『────カイン?』
ベッドを半分起こしてそこに寄り掛かりながら窓へと向けていた顔を振り向けた彼の口から微かに震える声が流れ出した時、鼓動が一つ、胸郭の内側で弾け、その痛みと歓喜が入り交じったような不思議な感覚から泣きそうになっている己に気付いて愕然とするが、夢の中でいつも願って見つめていた笑顔を間近に見てしまえば最早どうでも良くなってしまい、友人と主治医が見守る前にも関わらずに細くて小さな身体に腕を回して抱き締めた。
『やっと・・・・・・きみに逢えた』
それが、それだけが何よりも嬉しいと腕の中でくぐもった声が響き、それに応えるように腕に力を込めると、涙と笑いの入り混じった声が微かに苦しいと訴えてくるが、腕の力を抜くことが出来ず、友人の制止の声も聞こえずにただただこの腕に戻ってきた小さくても大きな温もりを抱き締める。
あの日、ようやく笑顔を取り戻したと同時に、自分でも理解できない程激しい思いが胸の裡で溢れかえったが、その思いは規則正しく脈打つ音と紛れ込んだようなもう一つの鼓動と共に心臓の裡にあって今もまだ枯れることなく湧き続けていた。
春本番の柔らかな空気が辺りを包んでいる週末の夜、今日は少しだけ形式張った店に招待された為に一張羅-と言っても日本ではなくこちらで誂えた一点もの-でめかし込んだ千暁は、招待してくれた年の離れた友人に満足した証の笑みを浮かべてダンケと素直に礼を言えば、白ワインのグラスをテーブルに置いた友人が眼鏡の下で目を細める。
「美味しかったか?」
「もちろん!ゲートルートの味も雰囲気も好きだけど、この店もすごいね」
窓際のテーブルは街並みを見渡せる絶好の席で、出された料理は彼がようやく食べ慣れたドイツの家庭料理のように質よりも量を優先したようなものではなく、テレビなどで良く見るフレンチのフルコースに近い料理だった為、小柄で体格に見合っただけの量しか食べられない彼にとっては満足過ぎるものだった。
だが、満足した顔で頷く彼の斜め前の席では、くすんだ金髪をそれなりに丁寧に撫で付けて整えた青年が情けない顔で眉尻を下げて小さく鼻を啜る。
「・・・・・・オーヴェぇ、腹減った」
経った今食べ終えたばかりだと言うのに腹が減ったと宣うもう一人の友人の言葉に絶句した彼、千暁は、今同じだけのものを食べたのにと目を丸くするが、その問いに対する答えは友人ではなく、隣に座ってワインを飲んでいた赤毛の恋人の口から流れ出した。
「確かに物足りないだろうな」
「だよなぁ・・・大体オーヴェとアキが少食すぎるんだ」
自分たちがいつも通っているゲートルートならばもっと自分たち好みの量で提供される食事だが、こんなに形式張った店では食った気分にならないと切なげに吐息を零すリオンにただウーヴェが苦笑するが、口に合いませんでしたかと笑顔で問い掛けながらやって来た人に気付いてテーブルの下でリオンの足を蹴り付ける。
「ご招待ありがとうございます、ヘル・ランゲンバッハ」
そしてこの美味しい料理もありがとうと笑顔を浮かべて軽く立ち上がる素振りをウーヴェが見せると、今まで文句を垂れていたリオンがすかさず立ち上がって椅子を引いてごく自然な態度でウーヴェにそっと身を寄せる。
「あなたのお母さんには言い表せない程世話になったのでね」
だからではないが、凱旋してきた証でもあるこの店のオープン時にはお招きするつもりだったと笑顔で告げるとウーヴェが軽く目を伏せるが、ケチの付けようのない笑みを浮かべて手を差し出す。
「母に伝えておきます」
「あなたのお母さんだけではなく、お兄さんにも宜しくお伝えして欲しいですな」
「そうですね」
短い言葉を交わして立ち去る男の背中を見送ったウーヴェの口から小さな溜息が零れたのを合図に、リオンがタイミング良く椅子を戻してウーヴェを座らせる。
リオンの一連の動作を感動したような顔で見つめていた千暁に気付いたのか、二人が同時に苦笑し、どうしたと言葉で問い掛けると、我に返った彼が慌てたように手を振って何でもないと答えるが、三人の視線が集中したことに気付いて上目遣いにウーヴェを見つめる。
「ウーヴェって本当に大人なんだなぁって・・・」
先程のオーナーらしき人物とのやり取りを見ていて本当にそう思ったと、感嘆の溜息を零して頬杖を付いた千暁だったが、三人の視線が再度集中した事に気付いて大きな目を更に大きく見開いてどうしたと逆に問いを発する。
「・・・・・・間違いなくアキより大人だな」
「なっ、どういう意味だよ、それっ!」
三人三様の視線に呆気にとられるが、とどめの一言を発したカインに対してはつい目を吊り上げてしまい、どうせ自分は子どもだと憤慨するが、そんな彼をカインが冷めた目で見つめ、ウーヴェが何歳なのかを分かっているのかと問い掛けると、何故かリオンもそうだそうだと囃し立てるようにカインに同調する。
「え、や、そうじゃなくてっ!大人というか・・・」
普段もそうだが、こんな形式張った所でも落ち着いて相手と接することが出来る事に感心したんだと慌てながら告げるが、お前と違って場慣れしているからだろうと言い放たれて大きな目で恋人を睨み付ける。
「そんな事、分かってるよっ!カインの意地悪っ!」
何を言いたいのかが分かっている癖にそんなことを言うきみなんか嫌いだと、子どものように思い切り顔を背けて窓の外の景色を見始めた千暁に三人が顔を見合わせるが、グラスに残っていたワインを飲み干したカインが席を立って出て行ってしまう。
目の前でのその行為にリオンとウーヴェが顔を見合わせるとリオンが目を細め、ジッポーを取り出して軽く放り上げて掌に受け止める。
「タバコ吸ってくるな、オーヴェ」
「・・・ああ」
お前が戻ってくるまで我慢していると苦笑し、頬にキスを残すリオンを見送ったウーヴェだが、いつも頼りにしている彼の背中が見えなくなると表情を切り替えて千暁の背けられている横顔を見つめる。
「アキ」
「・・・・・・ごめん」
「うん?俺はまだ何も言っていないのに謝るのか?」
さっきの大人発言は失言だと思っているのかと問われ、慌てて顔を振り向けた千暁に多少の意地の悪さを込めた顔でどうなんだと先を促せば、羨ましいと本音がこぼれ落ちる。
「ぼくもきみのようにどんな時も落ち着いていられる、そんな人間になりたいなぁ」
ウーヴェと同じ年になれば自分もそうなれるのかな、でもきっと自分にはムリだと諦めの溜息を零す年下の友人の言葉に瞬きをしたウーヴェは、片目を閉じて少し意地の悪い色を滲ませ、リオンを見てもそう思うのかと問い掛けて今度は千暁の目を大きく見開かせる。
「リオンは俺よりも4つ年下だが・・・あの通りだぞ?」
ウーヴェの真意が何処にあるのかを読み取り、確かにそうだと小さく吹き出した千暁に安堵したのか、ウーヴェのターコイズ色の瞳が笑みに細められる。
「カインが言っていたが、場慣れしていると言うのが一番の理由だな」
「え?」
「仕事や家の関係でこの手の店に来ることが最近は特に増えたからな」
だから落ち着いて堂々としているように見えたのだろうが、実際は吐き気がするほど嫌悪感を感じていたと告白されて千暁が呆気に取られたように口を開いてしまう。
「嫌、だった・・・!?そんな風には全く見えなかったのに・・・!」
「・・・・・・母の顔を立てる必要があったから来たが、リオンと同じでゲートルートの方が味も雰囲気も好きだ」
この手の料理には飽き飽きしていると、この時初めて嫌悪感を顔に出したウーヴェに千暁が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているが、肩が小さく揺れたかと思うとおかしそうな堪えきれない笑い声が流れ出す。
「・・・ね、ウーヴェ、ぼくもきみのように落ち着いた人になれるかな?」
「きみ次第だな」
誰をお手本とするのかにより、今の自分のように嫌悪感を表に出さずに人と接することも出来る様になるだろうし、子供が持つ素直さと優しさで人と接することも出来るだろうとウーヴェが目を閉じると、千暁も先程までの沈んだ気持ちを忘れたような顔で大きく頷く。
「思っていることを素直に口に出来ない不器用な人にもなれるかな?」
「きみがそうなりたいのならな」
上目遣いで友人を見る千暁が寂しさを滲ませた顔で問いかけた為、ウーヴェが眼鏡の下で軽く目を瞠ったが、穏やかな優しい笑みを口元に湛えて返し、そんな不器用な人を支えられる人になるのも良いかもしれないと頷いてグラスの水を飲み干す。
「・・・どうしてそんな人を好きになっちゃったんだろ」
何故自分は彼を好きになり、また彼に愛されているのだろうか。
不意に芽生えた疑問を口に出して頬杖を突き、さっきとは違う気持ちで窓の外を見た千暁にウーヴェも倣うように窓の外を見つめ、ぽつりと呟く。
「運命、魂の片割れ、色々な言い方はあるが・・・」
「え?」
「きみが求めているからだろうし、カインもきみを探し求めていた。そういうことじゃないかな」
ウーヴェの言葉に千暁が顔を戻して大きな目を更に大きく目を瞠るが、ちらりとターコイズに見つめられて顔を赤くする。
「・・・・・・不思議な感じがしたんだ」
「そうか?」
「うん。手術が終わってカインがいて・・・嬉しかった」
あの日、再びやってきたこの国で最高の治療を受けさせてやると宣言した恋人の言葉通りの手術を受けた千暁は、喪った光を取り戻した目でやっと見る事の出来たカインを前に、興奮する心と身体の奥底に熱を孕んだ鼓動が産声を上げた事に気付いた。
今まで感じたことがないそれの意味が分からなかったが、あの時カインに抱きしめられる事で産声を上げた熱と鼓動が体中に行き渡り、抱きしめる腕から彼の中に流れ込んだ後、別の鼓動が代わりに流れ込んできた後、己の鼓動と一つになったんだと告げると、ウーヴェが興味深そうな顔で頬杖を突く。
「別の鼓動を感じた?」
「カインの心臓がここにあるような・・・そんな不思議な感じがしたんだ」
ウーヴェの問いに千暁が素直に頷いて薄い胸に手を宛がったかと思うと、幸福すぎる痛みを感じているような笑みを浮かべた後、大きな目を伏せて胸に宛がった手を軽く握る。
「今も・・・・・・ここにいる」
意地悪で人に対して冷淡な事ばかり言うが、心の奥底に優しさを隠し持っている彼の鼓動が今も己の心臓の真横で規則正しく脈を打っている。
伏し目がちに囁く千暁の言葉に込められたしなやかな優しい強さにウーヴェが目を細めると、そんなきみだからこそカインと惹かれあうんだろうと肩を竦めるが、千暁のそうだろうかという疑問の声に穏やかな顔で頷いて信じろと囁きかける。
自分とリオンも知り合ってから長いとも短いとも言える時を過ごし、その間に何度も何度も生きていくことが辛くなるような悲しい出来事を経験し、それでも二人で乗り越えて来たが、きみたちもきっと何があっても乗り越えられるとも告げると、カインにはきみが、きみにはカインが必要だと優しく断言する。
「きみがカインの鼓動を感じているのなら、それは間違いはない」
「・・・・・・カインに謝って来る」
「そうか?」
「うん。・・・嫌いだって言っちゃったから・・・」
その言葉だけでも詫びて取り消したいと俯く千暁の髪に手を載せたウーヴェは大丈夫だと目を細め、リオンと一緒に戻ってくるのを待っていれば良いとも告げて安心させるように大きく頷く。
「きみと俺の運命を信じてみても良いんじゃないか?」
「・・・・・・そっか・・・うん、そうだね」
信じて待っていようと頷き合った時、澄ました顔のウエイターがデザートを運んできた為、二人も澄まし顔でそれを受け取るとどちらからともなく小さな笑い声を上げるのだった。
喫煙場所になっているロビーで窓の下に広がる景色を見ていたカインは、背後から近づいてきた人の気配を察して鏡の役割を果たしている窓を見て苦笑に顔を歪める。
咥えタバコで近づいてくるのはリオンで、さっきまで結ばれていたネクタイのノットがすでに緩められているところを見ると、リオン自身もここにいる事が窮屈に感じていたのだろう。
「・・・腹減ったと思わねぇか、カイン」
「お前と一緒にするなよ」
カインが窓の外を見つめている横でリオンが背中を窓に凭せ掛け、窓枠に尻を軽く引っかけて高い天井を仰ぎ見ながら紫煙を吐き出すと、そうじゃないと苦笑されてしまうが、この年下の幼馴染みが何を言わんとするのかを察しているカインが同じく苦笑し、腕を組んで身体を反転させてリオンと同じように窓枠に尻を乗せる。
「確かに、ここじゃあ食った気がしないな」
「だろ?」
やはり食事はガツンと腹に堪える量を食べたいと笑うリオンに同意を示したカインだが、お前の愛するオーヴェは満足そうじゃないかと冷たい声で問いかければ、驚いたような顔を振り向けてカインの灰色の瞳を真正面から見据えてくる。
「そう見えたか?」
「違うのか?」
この店に来て満足している、そう見えたかと問われた為に違うのかともう一度問いかけたカインだが、オーヴェが残さずに全てを食べた事が不満の証だと肩を竦めながら答える友人に切れ長の瞳を瞠ってしまう。
「オーヴェは気に入っている時はメシを食うよりも酒を飲むことを優先する」
そんなある意味酒飲みのウーヴェが今日飲んだのはワインが一杯だけだと告げ、余程気にくわなかったのだろうと目を伏せたリオンは、カインが前髪を掻き上げてややこしいと呟いたことに肩を竦め、分かりやすいんだけどなぁと呟き、短くなった煙草を灰皿に投げ捨てる。
「いくらムッティに頼まれたからと言っても、あいつは自分の後ろを見られることを何よりも嫌う」
「ママ・・・?ああ、ウーヴェの母親か」
「ああ。多分親父に近づきたいからオーヴェとムッティのどちらかを利用したいんだろうな」
とどめの一言はお兄さん達にも宜しくという一言だなと呟き、幾ら20余年の家族の断絶から和解したとはいえまだまだ溝を埋めている最中なのだ。 事情を知らない人間とは言え触れてはいけないナイーブな問題に足を踏み入れてしまったと呟きながら肩越しに窓の外を見たリオンは、この店にあいつが来ることは二度と無いから食い納めをしておくべきかも知れないと冷たい顔で笑う。
「それよりも・・・何を落ち込んでるんだよ、お前」
「俺が落ち込んでいる?」
口調を変えて問いかけるリオンに冗談を言うなと冷たく笑うカインだが、ならばどうして黙ったまま席を立ったと何でもない事のように問いかけられて口を閉ざす。
「アキに嫌いだと言われたのが堪えたのか?」
リオンの言葉はどうやらカインの胸の奥を深く抉ったようで、苛立ちを隠さないで舌打ちをしたカインにリオンが驚愕にロイヤルブルーの双眸を瞠り、あの嫌いは子供がケンカをしたときに言う嫌いと同じレベルだろうと呆然と言葉を発するが、カインは灰色の瞳で左右を所在なげに見つめた後、煩いと聞き取りにくい声で呟く。
この国の土を再び踏んだとき、まだ彼の大きな瞳は光を失ったままだったが、カインが周囲から悪魔に取り憑かれただの金の亡者に成り果てただのと陰日向に悪し様に噂されながらも必死に稼いだ金で千暁は光を取り戻したのだ。
その時の光景が脳裏に蘇ると同時に忘れかけていた鼓動を思い出す。
あの時、ようやく見る事の出来た笑顔が眩しくて、またその笑顔だけで良いと思っていた筈なのに、時が経てばその事も忘れてしまうのか、以前のように皮肉屋で人に対して冷淡な己が顔を出してしまったのだ。
そんな己が発した言葉が先程の冷たい声だった事に気付き、赤い髪を左右に軽く揺らしてそんな事はないと口先だけで否定してみるが、心臓と共に刻まれるもう一つの鼓動が嘘だとやんわりと否定をする。
「────喪って初めて分かる、お前はそれを知ってるはずだぜ」
光を失った千暁を日本行きの飛行機に乗せる前の別れを思い出せと囁かれ、分かっていると呟きながら握りしめた拳で窓を叩けば、分かっていれば良いとひっそりと囁かれ、もう一度窓を拳で軽く叩く。
「余計なお世話かも知れねぇけどな・・・思ってることをちゃんと口で言ってやれよ、カイン」
日本人は感情表現が苦手だと聞いた事があるが、そんな日本人の上を行く照れ屋ぶりだなと好意的に目を細めたリオンを横目で睨んだカインは、認めることも悔しいが黙ってしまえば認めたことになると気付き、悪足掻きのようにお前はどうなんだと問いかけて思わぬ反撃を食らってしまった驚きに目を瞠るリオンを対照的に細めた視界で見つめる。
「俺は良いんだよ」
「良くねえだろ?どうなんだよ、リオン」
「あーうるせぇ・・・俺はちゃんと言ってるさ。ただオーヴェが言えないだけだ」
カインの問いに口早に答えて煩いと吐き捨てたリオンだが、確かにお前の言うとおりにウーヴェが思っていることを中々伝えられないと認めるが、お前とウーヴェとでは事情が違うと恋人を擁護する言葉を告げて煙草に火をつける。
「あいつは・・・・・・本当に思っていることを口に出すことはまだ苦手だ」
「・・・・・・事件の影響だと言ってたな」
「ああ」
幼い頃ウーヴェが巻き込まれた事件の傷が彼の口を封じていた事を教えられた事を思い出し、早く良くなればいいのにとつい呟けばリオンの顔にじわじわと嬉しそうな色がにじみ出す。
「ダン、カイン」
「・・・・・・うるせぇよ」
本当は友人が永遠の恋人と呼ぶウーヴェが心配で仕方がないのだが、本人の前では絶対にそんな顔を見せないカインの心が読めたリオンが目を細めて拳を握るとカインの引き締まった腹に軽くぶつける。
「・・・・・・そろそろ戻るぜ、リオン」
「あーそうだな・・・・・・デザートが出てくるんだっけ」
「ああ」
この店の料理を気に入ったのは恐らく千暁だけだろうが、食べ納めになるのならばデザートまで綺麗に平らげてやろうと笑いあい、リオンが再び煙草を灰皿に投げ捨てたのを横目で見たカインは、窓ガラスで己の身嗜みを確認すると、デザートは何だろうなと全く楽しみにしていない顔で呟くリオンに無言で肩を竦めるのだった。
市の中心部から少し車で走った閑静な住宅街の一角にある邸宅の前に白のカブリオレが停まり、運転席からネクタイを外して襟元を寛がせているリオンが降り立ち、次いでカインが少しだけ窮屈そうに、対照的に千暁が楽々と車から降り立つ。
「ウーヴェ、今日は誘ってくれてありがとう」
助手席の窓を全開にしたウーヴェに身を屈めて礼を言った千暁は、マリッジリングが光る右手で髪を撫でられてそっと頷き、ポケットに両手を突っ込んでいるリオンの前に立ち、同じようにありがとうと笑みを浮かべる。
「今度さ、ゲートルートでランチをしようか」
「おー。楽しみにしてるぜ、アキ」
千暁の言葉にリオンが心底楽しみにしている顔で頷いてお休みのキスを頬にすると、黙ったまま彼の背後に立つ幼馴染みに目を細めて合図を送る。
そのリオンの合図をしっかりと受け止めたカインは、またと言葉に出さずに告げて片手を挙げるが、それにリオンが肩を竦めて運転席に乗り込んで窓を開ける。
「またな、カイン、アキ」
「ああ」
「お休み、アキ、カイン」
「うん。お休み、ウーヴェ。気をつけて帰ってね、リオン」
ここからあと少し車で走らなければならないが、気をつけてくれと気遣ってくれる千暁に二人が同時に分かったと答え、まだ少し冷え込むから早く家に入れと告げた後、窓を閉めて出発の合図を送る。
白のBMWが静かに住宅街を走り去るのを見送った二人だったが、レストランでの気まずい雰囲気をまだ何処かに残しているのか、ややぎこちない言葉で中に入ろうと呟くカインに千暁も短くうんとだけ返すと、一足先に門扉を潜って春の草花の間に敷き詰められたタイルを踏みしめるカインの背中を黙って見つめる。
「・・・・・・カイン」
「どうした?」
タイルの道を歩いて辿り着いた玄関でドアを開けながらどうしたと返すカインは、腰に腕が回されて背中に温もりが張り付いたことに気付き、驚いたことを示すように身体を緊張させてしまう。
「────カインの鼓動・・・聞こえる」
背中に耳を押し当てているらしい言葉に苦笑し、生きているのだから当然だと冷たい声で答えようとするのを何とか押し殺し、聞こえるかと精一杯の優しさで問い返せば、更に小さな声がうんと返してくる。
小さな身体を背中に張り付かせたままドアを開け、フットライトが照らし出す廊下を進めば、それが楽しいのか腰の辺りからくすくすと楽しそうな笑い声が流れ出す。
小柄で軽い恋人を引きずり廊下を進み、ガラス張りのドアを開けてリビングに入ったカインは、ここまで来ればもう遠慮する必要も無いとばかりに身体を反転させると、驚きに目を瞠る千暁を軽々と抱き上げて視線の位置を逆転させる。
「わっ・・・!」
突然のハグではなく子供のように抱え上げられて驚く千暁に目を細めたカインがそっと名を呼べば、驚きながらも千暁が目元を赤くしながら小さく頷く。
「俺の鼓動が聞こえたか?」
「うん・・・・・・今も、ぼくのここで響いてる」
カインの腕の中で己の胸元をそっと撫でた千暁は、何を馬鹿なことを言っているんだと冷たい声で笑われる事を予測していたが、思いも掛けない言葉が返ってきた為に大きな目を更に大きく見開いて恋人の顔を凝視する。
「・・・俺の中でも聞こえている」
「カイン・・・っ!」
カインがどこに向かうのかが分からず、抱き上げられたままの千暁が不安そうに名を呼べば、安心させようとするのか、見下ろす千暁の顎にカインがキスをするとリビングの中央に置いた革張りのソファに千暁を下ろし、すかさず自分もその横に滑り込む。
「お前の手術が終わった後・・・気が付けばお前の鼓動が聞こえていた」
恋人とは言え他人の鼓動が胸の裡で響くなどと、今までの自分ならば考えることすらしなかったと冷笑するカインの前では千暁が苦痛を堪えるような顔で目を閉じるが、意を決したように深呼吸を繰り返すと、軽く握りしめられているカインの手を掴んで自分の胸に宛がう。
「アキ?」
「・・・凄く緊張してるから、今ぼくの心拍数は凄いことになってるんだろうね」
大好きなカインの手を胸に宛がって微かに震える声と笑みを浮かべる千暁に目を細めたカインは、手首をぎゅっと握られてしまい、空いている手を黒髪に差し入れて小さな身体を引き寄せるように腕を引けば、意外なほど素直に千暁の顔がカインの胸に寄りかかってくる。
「・・・速いな」
「きみも・・・速いよ」
己の心臓の真横で鼓動を打つ心も速いと小さく囁き、ぼくの中にいるんだと呟かれて細い背中に腕を回すと、観念なのかどうなのか、溜息が小さくこぼれ落ちた後を追うように笑い声もこぼれ落ちる。
「冷たくても不器用でも・・・やっぱりぼくはきみが好きなんだ、カイン」
心だけではなく身体の裡でまできみを感じるようになったと、顔を上げて笑う千暁に何も返せなかったカインは、小さな手が頬を包んだことに灰色の目を瞠って次の言葉を待つ。
「きみの中のぼくも、きみが好きだって言ってない?」
その時、レストランでの気まずい雰囲気から後で初めて彼らしい笑みを浮かべて首を傾げた千暁の言葉に目を閉じたカインは、確かに恋人の言葉通りに規則正しく脈打つ心臓の裏でひっそりと、だが間違えることのない鼓動を感じ取り、そっと目を開けて唇の片端を持ち上げる。
「・・・どうだろうな?」
「あ、またそんな素直じゃない事を言うだろ?素直に認めちゃいなよ、カイン」
本当はちゃんとぼくの鼓動を確かめている筈だが、気恥ずかしくて言えないのだろうと茶目っ気たっぷりに見つめられ、素直に認めることが癪だったカインが腕を組めば、本当に素直じゃないと頬を膨らませるが、次の瞬間にはその頬袋を解消させた千暁が満面の笑みを浮かべてカインの手に手を重ねる。
「そんなきみが────」
好きという言葉はカインの口の中に吸い込まれてしまい、それが残念だと微かに目で訴えた千暁の背中を抱きながら口付けたカインは、一度離れた唇を名残惜しむ顔を隠さないで舌打ちをして立ち上がり、釣られるように腰を上げた千暁を再度抱き上げてベッドルームのガラス張りのドアを開けてベッドへと歩み寄る。
宝物を扱う鄭重さで千暁をシーツの上に下ろしたカインは、目元を赤らめながらも迎える事を教えてくれる大きな目に灰色の目を細めて感謝の思いを伝えると、くすぐったそうに細められてそのままシーツの海へと背中から沈ませる。
自分と比べれば大きなカインの身体を受け止め、広い背中に腕を回した千暁は、重なり合った胸から伝わってくる鼓動と、裡から響くそれがぴたりと一致して増幅された事に苦しそうな吐息を零すと、更にカインの身体に身を寄せるのだった。
その後、千暁の熱に浮かされたような声がカインを呼び続けるが、そのたびに頬や唇にキスをし、安心させるように手を重ねてやれば、千暁の顔に安堵の笑みが浮かび上がる。
互いの胸の裡で脈打ち、響き合って増幅される鼓動に合わせるように熱の籠もった荒い呼気が重なり、天井付近で弾けた後、快楽の海を泳ぐ二人の上に静かに降り注ぐのだった。
2011/04/09


