小雨が降りしきる中、少し先を歩く長身の背中を彼、森千暁はぶすくれた顔で睨み付けていた。
傘を差さなければならない程の雨ではないが、歩き続けているとやはり衣類や艶やかな黒髪がしっとりと濡れてくる。
だが前を歩く長身の彼は千暁の歩幅などお構いなしに己のペースで歩いて行く。
自分がこの異国の街にやってきて何年か経過するのかなど、日々の暮らしに追われている今では数えることもしなくなったが、留学当時には日本に帰るつもりにしていたが、学生生活を送っている時に一人の青年と出会った事で己の進む軌道を変えたのだ。
今歩いている道は変化をした軌道上だが、半歩先ではいつも同じ顔を見せる背中がある。
その背中をいつまでも見つめるのではなく、肩を並べて歩きたいといつもひっそりと思っているが、その背中の持ち主に比べれば己の存在はちっぽけで何の役にも立っていないのではないのか。そんなネガティブな考えが浮かんでくるほど己は小さかった。
ただでなくとも日本人は小柄だと思われているのに、その日本人の中でも更に小柄な自分だからこそ気宇だけは壮大に持っていたいと願っているが、実際に太刀打ちできない程広くて大きな背中を見せられてしまえば、その気持ちすら委縮してしまう。
自分はやはりなんて小さな情けない人間なんだと自嘲したその時、不意に頭に降り注ぐ雨が止んだ事に気付いて顔を上げれば、コートの陰になった高い位置から端正な顔がじっと見つめていた。
「・・・・・・カイン?」
「考えながら歩いているとまた転ぶぞ」
今額の中央に張られている絆創膏の由来を思い出せと囁かれて息を飲んだ後頬を膨らませた千暁は、コートの陰になっている美丈夫に盛大にむくれた顔を見せつける。
「どうせ僕は鈍くさいよ!」
「何だ、自分でも分かってるのか?」
ならば話は早いなと納得した青年、カインがにやりと笑みを浮かべて千暁の頬を一つ撫でると、無造作にその腕に抱えられていた荷物を奪い取っていく。
「ダンケ、でも大丈夫。持てるよ」
「お前より体格の良い俺が手ぶらでお前にだけ荷物を持たせてみろ。児童虐待で通報されるだろうが」
「だ、誰が児童だよっ!!僕は歴とした成人だからね!」
「仕方ないだろう?お前を見て学生じゃないと思う奴が何人いるかな」
自分が最も気にしている身長の低さと童顔についてからかうような事を言われて真っ赤になった千暁は、そんな事を言うのならばいっそのこと僕も背負えと命令し、コートを無理矢理はぎ取った背中に飛びつくと、己の背中からそのコートを羽織る。
「重いぞ」
「うわぁ・・・・・・・・・・・・カインっていつもこんな世界を見てるんだぁ・・・・・・」
カインの背中から見る景色はいつもに比べれば30センチ以上も高くて見晴らしが良いもので、その感動に素直に声を挙げた千暁にカインが苦笑し、お前の見ている世界は小さくて狭いのかと問いかけると、空が遠いと返される。
「そうなのか?」
「うん。例え30センチって言ってもそれだけ空から離れてるって事でしょ?」
いつもこの世界を見ていると空が近くて羨ましいと、カインの顎の下で軽く手を組みながら、それでも遙か上空をゆく雲を目で追いかけた千暁は、小雨が目に入ったと笑ってカインの背中から飛び降りる。
「お前の顔の半分は目だからな」
「何だよ、それっ!」
本当に酷い、カインでなければ今頃急所を蹴っていると腰に手を宛がって蒸気を上げる千暁にカインが楽しそうに笑みを浮かべ、コートを羽織り直そうとするが、何を思ってか隣を歩く小さな身体にそれを回し掛ける。
ただ、ドイツにいても頭一つ分出ているような長身のカインのコートを、せいぜい150センチを少し上回る背丈しかない千暁が着ればすっぽりと隠れてしまうほどだった。
大きなコートに包まれていると先程雲も空も近く感じたが、それよりも先に感じていた歩幅の違いを実感してしまう。
自分と比べれば彼の世界ではきっと空が近いように、遠くのものに近づくのも速いのだろう。
時間の流れも違うのかと途方に暮れかけたその瞬間、先程奪われた荷物を両腕に持たされたかと思うと、再度コートを剥がれて寒さに身体を震わせると同時に暖かな腕に抱き上げられる。
そして三度背中がコートに包まれた為に驚愕に目を瞠れば、もうすぐ友人の暮らすアパートに着くと咄嗟に理解出来ない事を呟かれるが、その顔の左右でピアスを幾つも光らせた耳が髪の色を雨水に溶かして染め上げたのかと疑いたくなるような赤さに彩られていた。
「・・・・・・うん」
今自分が抱えている荷物はこの後友人宅で楽しい時を過ごす為に必要不可欠な食材やワインだが、それを後生大事に抱え込んだ千暁は、家ではなく外出先での過剰なほどのスキンシップに嬉しそうな表情を浮かべるが、さすがに友人のアパートの警備員に盛大に驚かれてしまい、渋々カインの腕から地上へと降り立つ。
また空が遠くなったと内心で嘆くが、さっきまで感じていた不満や不安、己の小ささを笑うネガティブな心は霧散し、彼が最も望む心持ちになれた事に気付いてカインに荷物を一つ預けて身を寄せる。
「ダンケ、カイン」
いつもより近い空を経験できたし、きみの歩幅を経験させてくれてありがとうと告げると、無言のまま黒髪をくしゃくしゃと撫でられる。
「このワインだとウーヴェは喜んでくれるかな?」
「ウーヴェよりもリオンが喜びそうだな」
自分たちにとって大切な友人であり何かにつれ面倒を見て貰っている二人が喜んでくれるものを持参することが密かな楽しみになっているが、白髪と金髪の友人が喜んでくれる事を確認しあった二人は、来客用のエレベーターに乗り込んで最上階のフロアに向かう。
「・・・・・・・・・・・・ハロ、アキ」
「ハロ、リオン。ウーヴェは?」
ドアベルを押すと程なくして中から賑やかな足音が響いてドアが招き入れるように開けられ、くすんだ金髪を首筋の後ろで束ねた青年、リオンが笑顔で出迎えてくれる。
「アキが好きだって言ってたから、ポテトサラダを作ってる」
「本当!?作り方を聞いてこようっと!」
だからカイン、荷物をお願いと長身の恋人に荷物を預けた千暁は、長い廊下をまるで小動物のように駆け抜けていく。
その姿を見送ったカインとリオンはどちらからともなく顔を見合わせると同時に溜息を零し、リオンが幼馴染みの肩に腕を回すが、コートの下のシャツまで濡れている事に気付いて軽く目を瞠る。
「傘を差さなかったのかよ?」
「これぐらいの雨なら必要ねぇだろ?」
幼馴染み-と言うよりは今はオーストラリアで暮らしているゼップと三人で連んでいた悪童達-は互いに顔を見合わせてにやりと笑みを浮かべあうと、キッチンから響いてきた歓声に歩幅を大きく取りながら廊下を進むのだった。
キッチンにバタバタと足音を響かせて駆け込んだ千暁は、ここの住人が食事をする時にはダイニングテーブルにもなる便利なタイル張りの作業台で大きなボウルに皮を剥いたジャガイモを投げ入れている白髪の友人を発見し、満面の笑みを浮かべて作業台の傍へと駆け寄ってぴたりと止まる。
「ウーヴェ!ポテトサラダを作ってるって!?」
「ああ。好きだと言ってただろう?」
「うん!ウーヴェの料理大好き!」
言葉に浮かれ調子を滲ませながら作業台に肘を突いて頬杖を付いた千暁だったが、ウーヴェの手が器用にペティナイフを操ってジャガイモを切り分けていく様を見ているとついつい溜息が零れてしまう。
「どうした?」
「・・・・・・・・・・・・ウーヴェって本当に何でも出来るよね」
羨ましいなと、眉尻を下げて童顔に寂寥感を滲ませた千暁の前では、いきなり何を言い出すんだと少しだけ驚いた顔でウーヴェが目を瞠るが、一つ苦笑を零した後、千暁の前にずいとボウルを押しやり、作業台の抽出からペティナイフを取り出すと無言で柄を差し出す。
「サラダを食べるんだろう?手伝ってくれ」
「うん」
千暁がこの家に遊びに来るようになってから買い求めたのだろう、背の高いパイプ椅子に腰掛けて皮を剥く作業を始めると、程なくしてウーヴェの口からもう一度苦笑がこぼれ落ちる。
「ウーヴェ?」
「きみは今羨ましいと言ったが、俺からすればきみのその素直さが羨ましい」
「そう?」
「ああ。それに、俺は何でも出来る訳じゃない」
ひょいと肩を竦めてボウルの中を確認したウーヴェは、千暁の顔が一瞬にして真っ青になった事に気付いて軽く目を瞠るが、気にする事はないと穏やかな笑みを浮かべてナイフを置く。
「・・・・・・ごめん」
「気にする必要はないってオーヴェは言ってるだろ?」
千暁が俯いたその時、彼の背後から陽気な声が掛けられ、二人同時に顔を向けて対照的な表情を浮かべる。
「オーヴェ、ポテトサラダはピクルス抜きで!」
「ピクルスが入ってないと美味しくないから却下」
「がーん」
リオンが預かった荷物を作業台の端に置いてウーヴェの額にキスをした後で片目を閉じて注文を付けるが、にべもなく返されてショックのあまり作業台に突っ伏してしまう。
「作業の邪魔だからリビングに行っていろ」
「邪魔って・・・・・・!」
様々な出来事を二人で乗り越えた後、お互いが掛け替えのないパートナーである事を皆にも伝えるために式を挙げたが、付き合いだした頃から全く変わることのないウーヴェの辛辣な言葉にリオンが絶句し、愛しのダーリンは口が悪いと千暁の小さな身体に腕を回してしがみつく。
「わ・・・・・・っ!!」
危うく椅子から転がり落ちそうになるのを何とか堪え、泣き真似をするリオンを困惑顔で見下ろした千暁だったが、ちらりと顔を上げたリオンが片目を閉じている事に気付いて大きな目を瞠る。
「人は長所も短所も得手不得手もあるもんだ。そうだろう?」
今ここで敢えて誰かさんの長所と短所を並べ立てるつもりはないが、気にするなと笑ったリオンが次いで声を発したのは悲鳴だった。
「ぃてててて!!」
痛い痛い、止めてくれよオーヴェと、己の耳を引っ張る手を掴んで止めさせたリオンだったが、鼻息も荒く短所ばかりのお前が言うなと言い放たれて更にショックを受けてしまう。
「オーヴェ、ひでぇ!」
「う・る・さ・い。美味しいものを食べたいんだろう?だったらそれを作る邪魔をするな」
びしっと言い放たれた言葉にぐうの音も出なくなったリオンががっくりと項垂れて千暁から離れるが、キッチンを出て行く寸前にウーヴェに呼び止められてしょんぼりした顔で振り返ると手招きされてとぼとぼと近寄れば目尻にそっと口付けられる。
「後少しで出来上がる。だから大人しくカインと一緒に待っていてくれ、リーオ」
「・・・・・・・・・・・・ん、期待してる」
「ああ」
その期待に添えるものを作るから出来上がれば運んでくれとも告げてリオンの背中をぽんと叩いたウーヴェは、打って変わって浮かれ気味に出て行く背中に溜息を零すが、驚く千暁に咳払いを一つすると、もう気にするんじゃないと口早に告げる。
「え?・・・・・・あ、・・・・・・・・・・・・うん」
何でも出来て羨ましいと言った言葉だが、手遅れかも知れないがそれだけでも取り消すと告げた千暁は、ウーヴェの手の甲に手を重ねてごめんねと繰り返す。
「もしも俺が怒るとすれば、必要がないのに謝る事に対してだな」
「あ、ごめ・・・・・・」
「ほら、今もまたそうだ。・・・・・・・・・・・・そうだな、無駄に謝ったと言うことでピクルスを刻んで貰おうか」
片目を閉じて茶目っ気を浮かべながらピクルスを差し出され、年の離れた友人の心遣いに気付いた千暁が上目遣いで見つめて軽く口を尖らせる。
「これ全部刻むの?」
「・・・・・・リオンとカインには多めに入れてやろうか」
「あ、それ賛成」
ウーヴェの提案に千暁がくすくすと笑いながら賛成と声を挙げて手早くピクルスを刻み始め、今日のメインディッシュは何だと期待に胸を弾ませながら問い掛ければ、鴨肉のローストだと答えられる。
「オレンジソースで食べたいなぁ・・・・・・」
「黒こしょうはどうする?」
「あんまり効き過ぎてるのも嫌だから、ちょっとだけ」
ピクルスを軽快な音を立てて刻みつつオーダーをする千暁に好意的に目を細めたウーヴェは、背後のオーブンが焼き上がった合図を送ってきた事に気付き、椅子を回転させてオーブンを開ける。
「わ・・・・・・良い匂い」
それだけでご飯が食べられるかもと、今にも涎を垂らしそうな勢いで歓声を上げる千暁だったが、ウーヴェにくすくすと笑われてしまって己の言動に気付き、恋人の髪の色のように真っ赤になってしまう。
「沢山食べればいい」
「・・・・・・うん。ダンケ、ウーヴェ」
笑いが止まらないといった顔で鴨肉を用意していた器に移し替えてダイニングに運ぼうとするが、器の大きさから言えば片手でそれを持つのは不可能に近かった。
「僕が運ぶよ」
「ああ、ありがとう」
友人が一瞬だけ思案するような顔を浮かべたのを認めた千暁が笑顔で申し出た後、刻んだピクルスをボウルに入れるとウーヴェがすかさず混ぜあわせて仕上げにかかる。
「そう言えばウーヴェもリオンも背が高いよね」
「リオンはそうだが・・・・・・俺はそう高くもないぞ?」
「でもさ、カインとそう変わらないでしょ」
と言うことは、二人もカインと同じように空が近いんだと歌うように囁いた千暁は、友人の顔が疑問に曇ったことに気付いて軽く肩を竦める。
「さっきカインに背負って貰ったんだけどね、その時にいつもより空が近いって気付いたんだ」
自分は小さいから空が遠いが、きみたちが見ている景色を見ていたいと穏やかに笑い、背が高くて足も長いから歩幅も広くて追いつくのが大変だとも笑う千暁にウーヴェが目を細める。
「カインと並んで歩けるようになりたいけど、あっちが一歩歩く間に僕は二歩も三歩も歩かなきゃいけないね」
「・・・・・・・・・・・・アキ」
投げ遣りでも羨みでもない素直な憧れの声にウーヴェが小さく名を呼べば、顔の半分が目だと良くからかわれる大きな目がくりくりと丸められる。
「カインと並んで歩くのも良いが、少し下がった場所から見守るのも大切じゃないか?」
「え?」
「並んで歩いていればお互いの背中が見えない。だが、アキが一歩下がっていればカインの背中がよく見えるだろう?」
「・・・・・・うん」
「カインがもし後ろから傷付けられる様な事になれば、きみが気付いて彼を守ることが出来る」
だから自分の歩幅が小さい事、ひいては身体が小さな事を悔やむのではなく、小さいからこそ見える世界もあるだろうと教えられて目を更に瞠った千暁に、ウーヴェが目がこぼれ落ちるんじゃないかと笑みを浮かべる。
「落ちないよ!」
「─────カインの背中を守る事はきみにしか出来ない事じゃないのか?」
「そう・・・・・・かな」
「ああ」
長身の赤い髪ののっぽさんを守る事は俺には出来ないと断言されてしまい、そうだろうかと疑問の声を胸の裡で挙げた時、二人の間で話題になっている彼が顔を出す。
「リオンが腹が減ったって言って暴れ始めたぜ、ウーヴェ」
「カイン、これを持っていってくれないか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ウーヴェの言葉に即答しないカインに声を挙げたのはウーヴェではなく、大きな目を吊り上げた千暁だった。
「カイン、みんなで食べるんだから運んで!」
「・・・・・・分かった」
溜息混じりの言葉にさすがはカインだと笑顔で背中を押した千暁は、再びウーヴェがくすくすと笑っていることに気付いて首を傾げれば、カインは自分の言葉では動かないと肩を竦められる。
「きみの言葉だから動くんだ、アキ」
だから自信を持って顔を上げてカインの少し後ろを歩いていればいい。
聞く者の耳だけではなく心の裡にまでするりと入り込む不思議な声に励まされ、照れながらも大きく頷いた千暁にウーヴェも嬉しそうな笑みを浮かべて一つ頷き、ポテトサラダが山盛り入っているボウルを片手に椅子から立ち上がると、傍に立て掛けてあった黒檀で出来たステッキをついて千暁を見る。
「ウーヴェ、このトレイを持って行けばいいの?」
「ああ、頼む」
何年か前に事件に巻き込まれたのだが、負傷した左足首から先の神経網がズタズタになった結果、ウーヴェは日常生活を送るのに杖がないと不便になってしまったのだ。
杖をついて歩く横を同じ歩幅でゆっくりと歩く千暁にウーヴェが好意的に、だが気にすることはないと言いたげな顔で目を細めるが、その時勢いよくダイニングのドアが開いてリオンが飛び出してくる。
「腹減った、オーヴェぇ!」
その声にただただ深く溜息を吐いたウーヴェの横では、千暁が心底楽しそうな顔で笑い声を上げる。
「リオン、これを頼む」
「ん?ああ」
ウーヴェの手からボウルを受け取ってダイニングに戻るリオンの背中を見つめ、一歩引いた位置からでないと分からない事もあると呟き、千暁の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「きみはカインに歩幅を合わせる必要はない。しっかりとカインに寄り添っているのだからな」
物理的に足並みをそろえたり肩を並べる事よりも、目に見えない心に寄り添える、同じ心の歩幅で歩いて行ける存在の方がどれほど得難いものか、一番理解しているのは彼だろうと告げれば、千暁の大きな黒目がちの瞳が左右に揺らめくが、ウーヴェの言葉がしっかりと千暁の小さな体内に取り込まれた事を示す満足そうな笑みが浮かび上がる。
「────うん」
「だから歩幅など気にするな」
左足が不自由でゆっくりと歩くことしか出来ない自分に合わせられる、その優しさがあれば大丈夫だとも告げてダイニングのドアを潜り、待ちわびている金髪と赤毛の万年欠食児童のようなそれぞれのパートナーに深く深く溜息を零すのだった。
2011/03/17


