日中は春を通り越して夏のような陽気を感じさせるある日の午後、午前の仕事を終えて一人オフィスのビルの中庭に出てきたカイン・ハイドフェルトは、シャツのポケットからシルバーのシガーケースを取り出すと、慣れた手付きで煙草を咥えて同じくシルバーのジッポーで火をつける。
その一連の動作をぼんやりと庭を見ながら行い、紫煙を燻らせてベンチに腰掛けて長い足を組めば、彼が一人きりになったのを見計らって同僚の一人が手を挙げて近寄ってくる。
別に好きでもなければ嫌いでもない同僚だったが、休憩時にまで顔を合わせていたくないと心裡で毒突き、突っ慳貪に何の用事だと問えば何でもないとそそくさと退散していく。
たかが一言なんだと言われたぐらいで退散するのならば最初から親しく声を掛けてくるなと声に出して小さく呟いた時、ポケットに入れていた携帯が震えて着信を伝えてくる。
携帯を取り出して画面を見るその顔は、先程同僚に毒突いた人間が見せた顔とは掛け離れたものだったが、幸か不幸か彼の周囲には人の気配は無く、手の中で震え続ける携帯のボタンを押して耳に宛がう。
「Ja」
『カイン?今大丈夫かな?』
「ああ」
聞こえてくる柔らかな少しだけ高い声に自然と目元が弛み、どうしたんだと打って変わった優しい声で問いかければ、遠くからの電話であることを示すノイズに混ざって感情の揺れが混ざった声が聞こえ出す。
「・・・・・・アキ?どうした?」
距離にして8000キロ、時差も7時間と遠く離れている自分たちだが、心だけは傍にあると約束し、毎日送っているボイスメールでもそれを感じてるだろうと祈りつつ、どうしたんだともう一度問いかけた彼に無理矢理出しているような明るい声が何でもないと返事をした為、煙草を灰皿に投げ入れて立ち上がり、中庭の隅の人がやってこない穴場のようなベンチに移動しながらもう一度名を呼ぶ。
「────千暁」
『・・・今日さ、ドイツから来たお客さんが家に泊まってるって』
彼が愛して止まない小柄な日本から来た青年は、この国で音楽家として大成することを夢見ていたが、結果的に彼が巻き込んだ事件で負傷し、その傷を癒す為に日本にいる親族が青年を遠く離れた島国へと連れて帰ってしまったのだ。
必ず迎えに行くと、この国で負ってしまった傷を治す為に必要な資金を稼いだら日本に飛んでいくと約束をした事をもう一度己に思い出させ、久しぶりにドイツ語で話をしたと教えられるが、その言葉の合間合間に湿り気を帯びた声が混ざっている事をしっかりと見抜いていた彼は、南部訛りのドイツ語だったのかと問いかけて再度沈黙を得てしまう。
『・・・・・・うん』
久しぶりに聞いた、きみや大好きなあの二人が話している言葉につい懐かしさと、逢えない寂しさを思い出してしまったと自嘲気味に笑われ、周囲を見回した彼は名を呼んだ後携帯に口付ける。
『カイン・・・?』
「アキ、あと少し待ってくれ」
寂しい思いをさせるがその寂しさを感じているのはお前一人ではないのだと告げてもう一度携帯にキスをすると、小さく鼻を啜るような音が流れ出す。
『・・・・・・うん・・・ごめん・・・信じてる・・・』
「ああ。待っていてくれ」
必ず迎えに行く事を告げ、約束と呟いて同じ言葉を返され、空を仰いで眩しさに目を細める。
今この電話で繋がっている彼が暮らす島国はもう夜の帳に包まれているだろうが、彼が暮らす港町は夜景が有名らしいため、この国とは違って夜もきっと明るいのだろう。
その夜景をあの大きな特徴的な瞳が映し出すことは出来ないが、そう遠くない未来に再びその目に夜景を映し出させた後、二人そろってこの国で共に暮らそう。
日を追うごとに彼の裡で溢れかえる思いを込めて目を伏せた彼は、話題を変えるように口調も変えて今日は何をしていたんだと問いかければ、久しぶりに梨花ちゃんと買い物に行ったと返され、楽しかったのならそれで良いと自然と浮かぶ笑みのまま答えて再度煙草を取り出す。
『・・・あ、煙草吸ってるね、カイン』
「ああ」
『ぼくが買ったケースをちゃんと使ってる?』
その言葉にシガーケースを手の中で弄び、ちゃんと使っていると返すとくすくすと楽しそうな笑い声が返ってきて、眉を寄せて信じていないのかと声を低くすれば、そうじゃないと少しだけ慌てたような声が返ってくる。
『リオンがヨレヨレの煙草を吸うのは構わないけど、きみにはそんな煙草は吸って欲しくないんだ』
だからそのケースをプレゼントしたと教えられて沈黙し、ダンケと呟いてケースをポケットに戻す。
「大丈夫だ・・・ちゃんとここに入る分だけしか吸っていない」
『うん。・・・・・・あ、そうだ、今日は早く帰れそうかな?』
「まだ分からないな」
一人きりの家に急いで帰る理由もないしまた少しでも早く金を稼ぐ為ならば家に帰る時間すら惜しいと本音を告げると、無理はしないでと言う優しい声が返されるが、でもその無理もぼくの為なら嬉しいと彼の本音も伝えられる。
「お前の為だ」
『うん・・・・・・今日帰ったら添付した曲を聴いてくれる?』
「何か録音してくれたのか?」
『うん。きみに聞いて欲しいな』
密かな声に懇願されて分かったと短く返した彼は、人の気配を感じて苛立ちを隠さないで舌打ちをしてしまい、電話の向こうの彼にごめんと謝らせてしまう。
「そうじゃない、アキ、違う」
『・・・あ、今お昼だよね?ちゃんとご飯を食べた?』
「ああ」
今は食事をする事よりもお前と話をしていたいと言いたかったが、それを告げる事で遠く離れた優しい彼を不安に陥れるのならば嘘を吐いた方がマシだと判断し、ちゃんとホットサンドを食べたと告げると、明らかに安堵したような声が良かったと溜息を吐く。
『じゃあそろそろ切るね、カイン』
「ああ」
近くまでやってきた人の気配に声の質を変えた彼に気付いたのか、携帯の向こうの彼が遠慮がちに申し出た為、素っ気ない態度で頷いて短く答える。
『昼からも仕事頑張って、カイン』
「ああ・・・・・・メールをする」
人の気配は最早気配だけではなく姿も見えるようになっていて、その相手に聞こえないように口早に告げたカインは、通話を終えて何食わぬ顔で携帯をシガーケースを納めたポケットに戻すと、長くなった灰をその場に落として紫煙を青空に向けて吹き付ける。
「ここにいたのね、カイン」
「・・・・・・ああ」
やってきたのは真っ直ぐに伸びたブロンドを一纏めにして邪魔にならないようにし、ぴしっとしたパンツスーツに身を包んだ仕事仲間であり、以前は肉体関係を持っていた女性、リリー・ベルツだった。
彼女がやってきたことで彼との通話を終えなければならなくなった事への苛立ちを表に出さない代わり、煙草を灰皿に投げ捨てて続けざまに新たな一本に火をつける。
「随分と苛立っているのね」
「・・・・・・関係ないだろう?それよりも昼の休憩にまで何の用だ」
「お言葉ね────ボスが今夜の会合に一緒に出席しろって言ってるわよ」
彼女の言葉に苛立ちを端正な顔に浮かべて舌打ちするだけではなく、彼や友人が聞けばくっきりと眉を寄せる様な言葉を吐き捨てて煙をゆらりと上げれば、腕を組んで彼を見下ろす彼女の顔にも嫌悪の色が浮かび上がる。
「伝えたわよ」
「そんな事は伝えてくれなくても良い」
余計な事をしやがってと吐き捨て、煙草を灰皿に投げ入れて立ち上がった彼は、自分一人だけ逃れようなんて考えが甘いのよと冷笑する彼女をその場に残してオフィスがある中に戻っていく。
愛する彼を島国から連れ戻して自分と共に暮らす事を周囲に認めさせる為に必要だとしても、やはり以前のようにただがむしゃらに金を稼ぐだけの頃には戻りたくなかった。
誰も信じるなと、信じられるのは己だけだと、ある種の真実を彼に叩き込んだ養父の顔と、今まで彼の傍にいて共に金の夢を追いかけていた様々な人の顔が思い浮かぶが、それらを追い払うように頭を振った後、その場に残されていたのは好奇心旺盛な様子を容易く想像させる煌めきを湛えた大きな瞳を細め、疲れた心身を癒してくれるような笑みを浮かべた青年の顔だった。
その笑顔を夢や幻ではなく手で触れるようにするには、今はどんなことがあっても耐えるしかないのだ。
己に何度も言い聞かせ、夜ごとの夢での逢瀬とボイスメールだけで正気を保とうと決めると、味も何も無いコーヒーを片手に己のデスクに戻るが、距離と時差を越えて彼と話をしていた時の表情は夢か何かだと言うような表情で仕事に戻るのだった。
鼻の奥にしつこく居座る香水の匂いが今夜は煩わしくて、一人で住むには広すぎるモダンなアパートの最上階の部屋に帰ってきたカインは、自分がいつも感じていたい匂いはこんな人工的などぎついものではなく、太陽の光に照らされて自然な輝きを放つ草花の様な匂いだと気付き、ドアを乱暴に開け放って部屋に入ると、着ていた服を全てその場に脱ぎ捨てて下着姿でバスルームに向かう。
今夜己の上司の紹介で引き合わされた女性は、外見には金を掛けているが内面はどうしようもないほど腐敗している類の人間で、中を覗き込んでも金の匂いしかしなかった。
そんな女でも顧客となれば相手をしない訳にもいかず、仕事だと割り切って彼女の相手としてベッドを共にしてきたが、ただただひたすら疲れるだけのそれに自嘲を零し、シャワーを浴びて香水と女の匂いを洗い流した後、お気に入りのボディソープで透き通るような白い肌が赤くなるまで身体を洗ってお座なりに水気を拭き取ってバスルームを後にする。
夜の帳に包まれた街を見下ろし、この世界で一人で生きている息苦しさを不意に感じ取り、今はそんな弱音を吐いている場合ではないと自嘲をすると、使うことのないキッチンの冷蔵庫からビールを取り出して無造作に栓を抜くと、濡れた髪のままベッドルームに向かう。
部屋の壁際にベッドとサイドテーブルに真鍮製のライトとノートパソコンを置いただけの、シンプルすぎる部屋に入り、いつもの癖でパソコンの電源を入れると同時に脳裏に優しい明るさに包まれた声が流れ出す。
ボイスメールと共に録音した何かを送ったと言っていたが、一体何を送ったのか。
メール受信ソフトを立ち上げて確認をすると、メールが届けられているアイコンが点滅し、添付ファイルがあることを教えてくれた為、慣れた手付きで添付ファイルを開く。
パソコンのスピーカーから流れ出す声を聞いているだけで、ささくれ立っていた心が落ち着きを取り戻しはじめ、名残惜しそうな声がバイバイと告げた時には、ただ機械的に抱いた女の存在など何処か遠くへと消え去っていた。
もう一度そのメールを聞き、深く溜息を零したカインは、濡れた髪のままでベッドに寝転がり、添付ファイルを開いて何が流れ出すのかを心待ちにするが、その短い時間に昼の休憩時に今夜の会合の事を伝えてきた元彼女のきつい顔が思い浮かび、舌打ちをしてサイドテーブルに置いたビールを飲む為にベッドに座り込む。
彼女もそうだが、今夜の相手も彼に求めるのは金とその金を生み出す才能だけだった。
そんな人付き合いが当たり前だった頃は、今一人で暮らすこの部屋のように毎月の家賃が普通に真面目に働く人々の月収を上回る金額の部屋に住めることがステータスだと思いこみ、それだけが幸せで自らの力を示すものだと思っていた。
だが、今は日本に戻っている年齢よりも遙かに幼く見られる事の多い彼と知り合い、価値観の相違や下らないプライドから意見を対立させつつお互いを理解し合い、そんな己の考えが悲しいものだとも教えられるが、そう教えた彼の事をより深く知りたいと願い、その願いが生まれて初めて抱いた愛情にいつしか変化をした事に気付いた矢先、好奇心に光る彼の双眸から己は光を奪い取ってしまったのだ。
あの日の光景がまざまざと蘇り、無意識のうちに歯を噛み締めて身体を丸め、そのままベッドに再度横臥すると、シーツをきつく握りしめ、身体の裡から溢れ出そうとする悲哀を噛み締めた歯で何とか押し殺す。
どれほど嘆こうが悲しもうがあの時に戻ることは出来なかった。人は時を遡る術を持っていないのだ。
己が今まで金科玉条の様に奉ってきた金を持ってしても、過ぎ去った時を戻すことは出来ないのだ。
取り戻せない時の向こうで、それでも傍にいたいと言った彼の事を思えば傍にいるよりも生まれ育った土地で少しでも傷を癒した方が良い、その判断を下した夜もつられて思い出せば、横臥した身体が痛みに震えて吐き気すら感じてしまう。
臓腑の全てを絞られるような痛みを何とか堪え、その痛みを糧に待っていてくれと呟くと、痛みが鈍くなって別の思いがわき上がってくる。
光を失った大きな目に初めて見せた涙を浮かべ、帰りたくないと幼い子供のように泣く彼を強く抱きしめ、必ず迎えに行くから傷を少しでも癒して待っていてくれと告げる事しか出来なかった無力な己を心裡で殴りつけ、その約束を少しでも早く果たす為ならば何でもすると決意を秘めてシーツを握った手を離したその時、パソコンのスピーカーからピアノの音色が流れていた事に気付く。
それは、賛美歌としてもゴスペルソングとしても名高い曲だった。
その歌詞にあるように、人として道を踏み外している様な己でさえも、救いの手は差し伸べられたのだ。
その手の持ち主は小さな身体から溢れんばかりの元気を持って自分を包んでくれていたが、そうだと気付いたのは彼の小さな身体が隣から消えてからだった。
悔悟の思いに拳を握ったカインの耳に優しい強さを持つピアノの音色が途切れずに流れ込み、萎えかけていた気持ちに力を分け与えて吸い込まれていく。
乾いたスポンジが水分を吸収するようにその音色を吸い込み、光を失ってもこの曲を録音して届けてくれた彼の優しさが距離と時間を一気に越えて彼の中に染み渡っていく。
己が決して持たない優しさと強さから力を貰い、顔を上げて前を見て一歩を踏み出せる勇気も貰った彼は、握っていた拳を再度開いて深く深く溜息をつく。
神など信じてこなかった自分だが、この曲を送り届けてくれた彼こそが己にとっての神だと改めて確信し、寝返りを打って枕に濡れた髪を押しつけて顔を腕で覆い隠す。
小柄な黒髪の青年が己の神として手を差し伸べてくれる姿を思い描くと、腹の底から力が溢れ出し、指の先にまで行き渡って生きる力へと変化する。
「────待っていろ、アキ」
必ず迎えに行く。
この先どのようなことがあろうとも、必ずお前を迎えに行くと呟き、寝返りを打って再度添付ファイルを再生する。
スピーカーを通じて響く賛美歌のメロディに自然と瞼が下がり、この音色が間近で聞ける日を早く迎える為には悪魔にでも何にでもなってやると呟いて目を閉じるのだった。
夢も見ない眠りに落ちた彼の意識下に、神がもたらす奇跡のように優しいピアノの音色がいつまでもいつまでも、明日を生きる糧となって彼の中で響き続けるのだった。
2011/04/03


