らすなとリオンの顔が苦渋に歪むが、ウーヴェは腕を上げて目の前の光景を遮ろうと必死だった。
ウーヴェのように優しい言葉で説得出来る筈もなく、ただ怖いものから目を背けないでくれと懇願し、苦痛を与えるような方法でしか現実に連れ戻すことの出来ない歯痒さに歯を噛み締めたリオンは、それでも抱いた身体は手放さないと伝えるように何度も腕を撫で、頭に頬を押し当ててキスを届け、頼むから現実を見てくれと囁き続ける。
ドアの前に広がっているのは悲しい過去ではなく、それを乗り越えたからこそ見る事の出来る今なのだ。
いつまでも脳味噌が見せる幻に囚われないでくれと強く願い、片手で肩を抱きながら片手でウーヴェの手を手繰り寄せて掌を合わせて手を組んだリオンは、伝わる温もりから己の心も伝わればいいとも願って白い髪に頬を軽くぶつけて目を細める。
「あー、俺のお気に入りの香水、そろそろ無くなりそうだ」
ドアの向こうのには洗面台が見え、その洗面台の右手へと視線を流せばトイレがあり、トイレの向こうにガラスで仕切られたシャワーブースとジャグジーのある大きな丸いバスタブがあるが、そこかしこにリオンがこの家で時を過ごしている証となるものが存在していた。
今口に出したローズ色の香水もそうだし、ステンレスのオシャレなカップに立ててある二本の歯ブラシやどちらの好みに合わせるか散々悩んだ末、どちらの好みにも合わせられないからと買い求めた二種類の歯磨きチューブであったり、作り付けの棚に並べてあるタオルやバスローブにもリオンの姿が見え隠れしているのだ。
ハシムは今はもう誰にも苦しめられることなく静かに眠りに就いていると囁き、だからもうそんなに悲しむなとも告げて視線を洗面台に向ければ、大きな鏡に不安そうな顔で見つめ返す己の顔と、白い髪で表情を隠すように俯くウーヴェの姿が映り込んでいて、こんな顔で大丈夫と言われても信じられないと自嘲し、片手で頬を軽く叩く。
「オーヴェ、顔を上げろよ」
「・・・、い、や・・・だ・・・っ」
「あれ、そうなのか?でもさ、下を見ればハシムがいるんだろ?」
だったらハシムの姿を今だけは見ないように上を、前を見ろと力強い声で囁いたリオンは、腕の中でウーヴェが驚いたような気配を察し、あと少しと己に言い聞かせる。
「・・・・・・オーヴェ」
おどおどしつつ顔を上げたウーヴェと鏡の中で視線を重ねたリオンは、ターコイズが驚きに瞠られたと同時に彼が最も愛する笑みを浮かべて頬を擦り寄せる。
「オーヴェ、今ここにいるのは誰だ?」
お前のその目が見ている景色を教えてくれと告げ、鼓動が早くなるような緊張を感じている事を全く感じさせないで問いかけたリオンは、ウーヴェの手が震えながらもしっかりと持ち上がり、己の首筋や頭、頬の上を滑っていくのをただ黙って受け入れる。
「・・・っ」
「────うん」
今ここにいるのは俺だと頷き、頬に宛がわれている手に手を重ねたリオンは、お前のお気に入りの香水のボトルもあるし二人で買いそろえた歯ブラシもある、シャワーを浴びた事が一目で分かるバスローブも洗面台の端に置かれていると伝えれば、手の下で掌が微かに熱を帯びたように動き始める。
「だから、もう大丈夫だ」
「・・・っ、う、ん・・・」
このドアの向こうに広がっている景色が過去のものではなく、現在の見慣れた光景だと認識してくれとの願いから力強く頷けば、抱えるように腕を回していたウーヴェの膝が崩れたようにその場に座り込むのを支えきれずに一緒に座り込んでしまう。
「頭痛くないか、オーヴェ?」
床に手を付いて俯くウーヴェの肩を抱きながらドアに寄り掛かり、高い天井を見上げたリオンが心配そうに問い掛けると、腕の中の頭が小さく上下に揺れる。
「そっか・・・・・・な、ベッドに行かないか?」
ここで二人で座っているのも嫌ではないがケツが痛いと笑って顔を覗き込むと、見るなと言うように身体全体が背けられる。
その動きから日頃の冷静さが戻りつつあることを察したリオンが後押しするように軽く笑みを浮かべ、お前が買ってくれた香水がそろそろ無くなりそうだから次の休みに一緒に買いに行こうと声を掛けて立ち上がれば、のろのろとつられるようにウーヴェも立ち上がった為、腕を伸ばしてきつく抱き締める。
今回、夢で見たウーヴェの様子がおかしかったために気になって電話をした事で気付いた異変だったが、今夜のこれが初めてだとは思えなかった。
今まで何度も何度も夢に魘され、過去の幻に脅えて来たことは簡単に想像できるが、その時には一体どうしていたのだろうと言う疑問が芽生えると同時に底知れない冷たさと恐怖が足下から這い上がってくる。
今夜のような恐怖に取り憑かれた時にはただ一人、この広い家の部屋の何処かに身を潜めて恐怖が過ぎ去るのを待っていたのだろうか。それとも、今のように日頃の冷静さなど一切感じさせないで半狂乱になって脅えていたのだろうかと想像してしまえば到底堪えることが出来ず、抱き締めていた腕に力を込めて苦痛を与えてしまう。
「・・・苦しい」
「ごめん」
ただ謝ることしか出来ずに髪に頬を擦り寄せ、ウーヴェが今まで一人で耐えてきた夜を思えば言葉を無くしてしまうが、震える手が背中に回されたことに気付いてきつく目を閉じる事で気分の切り替えを図る。
「もう大丈夫か?」
「・・・・・・・・・ごめん」
「んー。謝る必要ねぇと思うけどなぁ」
小さな小さな謝罪の言葉に努めて明るく返したリオンだが、ウーヴェの背中を宥めるように撫でてベッドへと促せば、先程とは違って今度は大人しくリオンの言葉に従うように歩き出し、ベッドに腰掛けると同時にそのまま横臥してしまう。
「水、持ってくる」
「・・・・・・ありがとう」
頭痛を堪えるようにきつく目を閉じて眉を寄せるウーヴェの額にキスを残し、水を取りにキッチンへと向かったリオンだが、切り替えたはずの気分が再度沸き起こり、冷蔵庫から取りだしたミネラルウォーターのボトルを無意識に握りしめてしまう。
20年以上も前に巻き込まれた事件が未だにウーヴェを苦しめている様を何度も見てきたが、今夜のように恐怖に顔を引きつらせるだけではなく、身体中を緊張させてしまう姿はあまり見たことがなかった。
ただ、目の当たりにしたそれに対して驚愕を感じる事はなく、ただただ過去の苦痛から解放してやってくれとしか考えられなかった。
ウーヴェが直接手を下したり、ウーヴェの家族がハシムを殺して残りの3人も殺したというのならば話は変わってくるかも知れないが、ウーヴェも被害者なのだ。その彼が何故日頃の冷静さを喪うほどの恐怖に顔を引きつらせ、涙すら浮かべなければならないのか。
辛い過去の記憶だけを都合良く消し去る術などないが、もしも可能ならばその記憶を掻き消し、穏やかな夜を迎えられるようにしてやりたかった。
握りしめた拳を壁に叩き付け、悔しさに歯を噛み締めたリオンは、彼を半狂乱に陥れた夢なり幻なりに対して有りっ丈の悪口雑言を吐き出す事で少しだけ気分が落ち着いた為、深く溜息を零してボトルを片手にキッチンを後にするのだった。
ベッドルームに戻り、目を閉じて横臥したままのウーヴェの前に座り込んだリオンは、疲労と苦痛、そしてそれ以上の何かが混ざり合ってウーヴェの端正な顔に張り付いている事に気付き、ボトルを床に置いた手で白い頬を何度も撫でる。
もう大丈夫だと伝え、過去ではなく現在を見て欲しい一念で無理矢理恐怖の対象であるバスルームに連れて行ったが、それがウーヴェにとって良いことなのかどうかの疑問が不意に沸き起こる。
怖がる彼に現実を見ろと突き付ける行為はショック療法と言えるかも知れないが、本当にそれで良かったのだろうか。一歩間違えれば取り返しの付かない事になっていたのではないのか。
血の気の失せたような顔を見ているとついそんなことを考えてしまうが、微かに震える瞼がゆっくりと持ち上がり、ターコイズが姿を見せた途端、リオンの口から無意識に安堵の溜息がこぼれ落ちる。
「水、持ってきた」
「・・・うん」
リオンの言葉にウーヴェも短く返し、頬を撫でる手に手を重ねて目を閉じると、濡れた感触が額に生まれ、確認するように瞼を持ち上げて小さく唇の端を持ち上げる。
「水を飲めよ」
薬は必要ないかと問い掛けながらサイドテーブルの抽出を開けるリオンに、水だけで良いと答えて身体を起こしたウーヴェは、額に触れたボトルを受け取って水を飲み、大きく吐息を零す。
「落ち着いたか?」
「ああ・・・・・・すまな・・・」
「あー、まーた理由もなく謝る」
そんなに謝るのが好きなのかと、胡座を掻いたまま腰に手を宛って口を尖らせたリオンは、ウーヴェが瞬きを繰り返して見つめた為、片目を閉じて人差し指を突き付ける。
「こんな時は何て言うんだった?」
その明晰な脳味噌をフル回転させて思い出せと、いつか告げた言葉を呼び起こさせるように問い掛ければ、微かな本当に微かな笑い声が流れ出し、次いでリオンの耳にありがとうという言葉が間違いなく届けられ、良くできましたと大きく頷く。
「ありがとうって言葉は好きだな」
特にお前に言われると本当に嬉しいと笑い、掛け声をかけて立ち上がってウーヴェの横にどさりと座り込む。
「夢を見たのか?」
出来れば聞きたくはないがそれでも聞かなければ先に進めないとの思いから問い掛ければ無言で白い髪が上下に揺れるが、クローゼットのドアの横にある小さなデスクを見るように上体を捻った為、リオンも同じように後ろに手を付いて振り返る。
使い込まれている木のデスクだが、封が切られている封筒が一つぽつんと存在し、その封筒から手紙の端が姿を見せていた。
「・・・・・・トルコから、手紙が届いた」
「トルコ?・・・・・・ハシムの親からか?」
事件で命を落とした少年がトルコ系の移民だった事を思い出し、そっと問い掛けたリオンにウーヴェが再び頷き、事件の後ご両親はトルコに帰ったと告げて手紙を取りに向かおうとするが、リオンの腕がそれを阻むように抱き寄せ、明日見せて貰うから今は良いと告げられ、ウーヴェの口から安堵の吐息がこぼれ落ちる。
「手紙を読んでから寝たはずなのに・・・」
気がつけばバスルームのドアがいつの間にか教会のそれに変わっていて、二度と聞きたくないと思っていた悲鳴が聞こえたと教えられてリオンがウーヴェの髪にキスをし、次いではだけられている胸元に顔を寄せる。
リオンの目の前には見るだけでも辛くなるような痣が浮かんでいるが、それが早く消えるように願いつつキスをすれば、ぴくりと白い肌が不安げに揺れる。
「そっか」
自分と似たような体験をしてしまったんだなと答え、どういう事だとウーヴェが首を傾げた為に苦笑し、寝惚けてたからかお前の幻を見たとリオンが肩を竦める。
「何か今にも泣きそうな顔してた。気になって電話をしたら、予感的中だった」
「・・・・・・そうなのか?」
「うん、そう。びっくりしたぜ」
トイレから戻ったらお前がベッドに座っていて、しかも光っていたんだからと、恐怖を払拭するように戯けた顔で告げるリオンだが、その言葉が消えるかどうかの早さで、一人で苦しまなくて良いと告げてウーヴェの肩に腕を回す。
もしもこの家で一緒に暮らしているのならば、真夜中に雨に濡れつつ駆けつける間中、大丈夫だからと電話越しのもどかしいそれを繰り返さなくとも、こうして肩を抱いて背中を撫でて安心させるように身を寄せ合えるのだ。
それがまだ出来ない事への寂寥感や焦りがリオンの中に芽生えるが、焦らず急かさずを己に言い聞かせた事も思いだし、必ずここで一緒に暮らせる日が来ることを信じていると胸の奥深くで囁いてウーヴェの髪にキスをし、そろそろ横になれと告げて一緒に寝転がる。
大人しく従う様に横臥し、ぐしゃぐしゃに乱れたままのコンフォーターを適当に整えてウーヴェの身体に引っ張り上げたリオンは、自分が着ている服が湿り気を帯びている事に気付いてベッドの反対側に転がり落ちるように身体を移動させると、何をするのか見守るウーヴェの前でクローゼットのドアを開けてその場で手早く着替えを済ませると、今度は先程とは逆回転でベッドの上を転がり、ウーヴェの身体に半ば乗り上げるようにぶつかって回転を止める。
「・・・重いぞ、リオンっ」
「あれ、重かった?」
この間は気持ち良いって喜んでいた癖にと笑うリオンに瞬時に顔を赤らめたウーヴェだが、どんな言葉も返せずに顔を背けると、正面を向いてしまった目尻のほくろにリオンが口を寄せる。
「やっと・・・」
その時になってやっと気付いたらしい事にリオンが小さな笑い声を立ててウーヴェに覆い被されば、程なくして白い手が躊躇いを感じるように広い背中を彷徨うが、軽く力を込めてパジャマ代わりのシャツの背中を握りしめる。
「やっと俺の名前を呼んだな、オーヴェ」
「・・・・・・・・・そうだったか・・・?」
「うん。もう大丈夫だよな?」
短いやり取りからウーヴェがしっかりと前を見ている事を察し、安堵に胸を撫で下ろしたリオンは、喉元を確かめるように顔を上げるが、己の思いが間違いでないことを示すように浮かび上がっていた痣が微かに薄くなっていて、今度はウーヴェにも伝わるように目元を弛めて喉を撫でてやる。
「うん、大丈夫だ」
「・・・・・・ありがとう、リーオ」
さっきのように半狂乱になった自分を見て逃げ出すどころか、大丈夫だと抱きしめ続けてくれてありがとうと、若干の照れを滲ませながらもありがとうと告げたウーヴェにリオンが軽く驚いたように目を瞠るが、次いでふふんと自信満々な笑みを湛えた青い眼でウーヴェを見下ろす。
「俺の事、惚れ直した?」
どうだすごいだろう、惚れ直したかと問われて絶句するウーヴェにリオンがなおも笑いかけ、惚れ直したと言えと笑顔で脅迫する。
「────うん」
「っ!!」
そのウーヴェの素直な返事に今度はリオンが絶句し、まじまじとウーヴェの端正な顔を見下ろすが、じっと見つめられる居心地の悪さからウーヴェが顔を背けてリオンの肩に手を宛がって押しのけようと力を込める。
「なんで押しのけようとするんだよ、オーヴェっ!」
「うるさいっ!重いから降りろ、バカリオンっ!!」
リオンが不満の声を挙げれば負けじとウーヴェも文句を言い放つが、その光景がいつもの二人である事を思い出し、どちらからともなく小さく吹き出すと、軽く額を触れあわせて互いの背中に腕を回して抱きしめる。
「オーヴェ、オーヴェ・・・っ!」
本当にいつものお前に戻ってくれて嬉しいと、隠さない歓喜の声にウーヴェが息を飲むが、そっと広い背中を撫でてもう一度素直にうんと頷き、気付いてくれてありがとうとも告げる。
「本当に・・・気付いてくれてありがとう、リーオ」
「うん」
ぼんやりと光った自分の幻を見て電話を掛けてきてくれたが、その行為がどれほどの救いをもたらしているのか、きっとリオンは気付いていないだろうと内心で囁き、勘の鋭い恋人を持って幸せだと言葉に出せば、痣が浮かんでいると思われる喉に手を宛がわれて信頼の証のように目を閉じる。
「────早く消えちまえ、こんなの」
全ての元凶がここにあると言い出しそうな口調に苦笑したウーヴェに、リオンが俺は本気なんだけどなぁと暢気な声を挙げるが、その顔は声とは裏腹に真剣なものだった。
喉をぐるりと取り巻く痣が少しでも薄くなってくれと願いながら何度も撫で、ウーヴェがもう大丈夫だと言うまで撫で続けたリオンは、頭を寄せてくる恋人の腰に手を回し、朝が来るまでこうしているから安心しろと囁きかけて安堵の吐息を胸元に感じ取る。
「お休み、オーヴェ」
もう夢も幻も見ないから安心しろとキスを落として魘されるようならばすぐに起こしてやるとも告げると、小さな声が信じていると囁いた後、眠りに落ちる直前の小さな吐息がこぼれ落ちた為、小さな子供にするように背中を撫でてやれば自然とウーヴェの身体がリオンに寄り添ってくる。
今ここでこうして子供のように眠り、朝が来た時にはいつものように笑顔を見せてくれと強く願ったリオンは、ウーヴェの微かな寝息に誘発された欠伸をかみ殺し、眠りに落ちないように気を張るが、顔のすぐ傍で聞こえる寝息には勝てず、瞼が閉じるに任せてしまう。
その後、やはり睡魔に引きずられて眠りに落ちたリオンは、ぼんやりと光るウーヴェの顔が自宅で見た時とは違って穏やかな笑みを浮かべている夢を見、嬉しさの余り笑みを浮かべてしまうのだった。
窓の外、冷たい雨はいつしか小降りになり、朝の訪れと共にすっかりと上がってしまうのだった。
2011/04/15


