そろそろビールを少しだけ冷やして飲みたくなる初夏のある日、いつものようにいつもの時間に出勤したリアは、一足先に出勤している己のボスでありこのクリニックの唯一のドクターであるウーヴェの後ろ姿に明るい声で挨拶をする。
「おはよう、ウーヴェ」
「・・・・・・・・・・・・・・・ああ、おはよう」
「?」
リアのデスクに置いたバインダーを見ているウーヴェの背中から仕事に取り掛かっているのかと思うが、その割には診察時に着用しているブレザーを着ていないし、声も何処かくぐもっていることに気付いて首を傾げ、ウーヴェの顔を覗き込むようにデスクに荷物を置いた瞬間、彼女の口から悲鳴が流れ出す。
「ちょ、ウーヴェ、どうしたの!?」
「・・・・・・・・・すまない、リア、あまり口を開けられないんだ」
ウーヴェがくぐもった声で彼女に謝罪をし、今日の診察が午前中のみでさほど口を開かずに済みそうな相手で良かったと苦笑するが、そんな事はどうでも良いと、日頃の冷静さを何処か遠くへ追いやった彼女のパニック寸前の声にもう一度苦笑する。
「・・・・・・・・・っ!」
「ウーヴェ、一体どうしたの!?何があったの・・・!?」
リアが驚くのも無理はないと気付いたウーヴェは、深々と溜息を零して痛みを堪えるように顔を顰め、口の端に押し当てていた氷嚢をそっと外して彼女を更に絶句させてしまう。
「!!」
「・・・リア、説明するから落ち着いてくれ」
ウーヴェが苦笑しつつ落ち着いてくれと頼み、ようやく我に返った彼女が咳払いをした後でウーヴェに先を促す。
「・・・・・・リアは・・・彼氏と一緒に寝ていてこんな目に遭ったことはないか?」
「え!?え、ええ、今のところは・・・・・・って、それ、もしかして・・・?」
ウーヴェが深く溜息をつき、たった今まで冷やしていた口の端に指先をそっと宛がうが、途端に走った痛みに顔を顰めて目を伏せる。
「ああ・・・・・・リオンのせいだ」
疼くような痛みと一目見たリアが驚き絶句してしまうような痣を残す口の端を労るように撫でたウーヴェは、何があったのか説明してくれと言われて軽く目を伏せ、リオンに殴られたと呟くと、彼女の身体から立ち上る気配が一瞬にして険しい物になってしまう。
「ああ、違う。ケンカをした訳じゃないし、酔っ払って殴られた訳じゃない」
このままでは己の恋人がただの暴力人間として認識されてしまうと気付き、彼女の不安を払拭する為に笑顔で手を振ったウーヴェは、暴力人間ならば対処方法がいくらでも思い浮かぶが、寝ている人間に対するものは思い浮かばないと肩を竦めると、リアの目がみるみるうちに丸くなり、次いで小さな笑い声が流れ出す。
「・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい」
「・・・・・・・・・・・・・・・いや」
「そんなに・・・寝相が悪いの?」
「ああ・・・・・・今までもあったが今回のは特別だな」
いつも以上に夜中にごろごろしたかと思うと、間近で身動がれる震動に目を覚ましたウーヴェの頭上に拳が降ってきたらしい。
寝ぼけつつも辛うじてその攻撃を避けたウーヴェだったが、次いで降ってきた逆の手は避けられず、口の端に痣を残してしまう事になったのだ。
目の裏に星が散る、そんな絵画的な表現がしっくり来るような衝撃を何とか堪え、顔のすぐ傍に投げ出されている凶器を鷲掴みにすると同時に、その凶器を持ち主目掛けて投げつけるが、本人はと言えば我関せずと言いたげにイビキをかいて気持ち良さそうに眠りこけていた。
その時感じたやるせなさや切なさを思い出せば溜息が零れるが、彼女に説明をした途端、更に溜息を零してしまいたくなる。
「・・・・・・ごめんなさい、ウーヴェ・・・笑っちゃいけないんだけど・・・」
でも真夜中にあなたがリオンの腕を掴んで憤慨している様を思い出せばつい笑いが出てしまうと、実際に言葉通りに笑いながら告げられて面白くなさそうに目を眇めたウーヴェは、聞いている方は笑い事だが被害を受けた自分にとっては笑い事ではないと腕を組み、どうしたものかと溜息をつく。
その真剣な様子と悩みの内容から感じ取る祖語感から来る笑いをどうしても堪えきれなかった彼女だったが、ウーヴェの横顔が真剣なことに気付いて咳払いをし、何かしら良い方法はないのかと同じ悩みを共有する。
「・・・いっその事、床で寝ろと言うか」
「それは・・・バックパッカーじゃないのに可哀想だわ」
せっかく愛するウーヴェと同じベッドで夜を越えて朝を迎えられるのに、床の上で寝ろと言われたリオンを想像するだけで可哀想になると告げ、他に良い方法は無いのかと彼女がリオンを思う必死さから問いかける。
「・・・・・・・・・間にクッションでも置くとかはどう?」
「もうやってみたが、クッションが転がってきた」
危うくそのクッションに押された勢いでベッドから落ちそうになったと肩を竦めるウーヴェに絶句したリアは、本当に良い方法が無いのかと溜息をついて頬に手を宛がう。
「前はただ抱きつくだけだったのにな・・・」
何だか日を追うごとに寝相が悪くなっているだけではなく、身の危険すら感じるようになってしまった事を伝え、そろそろ診察の準備に取りかからないといけないことに気付き、リアにこの話は一時中断すると伝えて診察室のドアを開ける。
端正なウーヴェの顔に見るも無惨な痣がついている理由を診察を受けに来た患者から問い質されるだろうと思うと彼女も自然と溜息を零してしまい、その時は何とかウーヴェが不利益を被ったりしないように気をつけて回答しようとだけ決めて自身も仕事へと意識を切り替えるのだった。
今日も一日頑張った、だから誉めてくれ誰よりも誉めてくれ最大限に誉めてくれと、まるで誉められる事へ全身全霊を傾けている犬のように顔を突き出す恋人を睥睨したウーヴェだったが、己の今日の未明に受けた仕打ちとリオンが頑張ってきたことはまた別問題だと気付き、期待に目を光らせる恋人の首に腕を回して抱き寄せる。
「お疲れ様、今日も良く頑張ったな」
「うん。すげー頑張った」
詐欺にあって事情聴取をする事になったばあちゃんを背負って階段を往復もしたし、上司の身体を気遣って隠し持っていたチョコを全部強奪して食ってやったと、最初は誉められても最後は誉められないことを自慢気に報告されてただ苦笑し、本当にお疲れ様と言葉とキスで労うと、同じくお疲れ様の言葉が返ってくるがキスは返ってこなかった。
「・・・・・・オーヴェ、やっぱりまだ痛むか?」
「・・・・・・・・・痛まないと思うのか?」
この口の痣は一体誰がどのようにして作ったんだと、冷や汗を浮かべるリオンの顎を人差し指で持ち上げて目を細めたウーヴェは、ごめんと素直に謝られても許せるような寛大な気持ちにはなれず、本当に痛かったし今日の診察の時に患者に心底驚かれたことを言い放ち、ごめんなさいと殊勝な言葉を聞き入れつつ小さく頷く。
「反省しているか?」
「してるけどさ・・・寝てる時なんだから不可抗力だって!」
「ほぅ?お前は不可抗力という言葉で俺を殴った言い訳をするのか?」
「ちょ、だって仕方ねぇ・・・」
「ふぅん」
リオンが慌てふためきながら言い訳をするのをじっと聞いていたウーヴェだったが、不可抗力だから許せと言われてはさすがに面白いはずもなく、ターコイズ色の双眸に冷たい怒りを宿して恋人を見れば、尻尾も耳もしょんぼりと項垂れている犬を連想させる顔で上目遣いに見つめられてしまい、喉元まで出かかっていた文句を飲み込んでしまう。
日頃くるくると表情を良く変えてまるで子どものようだと称される恋人だが、こんな風に許してくれと見つめられれれば厳しい態度を取り続けることはなかなか出来なかった。
絆されていると言えばそれまでなのだが、その気持ちを素直に認めるのも癪だった為、咳払いをして絆されている己を押し隠し、仕方がないのかと呟いてリオンの目を覗き込む。
「・・・ベルトランにリンゴのタルトを作って貰うから、それで許して!」
リオンが必死に懇願する顔とその内容に心が揺らぎ、許しても良いかもと思った矢先、蒼い瞳に狡猾な光を見いだして目を細める。
「・・・・・・ちぇ、リンゴのタルトでもダメかー」
「・・・・・・・・・・・・物で釣ろうとしていただろう?」
「え?そんな事ねぇって」
「ほぅ」
狡い考えを見抜かれていることに気付いて肩を竦めたリオンだったが、一瞬にして表情を切り替えたかと思うと、痛み続けているであろうウーヴェの口の端の痣をそっと指の腹で撫で、ウーヴェでさえも滅多に見ない真剣な顔で悪かったと謝罪をする。
その真摯な顔に見惚れそうになるのをグッと堪え、許して欲しいかと問えば同じ表情のままもちろんと頷かれる。
その顔からはふざけていたり狡猾な色は読み取れず、仕方がないと自らをも誤魔化す溜息をつきながら、未明の凶器となった手を掴んでその甲を頬に押し当てた後、リオンが絶句するような笑顔を浮かべる。
「────腕枕」
「は?」
リオンの手にキスをして腕枕をすることで許してやると言い放つと、暫くの間考え込む顔にリオンがなるが、己の中でウーヴェの言葉をどのように理解したのかは不明だが、にたりと不気味な笑みを浮かべてウーヴェの身体を仰け反らせる。
「腕枕なんてさ、俺だけが得してる?」
口ではどうこう言ってもやはり俺の事を愛しているからそんな優しい言葉が言えるんだろうと笑うリオンに呆気に取られるが、そう思うのならば思っていろと優しく言い放ち、もう一度リオンの顎を人差し指で軽く持ち上げたウーヴェは、今夜は絶対に腕枕をして貰うと再度告げて頷く恋人に笑顔で頷くのだった。
いつもと同じようにいつもの時間に出勤したリアは、昨日の己の上司の様子を思い出していつもとは違う心持ちでクリニックの扉を開け、デスクに向かって何か書き物をしているウーヴェの背中を発見する。
「おはよう、ウーヴェ」
「ああ、おはよう」
昨日の今日で痣が消える筈もなく見ているだけで痛々しいが、当の本人はもう気にしている様子も痛みを感じている様子も見せなかった為、ひとまずは安堵の溜息をついて己のデスクに腰を下ろす。
「どうしたの?」
「ああ・・・この患者が気になっている本があるそうだ。それを調べて欲しい」
診察が始まる前のいつものやり取りに頷き、必要な本のタイトルを調べて後で持って行きますと返すと満足そうな笑みを見せられる。
「ありがとう、リア、本当に助かる」
「それぐらいは当然だわ」
仕事の打ち合わせをしながら意思疎通を図った後、まだ診察までは時間がある為にリアがそっと口の端の痣について問いかける。
「結局、暴行犯への対処はどうしたの?」
「・・・・・・昨日は腕枕をさせた」
「え?・・・結果はどうだった?」
「結構長い時間させていたから、きっと腕が痺れて動かせなかっただろうな」
だからおかげさまで昨日は比較的深い眠りに就けたと笑い、腕枕が罰ゲームになるとは思いも寄らなかったと苦笑すると、本来ならばリオンが喜び勇んでやりそうだと彼女も同じ顔で笑う。
「そう思うだろう?」
「違うの?」
「さすがに昨夜で懲りたらしい。これからはなるべく殴らないように気をつけるから許してくれと謝られたよ」
今朝起き抜けに謝罪をしてきたリオンの顔を脳裏に浮かべ、あまり見ていたい顔ではないことも思いだしたウーヴェは、そんな事情だから腕枕は最後の手段にすることにしたと小さく笑い、もしもまた殴ってきたら次はきみの提案通りにもう一度クッションを間に挟んでみると片目を閉じる。
「結果を聞かせてちょうだい」
「ああ」
そんな、リオンにとってはげっそりしそうな事を笑顔で語り合った二人だが、クリニックの扉が遠慮がちに開いた事に気付いて顔を向け、不安に満ちた顔が見えたことに視線を交わし合うと、すかさずリアが初診の患者の受付準備を始め、そんな彼女を頼もしそうに見たウーヴェが表情を切り替えて扉とデスクの真ん中ぐらいに一歩を踏み出す。
「おはようございます。どうしました?」
「あの・・・・・・こちらで・・・」
言いにくそうに口籠もる女性にウーヴェが不思議と人を安心させる声でもう一度おはようございますと告げてもう一歩踏み出し、どうぞ中にお入り下さいと声で誘いかける。
「ここには私と受付をしてくれるフラウ・オルガしかおりません。どうぞ中へ」
「・・・・・・ありがとうございます」
扉を開けて入ってきた女性をカウチソファまで導き、オドオドする彼女を落ち着ける為にお茶の用意を始めたリアを肩越しに振り返ったウーヴェの顔は若き精神科医のもので、先程まで見せていた貌の一端を窺うことすら不可能だった。
しっかりと気分を切り替えたウーヴェをキッチンスペースから見守っていたリアは、お茶の用意をして己も意識を切り替えると、脅えているような女性の心が少しでも軽くなってくれますようにと願いながら紅茶を差し出すのだった。
2012.07.04-08.04


