春本番の気配が薄暗い寝室のブラインドの隙間から差し込み、その明るさで目を覚ました千暁は、隣で眠る彼の端正な横顔をぼんやりと見つめ、今日もこの顔を見ることが出来たと自然と笑みを浮かべてしまう。
千暁の恋人でありこの家の主でもあるカインは、彼らが暮らすドイツでの有数の金融市場を抱える街で若手ディーラーとして名を馳せる、本人曰くの株屋だった。
まとまった金額を預けてくれれば一月以内に三倍にしてみせると、気負うでもなく見栄をはるでもなく、当然の顔で言い放つ彼に以前千暁はなけなしの現金を預けたことがあったが、一月後に千暁が開いた口座に彼に預けた金が振り込まれていたのだが、それを銀行の窓口で確認したとき、何かの間違いだろうと店員を困らせてしまうほどの金額となって返ってきていた事があった。
たった一月でそれだけを稼げるのかと驚く千暁に、いつもはもっと大きな金を動かしていると平然と語り、その口座の残金が心許なくなれば声を掛けろと千暁にだけ見せる笑顔で告げられて頷いたものの、慎ましやかに暮らしていれば中々使い切れる金額ではないと苦笑した程だった。
そんなやり手の株屋である己の恋人だが、仕事から戻ればいつも険しい表情をしている事が多く、こんなにも穏やかな顔をしている時は寝ている時か趣味の庭いじりをしている時だけだった。
その穏やかな顔がいつまでも続きますようにと願いつつそっとベッドから抜け出した千暁は、ブラインド越しに伝わる朝の気配に伸びをし、今日は友人を誘って何をしようか思案しつつベッドルームを静かに出て行く。
広いリビング-畳に換算すればどのくらいになるのかなど分からないが、とにかく広い-そこを横切り、南に面した大きな掃き出し窓と吹き抜けになっている二階部分の窓から差し込む光に目を細め、今日も一日良い天気だと良いなと歌うように呟きながらベッドルームとは反対側の壁にあるガラスのドアを開けて白を基調とした朝の光に溢れるキッチンへと足を踏み入れる。
彼が目を覚ます前に完璧に朝食の用意を整え、仕事に出かける背中を見送るまでの時間が千暁にとって、忙しくもあるが何よりも大切な時間でもある為、今日も頑張ろうと腕をまくりをしてエプロンを着け、入口とは反対側のドアを開けて家事室と呼ばれる部屋に小走りで向かうと、冷蔵庫から必要な食材やら何やらを両手一杯に抱えてカウンター前に戻ってくるのだった。
朝食の支度を完璧に終え、今日も満足だと自慢気に溜息を零した千暁は、壁の時計がそろそろ彼を起こす時間を示している事に気付き、エプロンを外してキッチンを飛び出し、リビングを再度横切って磨りガラス張りのドアをそっと開けてまだ薄暗いベッドルームに入ると、窓の下に置いたダブルベッドの中央の人型に盛り上がるコンフォーター目掛けて飛び上がる。
「カイン!朝だよ!!」
ベッドサイドから両手を広げて飛び上がった千暁は、ドスッと言う鈍い音の後にくぐもった声が己の腹の下から響いたことに気付いてにやりと笑みを浮かべ、朝が来たぞと浮かれたような声を挙げる。
「・・・・・・!」
その声にまるで誰かを呪い殺すつもりのような声が答えたかと思うと、勢いよく千暁の腹の下で寝返りを打ったようで、その動きにつられてベッドから落ちてしまいそうになる。
「うわわっ!!」
慌てて腹の下の身体にしがみつき、落ちるじゃないかと目を吊り上げた時、コンフォーターの下から赤い髪が見え、次いで眠気を湛えた灰色の切れ長の瞳が姿を見せる。
「おはよう、カイン」
「・・・・・・・・・・・・もう朝か?」
「朝食の準備が出来てるよ」
眠そうに目を瞬かせながらも何とか起き上がるカインの身体に跨がったまま満面の笑みを浮かべた千暁は、自分で言うのも何だが本当に美味しい朝食が用意出来たから一緒に食べようと笑いかけ、要らないと言う言葉を聞いて目を吊り上げる。
「何度も言ってるけど、朝ご飯は一日の基本なんだから!食べないなんてダメ!!」
彼らが知り合い、一つ屋根の下で暮らすようになってすぐの頃、朝食の用意をした千暁に必要ないとカインがにべもなく言い放った事があったのだが、その後、その言葉に挫ける事無く千暁が朝食を作り続けた結果、カインも次第にそれを受け入れるようになってきたのだ。
毎朝と言えば毎朝の恒例のやり取りに千暁が腰に手を宛がって口を尖らせた事に気付いたカインが起き上がり、謝る代わりに黒髪に手を差し入れて顔を寄せて額に口付ける。
「・・・拗ねるな」
「拗ねさせてるのは誰だよっ!」
「・・・・・・朝飯を食うんだろう?」
「早く食べよう、カイン」
さっきのキスのせいではないが、尖っていた唇を元に戻して笑みにも戻した千暁がカインの上から飛び降り、早く起きろとコンフォーターを引っ剥がし、早くシャワーを浴びて男前になって来てくれと白い背中を叩くと、軽やかな足取りで踵を返してベッドルームを出て行くが、10分以内にキッチンに来ることとしっかりと釘を刺すこと忘れないのだった。
約束の時間まで1分を残したカインがネクタイを肩に引っかけ、スーツのジャケットを片手にキッチンに現れるが、満面の笑みを浮かべた千暁がそんな彼を出迎えてカウンターにライ麦のパンをトーストしたもの、スクランブルエッグ、数種類のハムやソーセージを手早く並べ、今日は朝からスープを作ってみたと自信満々の顔でスープ皿を差し出すが、カインの反応はと言えば何とも言えない表情を浮かべるだけだった。
「あれ、野菜のスープ嫌いだったっけ?」
確か偏食というか調理方法によっては食べられるものもダメになるとは聞いていたが、スープ類は嫌いだったかと、自らの分をカウンターに置いた千暁が目を丸くすると、余り手が進まない顔でカインがスープ皿にスプーンを突っ込む。
「野菜は良いが・・・この豆はどうしたんだ?」
「え?ああ、ベルトランが缶詰を分けてくれたんだけど、豆嫌いだったっけ?」
「・・・・・・俺はジョンブルかよ」
ぼそりとカインが呟いた言葉だったが何となく千暁が不穏なものを感じ取ったらしく、ジョンブルって何と聞き返すが、さすがにばつが悪いと思ったのかどうなのか、カインが気にするなと言葉を濁す。
「・・・きみが言葉を濁すって事は・・・外では使っちゃいけない言葉なんだね?」
「・・・・・・・・・・・・いただきます」
「あ、話を逸らした!!」
目を釣りあげる千暁の前でカインがマスターしている日本式のいただきますをする為、しっかりと両手を合わせて食べ始めた事に憤慨するが、食べ始めるカインの姿がやはり嬉しくて、背の高いスツールに腰掛けると、同じようにいただきますと元気よく挨拶をし、カインのトーストにバターを塗り始める。
「今日は何をするんだ?」
「昼からウーヴェがお休みだから、一緒にご飯を食べて、天気が良ければ公園に行こうかって話してた」
年の離れた友人が今日の予定を聞いていた事を伝えた千暁は、今日は遅くなりそうかどうかを問いかけ、多分早く戻ってこれると返されて考え込むように天井を見上げる。
「どうした?」
「うん・・・早く戻ってこれるのなら何処かでご飯を食べないかなーって」
家で食べるのも良いけれど、久しぶりに二人で外食も良いんじゃないかと、トーストをカインの皿に戻しながら小首を傾げた千暁の言葉にカインも少しだけ考え込んだ顔になるが、そうしようと頷いて千暁が自分好みに仕上げてくれたトーストを囓る。
「このハムは食べない?」
「・・・俺は良い。アキが食え」
盛大に食べて少しでも背が伸びれば良いなと、ふふんと冷たく笑うカインに千暁が立ち上がらんばかりに手をつくが、そんな意地悪ばかり言うのならば今日は帰ってきても相手してやらないと頬を膨らませる。
「拗ねるな」
「だから、さっきも言ったけど、拗ねさせてるのは誰だよ!」
まるで頬袋がある様に盛大に頬を膨らませる千暁にカインが苦笑するが、何を思ったのか、ハムをトーストの上に載せてスクランブルエッグも載せると、膨れっ面の千暁の口の前にそっと差し出す。
「────ほら」
「・・・・・・カインのバカ!そんな意地悪を言うカインは嫌いだ!」
「そうか?」
「そう!」
文句ばかり言ってないで早く食えと差し出したトーストだが、千暁が視線を彷徨わせつつまだ機嫌を損ねている事を伝えるように顔を背けた為、溜息を零した後カインが片手で頬杖を突いて笑みを浮かべる。
「俺はこんなに好きなのに?」
「・・・っ!!」
その、唐突な告白に千暁が息を飲んで慌てふためくが、そんな恋人の様子を笑みを湛えた顔で見守っていたカインは、もう一度トーストを差し出して口を開けろと顎で促す。
「・・・美味しい」
「そうか?」
「うん。このハム、また買ってこようか」
渋々と言った様を前面に押し出し、その裏に歓喜を滲ませた顔で千暁が目の前のトーストにやけくそ気味に齧り付くが、自分が選んできたハムが美味しかった事に自然と心が解れて笑みが浮かび上がる。
「お前が気に入ったのなら買ってくればいい」
ハムだけではなく、気に入った服もそうだし、趣味で買い集めているレコードも心底気に入ったのならば誰に遠慮する必要も無いから買ってくればいいと告げると、千暁が食べた後の残りを頬張り、それを流し込むように野菜と豆のスープを食べ、煙草を吸う為に必要なビタミン補給のジュースを飲み干すと、これまた日本式の挨拶をする為に手を合わせる。
「ごちそうさま」
「はい。美味しかった?」
「ああ。豆は要らないが、このスープは美味かった。また今度朝飯に作ってくれ」
「良いよ。今度は豆は抜こうか」
「そうしてくれ」
立ち上がってシンクに皿を運ぶカインを見上げて問いかけた千暁だが、振り返った彼の顔に浮かぶ笑みに満足そうに息を吐くと、帰る前に電話をして欲しいと伝える。
「今日はウーヴェと一緒にいるんだろう?」
「うん」
今日は友人と半日を過ごすから心配しないで持てるだけの力を発揮してくれと笑みを浮かべ、信頼している事を伝えるように親指を立てる。
「・・・ああ」
当然だと素っ気なく頷きながらも千暁の頭に手を載せたカインは、そのまま少しだけ身を屈めると、千暁の口の端に小さな音を立ててキスをする。
「!!」
「行って来る」
「う、うん」
頬や唇への行って来ますやただいまのキスを受ける事が未だに慣れない千暁だったが、頬を少し赤くしながらもしっかりと恋人の灰色の目を見つめて送り出す。
カウンターの端に引っかけておいたネクタイを手早く締め、ジャケットを羽織ってガラス張りのドアで全身のチェックをしたカインは、また連絡をすると残して片手を挙げる。
「行ってらっしゃい、カイン」
赤毛で長身の恋人の背中を見送った千暁は、少しだけ早まった鼓動が納まった事に気付いて胸を撫で下ろし、彼がまた作ってくれと言った野菜と豆のスープを食べ始めるのだった。
キッチンの窓から差し込む光は柔らかな春の日差しで、今日一日の晴天を約束してくれているようだった。
2011/04/13


